第3話 原付カブとラガービール

 航大とは同じ千葉郊外にある大学に通い、同じアパートに住むお隣さん同士だった。

 お互い進学に合わせてひとり暮らしをはじめた春先。よくわからないままそうするものだと親から言われ、航大の部屋へ引っ越しの挨拶にいったのが最初だった。トランクス一丁の寝ぼけまなこで出てきた奴の姿があまりにだらしなくて、笑いをこらえるのに精一杯だった。僕が粗品の手拭いを差し出すと、奴はパンツにつっこんだままだった手を慌てて取りだして「ご、ご丁寧にどうも」と使い慣れていない敬語にどもりながら頭を下げたのだった。新歓コンパで浮き足だった同級生たちとは何となくウマが合わないと思っていた僕らは、気がつくと自然とつるむようになっていた。

 よく互いの部屋を行き来しては、晩ご飯を一緒に食ったり、朝まで焼酎の瓶を抱えるようにして飲み明かした。たまに共通の友人が混ざることがあっても、僕らはもっと日常的に一緒だった。航大がバイト代で買った中古のスーパーカブの後ろによく乗せてもらった。借りたヘルメットを斜めにかぶり、航大の腰につかまる。夏の夜風を切って走る誰も居ない県道。

 開け放った窓の網戸越しに、夏虫の声を聞きながらいつまでもビール片手に他愛のない話をしていた。冬は鍋にビール、カセットコンロのガスが切れてしまって、一緒に近くのコンビニまで走った――。

 一人暮らしをはじめた頃の寂しさや心細さ……お互いにそういうものを埋め合っていたのだと思う。僕は近しい友人が少なかったこともあって、すぐにその関係にのめりこんでいった。航大のことを好きになってしまうのに、そんなに時間はかからなかったと思う。


 ◇


 踏切近くの商店街で軽く買い物をしていくことになった。

「最近、男やもめでさあ。家になんもねえの。スーパーの総菜でいいかな? ビールも切らしてるし買っていかねえと」

 航大と連れ立って商店街を歩いていると、まるで学生時代にタイムスリップしたような感覚になった。アパート近くの商店街を二人でよくブラブラと歩いたものだった。肉屋さんの店先に並ぶ総菜や、パン屋さんから漂ってくる芳ばしい香りに誘われるまま、コロッケやカレーパンを買い食いしたことを思い出していた。

 商店街の中程にあるスーパーで、五十円値引きの貼られた総菜パックをあれこれ吟味している航大の、決して冴えているとは言えない背に声をかけた。

「なあ、鍋にするってのはどうかな? 昔よくつくったよね。野菜切って肉入れて、煮るだけだから簡単だし」

 お邪魔する身でそんなことを言うのも厚かましい気もしたが、航大との懐かしい記憶の方が勝っていた。あの頃の気安さのまま、そばにあった長ネギを一本、航大に向かって振り上げる。

「ああ、懐かしいな……もう鍋の季節か。それもいいかもな」

「じゃあ、決まりだ」

 そうと決まれば話は早い。

「しめじとエノキだったらどっちがいい?」

「椎茸も入れたいから、その二つだったらエノキにしとくか」

「了解」

 そんなやりとりをしながら、次々と買い物カゴの中に鍋の材料を放り込んでいく。

 焼き豆腐の賞味期限を確認している僕に航大がふと聞いてきた。

「そーいや、亮一は今なんの仕事をしてんだ? 東京の会社に就職したってのは聞いたけどよ」

「ああ、文房具屋のしがない営業だよ」

 僕が会社名をつげると、「なんだー、けっこう有名なとこじゃんかそこ」と声を張り上げた。声がでかくて周りの客にじろじろと見られてしまう。そんなところも昔と変わっていない。

「名前ばっかりだよ。給料安いし、東京は家賃も高いだろ? だからルームシェアしてんだ」

「へえ、ルームシェアねえ。なんか窮屈そうだな」

 彼氏の顔が思い浮かぶ。同棲をして三年だった。事情を知らない会社の同僚にはルームシェアということにしていた。実際、ひとりで住むには家賃的に厳しい部屋で、これからお互いに引っ越しを考えなければならないだろう。同棲をしている相手と別れるとなると、お互いに確認し合わなければいけないことが山のように出てくる。だけど、僕は別れを告げられてから一度も家に帰っていなかった。哲也から逃げるように。これから先、どうなるのかもまだわからない。

「航大は? 東京で仕事してるんだろ」

「俺? 俺もしがない営業やってるよ。小さな広告代理店でさ。マネージャーとは名ばかりの半分雑用係だな。でかいカバン背負っていつも走り回ってる」

 買い物かごを片手に、肩に背負った黒いビジネスカバンを反対の手のひらで叩く。

「卒業してすぐは大阪で、去年、東京支社に転勤になった。家族そろって引っ越しさ」

「大阪か……」

 改めて時の経過を感じた。連絡をしない間にどれだけの時間が僕らの間に積み重なったのか。その間に航大は大阪に移り住み結婚をし、子供も生まれ、東京で働くまでになっていた。

「今は嫁さんが出ていっちまったから、息子と二人暮らしだけどな」

 航大がため息をつく。

「ごめん。こみいったこと聞いちゃうけどさ……奥さん、どうして?」

「ん、嫁さんが出ていった理由か?」

 僕がうなずくと、航大は肩をすくめた。

「それがイマイチわかんねえんだよなあ。ある日帰ってきたらいなかった。まあ実家に帰っているのは知っているんだ。電話をかけても全然俺と話をしてくれねえの。たぶん、育児でまいっちまったんだと思ってる。東京への転勤は、いちお栄転でさ。マネージャーになったのは良かったけど、毎晩帰るのが午前様になってな……家族の顔もまともに見れない生活を半年以上しちまったから」

 子供もまだ手のかかる歳なのだろう。加えて引っ越してきたばかりで知り合いもいなければ、土地勘もない。相談しようにも旦那は帰ってこない。それでは確かにまいってしまうかもしれない。

「今は息子の世話があるから早く帰らせてもらってるんだ。そんなことができるならさっさとしとけばよかったよ。まあこのままだと、まわりに迷惑かけっぱなしだから、頃合いを見てマネージャーは辞めようと思ってる。平の方が俺の性分には合ってるよ」

「そうか……」

 缶ビールの商品棚に手を伸ばしながら、航大が気を取り直すように声を大きくした。

「まあ、でも亮一が、元気そうでよかった。ずっと気になってたんだ、俺」

「なにが?」

 とぼけた声になってしまう。実際、とぼけているわけだが。

「ん、なんでもねえよ」

 背中を強めに叩かれた。心配させやがってと言われた気がした。

「亮一もキリンラガーでよかったよな、ビール」

 僕の好きな銘柄だった。ビールの味なんてわからなくて、大学時代に航大の買う物をマネして飲んでいるうちに好きになり、今でもこの銘柄が晩酌の友だ。航大はそれを覚えてくれていた。

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