揺らめく真実
◇
その場で呆然と立ち尽くしたまま、イオンは今自分が降りたエレベーターを見つめた。鏡のように磨き上げられた扉が眩しい瞳の金色を反射している。
今、『エレベーターを降りた』のか——?
しばらくの間、自分がどこにいるのかイオンにはわからなかった。
周囲を見ると……オープニングライブをやったUWE本会場。ゼノリアリティ・アウトが起こったスタジアムへの連絡通路にイオンはいた。必要以上にも思える清潔感と寒々しさで、歩くと空しい靴音がする。一歩毎に空気がしんと静まりかえった。
「——」
途中、動く歩道が稼働していたのでそれに乗った。
どんどん先へ進んでいくが誰もいないし何もない。進んでも進んでも奥が近づいてくるだけ。異常な静けさに不安を覚えるが、進んでいくにつれ案外普段もこんなだったのではと思いつつあった。
背後を振り返っても誰もいない。歩道を下りると突き当たりだ。
そこにある——スタジアムの入場口は閉じていたが近づくと、三つある入場口のドアが音を立てて一斉に開く。
中に入ろうとすると全身が、空気の層に押し返された。
見えない壁を身体で突き破っていく——。
直後。重さが消えると背後で閉まった三つのドアがとてつもない音を鳴らし、背中から身体をはじかれる。
「!」
肩越しに横目で振り返ると、そこは既に……異界と化していた。理屈など通じそうではない。
現実の身体では刃が立ちそうもない、レリーフの魔物と警句が飾る静謐な大扉。精緻に彫り込まれた獣は地球上のどんな生物とも違う異星の混種で、警句の意味は『汝、その死を享受せよ』。
暫し硬直してからさらに先へ歩くと、照明の消えた天井が深く垂れ込めているせいで圧迫感のある円形の広大な内部空間。その中心。
スタジアムのステージに——あの蜃気楼が揺らめいていた。
「真実を知れば、君はどちらを選ぶだろうか。今まで通りの現実か、それとも——」
「!」
——いる。生気がない、靄がかった言葉を連続して呟くような声に驚愕した。それが目先の間近にいて、感覚が現実のままであることにも。
だが、思った通り。
ここにいなければいけなかった。彼は否、彼女はここ、即ち徳川真季人の家に。
それは可能性の問題だった。ポイントは、地球四周半の規模がある仮想世界を踏破し第九十九層にまで辿り着いた——〈ディスパッチ・マン〉、徳川真季人が暁遊生の仲間でもそうでなくても、彼にも彼の仲間がいたはずということ。
そして——『ゲームオーバーになると記憶を失う』というルール。第百層でイオンが対峙した、あの時。
——〈ブリストル〉の身長はわずか一四〇センチしかなかった。姿勢と目線でそれがわかった。最強無敵のアバターだろうと、蜃気楼の向こうには、それを操るプレイヤーがいる。身長からして多分、子供。
子供なら。ダイブ端末、ID、仮想ネットワークを利用する環境やあの世界に常駐する(対峙したあの時の状況からして、ブリストルは常に第百層にいる)時間を、他者に依存している可能性が高い。
幽霊など現代にはいない——だから、真季人の家に真季人の知らない誰かがいるなら、知らないのは真季人が記憶を失ったからで、それは彼女かもしれなかった。絶対ではないが。
そしてその通りだったが……さっきの。いつか見たニュースのフラッシュバックは一体何だ?
「——このリアリティは真に達する。今に厳密な現実などなくなり、全ての幻想が真実の現実となる! それは初め、君こそが望んだことだ。何故だッ……何故今君が、私の邪魔をするんだッ‼」
身体感覚は現実のままなのに。
今いるのが仮想世界なのか現実か、イオンには判断がつかなかった。突然周囲のスタジアムの座席が激しく揺れて無数の敵影がそこら中にポップアップ。
目を見開いて周囲を金色で照らすと、ターゲッティングされたことを示す赤いガイドラインが四方八方、上方——天井からも伸びてくる。
「⁉︎」
——この体感が、本物かどうかわからない。
近くの手すりを掴んで思いっきり引き寄せ、通路から観客席の並んだ列に転がり出ると、掠めるくらいすぐそばを突進してきた狼獣が座席を蹴散らしていきながらアイスシャンパーニュ・イルミネーションの髪を弾いた!
無意識に髪を触ると湿った感触がして、その体液が指を滴り落ちる。涎か血液か、獣臭を放ちながらどろどろとしているゼリー状物質。続いて獰猛な吠声。
次々と突っ込んで来る。段になった席列を駆けて突進を二つ三つ捌き、座席の座面の下に滑り込んで身を躱すと、〈ブラックラースインクリーター〉のUIをポップアップさせた瞬間——異形の金属槍が飛来。その席を地面の基盤部から破脱させ、ホログラムが形になるかならないかのウインドウを斜めに貫いたのは天井に張りつく大群。黒銀色をしたジェル塊、槍の発射点は頭上のそれ。
暗がりで蠢く様しか視認できないが——〈金属スライム〉。『体躯は全身筋肉である液状の金属、同じ金属質のみを捕食し糧とする彼らは常に明確な意志を持って人間を襲い、不幸な犠牲者の身に着ける金品を咀嚼していく。
撃ち出して来る異形の槍は彼らの獲物そのものだ。身体から獲物を切り離す程に、彼らは獰猛に糧を求める』……再構築されたウインドウに情報が表示される中、多数が天井を這いずって来るが、無酸素運動に耐えかねた身体が地面に倒れ込んだ。床面の冷たい感覚はリアルな、
「……っ⁉︎」
実感が在る——。
立ち上がると、体が真横から衝撃を食らって見当違いな方へ弾き飛ばされた。
「えっ」
まともに食らった四足獣の突進がイオンを軽く跳ね飛ばし、羽毛みたいに座席の間を二、三度バウンド。痺れて動けずそのまま仰臥していると、追ってきた獣が身体の上に馬乗りになる。
直後、その大口を開けた噛みつきに肩肉が食い破られた。プッツリと鮮明な音がして筋肉の腱が切れると——不潔な爪脚で地面に強く押さえ付けられ、首を引き上げた獣のかち合った歯と歯の隙間から、ぐずぐずになった自分の骨液と肉が噴き出すのを見た。
もう一度強く噛まれる——。
間髪入れずに何度も、何度もそれは続いた……。
四足獣が体液にまみれた舌を啜り、体の中に鼻先を入れて引き抜く度、汚れた生爪が強く肌に食い込む。
すぐに力が入らなくなった。
しばらくすると——より格上のエネミーである金属スライムが槍で狼獣を串刺しに。天井から降ってきたそのゼリーの体が投げ出した手足に覆い被さり、嫌な温度を感じたのも束の間、液状金属の筋肉が複雑なベクトルで骨を捻り、回すようにしていく……。
冷蔵庫の中にいるような、周りを同じ空気が循環している感覚——。
冷たさが重くまとわりついてくる。
無感覚で痛みはない、延々と虚無だった。
今あるものが全て本物なのか、自分の目が開いているのか、音が聞こえているのか。自分が生きて呼吸しているのかわからなくなる。
身体の何がどうなっている——か、不幸にも理解した途端全身の神経が唐突に目覚め、過敏になって暴走を始めた。麻痺が解けて激痛が迸る。かっと開きっ放しになった目が周囲を薄明るくした。
獣を撃ち抜いた金属槍は床へ根元まで突き刺さり、ざらざらした槍身が突き抜けていった胸腔は弾着の衝撃によって変な形になっていた。酷い高熱が出たときの急速な寒気、重さだけを感じる体が僅かでも動くと死痛がする。
「——。——。この世界は、」
「!」
心臓が高く鳴る度にドクドクと命が失われていくようだった。
異様なゾーンと化した周囲ではエネミーが大量出現し、金属スライムが体中の骨を折りながら腹へ、胸へ、眼球の光沢を目指して這いずり近づいてくる中。
順番待ちのように他の個体が次々に天井から、重い音を立てて降り落ちてきた。破壊された客席の破片がバウンドして散る。
「——深層へ達した。ここが仮想の最深部、このリアリティは全ての人類に選択を迫る!」
声が近づいてきた。
無数のエネミーの只中を敵対することなくすり抜けながら——滑るような希薄な足音が地面に振動を伝え、かすかな音が徐々に大きくなってくる。
来た……?
「選択は私が代行しよう。喜びたまえ! 何人たりとも抗いえない進化の箱が開くときだ。開闢は誰にも止められない。これこそ人が仮想へ追い求めた——理想なのだ‼︎」
——足音がもうすぐ間近に近づく。
何を言っているんだ。
いや、とイオンはふいに思った。
仮想現実に求めるものは、それは誰でも同じじゃないだろうか。
別の世界で別の自分。
こう在りたいと自分自身が望む姿で生きること。それが願いだ。
けれど現代ではそれは叶わない。仮想現実が現実となった現代では、仮想の自分も含めて自分自身だから。
「——」
人を小馬鹿にした腐敗汚物のグラフィティ——蜃気楼の霧を撒きながら、間近まで来たブリストルのアバターがイオンの胸に片足を乗せた。肋骨の半ば砕けた胸腔を靴底で踏み込む。壊れた骨が皮膚を突き破ろうとしてできず中で滑り、ゴボッと一抄いの血が犬の噛み跡から溢れた。
今の強烈なこの感覚は、絶対に現実のものだ。
現実にいる。
「なに?」
「範囲内だよ——そこ。待ってたんだから」
ほとんど無意識の内に、今のような状況になる可能性をイオンは心の片隅で考えていた。こうなってほしかったから、第百層にすぐに行かなかった。仮想世界ではなく現実のすぐ近く。至近距離なら——〈ブラックラースインクリーター〉の範囲内だ。既に、有効範囲内に新たな端末が現れたら自動的に起動するようセッティング済み。かっと光を放って、付近の端末をジャックするダイブ・ブースターモードが発動した。
【続く】
おまけ:思い出しエルデンリング用語集
ポジ槍——俺の愛槍、ヴァイクの戦槍の不名誉な渾名。基本的に産廃、対人要素なんかあるせいでモーションがクソ長、威力も微妙な本作の祈祷の中で狂い火の祈祷は優秀なのだがこれらもまとめてポジと呼ばれる。ビームで敵を誘く時、発狂狙いのビーム侵入が来た時、俺たちは元気に「ポジ! ポジ!!」と連呼していた(槍の戦技の都合上、俺が最もよくポジった)。
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