第16話

  ※6


 カイリが会場を先に抜けたと、小百合から報告を受けたサトルは何も迷わなかった。

 後を小百合に任せて、その足で向かったのはカイリのアパートだ。

 気に食わないことがあると、カイリはこの狭い部屋にこもる。

 灯りのついた部屋を確認してタクシーを降り、鉄製の階段を二階へ上がった。

 会いたくない、追われたくないと思っていれば、海へ出て行くカイリが陸に留まっているなら、会いに行くのがサトルの仕事だ。話を聞けと自分から言ってくる恋人ではない。

 壊れたままの呼び鈴は鳴らず、扉を叩いてからドアノブを回すと鍵はかかっていなかった。

 1LKの部屋に入ると、玄関に上着が脱ぎっぱなしになっていて、奥の部屋にはビールの缶がいくつも転がっていた。投げ出した足が見える。

「カイリ、風邪を引くよ」

 思わず靴を脱ぐのをためらう部屋にあがって、サトルは壁にもたれて寝ているカイリに近づいた。カメラの機材がぎっしり押し込められた納戸のような狭い一室だ。少し前まではここに万年床が敷かれていた。

「パーティーは? 終わったんか?」

 眠そうな目がとろりと開く。子供のような仕草が愛しくて、サトルは目を細めながら傍に寄って膝をついた。

「抜けてきた。俺が主催でもないし、いいだろう。一通り挨拶も済んだ」

 言いながら部屋を見回して、息をつく。

「飲みたいだけ、飲んだな。ダースは行ってるんじゃないか?」

 ビールの缶があちこちに転がり、そのどれもが飲み干した後だ。

「ビールやから、すぐに抜ける」

 言いながら伸びてきた指が、サトルの長い髪を摘まんだ。引っ張られて顔を寄せると、髪に口付けをしたくちびるが近づく。

 キスをしながら、サトルはカイリのうなじに指を添えた。

「何をすねてるんだ」

 くちびるを離してたずねると、真剣なまなざしが目を覗き込んでくる。サトルは笑った。

「ヴィヴィとの話、盗み聞きしてたんだろう」

 あのタイミングで帰ったと聞いて、だいたいのアタリはついていた。そんなことでもない限り、サトルが無理やりに連れて来たわけではないパーティから逃げ出すはずがない。

「拗ねてるわけやない」

 そう言って視線をそらす横顔が、もう拗ねている。

 サトルは笑ってしまいながら、カイリの顔を覗き込んだ。

「色っぽい話は何もしてなかっただろう?」

「あー、そうでしたっけ?」

「聞いてたんじゃないのか?」

 からかうように笑いかけると、ちらりと視線を向けてきたカイリが酔った目を細めた。

「聞いてた。柱の影に、ヤモリみたいにピターっとくっついてやな。聞き耳立ててたよ」

「じゃあ、おまえが拗ねるようなことは何もないじゃないか」

 じっと見つめてくる目の表情が揺れた。

 カイリの背中と壁の間に足を差し込み、もう片方の足でカイリの足をまたいだ。横から抱きしめる体勢で背中に腕を回すと、カイリは何も言わずにうつむいた。

 重い息を吐き出して、そばに置いてあったビールを一口飲む。

「ヴィヴィの言うことは間違ってへんやろ」

「うん?」

「俺とお前は釣り合ってない」

「おかしなことを言うんだな」

 サトルは笑い飛ばした。そんなことを気にするカイリではないとわかっているからだ。

 しかし、カイリは硬くした表情を緩めようとはしなかった。

「確かに、俺もお前も男だな」

 冗談めかして口にしたサトルを振り返らず、カイリは視線を下げたままで声を荒らげる。

「そういうんやないやろ。違う」

 わかっているくせに、わからない振りをするなと言わんばかりの苛立たしげな口調に、サトルは口をつぐんだ。

「おまえのことが欲しいヤツはいくらでもおるやろ。……それはそうや。おまえの昔からも知り合いが、町医者やりながら、俺みたいな男の面倒見てるなんて知ったら、度肝抜かれるやろうな。俺だってわかってる」

「何が言いたいんだ」

「何もかもよりおまえが一番やって、俺には言われへん……。それが、おまえが俺を考えてる度合いとは釣り合わんって言うんは、これはホンマや。誰に指摘されても違うとは言われへんやろ」

「だから?」

 サトルは冷たく言い返した。

 その口調に、カイリがいぶかしげに顔を向ける。

「サトル?」

「そんなことは初めからわかりきってる。お前が『男』で、俺も『男』だから。感情が釣り合うことなんてないだろう。……それに、惚れたのは俺だよ。身勝手に追いかけたのも俺だ。初めから釣り合わそうなんて思ってない」

「なんで……」

「くだらない質問だよ、カイリ」

 サトルはそっと、カイリを抱き寄せた。

「愛されたくて、求めたわけじゃない」

「……」

「ヴィヴィや他の誰かに理解されなくてもいい。そんなこと。俺は、他の誰でもなくて、カイリだけを見ていたくてこうしてるのに。……わからないのか?」

 くちびるでカイリの耳朶を甘く噛むと、腕の中で身体がぶるっと震えた。

「エロ……」

「何もしてないだろ。ちょっと耳を噛んだだけだ」

「それがっ! ……いい、もういい。わかったから」

「本当にわかってるんだろうな」

「わかってるよ。おまえの愛情が異常だってことは、俺だって初めからわかって!」

 照れ隠しで早口になったカイリは、耳まで真っ赤にしている。腕に抱いた身体の暖かさが心地よく伝わってきて、サトルは柔らかな表情で髪にくちびるを寄せた。

「じゃあ、もう拗ねるな。あの後、会場の個室でお前とイイコトしようと企んでた俺の落胆よりマシなんだよ」

「……なんだ、それ」

 カイリがあからさまにあきれた目で息をついた。

「ベルベットの布張りのソファで、その服を脱がしたかったんだよ」

 壁一枚隔てた向こうに、たくさんのゲストがざわめいているを聞いて、カイリは嫌がるだろう。

 そういう素振りをなだめすかしたり、いじめたりして、いちゃつこうと思っていた。

 それを含みで、パーティーへ参加してもいいと考えたのだが、まさか、カイリが先に帰ってしまうとは想定外だった。

「また、そういうわけのわからんこと、考えてたんか」

「わけはわかってるだろ?」

「わかってるけど、わかりたないわ」

 腕を振り払って立ち上がろうとする身体を抱き寄せる。

 嫌がるでもなく胸に戻ってきたカイリがまたビールを飲む。それからポツリと言った。

「おまえにふさわしいのは、やっぱり、おまえを一番やと思う人間やろうな」

「まだ、そんなこと……」

「悪いと思ってるんや」

 うつむきながら、しおらしい事を口にする横顔はぼんやりとビールの缶を見ている。

 日に焼けた肌を目で追いながら、サトルは目を細めた。

 ただ、好きで。

 ただ、それだけだ。

 どこにそれほど惹かれるのか、自分でもわからず、カイリの精神を壊す勢いで求めた過去があって、今ならちゃんと冷静に理解している。

「何もかも、どうでもいいぐらい、好きやって言えへんで悪いな」

 ぼそりとつぶやく声は落ち込む雰囲気もなく、ただあきらめたような響きがある。それも投げやりなものではない。

 けして細くはない、どちらかと言えば骨太な肩を抱きしめて、サトルはたまらずに頬を寄せた。

「海と比べてか?」

 質問には吐息が返って来る。

 イエスともノーとも言わないカイリの気持ちは知っている。

 それでも、カイリの心は揺れるのだろう。

 二人の事情など何も知らないヴィヴィのたわいもない言いがかりのような言葉にさえ、カイリは真剣に反応する。

 何よりも一番に選んできた海と同列に考えるぐらいには、カイリの心を占めているのだと気づくたびに、サトルはもうそれ以上はいらないと思う。

 カイリにとって海がかけがえのないものだということを知っているからだ。

「海と比べたことはない」

 はっきりと言ったカイリが振り向き、サトルはその瞳の奥に自分の姿を見た。

「そういう次元やない。でも、どっちがどんだけって聞かれたら、何も言われへん」

 カイリは言いにくそうに口ごもりながら、重い息を吐き出す。

「なんやろな、これ……」

「何が?」

 サトルはとぼけた。言いたいことに察しはついていても、言葉として聞きたいこともある。それが、普段はめったに聞けない本音だと思うからなおさらだ。

「おまえ、わかってんねやろ」

 睨んで来る瞳に、サトルはどうしても緩んでしまう頬を隠さずに笑いかけた。

「エスパーじゃないんだから、わかるはずがないだろう」

「うそつけや。エスパー以上のくせして」

「買いかぶりすぎだよ」

 笑いながら、こめかみにキスをする。チュッと小さく音を立てると、カイリはくすぐったそうに身をよじって息を吐いた。

「ヴィヴィになぁ、俺がおまえを変えたって言われたで。それやのに、おまえだけを選ばないのはおかしいってな」

「いつ?」

「あぁ、鎌倉に観光に行ったやろ。あん時」

 軽い口調のカイリとは反対に、サトルは深くため息をついた。

「気を悪くさせたな。あいつは、ちょっとおおげさなんだ」

「それぐらい、アッチの世界にはおまえを好きでたまらん人間がわんさかいるってことやろう。それは俺にもわからんでもない。って言うか、わかってるから……、ちょっと、サトルさん、こわい顔してんで。ヴィヴィにはなんも言うなよ。俺も気にしてへんし」

「してるだろ」

 そうでなければ、単純明快が売りのカイリが、こんなに思い悩むはずがない。

「違うんや、サトル。嫌な気がしたから、考えているわけやない。そうやない、そうやないんや……」

「歯切れが悪いな」

「自分でも、気持ち悪い」

「うん?」

 うつむいたカイリは珍しくウジウジと言葉を選んで、はっきりとしない。

 サトルは待った。視線を泳がせ、話題を変えようとしているのを眺めながら、じっと待ち続けた。

「ヴィヴィに何を言われても、それは俺とおまえのことや」

 カイリが口を開く。

「そやけど、俺がはっきりせんことで、おまえが傷つくこともあるんかも知れんなって、そう思ったら……なんか、おまえが我慢してることは多いやろうなって、そう思って」

「カイリ」

「好きなんや」

 カイリがパッと顔をあげる。

 サトルの目をまっすぐに覗き込んで繰り返した。

「好きなんや、サトル。何度も言うけどな、俺が還るところは、あの海の中やろう。そやけどな、今すぐにあっちとおまえを選べって言われたら、おまえが消えてなくなるとしたら、俺はおまえを選ぶやろう」

「……」

「おまえが死ぬまでは、俺はおまえのそばがええと思ってる」

「プロポーズか」

「茶化すなや」

 カイリがバシッと言った。思わずふざけて返したサトルは苦笑しながら目を伏せた。

「なんで、目をそらすねん」

「まっすぐ過ぎるんだよ」

 こんな恥ずかしさを感じたことがあっただろうかと、サトルは戸惑いながらカイリが手にしたビールの缶を眺めた。

 それを握っている指が愛しくて、そっと手を伸ばす。片手を掴んだ。

「逃げるかと思ったら飛び込んでくる。飛び込んできたと思ったら逃げる。おまえそのものが波みたいなものだな、カイリ」

 そっと爪の先を口に含んだ。

「カイリが何も言葉にしなくても、俺は傷ついたりしないよ。嫌だって言っても、離すつもりなんかないんだから。……愛してるよ」

 指を握りしめて、くちびるを重ねた。カイリの指が握り返してくる。

「もう、俺のところへおいで」

 交わすキスの合間に、サトルは誘った。これが潮時だと、カイリもわかっているだろう。

 ゆるめたタイを解いて引き抜き、シャツのボタンをはずしていく。

「マンションを改装するよ。カイリの作業部屋と、作品の保管倉庫を作ろう」

「ベッドルームは?」

「それは俺と一緒のままでいいだろう? それとも、毎晩、夜這いをかけられるほうが趣味か?」

「あほ言えや」

 笑い返すカイリもビールを離れた場所に置いて、サトルのシャツのボタンに手を伸ばす。

「俺、和室が欲しいわ。冬はコタツがええねん」

「空調は完璧なのにな」

「ちょっとぐらい寒くてもええから、コタツ」

「わかった。作らせよう。雪見障子をつけて、なんなら雪を降らせる装置も付けようか」

「そこまでするか」

 あきれて息をつきながら、ふと目が輝いた。

「ほんまに、できるん。いつでも雪、見れんの?」

「さすがに夏は難しいな。屋内に設置すれば出来なくはないだろうけど」

「へー。いや、本気にすんなよ。おまえはすぐに」

「発注する」

「やーめーろー」

「雪を見ながらセックスするのもいい……」

「……エロいことばっかり、考えんなよ」

「俺のシャツのボタンをはずしながら言うことか」

 サトルがからかっても、カイリの手は止まらない。サトルの手も止まらなかった。

 舌を絡めるキスを繰り返して、互いのうなじに、鎖骨に、胸にくちびるを滑らし合う。

 カイリが熱く息を漏らすたびに、サトルの胸は掴まれたように苦しくなった。

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