君のこと、どう呼べばいい?

 家までの帰り道。僕は幽霊少女と並んで歩く。


「あなたの名前は?」


彼女は話しかけるとき少し頭をもたげる。その仕草が可愛らしい。


「武田勇貴。ユウキでいいよ。」


「意味は?」


「え?」


「あなたの名前の意味。」


そんなこと、考えたこともなかった。僕は小学生の頃に出された学校の宿題のことを思い出した。親から自分の名前の由来を聞くというものだった。 


 そのとき…。なんて答えてくれたっけ?小さな記憶の断片をなんとか拾い集めようとする。


「確か…。勇気を持って困難に立ち向かう尊い存在という意味だったと思う。」


「いい名前だね。」


少女は感心したらしく笑顔でうなずいてみせる。そういえば、僕は彼女の名前を知らない。


「君は?君は…なんて名前なの?」


「わたしは…ごめんなさい、わからないの。わたし、生きていた頃何をしていて、どこに住んでいて、どうして死んだのか、まったくわからないの。」


 悲しいなと思った。自分が何者かもわからないまま、何をすべきかもわからないまま、この世界に投げ出されて行き着く場所もなくさまよっている。不安を胸に抱えて、それでも叶えるものがあると信じて。


 そこまで考えてやっと気がついた。それって、僕と同じじゃないか。いや人間って、みんなそうじゃないか。自分が何をしたいのか、どうなりたいのか、結局のところはよくわからないままだ。目の前の一つ一つの出来事でごまかして気づかないふりをしていても、本当は自覚している。


 生きることは、なんの変哲もない無機質な建造物と等しい。それは灰色のコンクリートでできた物質だ。それ自体は、いかようにでも解釈できる一つの事実にすぎない。それを豪奢なオアシスだと思うか、山奥のさびれた小屋だと思うかは、自分の目にかかっている。


 生きる意味は、自分自身で決めるしかない。


「だからあなたに会えたとき、すごくうれしかった。ずっと一人ぼっちで、誰にも気づかれないままただ空中に浮かんでいただけだったから。生前の記憶もないから、どうすればよいのかさえもわからない。不安で、不安でしょうがなかったの。


 そのとき、あなたの声を聴いたの。生きたい、生きたいっていう強い声を聴いたの。それで声のする方へ飛んで行ったら、あなたがビルの屋上で今にも飛び降りそうだったの。だから、助けたくて両手を広げてあなたの前に立っていたわ。」


びっくりした。僕は真逆のことを思っていたのだ。今すぐにでも自分の身を滅ぼせないかと、それだけ考えていたのだ。なぜ少女はそんな声を聴いたんだろう。僕は、本当は生きたかったのだろうか。


「僕は君の『生きて。』っていう声が聞こえた気がしたんだ。それでふと顔を上げたら、目の前に君が立っていた。不思議なこともあるんだね。」


ささやくように話す僕たちは、互いに笑い合っていた。


「君のこと、どう呼べばいい?」


少女は唇に手を添えて、しばらくの間考える。僕は白い色彩が散りばめられた青い澄んだ空を見上げていた。


「優しくて、愛おしい名前がほしい。」


自分に言い聞かせるように、少女はふとつぶやいた。僕は空を見つめていた。それは、すべてを写し込むように頭上に広がっている。


「ソラっていう名前はどうかな。」


それは、今の気分にぴったりの名前だった。波紋一つない湖のように穏やかで澄んだこの感情を表現した言葉だった。


「意味は?」


彼女に質問されても、もううろたえなかった。僕はその二文字がもたらすイメージをはっきりと意識することができたから。


「晴れ渡る空のように明るくて、人々を光の中に照らし出してくれるっていう意味。」


「いいね。わたし、ソラっていうんだ。」


よほどうれしいらしく、思わず口元から笑みをこぼしていた。ソラ、ソラ、ソラ。自分の存在を確かめるように、何度もささやく。名前を持ったことで、彼女の姿はより光り輝いて見えた。


 ソラ。名前を呼んだ。彼女は何気なく僕の方を見た。


 この世界に自分がいるということ、そばに彼女がいるということ。名前を呼んだら、僕の方に顔を向けてくれること。その一つ一つの小さな出来事に、僕は胸の奥がぐっと引き締まるような心の揺らぎを感じていた。


 名前が、少女にはっきりとした輪郭をもたらしてくれた。僕は彼女の存在を確かに感じることができた。昔、誰かが僕に教えてくれた不思議な話を思い出していた。言葉を知らなかった人間が初めて「夕日」という名前を覚えたとき、今までの過去が嘘のように夕日が美しく見えたそうだ。


 僕にもやっとその気持ちがわかった気がする。


 ソラはこんなにも美しく、青空の下で生きていた。


 確信に近い感情が押し寄せてきた。青空を背景にして浮いているソラの姿を、以前にどこかで見たことがあるような気がする。理屈では説明できないような感情に少し戸惑いながら、なんだかそれが当たり前のことだと思い始めていた。


 僕は会う前から、全部わかっていたんじゃないか。少女に会うことも、彼女にソラと名前をつけることも。


 それほど彼女は懐かしい匂いがした。初対面のはずなのに、分け隔てなく話せることも、あまりに不思議には感じなかった。まるで僕の分身のように、心のどこかでずっと前から一緒にいてくれたような気がした。


 素敵な予感に襲われて心臓が高鳴る。僕はソラに会うために、彼女から生きる目的を与えてもらうために今まで生きてきたんだ。


「君の願いはなに?」


「わたし、学校に行きたいの。いろんな人に会って、面白い勉強をして、楽しく人生を送ってみたいの。ユウキはさ、大学生だよね?」


意外な願いを口に出されて、少し動揺した。いやそんなことより、なぜ僕が学生だとわかった?たぶん言ってなかったと思うのだが。


「なんで僕のこと大学生だってわかるの?」


「うーん、女の勘。」


「すごいな、女の勘。超能力か、なんかかよ。」


僕のちょっとしたツッコミに、彼女はふっと笑う。


 しかし、大学かあ…。その言葉を唱えるだけで、憂鬱な気分になる。もうどれくらい行ってないだろうか。それも思い出せないほど、ずっと家に引きこもっていた。もうどうなってもいいや。そういう投げやりな気持ちで日々を過ごしていた。


 でも彼女の笑顔を見たら。


 自然と心の中に湧き上がってくる想いがある。


 どんな願いだって、叶えてあげたい。


 胸の中で、そっと口ずさんでいた。






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