第5話 被害者の会と長いメール

 航大が押し入れから引っ張り出してきたカセットコンロをテーブルにセットして、キッチンから鍋を移動させる。土鍋のふたを持ち上げると、わっと湯気が立ち上り、グツグツと煮えた白菜や鶏肉、つやつやと照り返った椎茸が現れる。航大の腹がぐうと鳴るのが聞こえた。

 航大は小さなお椀に肉や野菜を移し、隣に座る倫太郎くんにも少しずつ食べさせていた。ベビーシッターさんの話では、既に夕飯は済ませたはずだったけど、僕らにつられて欲しがっているようだった。様子を見ながら控えめに食べさせてやる一方、航大自身は缶ビールを片手にもりもりと口に運んだ。僕もつられて腹がはち切れるほど食べてしまった。

 倫太郎くんもすっかり打ち解けて、僕に向かってきゃっきゃと笑顔を見せてくれるようになった。

「まだ、おかわりあるよー」

 と鍋に入りきらなかった食材を盛った皿を持ってくると、

「なんかこうしてると、俺ら家族みたいだな」

 と鍋からゆらめく湯気の向こうで、航大が笑った。


 ひと通り鍋をつつき終わり、コクリコクリとうたた寝をはじめた倫太郎くんを航大が隣の和室に寝かせて来た後は、昔話に花が咲いた。ビールから缶チューハイに変わり、心地よく酔いがまわっていた。

「そういえば、俺らってなんで一緒につるむようになったんだっけか? 同じアパートに住んでたけどなあ」

「覚えてないのかよ……引っ越しの挨拶だって」

「なんだそれ?」

 と航大が眉を寄せる。

 ため息をついた。パンツに手を突っ込んでいた奴の様子を語ってやっても、ピンときていない様子だった。

「あーあ、まったく。航大はいつもそうだったよ。大事なことはなーんにも覚えてないんだもんな」

 口をとがらせた。

「なんだ、その言い方。それを言ったら、俺は亮一の被害者の会代表みたいなもんだからな」

「どういう意味だよ?」

 言われのない因縁をつけられたようで、少しムッとする。

「大学時代の奴らに全然連絡よこさないでよ。俺、お前の一番の親友だと思ってた。急に音信不通になって、どこでなにやってんのか。まさか死んだのかも……とか、ずっと心配だったんだ。というか、俺はお前にフラれたと思っていた」

 航大の目が据わっている。僕は言葉を詰まらせた。

 冷蔵庫へもう一本缶チューハイを取りにいこうと席を立つ航大に、

「お前、ちょっと飲み過ぎじゃないか?」

 と声をかけると、大きな身体がよろめいた。慌てて立ち上がり、その身体を支えた。

「ちょっと飲み過ぎたかもしれん」

 航大を椅子に座らせようと、身体を支えたまま移動する。

 その矢先、足下のビジネスかばんにつまづき、今度は自分の全体重を航大にのしかけてしまった。

「ちょ、ちょ、ちょ――!」

 間抜けな声とともに、天井が回転する。椅子が倒れ、身体がフローリングの床に打ちつけられた。

 気がつくと航大が僕に馬乗りなっていた。太いふとももに腰の辺りを挟まれ、身動きができない。無精ひげの生えた顎、学生時代の面影の残るつぶらな瞳。奴の喉がゴクリと動く。

 懐かしい匂いだった。航大の体臭、あの頃の……アパートの部屋と同じ、懐かしい匂いに包まれて、パンッと頭の中が白くはじけ飛んだ。

 ――フラれたと思っていたのは僕の方だった。大学四年の冬。お互いに就職も決まり卒業を間近に控えていた。社会人になれば住む場所も離れ、今までのように頻繁に会うこともなくなるだろう。そういう思いを持て余していた。

 僕は口にすることのできない思いを長いメールにして航大へ送った。勇気を出して、好きということを伝えた内容だった。だが、そのメールに既読がつくことはなかった。きっとその頃、既に薄々と僕の気持ちは航大に伝わってしまっていて、関係がおかしくなりはじめていたのだと思う。既読がつかないのが答えだと感じた。読んですらもらえなかった、と。

 僕は航大と距離をおくようになり、結果、周りの友人たちにも卒業後の連絡先を教えることなく、就職に合わせて僕は東京に引っ越したのだった。これで良かったのだと自分に言い聞かせながら――。

 酔いに乱れた航大の息が僕の頬にかかる。おそるおそる視線を戻した。航大も目をそらそうとしない。両脇につく手が拳になって、僕を押しつぶさないように自分の身体を支えていた。その力のこもった腕にそっと触れる。奴の身体がピクリと反応した。

 どのくらいそうしていたのか。

 目をおよがせた航大が、咳払いをしてから、ためらうように言った。奴の頬にほんのり赤味が差す。

「亮一、俺のこと好きだったろ?」

 きっと航大は相当酔っている。

「な、なに言ってんだよ、急におかしな……」

「頼むからごまかさないでくれ。俺、お前にフラれたんだ……嫌われたんだって、あの頃、相当落ち込んだんだ。お前に嫌われるようなことをした覚えもないのに、なんでだろうって。相当悩んだんだぞ。俺だってお前のことが――」

「待った」

 航大の両肩を持って引き離した。奴の下から抜け出すように上体を起こし、向かい合う姿勢になる。奴がキョトンとした。

「身に覚えがない……だって?」

 ふつふつと込み上がる怒り。

「ああ、好きだったよ。あの頃、航大のことが大好きだった。だから勇気を出して告白をしたのに、メールを開きもしなかったのは、航大、お前の方じゃないか」

「メール? なんだそれ?」

 出た……また大事なことは何も覚えていないパターンかよ。盛大にため息が出た。

「いいか、一回しか言わないから耳の穴広げてよく聞け! 俺は女性を好きになれないんだ。テレビで見かけるオネエと一緒だよ。ただ俺は女になりたいわけじゃない。男として航大、お前のことが好きだった。いっときの気の迷いじゃないんだ……男しか好きになれない。お前の言う好きとは違うんだ」

 全部言ってしまうと、今度は急に心許ない気持ちになった。荒かった鼻息が次第に弱々しくなってくる。学生時代に言えなかった思いを弾みで航大に伝えてしまった。

 奴はまじまじと僕を見つめてきた。

「――お前さ、ちょっと変わったな」

「な、なんだよ、さっきは全然変わってないって言ったのに」

「見た目の話じゃねーよ。あの頃は、今みたいに自分の気持ちをストレートに言ったりしなかっただろ。親友の俺にだって愛想笑いをしているみたいだった。なんというか……今の亮一の方が、俺、すげえ好きだな」

 顔が熱くなる。

「それとな、俺は本当にそのメールは知らないんだ。亮一からきたメールを俺がシカトするわけない。内容もわからないんだぜ? 読まないでおこうなんて俺にできると思うか?」

 本当にトボけているワケでも、忘れているワケでもなさそうだった。

 冬、大きな窓から枯木の見える大学の図書館で打ったメールだった。鉄筋コンクリート打ちっぱなしのモダンな壁に囲まれた図書館は、当時、携帯の電波が不安定だったことを思い出していた。

 既読のつかなかったメール。読んでもらえたかどうか確認する勇気も持てずに、避けられたのだと勝手に決めつけてしまった。血の気が引く。やってしまった……取り返しのつかない過ぎ去ってしまった時間、年月。その重みに押しつぶさると思った。

「ったく、そんなことで、俺ら何年も音信不通になってたのかよ」

 ガックリ肩を落とす航大に、体勢がこんな状況でなかったら土下座をする勢いだった。

「申し訳なかったです……」

 身を縮こませ、営業のクセで思わず敬語になってしまう。

「おい、そんな顔するなって」と今度は航大が捨て犬のような表情をした。そして、倒れかかるように僕の肩にそっと自分の額を当てた。

「確かに、お前の好きと俺の好きは違かったのかもしれない。俺はあの頃、男とか女とか関係なく、亮一、お前が好きだったよ。なんとなく亮一の気持ちにも気づいていたのに、気づいていないフリをしちまってた。俺も悪かったんだ……二人の関係が変わっちまうんじゃないかって、距離を置いたまま保留にしてた。でも、保留ってのは現状維持をするわけじゃないんだよな。ゆっくりと終わっていく、そういうことだと今ならわかるよ。あとに残るのは後悔だけだ」

 話し終えて顔を上げた航大の目に様々な思いがよぎっていた。それはきっと僕との記憶だけではない。連絡を交わすこともなく過ぎてしまった八年の月日が奴の目に映っているように思えた。

 ふと、気配を感じ、僕らは床から飛び起きていた。

 乱れてもいない身繕いをする。

「とーちゃん? かーちゃん帰ってきた?」

 寝ぼけた様子の倫太郎くんが、和室の戸口に立って、眠そうな目をこする。僕らのドタバタ騒ぎで起きてしまったのだろう。

「なんだ……かーちゃんの夢でも見てたのか?」

 航大がそばによってその小さな身体を抱き上げると、倫太郎くんはコクリと首を縦に振った。航大は泣いているような笑っているような複雑な表情をして、我が子をぎゅっと抱きしめていた。

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