第4話 倫太郎

「ただいま~」

 航大がアパートの扉を開けると、すぐに板張りの廊下を幼い子が小さな足の裏をペタペタさせながら走って来た。

「とーちゃーん!」と両手を前に突き出して、若干よたよたとしている。まだおぼつかない足取りで航大を目指して走って来たのだが、玄関口に僕がいるのを見ると、さっと顔色を変えて廊下を逃げ帰って行った。

「はずかしがってんだよ。どうも人見知りする時期らしくてな」

「歳は? まさかこんな大きい子だと思わなかった」

「二歳になった。倫太郎っていうんだ」

 リビングへ続く扉の影に姿を隠し、柱にしがみつくようにしてこちらの様子をチラチラとうかがっている。航大似なのか、お母さん似なのか。幼い顔に大きくパッチリとした目が柱から見え隠れする。

 倫太郎くんの視界をさえぎるようにして、

「おかえりなさいませ」

 とリビングから若い女性が出て来た。航大の言っていたベビーシッターなのだろう。子供受けしそうな優しい顔立ちの人だったが、エプロンを外してクルクル丸める手際に、事務的なものを感じた。

「帰宅が遅れる場合は、連絡を頂けると助かります」

「すみません、ちょっとだから大丈夫かと」

 航大がヘコヘコと頭を下げる。

「十五分の延長になります。請求はまたご連絡しますので。倫太郎くんのご飯は十七時に食べさせました。オムツは今日、一回取り替えています――」

 事務連絡のように淡々と一日の様子が告げられた。ベビーシッターさんは僕のことなど気にもとめていない様子で、最後に一瞥だけして部屋を出て行った。

「悪かった。鍋なんかつくろうて言い出したから、買い物に時間かかったよな」

「気にするなよ、十五分くらい」

 航大はそう言ってくれたが、何となく気持ちが治まらない。

「あのベビーシッター、ずいぶん感じの悪い人じゃないか?」

「まあしょうがない。むこうだって仕事だし、待ってる家族もいるだろ。連絡しなかった俺の方が悪いさ……でもな、実は俺も心の中じゃ、家政婦のミタさんて呼んでるよ。あの人のこと」

 なんてことを言うので思わず吹き出してしまった。

「こら、倫太郎、いい加減ちゃんと挨拶しろ」

 リビングに入ると自分の腰の辺りにまとわりついてきた我が子に航大は声をかけた。

「こんばんは」と顔を近づけると、バッと離れて航大の後ろに隠れてしまう。

「コラコラ、とーちゃんの友だちなんだぞ?」

 そう言われた倫太郎くんは、

「ともだち?」

 と不思議そうに父親の顔を見上げた。

「ああ、一番の大親友だ。だから仲良くするんだぞ」

 航大は倫太郎くんの小さな頭を手でグリグリさせると、肩に背負ったままだった大きなビジネス鞄をようやくといった感じでリビングの床に下ろした。倫太郎くんは警戒心を解いてくれたのか。僕の方をチョロチョロうかがいはするものの、逃げたり隠れたりせずにペタリと床に座り込んで航大のスーツのズボンをぎゅっとつかんだ。航大の言った「ともだち」という言葉が効果的だったのかもしれない。

「とーちゃん、フロ?」と倫太郎くんが言う。

「ああ、風呂な……風呂かあ。今日はやめとく……てワケにもいかないよな」

 航大がすまなさそうな顔を向けた。

「俺、ちょっと倫太郎を風呂にいれてきてもいいかな? 毎日の日課というか、ずっと俺の仕事なんだよ。倫太郎を風呂に入れるの。先にビールでも飲んでくつろいでてくれよ」

「ああ、なら鍋の準備をしとこうか。キッチン使わせてもらってもいいかな」

 自分から誘ったクセに色々気をつかわせちまってホントごめん、と航大は両手を合わせた。気にするなよ、と笑う。

「その辺の棚に入ってるものは適当に使ってくれ」

「りょーかい」

 抱きかかえられていく倫太郎くんに、

「いってらっしゃい」と手を振ると、少し首をかしげてから、バイバイと手を振り返してくれた。


 慣れないキッチンに悪戦苦闘しながら、何とか鍋にひと通り具材を入れ終わって準備万端。ヨシ! と腰に手を当てていると、ちょうど二人が風呂から出て来た。

 航大はTシャツにトランクス一丁というラフな格好だった。湯上がりのほてった肌からうっすらと湯気が上がっている。

「ちょっと待っててな。押し入れに確か、ガスコンロがあったはずなんだ」

 と言いながら、バスタオルで倫太郎くんの濡れた頭を無造作にグシャグシャと拭き上げる。倫太郎くんは「うー、はー」としかめ面をした。二人から石けんの香りが漂ってくる。

 しゃがみ込む航大の太いふとももや、Tシャツの袖から伸びるたくましい腕にチラチラと目がいってしまう。さすが重いビジネスカバンを担いで、営業に走り回っているだけある。歳で脂がのったせいもあるのだろうけど、学生時代よりひとまわり身体がでかくなったのではないだろうか。Tシャツごしに緩くつき出したお腹の肉もむしろ好ましい。おまけにサイズが小さいのか、しゃがみ込み盛り上がった太ももによってトランクスの生地がパツパツに張ってしまっていた。ゴクリと喉が鳴る。

「どうした?」

 と航大に声をかけられて、自分がぽーと見とれていたことに気がついた。

「な、なんでもない」

「ははーん、さては湯上がりの俺の色気に見とれてたな?」

 ボディビルダーのようにおどけたポーズをとる航大。腕を振り上げた拍子にTシャツの袖口から腋の下がチラリと見えて顔にカーッと血が集まった。

「アホか! 誰が腹の突き出たオヤジなんかに見とれるんだよ」

 動揺を悟られないように、明後日の方向へ顔を向けた。

「わかってねえなあ。それが大人の色気ってもんだろう。なあ、倫太郎?」

 そう同意を求められて、倫太郎くんはわかっているのかわかっていないのか「ウン!」と元気よくうなずいた。

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