君のために、僕は生きたい
「君はだれ?なぜ、泣いているの?」
目の前で宙に浮かぶ少女に僕は話しかけていた。彼女は僕の質問には答えず、声をかけられたことに驚いていた。
「わたしのこと、わかるの!?」
「うん、わかるよ。」
「え、なんで!なんで!普通の人には見えないはずなのに…。」
興奮してまくしたてる少女を見つめていると、根拠もない考えが湧いてきた。
「きっと、僕が死のうとしているからじゃないかな。」
僕は眼下にそびえる街の風景に目を移した。それは、今にも飛び込んでくるのを待ち構えているようだった。少女は何かを悟ったように、絶望の瞳を向ける。唇を震わせながら、僕を運命から遠ざけようと言葉を探しているように見えた。
「わたしのこと、驚かないのね。」
「驚かないよ。自分の存在さえ曖昧なんだから、君みたいな人がいてもおかしくない。ただ、ちょっと変わっているとは思うけど。」
少女の身体は半透明で、落ちゆく太陽やオレンジに彩られた山際が透けて見える。普通の人と比べると現実味がまるでなかったが、それでも彼女はそこにいた。
「なんで、死のうと思ったの?生きていれば、いいことや楽しいことはたくさんあるのよ。あなたはまだ若いんだし、今は失敗や絶望を感じていたとしても、きっとそれを覆すくらいの幸せがみつかるはずよ。」
苦痛に顔をゆがませて必死に言葉を紡ぐ少女の姿が、とても不思議に映った。自分が死のうと生きようと、彼女には全く関係がないことなのに、なんでこんなに懸命になっているんだろう?ありのままの感情を、僕は伝えることにした。
「僕にはなにもないんだよ。楽しいことも、つらいことも、うれしいことも、悲しいことも。自分の中のありとあらゆる感情が取り去られて、今はすごく安らかな気持ちなんだ。このさき生きていても、きっと幸福も不幸も感じることなく、ただ時間を消費していくだけの無意味な人生を送ると思うんだ。でもそれって、死んでいることと同じなんじゃないかな?」
「違うわ、あなたは生きているのよ。」
「いや、同じなんだよ。僕の心はもう死んでいるんだよ。精神が滅んでしまった以上、肉体を滅ぼすことを選ぶのも当然の話だろう?」
自分は何を言っているのだろう。なぜこんなに必死になっているんだろう?何かを確かめるように、あとからあとから言葉があふれ出ていく。
僕が話すたびに、少女は一粒一粒涙を流していた。もしかしたら、死ぬことにこんな理由しか見いだせない僕の姿を悲しく思ったのかもしれない。
「お願いだから、手すりから下りて。生きてほしいの。」
なぜそんなことを言われる筋合いがあるのだろう?
「いや僕には、生きる理由が存在しないんだ。だから、なにもない空間に自分を隠したいんだよ。」
その瞬間、彼女の台詞が僕の声と重なった。
「じゃあ、じゃあ。
生きて。わたしのために、生きて。」
声がかすれていた。僕を一心ににらみつけながら、心の奥底に忍ばせていた感情を彼女は吐き出している。
「わたし、幽霊なの。身体をなくしたまま、心だけがこの世界に取り残された一人の哀れな幽霊。どうせ死ぬなら、最後にわたしの願いをかなえて。それがあなたが生きる理由。」
傲慢だなと思った。自分の都合で、他人に生きることを強要するとは。
でも。断る理由も見当たらなかった。どうせ死ぬのなら。最後に一人の女の子の願いをかなえてあげよう。彼女がなぜそんなに僕を生かしたがるのかはわからなかったが、透明に過ごしていたこの人生の終着地点で、だれかのために生きてみようと思った。
しばらくの間、僕らは沈黙していた。太陽はとっくに姿を消し、街のそこかしこに光が灯り始めていた。細く光の弧を描いた三日月が心配そうに僕らを見守っていた。暗闇に包まれた雑踏の片隅で、二つの命が互いに存在を確かめ合っている。
死んだように生きている僕と、生きているように死んでいる少女。
「いいよ。君のために、僕は生きたい。」
そう言い放った瞬間、風が吹きすぎた。僕はそっと手すりから下りて、固いコンクリートの上に倒れ込んだ。ひどく足がしびれていた。しばらくの間は、立つこともままならないだろう。
少女は僕のもとに駆け寄ってきて、すごくうれしそうに顔を覗き込んでくる。ちょっと、恥ずかしかった。
「ほんと!?ほんとに!?わたしの願いをかなえてくれるの?」
彼女は僕の両手をそっと包み込んでそう言った。触れているはずなのに、体温は感じない。少女には質感がない。
僕は彼女の喜びに応えようと、無理やり笑ってみせた。
「うん。どうせ死のうと思ってたんだ…。最後に、だれかのために生きてみたいと思って。」
「ありがとう。ほんとにありがとう。生きててくれて。」
唇を噛んで泣きじゃくる少女を目の前にすると、困ってしまう。はじめて会ったはずなのに、ずっと前から一緒にいるような不思議な感覚がした。その気持ちは温かく僕を取り囲み、僕の心をすっぽりと覆いつくしてしまう。今まで体験したことのない感動が僕をとらえていた。
いつまでも泣き止まない彼女が、なんだか可笑しい。
「なんで見ず知らずの人間のために、そんなに泣いてくれるの?」
「だって…。あなたはわたしと同じだから。だから、ほんとに生きててほしくて…。」
嗚咽をもらしながら彼女は言葉を絞り出す。目をつぶって震える少女の顔を見つめても、真意は読み取れない。僕が君と同じ?それって、どういう意味なんだろう?
女の子が目の前で泣いているとき、一体どうすればいいんだろう?彼女が僕のために泣いているのに、同じ気持ちを共有することができない。
それでも彼女の震えが止まるように、僕はそっと抱きしめた。少女は幽霊だから、彼女の身体の揺らぎさえ感じ取ることができない。それがひどく虚しかった。
大丈夫、大丈夫。僕はここにいる。
少女の頭をやさしく撫でて、心の中でそうつぶやいた。その瞬間、空っぽだった僕の心の中に、新しい感情が芽生え始めていた。それは胸を押し当てるような痛みを引き連れて、僕を悲しみの海の底に誘う。
そうか。これが彼女の心か。
どこまでも海の中に沈んでいく感覚に襲われた。こんなにどうしようもなく人を絶望へ導く感情を、僕は知らなかった。
なんて、なんてバカなことを考えたのだろう。なんで死にたいなんて考えてしまったのだろう。自分勝手な妄想と疑念で正当化して、僕は他人にこんな感情を与えようとしていたんだ。僕は目の前の少女のことを思った。家族のことを思った。これまでの人生で巡り合った数々の人間のことを考えていた。
彼らが悲しむ姿を想像したら、とても死のうなんて思えなかった。僕はどうやっても償うことのできない罪を犯そうとしていたのだ。
だけどもしかしたら。また死にたいと思ってしまうかもしれない。ふいに自らを滅ぼそうとしはじめるかもしれない。そんなことを考える自分が恐ろしかった。いつかは、すべての他人を傷つけて、裏切って、この世界から消え去ってしまうかもしれない。
長い時間が過ぎ去った。その間、少女は僕の胸の中でずっと泣いていた。僕らは身体を寄せ合って、暗闇に奪われてしまいそうな自分たちの存在を必死に守っていた…。
いつしか眠ってしまったらしい。
ふいに目を開けると、空の上で太陽が僕を照らしてくれていた。もう昼過ぎに差し掛かっているだろう。
コンクリートの上で眠っていたせいか、体中の節々が痛い。
なんで僕はビルの屋上にいるんだろう?
少しおぼろげな頭で、昨日のことを思い出そうとした。確か…。ここから飛び降りて死のうとして、目の前に幽霊の女の子が現れたんだ。その子を抱きしめていたら、いつのまにか眠ってしまっていた。
どこからが現実で、どこからが夢だったのか、全然見当がつかない。ビルの屋上にいる以上、飛び降りようとしたところまでは現実だったとは思うのだが…。その先のことは幻だったのだろうか。それとも、すべて自分の妄想?夢?まるでわけがわからなくなった。
「起きた?」
ふと振り向くと、少女が屋上の手すりに背中を預けて僕に笑いかけていた。彼女の足は、コンクリートの少し上で浮いている。
どうやら夢ではなかったようだ。
「わたし、抱きしめられた昨日の夜に、知らないうちにあなたに憑りついてしまったみたい…。
全然そんなことするつもりじゃなかったんだけど、さっき起きて気づいたの。わたし、あなたの心の中に入り込んでしまったんだなって。」
僕は昨日のことを思い出した。彼女の気持ちを知りたいと思ったその瞬間に、きっと二つの心が通じ合い、僕は彼女と心を共有できるようになったのだろう。
「ごめん。ほんとごめんね。昨日も変なお願いをしたりして。面倒ごとに巻き込んじゃって。」
なぜ謝る必要があるのだろう?彼女に泣かれて、はじめて僕は生きてみたいと思ったんだ。
「昨日言ってた願い。かなえるよ。」
「え?」
「君の願い、全部かなえるよ。」
彼女はびっくりして、口をつぐんでしまった。僕はきっと、誰にも見せたことのない真剣な表情をしていたのだろう。
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