現実でもゲームオーバー


「ボクと現実で会ってくれない? 聞きたいことがあるんだけど、これ以上ログインしてられなくて、もう二度とここへは来られないから——」


 この端末を使えるのは今だけだ。この端末でしかログインできないイオンだが、一方二人は知っている。実際に中にいたのだから、例の世界への入り方を。

 ——殺したと思われているかもしれない。

 仮想と同時進行する厳密な現実の方では、イオンが両手を背中に回すと警官隊の一人が樹脂製の拘束バンドを装備品から取った。気絶したのか死んだのか、アラン・プラデシューは床で仰け反ったままだ。何故仰け反ったまま?

 白いバンドが嵌められ、硬く絞られて固定される。

 突入した瞬間のあの動的な緊張状態は、イオンが霧散させてしまった。

 今、そこでは全てが——緊張が解かれて尚忙しなく乱暴な足音を立てている彼らから時折向けられる視線も含めて、全てが、医者と患者の間で当たり前に行われる処置とその後の手続きみたいだった。だが、だからこそおかしかった。

 どうして放置されているんだ。

 地面に両膝をついて茫然自失している彼は、一目で異様な状態とわかる。

 自分の意思でそうしているとは到底思えない天を仰ぐ無理な体勢、少なくとも意識の失調がある。こういう場合、救急医療が手配されるのが道理だろう。

 突入してきた警官隊は彼を全く無視しているようだった。無視しているように見えるのではなく、無視していた。VRの方でディスパッチ・マンとアーサーに別れを告げることはできず仮想の五感が引き剥がされ、受け取ったばかりの『eVR:SplitCrest』がその場で押収されていく。


 アラン・プラデシューのダイブ端末——唯一のログイン手段。

 あのデバイスは、イオンが自分の行動と諸々を証明するため今までドローンで撮影し続けていた、一連の映像がある限り(今、それは五分割されてARヴィジョンで再生されていた。『こういうことがありましたよ?』と彼らにも一目でわかるようにするために)、戻ってくることは絶望的だ。重大事件の容疑者の持ち物なのだから。

 つまり容疑者を無視して証拠品を押収しているのだから異様だ。

 だがその時、急に——。



「ああぁぁああああぁああああああああッッッ⁉‼」



 絶叫が上がった! 凄まじい、自分の中にあるものを——それは感情の上澄みだけではない、全て底攫いして吐き出すかのような震撼が奔り、驚いてややバランスを崩しながら見ると、背中側に仰け反った顔のこちらからは見えない反対側でアラン・プラデシューの瞼がかっと開いたような気配がした。

 何故だ?

 疑問が決定的な確かさになる。・ダイブ端末が押収されるのはわかっていた。・今しかなかった。

 特殊警官隊による屋上からの懸垂降下強襲。今、このビルに強行突入が行われた原因はイオンではなく(ここにはただ居合わせただけで、ここでは何もしていないのだから、今はそんな大それた作戦で身柄確保を試みられるはずがないのだ)、大規模通信障害の方だ。


 あの世界にログインできる唯一のダイブ端末は、アラン・プラデシューの端末だからこそ押収される運命にあった。確保目標——問題の根源である彼が唐突に叫んだのは、誰の目にも異常な出来事であるのに関わらず、未だにそのまま放置されている。

 間もなくしかし、全く別人物の同じような絶叫が果てしない遠くから鋭く聞こえた。物理的な距離ではなくリアリティと次元に隔てられた、剥離しかけた仮想の五感で感じた声は——〈ディスパッチ・マン〉と名乗った、あのアバターのだった。


『……グゥ、ッッ』


 件の端末は警官に押収されたが、まだごく近くにいる。まだ電源が入っている。微かにつながっていた感覚の中で、遊生が驚愕し慌てる声と、我を取り戻したらしい男の荒くなった息遣いが聞こえた。がたり、と現実で倚子が倒れた。

 立ち上がった——?


『アラン・プラデシュー……まだ、そこにいるか? 俺たちは今、第九九層のボスフロアに移動したッ。アーサーも、聞いてくれ。俺はずっと黙っていたことがある。よもや、おまえも同じことを思ってはいないかとッ』

『何がだよ……ッ』

『先入観を与えたくなかった。既視感があるんだ。俺はこの世界を知っているッ。ここに来たことがある! 俺は、俺を————』


 ——誰が?

 音を立てて倒れたのは、床に崩れ落ちる前に彼が腰掛けていた豪奢な倚子だ。

 条件反射で身体が反応し、弾かれるようにバックステップしたイオンが自分自身を制御できずタイルに激しく尻餅をつくと、すぐ背後に壁があった。目前の床を、肥満男がうめき声をあげ両手の拳で何度も何度も、繰り返し叩く。

 立てなかった。その勢いに圧倒されて。


「私は誰だ……ッ、君は誰なんだ⁉」

「⁉」

「私は君を知っているッ。だがっ、何なんだ。何もわからない。私は何故君を知っているんだ……? 私はッ。何故ッ、何故何故何故⁉ 私はッッ」


 これは——? アラン・プラデシューはあの世界からログアウトできなかった。彼自身が、そう言っていた。時間の流れが不安定なあの世界では、体感時間が現実よりも長くなる。ゲームオーバーになった時のルールにより、失う記憶が多過ぎたせいで錯乱しているのか。

 だが、未だに彼は無視されている。ここまでしても。

 周囲の視線は壁に背中をぶつけたイオンを見るばかりだった。今、立ち上がるのが早いか、一直線に突っ込んできたアラン・プラデシューを警官たちは誰一人として制止せず——降下してきたのは一六人いたが四人置いて他は既にこの室の外へ向かった——見えていないようだ。

 室に残った四人は扉を固めながら、ただ淡々と不気味に、居心地悪そうにしていた。


「私はッ————ッッ、〈デッドサイレンス〉だ‼」

『——俺をッ』

「本気でゲームやり過ぎだよ⁉」

『俺をッ——返してくれ! 頼むッ……思い出さなければいけないッ。約束なんだ。確かに俺は約束したんだ……俺はッ』


 アラン・プラデシューはゆらゆらと立ち上がると、装填されているのは暴徒鎮圧用の催涙弾だろうが——本物の擲弾発射筒とSMGを携行した四人の特殊警官の間をすり抜け、そこの扉を幽霊のように開ける。シールドに隠された隊員の顔が凍るのが見えた気がした。

 わかった。彼らには、全く認識できないのだ。

 ブラックラースインクリーターを起動、立体映像を描画し催眠がかったような空気の中をイオンは突入時に割られた窓の方へ歩いた。ローターの仕込み刃で手のバンドを切断する。


「じゃ——」

「⁉」


 今、何が起こったんだ? 警戒を解く様子はなく、つまり今も突入作戦を継続している警官隊の確保目標はアラン・プラデシューだったはずだ。それが完全に無視され、去っていった。

 ここで起こることは全て実現可能な物理的現象、ここは現実、どんな魔法も存在しない。ホログラムのフードマントを再構築すると窓からイオンはダイブした。


「‼ 待てっ」

「いいよ。少しなら——じゃ、そういうことで。証拠映像があるから、ボクは絶対無実だしね」


 ダイブさせたのは当然、立体映像だ。

 日常生活——。

 この手の状況には慣れたもの。警官が窓に近づきかけた間に本体は普通に扉から出た。背後を見もせず、それが閉まると紫色の電鎖を周囲へドーム状に展開。電子部品に干渉し、置き去りのドローンをロストした引き換えに、自動ドアの開閉機構も一時的に使えなくする。

 そのまま廊下を一直線に進んだ。もしかしたら、イオンにしか見えていないのだ。キューブを持つ人間にしか見つけられないとしたら? だが、既に下りてしまったエレベーターには追いつけない。デッドサイレンスとは二度と会えなかった。代わりに——ビルを出る直前、外の様子を確認しようとダイブ端末で配信映像を見ると、聞き慣れない言葉に無意識がピンを差した。


『——本事件のそもそもの発端となった通信障害は、今月に入ってから多発している精神失調症との関連も噂されています。本日は専門家の方に——』


 これが見えた原因か? と手の中で方形を弄んでいた。証拠はなく、決め手にも欠け、断定することはできないが、イマジナリーキューブ——鮮やかな虹が封印された、完全に透明な立方体。イオン以外の人間には触れることも見ることもできない。捨てることもできず、手放しても戻ってくる。

 さしたる機能を発揮した場面はこれまでないが、これが何であるのか。これがあることが何を意味するのか。イオンはわかっているつもりだった。正体の見当はついている。だが、ひょっとしてアラン・プラデシューを見ることができるようになるアイテムなのか? そう考え、ありえないだろうと判断したところだったが。

 ——精神失調症?


 ◇


『脳死というのは、脳というたった一つだけの臓器が機能を停止した状態です。この状態を死亡と定義するとしても、心臓や他の臓器は生きている。昨今、精神失調症と世間で呼ばれている本症状はこれと明確に違う。脳も生きているわけですから』

『というと、機能停止しているのではなく——?』

『動かそうとする意志がない。極端な無気力状態ということになります。全く突然に精神性、つまり自発的な行動や思考、刺激に体する反応が失われたように見える。そんな状態になってしまう。ですが本症状の場合、繰り返しますが脳は完全に生きています。それも——類例のない奇怪な脳波が測定されている』


 は?


『外的な刺激には何の反応もせず、まだ生きているにも関わらず、死んでしまったと本人が思い込んでいるような。そんな状態なわけです』


 聞いたことがなかった。歩みを止めると——仮想現実、ダイブ端末との関係性を指摘される精神失調症という疾患が散発している。だが、仮想が原因であるならもっと早い段階で発見されているはずで、本症状が初めて現れてから現在までに起こった最も印象的な出来事は、『アラン・プラデシューによる通信障害』ではないかと結ばれて配信が、空撮映像に切り替わった。

 今目の前にある景色が、上空視点で画面に映る。非常線の前に詰めかけた群衆の最前列に鮮烈な色彩が一滴垂れているようだった。同時に、エントランスから一歩出た自分の姿も空から見ると、イオンは信じられない事態に直面していた。


 雨はとっくに止んでいた。

 ずっとそこで待っていたのか——?


 灰色に濡れきった夜の群衆の中に、ほんの一匙程の青空があった。鮮やかなコバルト色で内に青空を描いた雨傘を差し——八歳か九歳くらいに見える痩身の童女が浴衣姿で、エントランスから出てきたばかりのイオンを“見た”。


「——会いたかったよ。有名人でも現実で会うのは難しいね、あっという間にすむ用なのに」


【続く】

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