第6話 家に帰ろう

 スヤスヤと倫太郎くんの寝息が聞こえる。

 和室で改めて寝かせつけるのに、僕も一緒に付き合っていた。これ以上、酒を飲む気分でもなかった。横になって倫太郎くんの胸の辺りを布団越しにとんとんと叩いている様子を、壁にもたれるようにして見ていた。

「倫太郎くん、やっぱりお母さんが恋しいのかな」

「ああ、最初のうちこそ、かーちゃんどこいったて煩かったんだけどな。すぐになにも聞かなくなった。俺が困ってるのがわかったんだろうな、コイツ。聞き分けがよくて、逆に心配になっちまうよ。二歳で聞き分けがいいとか、ふつーダメだろ」

「奥さん、戻ってこないのか?」

 航大はかぶりを振った。

「もとからそんなに気の強い方じゃなかった。仕事でちょっとしたミスをしただけでも人一倍、落ち込むような奴でさ……あ、嫁とは会社の同僚だったんだよ。結婚するときに嫁は退職しちまったけど。仕事と二足のわらじは履けないって。たぶん、あいつは毎晩帰りの遅くなった俺を責めてるんじゃないんだ。自分自身を責めているんだよ。仕事も辞めて専業主婦になったのに、それでもひとりで育児をできなかった自分を……そういうことじゃないのにな」

「そこまで分かってるなら、迎えにいけばいいだろ? そう思っていることを伝えればいい」

 航大は苦笑いをして曖昧にうなずくと、誤魔化すように「今夜は冷えこむな」と寝返りをする倫太郎くんの布団をかけ直してやった。

「そーいう亮一はどうなんだ? いま、いい関係の奴はいるのか?」

「うー、こないだフラれたばっか」

 僕は哲也のことをぽつぽつと話した。ルームシェアをしているというのは、三年付き合い同棲している彼氏であること。クリスマスを前に別れ話を切り出されたこと。それから家に帰っていないこと。航大は静かに話を聞いてくれた。

「そうか。なんつーか、手放しで頑張れと言える状況じゃねーな、それは」

 航大は自分のことのように真剣に考えているようだった。

「そもそも、三年もつきあって、なにがダメだったんだ?」

「わからない」

「は?」

「聞いてないんだ、理由。そのときは感情にまかせて飛び出してきた。でも、いまは会うのが怖い。会えばそれで終わりになるから」

「だから家に帰ってないって? 言ったろ……保留ってのは現状維持をするわけじゃないんだ。そうやって逃げ回っているうちに、もっと取り返しのつかないことになるんだぞ」

 そうだった。本当は知っていた。もうだいぶ前から哲也が二人の将来の話をしなくなっていたことを。去年も、おととしも買っていたお気に入りのクリスマスケーキの予約をしなかった。デパートのおせち弁当の予約もしなかった。どこかに旅行にいこうと言わなくなった。もっと僕の通勤に便利なところへ引っ越そうとも言わなくなった。哲也の顔からしだいに笑顔が消えていったことに気がついていた。少しずつ感じていたすれ違いを僕は見て見ぬふりをして、保留をしている間にそれは雪のように冷たく二人の間に降り積もっていった。

「なんだよ、偉そうに。自分だって人のこと言えないだろう。奥さんとちゃんと話をしろよ。電話にでてくれないなら、会いにいくしかない」

「そうだな。わかった、そうするよ」

 我が子の寝顔を穏やかな目で航大は見つめていた。

 ゲイとしてひとり悶々としていた頃の僕は、いつも行き場のない気持ちを抱えていた。親友ではなく、女性を好きになれたらどんなに幸せだろうと。でも今は無闇に迷うことがなくなったと思う。仕事もプライベートも三歩進んで二歩下がるような冴えない毎日だけど、将来に不安を抱えているのはゲイでもそうじゃなくても一緒なのだとようやくこの歳になって悟った。ゲイだからといって、自分の人生に不満を言うための言い訳にはならない。

 航大が言ってくれたように、僕が変われたのだとしたら、それは友達や……何より、哲也のおかげだった。人と付き合うということ、一緒に暮らすということ。僕はそういうことを必死になって二人の生活から学んだのだと思う。


 ◇


「なんだ、泊まっていきゃいいのに」

「明日もお互い仕事だろ。今日は大人しく帰るよ」

 玄関先で航大に見送られる。あの頃のアパート、あの時のままの部屋の様子が航大の背の向こうに見えた気がした。

 もし、読んでいたら……そんな思いがよぎる。僕のメールがちゃんと航大に届いて、もし読んでいたら。航大はどうしてた? そう聞きたくなった言葉を飲み込んだ。そんなことを今更聞いてもしょうがない。もう、過ぎたことだった。甘噛みのように胸に走る痛みはあったけど、それは青春時代を思い出してほろ苦い気分になる感情だった。人生初めての告白が実は相手に届いてもいなかったなんて、冴えない自分らしいと苦笑いがこぼれた。

「また、飲もうな」

「ああ、また近いうちに」

 家に帰ろうと思う。哲也と話をしなきゃいけない。この三年を自然と雪に埋もれてしまうような終わり方にしちゃいけなかった。

「あ、そうだ。これ倫太郎くんによかったら」

 僕はカバンから印刷所の社長に突き返された妖怪ウォッチのボールペンを取り出した。

「お、ジバニャンかよ! あいつ大好きなんだ、妖怪ウォッチのアニメ。枕元にでもおいといたら、ぜったい喜ぶぞ。まだ字は書けないけどな」

「クリスマスプレゼントは、もっとちゃんとしたのあげろって」

 笑いながら、マンションのドアを開けると外の冷気がさっと流れ込んできた。僕の肩越しに外に目を向けた航大が、驚きの声を上げる。そのままサンダルをつっかけた航大と一緒に玄関を出た。

「どうりで冷え込むわけだ!」

 顔を見合わせる。

 吐く息が白い。そういえば天気予報でも言っていたっけ――。

 マンションの廊下から二人、肩を並べて見上げる東京の夜空に、静かに雪が舞い始めていた。

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家に帰ろう なか @nakaba995

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