幽霊少女に憑りつかれた僕
じゅん
脳が腐りきったゾンビのように
ふと目を覚ました。カーテンの向こう側からオレンジ色の光が瞬いている。辺りの輝かしさにうんざりして、瞬間的に目を閉じる。静寂の中で自動車が道路を走る音だけが妙に響いて聞こえる。子供たちの笑う声が、誰かが道端を歩く靴音が、カラスたちが寂しげに鳴く声が、電信柱のそばを通る風のささやきが、近づいたり遠ざかったりしながら僕の鼓膜を揺らす。
ああ、騒々しい。なんでこんなに世界はうるさいんだ。
なんだか無性に落ち込んで、抑えていたため息が口からふっと漏れる。何が楽しんだろう?なぜ歩くんだろう?なぜ声を発するんだろう?なぜ動かなければならないだろう?
なぜ、生きる?
僕にはわからなかった。人間が懸命に前に進んでいく意味が、理由が、価値が。いつかはすべてが消え去ってしまうというのに。成功も失敗も、栄光も没落も、勝利も敗北も失ってしまうのに、どうして生きようとする?喜びも悲しみも、快楽も苦痛も記憶の中に押し込まれて何もない孤独へと向かっていくのに、なんでそんな意味のないことをしようとする?
欲望が欲望を生み、飽くなき探求はとどまるところを知らない。人は互いにぶつかり合い、憎み、嫉妬し、恐れ、いら立ちながら、どこかでぬくもりを感じたいと切に願っている。なんと都合のいい生き物だ。破滅の扉へと向かいながら、それを十分に知っているのに、体中を動かし、感情を最大限に突き動かしながら、人々は生きていく。
僕はそんな闘争に疲れ切って、感情の濃度が日々薄まっていくのを自覚しながら、いつのまにか大学に行くこともやめ、家の中に引きこもっていた。
別に誰かから裏切られたわけでもなければ、失恋したわけでも、大きな挫折を味わったわけでもない。その逆だ。何もしなかったのだ。友達をつくることも、サークルに入ることも、趣味に打ち込むことも、勉強することも、何もしなかった。ただ生きた屍のように、脳が腐りきったゾンビのように、機械的に大学に行くことを繰り返していた。あるときまだ残っていた僕の中の自我が唐突に叫んだ。
お前、なんでこんなことしてるんだ?
その瞬間、僕は動かなくなった。日中のほとんどを布団で過ごし、食べたいときに食べ、寝たいときに寝て、排泄したいときに排泄した。生存に必要な行動以外は何もしなかった。幸い、親からもらった仕送りで当分の間は持ちそうだった。夜中の一時ごろ、唐突な空腹に襲われてカップラーメンを買いに近くのコンビニへと向かう。家に帰って湯を沸かし、ラーメンが出来上がるまで待っている間の三分間が、変に空中に浮かんでぼやけていた。
動物のような生活は、人間の知性を劣化させる。怠惰な毎日は、あらゆる感情を取り去ってしまう。あるときから僕は、かつて感じたことがある精神の苦痛をひどくありがたいと思うようになった。高校時代、好きな人に告白して振られたことや、文化祭の演劇で『ただ立っているだけの樹』を演じたこと、部活のレギュラーに入れず悔しくて家路を走ったこと。友達の約束を破ってしまったこと。そうした記憶の断片が鮮明に想い出され、そのたびに安らかな気持ちを覚え始めた。それらの過去は全然現実味のないおとぎ話のように感じられ、瞬間瞬間に物語の主人公だった自分の姿が妙に愛おしく感じられるのだった。
世間的には最底辺の生活を続けているのに、どこか満ち足りた気分だった。孤独さえも、僕は愛した。まるで神になったような気持ちで、社会の中の人間のあり様について考えを巡らしていた。自分が人間であることをやめることで、一段高いレベルで地上の俗物を見下ろすことが、僕の楽しみになっていた。
しかし、今日は。なんだかひどくおかしかった。耳元で鳴る現実の音がわずらわしい。布団の中に身をうずめ、外界から自分を限りなく守っても、ずっと頭の中で鳴り続けている。それは自動車のクラクションの音や、自転車がブレーキをかける音、女子高生の笑い声や会社帰りのサラリーマンの吐息だったかもしれない。何重にも連なって聞こえるそれらの旋律は僕から考える自由を奪う。ひどく居心地が悪かった。そこかしこで響く音たちが一斉に僕の方へ敵意の眼差しを向けているように感じられた。
そのときはじめて、僕は自分が世界から嫌われていることに気がついた。どうして今までわからなかったのだろう。世界はその全身で音を響かせ、拒絶の意志を示していたのに、どうして何も知らなかったのだろう。
静かな場所に行きたい。
誰でもいい。何も聞こえない、何も存在しない空間に僕を閉じ込めてほしかった。何も欲しがらないから、たった一つ願いが叶うのだとしたら、そんな都合のいい場所に誘ってほしい。
ただ思っていても、現状は何も変わらない。僕はふと騒音から自分を守ってくる場所を思い出した。あの場所に行きたい。そんな限りなく純度の濃い欲求に襲われた。
考えるよりも先に、身体が動いていた。浮ついて子供じみた僕の考察なんて吹き飛ばしてしまうくらいに、本能は縦横無尽に僕を引っ張る。パジャマ姿のまま布団から飛び出して、靴を履く。逃れられない予感に突き動かされて、オレンジ色の光に包まれた世界に飛び込む。
大きな太陽が僕を見つめていた。大地がしっかりと呼吸を整え、僕を待っていてくれたことにようやく気づいた。太陽の方へ、太陽の方へ。誰かに操られるように、身体は前へ前へと走り出してゆく。
気がつけば、僕はビルの屋上に立っていた。手すりに触れて眼下に目を向けると、いくつもの直方体が乱立する眺めの下で、車が道路を行き交っているのが見える。そして、歩みゆく人間の姿が点の軌跡となって目に入ってくる。
心には一片のよどみもなく、僕の思考は滑らかに頭の中を駆け巡っていく。さっきまで聞こえていたいくつもの旋律は消え失せ、穏やかで静かな空間だけが一面に広がっていた。
なんだかすごく気持ちがよかった。
僕はおもむろに手すりを押して身体全体を宙に舞い上がらせた。次の瞬間には手すりに足が触れる。上手くバランスをとりながら、僕は手すりの上に立った。屋上を吹く風が頬をかすめていく。
僕は足元に広がる街の風景を見た。無数の点、線、平面が連なって幾度も交差しながら動き続けていた。せわしなく続くそれらの流動はそれ全体として一つの均衡を保っているように感じられた。常に変わり続けていく。それだけが唯一変わらないことだ。青い空の下を覆いつくす生命の輝きは、そう自分に訴えかけていた。
その光景は、涙が出るほど美しかった。
ふと素晴らしいアイディアを思い浮かんで、少しだけ笑みをこぼした。この美しい揺らぎの中へどこまでも入っていけたら。こんなに素晴らしい幸福はない。僕は手すりから足を放し、美しい風景の中へもぐりこみ、真っ逆さまに落ちていく自分を想像した。おそらく僕は死ぬだろう。しかしまぎれもないその事実は少しも自分を恐怖させなかった。
死について考えたことはなかった。しかしそのときはじめて、僕は死の中にある静寂が一つの救いであることに気がついたのだ。生命がその動作をやめて、永遠に暗い闇の中に消えていく。誰もがそれを絶望とよぶだろう。しかしすべてに疲れ切って、あらゆる行動を放棄し始めた自分にとって、死は最後に残された希望なのだ。死よ。どこまでも僕を暗闇で守ってくれ。僕はもう一度急速に加速度を増しながら、美しさの源泉である地上へと近づいていく自分を想像した。その姿は魅力的だった。至極当然な結果であるように思われた。
青空の向こう側で、太陽はじっと僕を見つめている。もうすぐ彼は隠れてしまうだろう。風はやんだ。辺りはひっそりとしていた。徐々に暗さを増していく世界の中で、自分が呼吸する音だけがいやに響いて聞こえる。
さあ、行こう。
虚空へと足を踏み出そうとしたとき、突然先ほどまで閑散としていた頭の中に、もう一度さまざまな音が重なり合って煩わしく聞こえはじめた。
僕の心臓の音、脈打つ血液の流れ、細胞の揺らぎ、酸素を出し入れする肺の震え、聞こえないはずのそれらの音は拡張され、僕に迫ってくる。いや、それだけではない。最初はバラバラに聞こえていた僕の中の音たちは次第に集約され、確かな輪郭を持ちはじめた。ある瞬間、それは一つの声となって、僕の鼓膜を震わせた。
生きて。
透明な声が、僕にそう語りかける。僕と同い年くらいの女の子の声だった。はっとして前を向くと、山の陰に入り込んだ太陽に背を向けて、一人の少女が空中に浮かんでいた。
彼女は目の前で両手を広げながら、小さくてきれいな涙を流していた。
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