デストリップ

 ◇


「下りてくれ——」


 地下鉄から連絡して急行に乗り継ぎ、時間のせいか閑散とした降り口からそのままバスに揺られていくと、堆い山の直下みたいな停で『ここだ』と真希人が言った。

 セメントブロックに刺さった運行表を一瞥すると、今のが終発だったらしいバスは黄色の光で余韻を残しながら車体を揺らし、木々に埋まった路を過ぎていく。家まではここが近いというので原生林の中の石畳の道を通ると、やがて轟々と滝の音がし出した。殺されて死体を埋められるんじゃないかと思わされる景観だった。


 途中、塀に囲まれた家々の陰には侍でも潜んでいそうだったし琴か笛かの音が聞こえた気がしたが、石畳の間道を抜けるとエルメスがグランピング施設をやっていて幻想的な安心感があった。


「——ついた、ここが俺の家だ。一時間程かかってしまったか。家人はいない。俺一人だから、気兼ねせず入ってくれ……」

「いやッ」


 ・別件で家に来てくれ。

 ・助けてくれ——。


 何か裏があるかもしれない、と一応考えておくなら。

 あの世界の第百層、つまり——〈アビス〉を完全攻略することを阻んでいるプレイヤー達がいる。ブリストル、ウォーライン、霧穢早苗。

 では、記憶が消えるルールに関してなどイオンよりもずっと冷静に危険性を提示していた真季人が果たして、『そちら側の人間』でない保証は?

 その示唆に嘘や誘導はないのか——?

 アビスについてのモチベーションとやや断定的な姿勢は、『自分が二周目のプレイヤー』……つまり一度記憶を失って、再度一層から攻略してきたと思い込んでいるから(それが事実かはわからないが、二週目のプレイヤーがいることは他の誰でもない遊生が証明している)。


 で、遊生はほぼ確実に本当に記憶を失っているので。

 彼と一緒にアビスの層を攻略するのは無駄行動。


 助けを求める別件とは、本当にアビスとは関係がない可能性が高い。

 無視しようかとイオンは思った。だが何か。どれだけ自分に無関係だと言い聞かせても——。何か——。

 強烈な引っかかりがあった。広大な敷地を前にすると、その感覚はむしろ強まった。隣を見ると遊生が身を硬くしていた——〈VR女児服デザイナー〉、闇の深い斬新な肩書きを自称する彼は、己の感覚を確かめるように呼吸し、今はとてもそんな身分でいたくなさそうな表情で周囲を見ていた。

 目前、土塀の正門は瓦が敷かれ、木の大扉には黒鉄の環金具。門を前にして左手は崖になっていて、反対側は入ってすぐのところに土蔵が三つ並んでいるのが見えた。後方には三つを合わせて三階建てにしたような様相の倉がさらにあって、土蔵と倉との中間は清水が溜まりとなっている。


 清水は山の斜面から何本か滝となって落ちてくる。


 あの轟々とした音はここの敷地からしたものだった。正面——家の建物は母屋の大屋敷に別館をつないだもので、行き来のための廊下が見えるが、滝は一旦建物の裏へ流れ込んで滝壺と溜まりになってから左手の崖へ流れている。


「おまえ、それはッ——⁉ 何だ! 何かキメたのか⁉︎」


 だがそれよりもずっと手前に。

 すげえんだけど、そちらに在らっしゃるものは何ですか?

 門をくぐってすぐの所に——テント。キャンプ用のお一人さま向けなテントと、バーベキューコンロ。焚き火の跡。コンロはごく最近買ったものらしい。

 そういう痕跡があった。一行がそれきり言葉を失っていると、真希人が目を瞑ったまま、神妙な表情で首を振った。


「どこから話せばいいか。アーサーには、俺が都内の高校に通学のため、昨春より一人暮らしだというのは言っていたか。その暮らしている家が……ここだ」


 真希人がテントから折りたたみの倚子を出して腰掛け、未だにシリアスな顔をしたまま初めて上体を傾げ、腿に肘を乗せながら頭を押さえた。目が一瞬爛々と家(ではないらしい建物二棟)の方を見るが、そういう様子を見せまいとするかのように、二人にすぐ向き直る。無言で。


「くつろいでくれ——」

「——そっちでかよ⁉︎ いやありえねえ、正気を失ってるだろ! 家、家でキャンプ……何か事情あるんだろうけども‼ こっからどうすんだよッ⁉︎ エルメス行くかッ。おい、エルメス奢ってやるよ! ……プレオープンだ。サイト見たら、当日なしの完全予約制じゃねえかッ」

「待て——話を聞いてほしい。俺の実家は、代々酒造を生業にしていてな。酒造というのは許諾制だが、新たに免許が交付されることは決してない。排他的な閉じた世界だ。だから必然——廃業して倉を閉めるとなっても、居抜きのままでは買い手がつかん」


「それが……?」


「ここは、元々廃業した酒造家の家なのだ。充電は? 一時期は山林数十万歩を有する大家だったそうだが商売ができなくなり、廃倉したのを俺の先祖が買ったわけだ。買ったといっても回ってきたような代物、それきり何をするわけでもない。俺にとっては酒造所と兼ねた家があるだけ、なら使ってやろう。それで、住もうとッ。しかしッ」


 本当にこの事は——〈アビス〉と何も関係がないのか? イオンにはわからなかった。




「……この家には、悪霊が取り憑いていたッ」




 え——?


「今から話すことは、俺自身で記録を当たった事実だ。昭和のころ——つまり大昔の出来事になるが、この家で連続殺人事件があったらしい。ちょうど今頃の夏、七月の中頃から八月にかけて、動機は遺産目当てだ。一ヶ月に渡る計画的な犯行によって、この家と周囲で八人が死んだ。廃業したのは、そもそもそれが原因だったらしい」

「……連続だと⁉︎」

「だから、誰かがいるんだッ——今も、あの家に! 殺された奴の霊に違いない。俺が家にいると気配がする。誰も住んでいないのに、いつも……感じるんだ。あの家には何かがいるッ。ネタじゃなく、絶対に本当にいるッ」

「何かの間違いだろッ、オーケー⁉︎ わかった。わかったから聞かせてくれ? もう一度言ってくれますかね⁉ おまえ何つった……ここ来る前‼︎」


 額に汗をかきながら、館を前に話し込んだ真希人は椅子に戻り、イオンに真剣な顔を向けた。

 は?


「イオリアフレインならできるッ」

「助けろって言ったよな⁉」


 ……?



「俺は——イオリアフレインを信じているッ。イオリアフレインが最強だ。頼む。力を貸してくれ。俺の予想が正しければ、君なら幽霊にも勝てる!」



 二人が同時にイオンを見た。真希人が確信を持った表情で倚子から立ち上がったが、まるで心臓を掴んで止めようとするかのように、自分の胸辺りを掌で押さえていた——。

 イオンはイレギュラーであって天才ではない。複数のダイブ端末を同時に扱う異能力。分割した人格で個々に思考し、情報を統合し判断を下す。それは特異なプロセスであれど個々の思考、人格ごとの発想力が並外れているわけではない。しかし、その時起こったことは——イオンの胸中に去来していたのは、言わば一種の閃きだった。


「一九四八年」

「何だよ……」


 不意に、感慨深い気持ちになる。世間では、もう完全にVRのキャラクターなのだなと。生身の人間と思われていたら事故物件と対決などさせられないので。それも初対面で。


「——事件があった年だ。今年で大体一世紀になる。……この館は、中には手が入っているが建物は当時のままだそうだ。一〇〇年経って、周期で戻ってきたのかもしれん……」


 周期。いや。

 そんなことがあり得るのか? 本当に。もう一度考え直した。


「見ろ!」

「——え?」


 轟々たる滝鳴の庭、陽は山間に落ちて数匹の蛍が舞っていた。あれは存外に獰猛な昆虫らしく、蛍の光るのは恐れるものがないからであるらしい。今もちらちらしていた。

 しかし——その些末な燐光が晴れたかに見えた。真希人が上を指差す二階、母屋と渡り廊下でつながった洋館の窓が光っている。


「——」


 眩い窓光が音もなく途絶える。電気がついて——勝手に消えた。ぞっとしたように二人がイオンを見た。イオンはその時、しかし、彼らも窓も見ていなかった。

 自分の思考を振り出しに戻ってやり直す。そんなことが果たして、本当にあるのか疑っていた。金色の光が蛍より大きく、段々と目が見開かれていくにつれて。さっき、自分が何を閃いたのかわからなかった。


「見ただろ⁉︎ ……俺だけが⁉︎」


 けれど今はわかっていた。あの世界にはいつでも戻れるのに、彼を無視できなかった理由も今、わかった。最初から気づいているべきだった。だって彼はそうじゃないか。それは。状況は必ず行動から生まれ、そして行動には障害がある——ということ。誰であれ、障害を回避しなければ前にも後ろにも進んではいけない。

 その瞬間、唐突に意識が覚醒した。コアーズを調べる必要があった。しかし……今、全く別の可能性があった。あることを否定できなかった。


「——イオリアフレイン⁉」

「行くのか!」


 今まで得た情報を演繹する。推測で物を知ることはできない。欠けた知識は推理のしようがないが、ロジックとは——ゲームだ。そのコアにあるのは目的と行動に他ならない。目的がわかっているならば行動を推測することはできる。



 イオンは渡り廊下に直接上がり、明かりの明滅した棟の扉に手をかけた。

 順番に思い出す。



『俺たちは一層からここまで攻略を進めてきたが、俺を残して全滅してしまった——』



 一、遊生は言っていた。『あと一層、何があるか気になるだろう?』、『だから代わりに、ゲームを攻略してほしい』。

 二、反証。しかし、彼は——〈ブラックラウンド〉の管理者である。あの世界が、〈裏側のブラックラウンド〉なら、彼のゲームを彼が攻略するのはおかしい。彼自身は、あの世界を裏側と呼んでいなかった。

 三、あの世界には、複数の入場手段がある。アラン・プラデシューの端末など。


 ——入口をつくっただけ。

 暁遊生は、ブラックラウンドの管理者であって、彼のVRバトルロイヤルゲーム・ブラックラウンドことコアーズ10041の中に、あの世界はない。

 その後、彼はどうしたか?


 ・記憶を失うルールを利用して退場。


 ここで問題になるのが、『ブラックラウンドの出来た時期』だった。現実の日時ではなく——遊生がそれを完成させたのが、あの世界に行った後なのか否か。ゲームに入口をつくったのか、作ったゲームに入口が偶然できたのか?


 前者であれば彼は意図的に自分自身のためにゲーム全体を設計していて、その振る舞いは『ブリストルを倒す』——であると思われる彼の目的に符合する。

 あらゆるVRMMOからアバターをコンバートさせ、能力を奪い合うバトロワで最強のプレイヤー/アバターをつくりあげる。あの世界はゲームの一部——〈裏側のブラックラウンド〉に見えるからプレイヤー達は送り込まれても疑わない。

 ここまでは正しいはずだが、彼は……しかし。いつそうしたんだ? ——肝心なのは、その先だ。


 一、俺たち、という複数形の言い方を彼はしていた。俺を残して全滅してしまった——と言った。『最後の敵を倒せなくて』とも。けれど、果たして——〈ブラックラウンド〉はその時、そのためにつくられたのか?


「開いてる?」

「鍵はかからん仕組みだ……ッ」


 扉を開けると空気の冷えた館の中は、しんとした静寂が堆積していた。階段を上がり、電気が先程明滅した部屋へ向かうと、廊下の真ん中でイオンは足を止めた。


「来なよ?」


 では、遊生と一緒に全滅したプレイヤーとは、果たして、誰か?

 それが最初の閃きだった。あの世界——〈アビス〉には当時、今とは違う入口があって多くのプレイヤーがいたかもしれないが、遊生と全滅するには最終層に到達しなければ無理だ。

 一方ここに、第九十九層まで行ったらしい人間がいる。ディスパッチ・マンこと徳川真希人は『来たことがある』、『覚えている』と言っていた。


 だから真季人が仲間だった——とは言えない。しかしどちらにせよ、第九十九層以降で退場した彼もその時、一人ではなかった。彼にも彼の仲間がいた。

 絶対に。何故なら……余りにも広過ぎる。あの世界の規模は地球四周半。一度でもゲームオーバーになれば終わり。

 一人で攻略することなど不可能。ブラックラウンドがつくられたのも……ブリストルではなく、あの世界を攻略するためであったはず。

 そして、最後の飛躍。



「いるんでしょ? 配信つけてもいいかな」



 イオンは彼女に呼びかけた。


「グッッ——⁉‼」

「……えっ」


 だが思った通りにはならなかった。

 突如、真希人が苦しみ始めた。後ろにいた彼は先程から胸を押さえ、荒い呼吸をしていたが、(それは極度な緊張のせいだろうと思っていた。イオンだけが知っている多くのことを彼は知らない。純粋に幽霊の仕業だと思っている)絨毯に片膝と掌、額をついていた。

 一度跳ねるように痙攣し、伏せると後は静かになる。

 急に思い出した——。


『——本事件のそもそもの発端となった通信障害は、今月に入ってから多発している精神失調症との関連も噂されています。本日は専門家の方に——』


 反動を伴って、手の中に方形が現れる——〈イマジナリーキューブ〉。イオン以外の人間には触れることも見ることもできないそれは、記憶を失う前の遊生から最後に渡され、何らかの機能を発揮した場面はないが、これが何であるのかイオンはわかっているつもりだった。

 ……精神失調症?

 その事を何故、どうして突然今思い出したのか。


「俺が——ッッ。クッ、霊障かッ。これは、いや違う……!」

「うん……。うん。違うと思う。平気? パンツ見る……?」


『極端な無気力状態ということになります。全く突然に精神性、つまり自発的な行動や思考、刺激に体する反応が失われたように見える』


 一瞬間、記憶を追体験していた。


『外的な刺激には何の反応もしない。まだ生きているにも関わらず、死んでしまったと本人が思い込んでいる』

『まるで——本人が自分自身の意志で、人間であることをやめているような状態です。ただよく言われているように仮想現実化社会や、ダイブ端末について関係しているならもっと早い段階で発見されているはずで』


 自分が見ている景色が急にわからなくなった。


 ◇


 ——キンッ、という音で目が覚める。夢を見ていたのかとイオンは思った。だとしたら、どこからどこまでが夢だったのかわからないが。

 見れば前方には透明なパイプ。今降りたのとは別のエレベーター二機が中空を行き来し、消音化された駆動系の音をいやに大きく響かせていた。さっきの音は背後で扉が閉じた音だ。


【続く】

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