10 そして海へ墜ちていく
ルナリザの楽園は、あるとき一瞬で火柱と灰に変わった。
一二年前、『人竜戦争』が起こったとき彼女はまだ五歳だった。楽しかった思い出、嬉しかったこと出来事は山ほどあったはずなのに。蘇る記憶はいつも燃えさかる故郷だ。
家族を失い泣き叫ぶ子供。竜に噛まれて感染症に苦しみながら息絶えていく者。そんな絶望的な光景の中で特にルナリザの脳髄に刻み込まれたのは――――、
姉の笑顔だった。
「――おねえちゃんっ!」
身体の半分を失いつつも精一杯ルナリザの身体を突き飛ばして、姉は微笑んだ。
「ルナリザ……笑って、生きてね」
「いやッ! おねえちゃん、おねえちゃんをかえしてッ!」
自然界の厳しさを啓蒙するように、竜は亡骸となった姉をむさぼり喰う。力を持たない幼子は、一人の人間が肉塊と骨へ分解されていく光景を目に焼き付けることしかできなかった。
やがて竜の禍々しい眼球がルナリザに注がれたとき、断末魔の叫びが灰色の空に轟く。
鬼のような形相をした大柄の男が、ルナリザを庇うように走り込んできて、身の丈ほどある大きな剣を力任せに振り下ろす。
激しい斬撃を受けた竜はバラリと棘のような鱗を撒き散らし、その傷口から毒々しく赤黒い血液が噴き出る。竜は啼きながら逃げるように飛翔する。
大柄の男が、血みどろになった大剣を構えたまま腹から叫ぶ。
「人間の前に、もう二度と現れるなッ!」
男は泣き叫ぶ。姉を喰った竜は啼き声を上げて空の彼方へと飛び去っていく。灰色の空からはさめざめと冷たい雨が降っていた。
雨と涙で顔を濡らしたルナリザは、ずっと遠くの空を見上げる。幼子とは思えない表情で、逃げ去っていく敵をずっと睨めつけていた。
「……ぜったい、ころしてやる。おなじように、させてやるから」
隣でえずいていた男がゆっくりと立ち上がると、ルナリザの頭に大きな手のひらを乗せる。
「……なら、竜騎士になるといい」
「そうしたら、しかえしができるの?」
男は答えなかったが、ルナリザの将来はこのときに決まった。
――竜騎士になって、“傷の竜”を殺すこと。竜への復讐を遂げること。
* * *
ルナリザは鬼神の如き雄叫びを上げながら、粗野で乱れた軌道の果てに傷の竜を目指す。一〇〇メートルにも満たない距離まで迫り、その眼球に敵の姿をしっかり映す。
逆鱗付近まで続く稲妻のような古傷は、癒えることなく今もルナリザの瞳に映っている。
間違いない。姉を食い殺した、忌々しいあの日の火竜だった。
「絶対殺すッ! ぶっ殺してやる!」
すぐそこまで接近し、槍で逆鱗を狙い刺す。しかし、矛先は空突くだけに終わる。ルナリザは諦めずに猛々しい声で己を鼓舞しつつ、猛攻を止めない。小刻みにミレーユを立ち回らせて槍を振り、突く。苦労の果てにようやく傷の竜の鱗を擦り、赤黒い血が青空に弾けるが、こんなものではどうしようもない。もっと……もっとだ。胴体から生えているすべてのパーツを切断し、中身をほじくり返してやらないと、気が済まない。
抵抗する傷の竜が火球を吐き出す。皮膚に痛みさえ走る小さな太陽を直視すると、潤んだ瞳の水分が一気に蒸発する。だがそのおかげでルナリザは手綱をタイミング良く引き、攻撃を回避。そのままルナリザは急上昇し、上空から獲物を見下ろした。
傷の竜よりも数十メートル高い上空で、ルナリザは安全帯を外しミレーユから飛び跳ねる。
身体を小さく丸め、胸に抱いた一本の槍と一体になって中空を墜ちていく。
やがて傷の竜に突き刺さる――というところで敵はルナリザを弄ぶようにひらりと回避する。そのまま一直線に空を墜ちていくルナリザは、咄嗟に竜鎧の腰に仕込まれた緊急用の小碇を起動。竜の巣の外壁へ打ち込まれ、そのままぶら下がった状態になった。
傷の竜がルナリザを捕捉する。大口を開き、火球を作り出そうとしていた。
このまま撃たれれば一瞬で消し炭になってしまう。ルナリザは焦ってミレーユの姿を探す。ミレーユは、竜の巣の外郭の上に鳥のように止まっていた。
「来なさい! あたしの竜! 来いって言ってるの!」
主人の命令に見向きもしないミレーユ。途端に全身の熱が下がり、心臓が凍る。
「ふざけるな! アンタはあたしの竜でしょ! 言うことを聞け! 早くッ――!」
傷の竜から放たれた火球が、ルナリザもろとも竜の巣を爆発へと巻き込む。
爆煙が立ち込める中、一匹の竜が飛び出す。
「……君は、もっと賢い人かと思ってた」
ルナリザを腋に抱きかかえたカームが言った。
「馬鹿! 離せ! 殺さないと! アイツを殺さないとッ!」
「正気に戻れルナリザッ!」
聞いたことの無い罵声がカームの口から飛び出て、ルナリザの身体が硬直する。
「俺が助けなかったら、君は死んでたよ。これで二度目だ」
「邪魔を……邪魔をしないでよッ!」
槍の柄が折れそうなくらい力を込めるルナリザに、カームが寂しそうな視線を送る。
「ルナリザは……死にたかったの?」
「そんなわけないでしょ。殺したかったの! お姉ちゃんを喰い殺したアイツを!」
「……俺の目が届く限りは、そんなこと絶対にさせない」
「じゃあ、アンタを殺すわ!」
憎しみのこもった泣き顔でルナリザがカームを睨み付ける。彼はそんなルナリザを横目に、冷静な声で続けた。
「感情に流されて思ってもないこと言って、取り返しがつかないことになったらどうするの」
「説教垂れないで! いつもヘラヘラ笑ってるだけのアンタに何がわかるっていうの!」
「……俺、できる限り怒らないようにしてるんだ。毎日を楽しく生きたいから。そりゃ理不尽に怒鳴られればムカつくし、意志や理念を馬鹿にされたり蔑まれたら傷付くよ。でも、だからこそ大袈裟なくらいに笑ってないと、俺楽しく生きられない気がするんだ」
カームが自分に言い聞かせるように語り、柔和な翡翠色の瞳が優しくルナリザを見つめる。
「ルナリザ、君は……生きるのがとても辛そうだ」
「……あたしの人生なんだから、どうだっていいでしょ」
「頑固だね。でもいつか……色んな命を大切に扱えるようになってくれると、嬉しいな」
カームの言葉が固まった身体の芯まで届く。しかし、それでもルナリザは復讐を果たさねばならない。カームと意見が合致することはありえない。
「ミレーユ、おいで」
カームがミレーユに声をかけると、先ほどの無視が嘘のように追従してくる。自分の命令には聞く耳を持たないくせに、この田舎者の言うことは聞くのか。
背面の空には、海へ燃え堕ちていく竜の巣だけがあった。すでに傷の竜の姿は無かった。
「…………くそう……くそぅッ…………! ううっ……」
ぽろぽろと、塩辛い涙が海へ堕ちていく。
――チャンスだったのに。きっともうやってこないのに!
初めての実戦に怖じ気づいた自分。野生竜を前に腰が抜ける自分。喉から手が出るほど欲していた敵を前に返り討ちに合う自分。その弱さのすべてにルナリザは涙する。
唇ごと歯を食いしばる。滲んだ血液は、口内で鉄の味となって広がった。
前方の空に戦闘空域はもう無く、皆撤収の最中だった。戦闘を行った野生竜たちは、死骸となり巨竜の上で横たわっているか、海の藻屑となったか、雲隠れしたか――それらのどれかの結末を迎えている。
母竜機構は、大きな被害を出すことなく野生竜との初戦に勝利したのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます