03 ルナリザ・フェルノーラ
食事が喉を通らない。カチリと食器を皿に置いて、咀嚼していたものをなんとか飲み込む。気分は曇天で晴れる気配はない。美味しい物でも食べれば変わるかなと思っていたのに……。
酒など普段は飲まないが、この際いいかなと思い始めていた矢先、目の前に誰かが腰掛けた。
母竜機構竜騎士隊・七番隊所属の若手竜騎士、ルナリザ・フェルノーラは睫毛を瞬かせる。
正面の怪しい男はにこにこした表情のままこちらをじっと見つめてくる。伸びきった黒髪と目尻に何かのひっかき傷が残っているが、かなり整った目鼻立ちをしていた。小綺麗にすれば異国の王子にでもなれそうだ。だけど、へらへらした表情のせいか責任感が無さそうでひ弱に見える。食器より重い物を持ったことがないと言われても信じられる。
――というか、異様に見覚えがある。少し前まで……一緒だったせいだろう。
「……何よ。人の顔をじっと見て。気持ち悪い」
キツめの一言を浴びせる。しかし、相手の反応はルナリザの予想の斜め上を行った。
「見て!」
元気の良い声で言ったかと思うと、男は人差し指で自分の目尻を引っ張り、親指で唇を妙な形に変形させる。結果、今夜夢に出てきそうな怪物が誕生した。
「どう? ハハハ」
対面の男が勝手に笑い始める。いきなりのことでルナリザには尚更意味がわからない。
「……目的は? 何を企んでるの」
「君、ずっと仏頂面してたからさ。笑わせたくなっちゃって」
「はあ?」
「あ、忘れちゃった? 俺はカーム! 出発セレモニーのサーカスで一緒に笑い合ったあの」
「知ってるわよ! 何が“あの”よ。それに笑い合ってなんかないわよ! 適当言わないで」
「怒りんぼだなあ」
へらへらしたその笑みに、真面目に応対しているこちらが馬鹿らしくなってくる。この分じゃきっと、国家に都合良く利用されていることに気付いてさえいない。
天性の才能と技術を大舞台で披露して昇進。気分上々といったところなのだろうか。それを羨む気持ちは一切無いし、この男に恨みがあるわけでもない。だが、脳天気に自分の領域に入り込んで来るカームのことが、ルナリザはどんどん憎らしくなっていく。
「…………消えて。今すぐあたしの目の前から」
「え……どうして?」寂しそうな表情で、カームがルナリザに問いかける。
「アンタのせいで、あたしは練習通りの演目ができなかったからよ」
――ある程度手綱を任せてあげると、君とも上手くいくかもね。
サーカスでのカームの言葉が蘇る。竜騎士が竜に手綱を任せる? 冗談にしか聞こえなかった。竜が立場を勘違いしたらどうする。主人に攻撃してくる可能性だってあるのに。人間が主人であることを認識させ、竜を絶対服従させてこそ竜騎士だ。養成学校での訓練とルナリザの思想に隔たりは無い。この男がズレているのだ。絶対に。
「…………それは、ごめん。謝るよ」
「フンっ……あたしの邪魔だけはしないで。金輪際、視界に入らないで」
「それは無理だよ。もう入っちゃってるし」
「これからよ、こ・れ・か・ら!」
「“これから”があるってことは、仲良くもできるってことじゃない?」
「揚げ足取らないで。もう話しかけて来るなって言ってるの」
「ヒンメルって人に会いたいんだ。どこにいるのかな」
「…………人の話を聞かないわね、アンタ」
「そういう君は俺の話を聞いてくれる良い人だ。そういえば、名前をまだ聞いてなかったね」
「……教えるとでも思う?」
挑戦的な表情で睨んでやるが、カームはまっすぐにこちらを見つめてくる。
「感動したんだ! 人と竜が協力して作り上げるサーカスに。火竜の火球をあんな風に使うだなんて思わなかったし、揃って同じ動きをするのにも目を奪われた。二十万人居たんだって? 凄いよね、皆であのサーカスを見てただなんて。会場はお客さんの声で埋まってたし、何より俺の心臓が高鳴ってしかたなかった。初めてだったんだ……そんなこと。それで気付いたら飛び込んじゃってたんだよ」
ルナリザの言葉を待たずに、カームはきらきらした瞳のまま続ける。
「故郷を出て、世間で竜が悪者になっているのを知ってから、俺ずっと探してたんだ! 人と竜が共存していくための道を。サーカスなら人と竜が良きパートナーになれるんだってことを証明できる。これはジラーニって人の言葉まんまだけど、俺その通りだなって思ってさ」
白い歯を見せながら、カームが嬉しそうに語る。
――人と竜が、良きパートナー? 反吐が出そうな言葉がルナリザの耳に入ってくる。本当に救いようがないほど場違いで、頭がお花畑の男らしい。
「おめでたいわね……あんなの――」
ルナリザがさっさと話を切り上げようとすると、カームが机を叩いて身を乗り出してきた。
「やっぱり話しにくいから名前教えて欲しいんだけど。……ねえ、お願い! 君の名前を聞けばもっと仲良くなれる気がするんだ。最大級の親しみを込めて君の名前を呼ばせてよ!」
「は、はあ? 何言ってんの……大分鬱陶しいヤツね。ていうか顔が近いわ、離れなさい」
「そんなこと言わないでさぁ! 母竜に俺まだ友達居ないんだよー話し相手になってよー」
「……アンタね、自分が無礼なヤツだって自覚ある?」
「人の目を見て話すことのどこが無礼なのさ。誠意だって、俺はお母さんから教わったよ」
「そんなこと聞いてないから。距離を考えなさいって言ってんのよ」
「名前を教えてくれたら離れるよ」
「何? アンタ、マフィアか何か?」
「へ? 何それ。君の故郷?」
ますます目の前の男の正体がわからなくなるルナリザ。大きくため息をつく。
「…………ルナリザ・フェルノーラ」
「ルナリザだね、ありがとう。三回目だけど俺はカーム、姓は無い。これからもよろしく!」
カームが勢いよく右手を突き出してくる。握手を無視して、改めてカームを睨み付ける。何度見ても、あのとき口笛だけで竜と意思疎通を図った凄腕の竜騎士には見えない。
「ルナリザはどうして母竜機構に?」
無視された握手に表情を変えることもなくカームは平然と居座り、訊ねてくる。
ルナリザはもうどうでもよくなった。果たすべき目的が達成できさえすればそれで良い。それ以外のことなど、ルナリザにとってはなんの価値も無かった。
――そう、だから。コイツが引こうが傷付こうが、あたしにはなんの関係も無い。
「……あたしは、竜に復讐するために母竜に乗ってる。アンタが憧れてるサーカスには微塵も興味が無い」
「…………復讐?」
カームはまるで理解していないようだ。ならばとことん言ってやろう。
「十二年前の『人竜戦争』で故郷を失った。リィネってウィンガリウムの山奥にある素朴な田舎町。自然豊かな土地で、穏やかな人ばかり暮らしてた。それなのに突然襲ってきた野生竜の大群に、家族も一族もみんな殺された。竜にすべて奪われたの。……だから、あたしは仕返しがしたい。問答無用で泣き叫ぶ竜共のはらわたを引き千切って、目玉をくり抜いて、翼を八つ裂きにして、ぶっ殺してやりたい。“ただ、それだけ”」
初めてカームの表情が固まる。少しの優越感を覚える自分が余計に汚らわしい人間に思える。
「これでわかったでしょ。アンタが好きな竜を殺すためだけに、あたしは生きてるのよ」
「…………なんて、言ったら良いか。……俺の故郷じゃ、竜は人間のパートナーとして……」
酷く落ち込んだ様子で消え入りそうな声になっていくカームを横目にルナリザは思う。もしそんな場所が本当にあるのだとすれば世界中に劇震が走るが、そんなことはありえない。世界地図の外からの大移動など一人の人間にできるはずがない。ジラーニが適当なことをでっち上げているだけに違いない。
「そう、それは良かったわね。でもあたしの故郷では違ったのよ」
がっくりと肩を落とすカームを置いて、ルナリザは席を立つ。最後に首だけ振り返る。
「アンタの心意気だけど、“サーカスをする竜騎士としては”褒められたものだと思うわよ」
「…………ありがとう!」
嬉しそうな顔でカームが笑う。皮肉で言ったつもりだったのに、なぜだか相手を良い気持ちにさせてしまったらしい。
呑気な田舎者から視線を外し、食堂から出ようとする途中で酒焼け声が耳に入る。
「――どうも失敗したのは若い女竜騎士らしいぜ。やっぱり女がやるもんじゃねえよな」
「偉業の日だってのにな。母竜機構の面汚しも良いところだ。おかげで班長も左遷らしいぜ」
空に投げ出されたときの感覚が蘇る。思い出すだけで、全身の鳥肌が立った。
ただ空を墜ちていくのは恐怖でしかなかった。声は一切出ないのに、涙は絶えず溢れ出る。心細くて、何かに頼りたくて、しがみつきたくて……無意味だとわかっていながらも宙を藻掻いていた。そんなところをカームに助けられたのだ。……そういえば、礼の一つも言ってない。
一連の失態はすべて自分の責任だ。だが、それを見ず知らずの連中に口出しされる筋合いはない。ルナリザはぎゅっと拳を握り表情を引き締めると、自分の失敗を酒の肴にしている一般乗船者に突っ込んでいき、バン! と思い切りテーブルを叩く。
「女の竜騎士で悪かったわね。言いたいことがあるなら直接本人に言ったら?」
男性二人は空いた口が塞がらず、脂汗を額から流し始める。
「い、いや、違うんだ。災難だったって話をしてたんだ。あのカームとかいうぽっと出の被害者じゃないか、お前さんは。人類未到の大陸を発見したけど手記は紛失した、なんて都合が良いにも程がある。どうせジラーニ総統の息がかかってるんだろ? ああいうヤツがデカい顔をしてれば、厳しい訓練をこなしてきた竜騎士たちの調子が崩れるのも頷ける」
「本人を前にした途端標的を変えるってわけ。品性を疑うわ。面汚しはどっちかしらね」
「……俺のこと話してる?」
ルナリザとテーブルの男性二人の間に、いつの間にかカームが立っていた。
「ルナリザの友達? どうも、俺はカーム。よろしく!」
カームが笑顔のまま、途方に暮れた顔の男性二人にそれぞれ握手を求める。
目を丸くしたルナリザが言う。「アンタ、正気……?」
「病気はないけど」
「そうじゃない。今アンタ陰口を言われてたのよ。何でそんなヤツらと握手なんか……」
「陰口と握手に何か関係でもあるの?」
ぶんぶんと手を上下させて、カームはぎこちない表情の男性二人とスリーショットでにっこり笑い合う。ルナリザにはその光景が滑稽なものにしか見えなかった。
「…………ヘンなヤツ」
ルナリザが立ち去ろうとする。いつの間にか男性二人はそそくさと酒場から消えていた。
「――待ってください!」
叫び声が酒場に響き――てくてく誰かが近寄ってくる。
「第七班所属の整備士長、チャルチル・アチャルチルと申します!」
瞼を強く閉じたまま踵を鳴らし、びしりと敬礼する整備士姿の少女が現れる。
「今回の件は……誠に、誠に申し訳ありませんでしたぁぁぁぁぁぁぁうわあぁぁぁんんん!」
「え? 突然何泣いてんのよ」
「じ、実は……、今回ルナリザさんを担当した整備士は養成学校卒業後に配属されたばかりの新人でして、極度の緊張から安全帯締め付けの点検ミスが出てしまいました。先日の出発セレモニーではわたしも舞い上がってしまっていて……OJTを怠ったわたしの監督不行き届きが主な原因です。後日報告書を七班の班長さんにお持ち致します。ですから今は、どうぞ、わたしの頭をお踏みください! 存分にフミフミしちゃってください! うぅぅぅ……」
床に頭を擦りつけて泣き崩れるチャルチル。小動物っぽい声がさらに悲しみを深くする。
養成学校卒業後に母竜機構に属した専門家たちは、出発セレモニー以前から数年に渡り実務訓練を行っている。とはいえ、先日のセレモニーが初めての舞台なのは皆同じだ。
「顔を上げて。あの事故にはあたしの失敗だって含まれてる。何もアンタたちだけの責任じゃ無いの。次から注意してくれればそれでいいわ……って伝えてくれるかしら、新人さんに」
「うう、なんてお優しいお言葉……流石は十四期竜騎士候補生の主席です! 心がお広いです。同期として……いえ、同じ女性として、昔も今も尊敬しています」
「えっ……アンタ、あたしの同期だったの?」
「ええ。密かに憧れていたんです! サインください!」
ここに書いてくださいと自らの作業着を示すチャルチルと、しどろもどろになりながらサインを書き込むルナリザ。その横で、にこにこした顔のカームが言った。
「ルナリザって優しいんだね」
「そんなつもりない」
サインを書き終わったルナリザに、チャルチルが憂いの瞳を向ける。
「わたしたち整備士は謂わば竜騎士さんたちのマネージャーのような存在ですから、日々のチェックに全力を注いでいます。ですが、細かな点検ミスの蓄積でご迷惑をかけることは正直に言うとあります。そのとき泥を被るのは現場の方々です。怒りの矛先がわたしたちに向くのは当然ですが、中には相棒であるはずの竜にあたる方も多いんです。でも、ルナリザさんは違います。相棒竜にあたることもなく、それどころか他の竜騎士に注意をしていましたよね?」
出発セレモニーのサプライズ・サーカス終了後、帰還した飛行場での光景はルナリザが最も嫌悪感を抱くものだった。「上手くいかなかった」「お前がノロマだから」と難癖を付けて今まで騎乗していた相棒竜に殴る蹴るの暴行を加える竜騎士がいたのだ。自らの失敗を認めず、他者を攻撃することで満足を得ようとするろくでなし共。竜騎士とは、そういう奴らでありふれている。そして自分も、そんな連中の一人であることに違いはない。
だから、称賛されることが心底気持ち悪かった。
「……知ったようなことを言わないで。ただあたしが不愉快に思っただけよ」
さきほどから大人しいカームにチラリと目を向けると、彼はじっとルナリザを見つめていた。
「ちょっと、何見てんのよ」
「あ、ごめん」
はっと気が付いたような顔になったカームは、チャルチルに握手を求める。
「自己紹介遅れちゃった。俺はカーム。チャルチル、これからよろしく!」
何度か見た握手上下ぶんぶんに振り回されながら、チャルチルが口をぱくぱくさせる。
「あ、か、カームさん……ですね。は、初めまして! セレモニーでのサーカス拝見させて頂きました。あの、あなたの飛び方が、わたしは……その……ええとっ……」
ぼそぼそと語彙の無くなっていくチャルチルの耳が端まで赤く染まる。その様子を横目で見つつ、ルナリザは「じゃああたしはこれで」とその場を後にする。
「あ、待ってよルナリザ!」
カームに手首を掴まれる。
「今度は何よ、しつこいわね……ていうか気安く触らないで」
「一度で良い。ルナリザには、何も考えずに空の散歩をしてみて欲しいんだ。嫌なことなんて……全部忘れられるから!」
「……忘れられる?」
一瞬、カームの言っていることが理解できなかった。しかし、すぐに考えに思いつく。
――根本的に違うのだ。生まれが。考え方が。価値観が。これまでの、人生が。
「何を言うのかと思えば……アンタってさ、思ったことそのまま口から出てない?」
ルナリザは掴まれた手を乱暴に振りほどいて、カームにぐっと顔を近づける。
「復讐を心に決めた人間の気持ちなんて、アンタには一生わからない」
憎しみを込めて囁く。何が空の散歩だ。自分の趣味を押し付けて良い気持ちになりたいだけのくせに。忠告はしたはずだ。それでも踏み込んでくる輩には最大限の拒絶をするほかない。
「あたしはね、アンタのことが大嫌い」
ここまで言えば、もう自分に近付いて来ることも無いだろう。状況がわからないチャルチルがカームとルナリザの間をおろおろしていた。
ふたたび歩みを始めたとき、ふと思い立ち踵を返す。
「……言い忘れてた。助けてくれたことには感謝してる。本当にありがとう」
「ルナリザ……へへ」
照れくさそうに頬を掻いて、カームは本当に嬉しそうな表情をした。
「永久に、さよなら」
「そんなこと言わないでさ、これから“同じチームとして”一緒に盛り上げていこうよ」
ルナリザの眉間に皺が寄る。聞き捨てならないことを耳にした気がする。
「……今なんて言った? そういえば、アンタ何班所属なわけ? 確か……班長なのよね?」
「第七班! だからルナリザやチャルチルと一緒だよ。例の報告書は俺に送っておいてね」
眩しい笑顔でまたもや握手を求めてくるカーム。ルナリザは急に先行きが不安になってくる。てっきり新たな十三班目が編成されるとばかり思っていた。なのに、まさか自分が引き起こした失態によってこの男が上司としてやって来るとは。
「……最悪」
ルナリザは頭を抱えて、仲むつまじく握手をしているカームとチャルチルを見据える。
「ね、親愛の印に一回握手しとこうよ。ルナリザ」
歯を食いしばることしかできない。巻いた種の責任は自分で取れということか。
* * *
食堂を出て、夕色に染まりかけた空を見上げる。肩までの不揃いな赤髪に触れて、ルナリザは黙考した。
――やってやる。どんな困難が自分に立ちはだかるのだとしても。
女であることを捨て、竜を殺すために今までの一生をかけてきた。そんな自分の意思がそう簡単に折れるはずが無い。
ぎゅっと握りしめた首飾りのロケットを優しくほどく。
「絶対に諦めないから……お姉ちゃん。どんなことがあっても、あたし、負けないから……」
純粋な笑みを浮かべるカームに苛立ったのは、どこか懐かしかったからだ。後先考えていなさそうな朗らかさといい、雰囲気が似ていたのだ。亡き実姉に。
青空と竜のサーカス、そして、人の笑顔を見ることが何よりも好きだった姉。世界から消えてしまった、一番大好きだった人。
――お姉ちゃん。“傷の竜”は……絶対にあたしが殺してみせるからね。
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