3-2
(……ッ)
単純な動きでさえ痛みが走る。
あの出来事から五日、自宅療養中だ。
布団から起き上がるにしても時間を掛けてイチイチ何処かをフォローしながらでしか出来ない事に自然と舌打ちが出る。
この大怪我を面倒見てくれたは砂野工務店が日頃お世話になってる病院で、医者はフクロにされた件を表沙汰にせずダンマリを決め込んでくれるのには慣れた労災隠しに加担する人間だった。
その医者に言われたのは【眼窩底骨折】で、複視や頬・下唇の痺れが改善するためには一か月、最悪は半年程かかるとの事。
どうりで上の方は見にくいし、物が二重に見える筈だ。
しかも目の周りの腫れも相まって視野の一部が欠けている。
あと少し上だったら失明していたかも知れない。悪運が強いのか何なのか……
コンコン。
ドアをノックする音が鳴った。
(声出すのも辛ぇのに)
「空いてますよぉ」
玄関まで出迎えるのが億劫だった俺がソコソコのボリュームで扉の先に呼び掛けると、ドアを開けた隣の住人が顔を覗かせる。
「メシ持ってきたぞ」
この何日かは自分がお願いした訳でもなくウチの会社の人たちが食べ物を買って来てくれていた。
だだ、シノさんは礼儀正しすぎる。
他の人間はノックもせずに勝手に上がって手の届く所まで運んでくれるのだが、この人の場合は毎回呼び込まなくてはならない。
「あざっす。上がって下さい(喋ると痛ぇのに)」
「じゃ、失礼して」
そう言って今回の食事当番者は入口で後ろ向きに靴を脱ぎ、両手に荷物を下げて部屋の中まで歩みを進めて来る。
「いっつも麵類かヨーグルト、プリンで飽きねぇか?」
座椅子に背をもたれている自分の脇で立ち止まった右手のポリエチレン袋を持ち上げながらの隣人の質問に「えぇ」とだけ答える。
確かに飽きていた。が、プリンやヨーグルトにしてもらっているのは箸を使わずに済むし、咀嚼が困難だがら麵類にしているのだ。
「じゃ、はいよ」
配達人が昼食をテーブル上に置いたのでそれに合わせて会釈をすると、
「いいよ、気にすんな」と放した手を軽く振り微笑みを漏らす。
上部が傾き露わになった袋の中身にはご丁寧に全ての種類が収まっていた。
(この代金は後から請求されるのだろうか)
毎回疑問に感じていた事を心中で呟いた俺が少し体を起こして本日のメニューを眺めていたら先程とは違う声色でシノさんが囁いた。
「後な、コレなんだけど」
視線を隣に移すと左の手提げ紙袋を揺する表情が急に変わり、その荷物に右手を静かに突っ込み透明な袋に納まった物を掲げた。
「このハンマーにきっと指紋が付いている」
この人は几帳面だ。きっと手袋をしてまで拾ったのだろう。
だからこそあの時にあの策略を思いついたのに、あの日に限って遅れてやって来たのが悔やまれる。
俺は一刻の間を作った後に「いや、しません」と意思表示をした。
恐らくは『これを警察にでも持っていけば』とでも言いたかったのだろう。
大人の常識としては言わずもがな、至極当然で適切な措置だ。
だが、それをしたら自分の浸かっている世界では、日和った、ビビった、泣きを入れたと
即ち、言いかえれば“警察にチクる”事は、
【完全に屈した事を公に知らしめてしまう行為】なのだ。
シノさんは暫く俺を見下ろしていたが「そうか、なら返しておくぞ」とハンマーを紙袋へ納める。
「お前はまだそんな不良稼業を続けるのか」
こちらの内心を汲み取ったのか静かに語りかけてきた。
「生みの親に育てられなかった奴でも立派に生きている人間はいるぞ」
自分が味わったのと同等な境遇に置かれたとして、その後真っ直ぐ生きられる人間はどれだけ居るのだろう。
『今からでもやり直せる』
人はそう言うが、知識や教養、学歴や才能、帰る家や甘えられる家族を持たざる者の苦悩まで加味して助言してくれてはいない。
それは、疎外されるしかない社会の掃き溜めに敷かれたレールに乗っかり、顧みずに突き進んでしまった愚かな落伍者が底辺で
奇跡的な巡り合わせや天文学的な確率の幸運、暗夜の灯といった事柄でも起こらない限り立志伝中の人物には成り得ない。
決して静かにとまでは言えないが最下層に身を置いて日々を暮らすしか術がない。
適した反論が思い浮かばなかったのと喋りに苦痛が伴う為に黙りこくっていると、人生の先輩は沈黙した重苦し空気に嫌気がさしたのか「じゃ、お大事に」と言い残して帰って行った。
知りたい。
この世に不幸な生い立ちを経て曲がらず生きている者は、道を逸れて不適合者になり下がった奴に対しての比率にすると、どの程度の割合で存在しているのかが。
聞きたい。
幼少期の不幸に見舞われても全うに生きている人間が何の穢れも無く、社会から逸脱する行為を一度として犯したことが無いのかを。
今の生き方に固執しているのは“善”なのだろうか“悪”なのだろうか……
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