26 孤島にて
側に現れた大男が、手にした大剣で目の前の竜に深手を負わせる。しぶきのように飛散する赤黒い厄災の血液が、一人の幼き少女を濡らした。
切り裂かれた竜の腸から、刻まれた姉の肉片がボトボト零れる。少女は姿形の無い最愛の姉を小さな手のひらに載せて、むせび泣く。身体中の水分が……失われるほどに。
「――ああ、あああッ!」
ルナリザが上半身を起こした瞬間――ゴン、と鈍い音が頭蓋に響く。
「うぉぉぉぉ~……痛ったあ……うっそぉ……ルナリザ、頭固っ……!」
ぶつけた箇所を抑えて、眦に涙を浮かべるカームがルナリザの視界に入る。
「何!? 何っ……! お姉ちゃんっ――」
頭を抑えながら必死に姉の姿を探す。しかし、血の匂いもしなければ人の悲鳴も聞こえない。
「……大丈夫? ルナリザ」
「…………へ、平気よ」
かっと顔が熱くなるのがわかった。幼い子供のような部分を見られて、ルナリザは恥ずかしくて仕方なかった。
辺りを見渡す。洞穴の中だった。大きく開いた入り口からは美しい青空が覗ける。ぱちぱちと火花を散らす火種がすぐそばにあって、やたらごつごつする枕は、ミレーユの尾だった。ミレーユはルナリザが起きたことに気付きつつも、知らん顔で寝息を立て続ける。
「…………看病、してくれてたのね……ありがとう。ここは?」
「あれから孤島に降りたんだ。で、良い洞穴を見つけたからそこに。ルナリザはちょうど丸一日眠りっぱなしだったよ。調子はどう?」
「うん……それは平気」
また嫌な夢を見てしまった。あの日から、絶え間なく見続けてきた夢。起きた直後はしばらく動悸が凄いはずだが、不思議と今はそれほどでもなかった。
ルナリザの手に小さな何かが触れ、彼女は反射的に引っ込める。
「アンタだったの」
小さな躰を精一杯ルナリザに擦りつけるようにして、シェロが甘えてくる。
「この子はやっぱり……」
気を失う前のことを思い出す。人知を越えた不思議な力で、自分たちは守られていた。透明な盾を纏って、風のような速さで空を高速移動したのだ。有り得ない超常現象。まるで神様の悪戯。しかし、ルナリザには既視感があった。少し連想しただけでぞわりと寒気が走る。
「……カーム。十二年前の人竜戦争で、この子みたいな力を持った竜が居たような気がする」
「……詳しく話して」
「小さかったから細かく覚えてないけど、あの光景は異常だったわ。単独行動が基本の野生竜が、あれだけの数で人里に降りてくるなんて……。でも、アンタの言ってた竜を従える力を持つ竜がいるんだとしたら、あの日の惨劇も理解できる」
ルナリザが重たい表情で、肘をぎゅっと抱きかかえる。
「この子に……あの日のような出来事を引き起こす力があるとしたら? それを保護しようとしてるあたしたちは、世界の敵ってわけ?」
「わからない。でもシェロは俺たちを助けてくれた。十二年前の竜とは違うのかもしれない」
尾をぱたぱたと地面に叩きつけて遊んでいるシェロに、カームが手を伸ばす。シェロは伸びてきた指を甘噛みして、じゃれつく。
「そもそも生き物に善悪なんて存在しないよ。俺たち人間が勝手に区別してるだけだ。……ルナリザ、君はシェロが例えその十二年前の竜と同じ存在だったとしたらどうするの?」
「………………それは、」
「……殺すべきだと、思ったんじゃない。ルナリザなら」
「…………」
「ルナリザ視点で考えたなら、その答えになるのは当然だ。でも、俺と一緒にこの子が産まれた瞬間も見てる。だから殺したくない気持ちだってある。……そうだよね」
「……わからない」
「ごめん、意地悪だったかな。これから一体どうしたら良いのか、俺もわからないんだ。だから……ギリギリまで考えようよ。まだ答えを出す必要はないけど、覚悟だけはしておこう。突然状況が変わったとき、悩まないために」
「カーム、あたしは……」
「君が、本当にしたいことをすべきだよ」
幼子に合わせてかがんでくれる教師のように、カームがルナリザの思考に寄り添う。
ここ最近の自分の行動が感情任せで非論理的なことにルナリザは気付いていた。ヒンメルにシェロの卵を割られそうになったときの悲しみや愛情は、紛れもない本物だ。
「……そうね。いくら悩んでもしかたないなら、もういっそ考えるのを辞めるのも手かも」
「たまにはそういうのも悪くないよね」
ルナリザが身体を投げ出し、背後のミレーユに体重を預ける。
カームがいつものように笑みを浮かべる。ルナリザはミレーユの尾に横顔をくっつけて、頬を火照らせる火種をじっと見つめて言った。
「…………カーム……あたし、シェロを守りたいよ」
それは、ルナリザの中でいつの間にか育まれていた、正真正銘の気持ち。願い。
カームの隣からよちよちルナリザの側にやってくるシェロ。つるんとした愛らしい口元を撫でてやると、気持ちよさそうに瞳を細くした。
「この子を取り巻く問題は……正直あたしの手に負えない。だけど、シェロがのびのびと生きていくことを想像すると、この辺りが……なんだか、その、温かくなるの」
自分の胸に手を当てて、ルナリザは瞼を閉じた。
「……きっと、ルナリザにとって一番大切なのはその気持ちなんだろうね」
対面のカームが立ち上がったかと思えば、ルナリザのすぐ隣に腰を下ろした。咄嗟のことで反応できずに固まっていると、火に照らされた手の影が伸びてくる。心臓が跳ねる。
「……よしよし。可哀想に……痛かったよね。ミレーユの怪我がしっかり回復するまではここで休もう。シェロの情報は行き渡ってるだろうから、ゆっくりはできないかもしれないけど」
ルナリザを通り過ぎて、寝息を立てるミレーユを撫でるカーム。そして彼は思い立ったように手を叩いた。
「そうだ、近くに綺麗な湖があるんだよ。ルナリザ、水浴びでもしてきたら?」
「……え、ああ、そうなの。……わ、わかったわ」
もごもごと、言葉が口の中で崩れてしまう。ルナリザは居心地悪そうに立ち上がるが、
「……あ、それとお願い! 良かったらついでにシェロの躰も洗ってあげてくれない? さっきミレーユの糞に顔突っ込んでたからさー。あ、ファムとミレーユは俺が洗っといたよ」
糞塗れなのに何故だかしたり顔のシェロをカームから渡され、どうしてミレーユもシェロもこんなに汚れたがるのだろうと、ルナリザは真剣に悩んだ。
* * *
今朝狩ってきた野鳥を人数分に切り分けて朝食の用意をする最中、カームは眦を濡らしてうなされるルナリザのことを考えていた。
十二年前、彼女がどれほどの悲劇に心を痛めたのか、カームには知りようがない。悪気は無かったとはいえ、それを忘れさせようとしたカームは、未だ後悔の念にかられていた。
竜への復讐心はこれまでのルナリザを作り上げてきた彼女の一部だ。それを否定することは、彼女自身の否定に繋がる。
ふと、考える。交わることの無いはずだったカームとルナリザの目標が、今はシェロを介して重なっている。そんな奇跡に等しい今この瞬間を無下にしたくない。
カームの手が止まっているのを良いことに、ファムがそっとカームの手元に首を伸ばす。
「あ、こら、ファム。お前は朝ご飯いっぱい食べただろ。これはルナリザのぶん!」
うぅぅぅと唸りながら、ファムはしょげた表情で洞穴の奥へ向かっていく。ミレーユの隣にどかりと腰を下ろし、わざとらしく鼻息をフンと漏らす。
「ふて腐れてもダメ、皆一緒なの。俺だって我慢してるんだよ」
湖のほうから水が飛び跳ねる音が聞こえた。
「……なんだろうね」
ファムやミレーユと顔を合わせて首を傾げる。少しだけ不安になりつつも、様子を見に行くのは厳禁だろうと作業に徹していると、洞穴の入り口から人影が差し込んだ。
「――カームッ!!」
叫び声の先には、一糸纏わぬ姿のルナリザが立っていた。
鍛え上げられた肉体には無駄な脂肪が一切なく、精錬された筋肉の線が浮き出ている。しかしながら女性らしい膨らみや丸みを帯びた身体のラインは実に顕著だった。濡れた髪は肌に貼り付いて少し彩色が落ちており、その毛先から垂れる水滴が、ぽたぽたと地面に吸われていく。
開いた口をそのままに、カームはルナリザの胸元に視線をやる。ぐったりした様子のシェロを抱きかかえていた。
「シェロに何かあったの?」
「わからないのよ、急に咳をしだして……躰が熱いの」
ルナリザが不安そうな面持ちでカームの元までやってくる。ルナリザからシェロを預かり、柔らかい葉を集めて作ったベッドの上に寝かせる。
カームは嫌がるシェロの鼻先から漏れ出ている液体を指ですくい取り、ペロリと舌で舐めてから、強引にシェロの口をこじ開ける。
「カ、カーム、ちょっと乱暴なんじゃない? 嫌がってるわ」
「こうでもしないと聞かないから。優しいだけじゃ竜は助けられない。照明具持ってて」
カームがシェロを隅々まで検査し、安堵の息を漏らす。
「……風邪、引いてるね」
「え? 竜も風邪を引いたりするの? もっと危険な病状の可能性は?」
ルナリザが矢継ぎ早に質問してくる。その様子が面白くて、カームはにこにこしてしまう。
「随分お母さんになったね。元々体温が低いから珍しいけど、多分大丈夫だよ」
「多分!? そんな適当なこと言って、本気でこの子のことを考えてあげてるの!?」
ルナリザがもの凄い剣幕で覆い被さるように迫ってくる。
「ル、ルナリザ……あんまり、その」
「何よ! 変人だとは思ってたけど、竜への想いは本物だと思ってたのに。見損なったわ!」
ぐいぐい距離を縮めてくるルナリザ。ついにカームは壁に背中をつけたまま尻餅をついてしまう。カームの瞳に、ふるふると瑞々しく揺れる二つの双丘が嫌でも目に入る。その先端から、零れ墜ちた水滴がカームの唇の上で弾ける。
「…………ル、ルナリザっ」
「もう、さっきから何よ! …………へくしゅんッ!」
「か、風邪……引いちゃうよ」
カームが視線を反らしながら忠告する。ルナリザはようやく自分の状態に気付いたらしく、徐々に頬を赤く染め上げていく。すぐさま大事な部分を手のひらで隠し、耳の先端まで真っ赤にしたルナリザは声にならない声を漏らして、湖のほうへと逃げ去っていった。
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