蜃気楼の怪人、手と手を繋ぎ合う空


 彼方に見えたオブジェクトが何であるのかイオンにはわからなかった。

 ただ、それは今出現したのではなく可視化され、あることは初めからあったのだと思う。

 起点は水平線上の海面にあり、そこから発せられる収斂した光が夜空に達すと、網目状にどこまでも広がっていく。

 枯れることのない月の涙が溜まる聖杯と、それに繋ぎ止める楔を思わせる光景。だが見上げると、網目状の薄膜はイオンの頭上の空も覆っていた。


 今、雨が降ってきていた。その雨滴は空気中の水分ではなく、つながりあったり、途切れて先端になったりしながら有機的に蠢く網目の肢が膨大な量の粒子を無音で放出しているのだった。

 次々地面に当たっては飛び散る粒子の滴は、精液のような濃度で降り注ぎ、飛沫は赤色で淡く光っている。起点に向かってイオンが歩くと、赤潭色の絞首死体は血の浴室に吊られているかのようだ。


 空の彼方には、ほんの微かに第二五層の地面が見える(この世界は球体でも平面でもなくメビウスリングの形状をしている)。

 空を覆う網目状のオブジェクトも、その起点である光柱も、不安や恐怖を煽りはしないが、それが特定の何とはっきり形容できない異質感——遥か遠くに見える第二五層との間には二重になった網目がある。


「————」


 ——メビウスリング。つまり一直線である仮想世界中が、第百層を起点とする光の肢に覆われていた。

 これは何なんだ?

 ……さっきのアバターは無差別な感じがした。イオンを狙ったのではなく、この層に侵入したプレイヤーを端から襲っているような。彼女にも見えていたはずだと、思考が進んだその時だった。


「! ——」


 水溜まりと雨に残像のように映る絞首死体の潭色。

 空中の網目、光が輝きを増した刹那。

 ——イラストリアカノンを装備したままだったせいで、分厚い雲のように周囲へ形成されていたダメージフィールドがぞわりと蠢くと、その向こうから何かが突っ込んで来た。

 八重に繰り出された剣閃を橙色のエフェクトが弾き返して交錯、発火。

 瞬間、空気が灼けるのを見た。

 猛烈極まる剣速が生んだ擦過熱によって空気中の微細な雨塵が一瞬にして燃え尽き、八重の軌跡が赤くフラッシュ。

 急振動した地面を軸足が離れ、空中をノックバックして何回転もすると、黒く波打つ一枚板の道路が迫る。頭からバウンドして転がると、視界前方に立ち込める白煙は砂塵ではなく沸騰した雨であり、湯気だ。

 影すら捉えられない速度で突っ込んできたのは。


「あっ……」


 見ると、そこには怪人がいた。

 前後に足を大きく開き、肩を落とした前傾姿勢。不自然なその背筋を正せば身長は二メートル程にもなるか。

 目に見える空気の揺らぎ。光を異常屈折させる靄状のパーティクルが蜃気楼のように、その全身を覆い尽くしている。片手で軽々と振り回してみせた身の丈程もある両刃剣は、異様に鋭利な刀身が仄かに光る重鋼で構築されていた。

 それを持っていない片腕は機械仕掛けの義手、モジュール装甲が付与された腕は巨体に比しても巨大で、バインダーには無数の投剣がキャリーされている。


 蜃気楼の被覆と、黒い衣装に黒の塗料で描かれているので見にくいが——固い個体からつながって徐々にやわらかな液状になる排泄物、腐敗した汚物のグラフィティアートが先程の交錯で見えた。

 リアルではなく塗り潰しに近いシルエットだが、描かれているのが汚らしい人糞であるとはっきり認識することができる。


「……誰?」


 何だ。何者だ。雨に霧散せられていく白煙に視線をやりながらイオンは思い切って尋ねてみた。本来、名前など一々気にするものではない。

 そもそも——ブラックラウンドではアバターの頭上に名前は常に表示されている。あの和服時々黒翼にも〈Kyrie〉という名前があった。しかし、今。


 今、現れたアバターの頭上には、あらゆる種類の文字という文字が入り混じった、読めないでたらめな配列があった。

 神速。


「——。——。————」


 耳障りな息遣いがしたかと思うと、全身が思い切り吹き飛ばされる。

 ビル側壁に着地と同時に召喚シークエンスを実行——リング状のインジケーターが表示されるのにやや遅れて、イオンにとっての地面が波立ち、粉々になった硝子が一面弾け飛んでいった。

 仮想の煌びやかな都市光を欠片と欠片が反射する。

 召喚した——〈ヨイノユキハナver666〉を目前で一振り、槍のように撃ち込まれてきた特大の瓦礫を擦りながら紫電を噴き出すと、遠くで淡く光る剣刃。


 擦過熱が精雨を白煙にしながら、空気の層を円に破る。

 投擲された剣が爆衝。


 その刃が大気を震わすと、衝波は連続して体を突き抜けていき、瓦礫を防御したときの何倍も強烈な反動がみしりとバスターソードごと歪めかける。

 紫電が爆轟、弾かれた刃に勢いがついて錐揉み半回転した体の何十メートルか下方、さっき弾けたビルの四方で側壁が連鎖的に爆発すると、硝子の晶片は上昇気流で噴出し、光網の狭間に月が見えた。月は、この世界にもあるのか?


「見てな、爆ぜろ——〈ブラックレイ・フラッシュ〉ッ!」


 ゲームなんて情報処理に過ぎない。純粋な戦いではないのだ。競っているのはその速度と——限られた情報量を処理できない形に構築するセンス。

 そして、ここブラックラウンドでなら自分で考えた通りのことができる。

 だから楽しい。

 イオンが対角のビルへ背中から強烈な速度感で突っ込んだ直後、黒の針弾を全身に直撃した相手は突進の勢いを削いだ。

 一秒にもならない刹那、時間が加速した交錯の瞬間、突進を躱し紅い火花を散らして直蹴りを放つと、同じ威力に減衰させた両刃剣の裏刃とぶつかり反動、雨を破って双方がそれぞれ突き抜ける。次の一手は、


 インジケーター、MAX——〈詠唱許可〉。


 殺す。


「〈召喚——深淵に眠る隷獣よ、幽冥の府の天蓋を破り、根の国を超えて現れろ。食らい潰せ〉」


 一体どこの誰なんだ?

 どこまでこちらについて来れる。

 空中でシークエンス完了、即キャスト——ブラックラウンドで得た召喚スキル。

 垣間見えた月が砂煙に撒かれた。

 景色が遠ざかっていく。

 切り抜けてから四肢が、次のビル壁に到達するまで体感では何秒かあった。推力が重力になってる一瞬間に駆け上がり、屋上床面についた反動で弱バウンド、肌でピリッと電位のようなものを感じた刹那。伏せた姿勢で目をやると、戦術核の爆心地を思わせる堆い白煙の入道雲がさっきまでいた辺りにあった。

 だが驚くべきことに、既に敵はすぐ間近にいた。頭上、首狩り狙いの一撃のまま剣を突き立ててブレーキ、フードが擦って火花を散らす。イオンが身を翻すと、ほぼ同時に着地し突進体勢を整えている。


 蜃気楼の怪人が至極ゆっくりとしたスローモーションで両刃剣を僅かにテイクバックした。目前に踏み込んで来た敵と——〈イラストリアカノン〉、——〈ヨイノユキハナ〉の二刀切り替えながら撃ち合う。

 神速一閃、二閃、三閃。——⁉︎

 漆黒の刃が残像すら見えない速度で四度振られ、刀身半ばを真っ二つにされたヨイノユキハナをロスト。片腕が衝撃で頭上まで跳ね上がった後方、はるか彼方で——蒼いダメージフィールドを突き破っていった余波が何らかの巨大な構造物を剛断して炸裂。

 そのエネルギーは対象を破壊するのみならず、余りの剣速によって生じる超高熱で煙と火線を揺らめかせた。地に堆積し舞い上がる粒子が散火する。斬閃軌跡に炎を迸す剣撃は、一瞬にして万物を熔解させながら絶ッ。一体、どうやっているんだ?


「ところで、あと五〇秒だよ?」

「——。——。————」


 手放したヨイノユキハナが空中でフラグをリリース——すると蛇が獲物に巻き付くかのように。爆裂寸前のフラグの周囲を、裏へ跳躍した本体が回転、超高速のバレルロールのような軌道で減速すらせず回避する。振り回されるまま刃が扇状に赤く軌跡を残し、途中で軌跡が螺旋となって大技の予備モーションを描く。

 全身が浮き上がる感触がした。

 足下、突き上げのような縦軸の激震、周囲にハウリングが響く。地の底から、まるで地獄そのものな咆哮……強烈極まるがために質量波となったその音圧が、敵の剣閃を弾き返す。隣のビルに叩きつけられた敵が巨大な腕を壁に食い込ませ一振り。

 殺到してきた瓦礫のオブジェクトが一瞬で粉々に粒子化して消えた。“それ”が現れる瞬間。反動で体が浮かされた直後、出現と同時に周囲へ発生する攻撃判定が当たって、爪を側壁に再度叩き込んだ黒のアバターがイオンの視野外へ吹き飛ばされていく——〈屍竜皇リンドヴルム〉。


 地の獄へ幽閉された白き獅子貌の竜皇、その屍骸。眩いばかりの黄金の煌めきに目が眩む。

 地を割って現れた凶獣の全身には、金色に光る鎖が絡みついていた。それは屍骸を引き戻そうとしているのだ。

 元は壮麗な白き獅子竜——だが今や現れたその姿はまるで得体の知れない生命の蟲毒。首から上は頽れて無く、黒光りする半腐敗した胴袋は獅子でも竜でもなく蛙に見える。

 一刹那だけ撓んだ地面が次の瞬間大きく弾むと、衝撃波が環状に広がり、赤熱の津波を生じさせた。直撃すれば万物容易く擂り潰す超絶の火力も怪物はただ一歩前に歩いただけ。攻撃ですらない。その一歩で、怪物の全身を繋ぎ止めていた鎖は全てが千切れる。


「〈ライトニング・——」


 懐に飛び込んでいくと敵がすぐ目の前で両刃剣を先に振り下ろしていた。

 刀身が粒子装甲のシールドに食い込み、砕る。

 デッドライン——サークルが一線に尽く。視界の片隅を占有していた簡易マップ、コンパス、装備変更のコンソールなどがロスト。銃弾程度の被弾であれば電圧によって焼き尽くし、剣戟を受ければ粒子層の硬化によってノックバック、HPとして機能する斥力システムが完全機能停止して、次の被弾は生身に受ける。

 斬り抜けて。

 今振り向いて、背後になった正面で、怪物の前腕が一際に強く光った。叩きつけるがごとくリンドヴルムの腕が振り下ろされ、衝撃波が地捲りしながら迸ると、赤熱した波動が一瞬で空間を圧してくる。

 弾丸の如く飛翔してきた投剣を掴み、それで放った多重複合刀技スキル——〈ライトニング・ウォー・レイド〉。

 その飛び込んでの初撃は反撃を食ったが敵のシールドも削っている。


《——今からでも入れる保険があるって知ってる? お値段お手頃、保証はばっちし。ブラックラウンド生命保険。なんとなんと負けても失うレベルは半分! アイテムも全部戻って来るし、一度だけ蘇生費が無料だよ♪ 入ってくれれば相手もきっと助かるんだけど。気兼ねなく殺せるからね》


 瀕死になった時に流れるナレーションをイオンは久しぶりに聞いた。

 その時正に、信じられない思いだった。

 この世界で自分にここまでついて来られる相手がいるなんて。驚嘆すると同時に、何とも言えない感情が胸中に湧く。

 断続的な頭痛は未だに続いている——別人格を仮想へ切り離せないがための過負荷。痛みだけならいいが、同じ理由でイオンは現在……このゲームを、本気でプレイできていない。

 相手が何をしているのか、その論理も原理もわからなかった。別人格を並列思考に使えないために看破できない。繰り出される一手を場当たり的に凌ぐのが精一杯になっている自分が悔しいというか、何というか、こんなに普通じゃないのだ。

 本来なら。仮想現実が現実になった現代の、選ばれし者(だとイオンは思っているし、そう云われてもいる)として、果たして完全な自分が相手であれば、この相手は何を見せてくれるのか知りたい。否、知りたかった。


「——。——。————あと三〇秒。足りなかったな」


 背後からの熱波すら片腕で薙ぎ払われ、生身でダウンしたイオンの胸から首筋をつーっ、と両刃剣の切先が撫でた。結局何もできなかった。手傷を負わせたのは蒼いダメージフィールドだけ。

 敵はそう言いたいらしいが。両手を上げて見上げると、蜃気楼の奥には銀色をした無貌の仮面。貌のない貌にイラストリアカノンの蒼光と自分が映り込んでいた。マントのフードが半壊し——何も持たない今の自分が。

 するとその瞬間、敵がはっとしたのが手に取るようにわかった。両手を上げて降参のポーズ、イラストリアカノンを放棄している(=今、手元にない)にも関わらずフィールドが健在であることに驚愕した両刃剣、白煙を撒いてテイクバックするが既に遅い。ここまで全て予定通り。


「——いつでも撃てたよ?」


【続く】






 私信:もう絵にしたい

 追記:ちんちん! ちんちん!!(発狂

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