第13話
※5
居心地が悪い。
うっかりすると、眠ってしまいそうになる柔らかなシートに包まれて、カイリはもぞもぞと腰を動かした。気持ちよすぎて、居心地が悪かった。
「どうなさいました?」
細くしなやかな指が、丁寧にトリートメントを髪に塗りつけている。静かに話しかけられて、カイリはハッと意識を取り戻した。
「いや……、その……、あとどれぐらいで、終わります?」
「お疲れになりましたか?」
「めっちゃ、気持ちいいですけど」
この落ち着かなさは異常だ。黒い壁にパープルの小物。天井にきらめくシャンデリアを映しこんだ鏡を目の前にして、似合わないラグジュアリー空間にため息がでる。
「この後、暖めて洗い流しますので、三十分ほどで終わります。ご辛抱ください」
にっこりと微笑まれて、カイリは早く済ませてくれとは言えなくなった。
高級美容室の個室でカットとカラーリングをされ、いま、最後のトリートメントの真っ最中。しかし、今日はこれで終わりではない。
夕方には仕立てられたタキシードに着替えてパーティーが待っている。
げんなりとしたカイリは、磨き上げられた鏡の前の棚で鳴り出した携帯電話に手を伸ばした。施術していた女性は口を閉ざしてすばやく手を動かし、カイリの髪にラップらしきものを巻いた。
「もしもし? ささやん? どないなん」
背後に熱を与えるための機械が用意されるのが鏡を通して見えた。
すべての用意が済むと、女性は問題があれば呼んで欲しいとジェスチャーで伝えて部屋を出て行く。
「カイリさん、私、もうダメですぅ」
泣き言が聞こえてくる。
カイリは笑い飛ばしながら、アイスティーのグラスを掴んだ。
「なに、なに? いま、どこから電話してんの」
「スィートルームのトイレです」
「またリッチな準備やなぁ」
「そんな、他人事だと思って!」
電話の向こうで、笹田は苛立ちを隠そうともせずに、押さえた金切り声をあげる。
「メイクもヘアセットも終わったんですけど」
「早いなぁ。俺、いまトリートメント中。さらっさらになるらしい」
「私、私……」
笹田の声が震えている。
「まったくの、別人28号なんです! 私じゃありません! 会ってもわかってもらえないかも」
「おいおい、本気で泣きなや。楽しまな、意味ないで。こんなん」
「……絶対に、笑わないでくださいね」
本題はそこなのだろう。
「それはどうやろなぁ。俺も素敵な紳士になってるから、お互い様やで。ま、楽しみにしているから、一晩だけのシンデレラを楽しみや」
「やっぱり、他人事って思ってるぅ~」
「そっちには怜もおるやろ。なんて言うてんの」
「石神くんは」
言葉がそこで途切れた。代わりに、耳馴染みのいい優しい男の声が出た。
「いますよ、カイリさん」
「あぁ、怜。おつかれさん」
「おつかれさまです」
笹田の興奮とは真逆に、石神はいつもの落ち着きだ。
「タキシード、用意できたんか?」
「はい。ばっちりですよ。おもしろいですね。まるで仮装パーティです。笹田さんは正真正銘の美人だって事が証明されましたが」
笑う石神の後ろから、押し殺した悲鳴が響く。笹田が悶絶しているらしい。
「怜もきれいにしてもろたらよかったのに」
「女装ですか」
「そうそう、似合ったんちゃうん」
「本当に、他人事だと思ったら、何でも言うんだから……。ちょっとお化粧はされてしまいました。まだ男の原型はとどめていると思いますけど。会ったら、笑ってくださいね」「石神くんはいいのよ! 本当に、元から美形なんだからぁぁぁッ!」
笹田が電話を奪い取ったらしい。
「早く合流したいんです……ッ!」
「わかった、わかった。あと一時間もせんうちに合流やから。ほんま、泣きなや。してもらったお化粧が台無しになるで」
「は、はいぃ……」
がんばりますと言って電話は切れた。と、同時に、ハロゲンから熱を発していた機械がピーッと鳴った。退室していた女性がサッと戻ってくる。
「トリートメントをお流しします」
「あとは乾かしたら、終わりですか」
「はい。もう少しですから」
にこやかに微笑まれた。
鏡に映ったのは、確かに自分だ。
それは間違いようがないなとカイリは思う。
髪をカットしたといっても、フォルムを整えただけで、元々のピンピン跳ねていた髪のラフさは変わっていない。カラーは傷んだだけの髪の色に深みを与え、トリートメントは艶を与えた。ただそれだけだ。
なのに、明らかに印象が変わっている。
「こ、こぎれいや、な……」
ドレスシャツにタキシードを着たカイリは思わず乾いた笑いをこぼす。
「素敵です」
すかさず声をかけてくれるのは小百合だ。悟は隣の部屋で着替えている。
「小百合ちゃんこそ。よぅ似合ってるな」
赤を基調としたタータンチェックをレースにしてあしらった膝丈のドレスを着た小百合は恥ずかしそうに微笑んだ。カイリのドレスシャツのチェックとリンクさせた衣装だ。
レンガ色のタータンチェックの布地で作られたドレスシャツの胸元は、ドレスと同じようにレースがふんだんに盛られている。タキシードは群青色のベルベットで、かなり遊んだ組み合わせだ。
「すみませんが、かがんでいただけますか? 悟さまからのプレゼントです」
そう言いながら、小百合が小さな布張りのトレイを手にした。白いサテン生地の上に、小さなアクセサリーが載っている。指輪のように丸いが、一部分が繋がっておらず、かなり小さい。
「なに、これ?」
「イヤーカフスです。コーンフラワーブルーのサファイヤのパヴェですけれど、貴重なものです」
「コーンフラワーって何? どこにつけるん」
「耳の、このあたりです」
腰をかがめたカイリの耳の上のほう、軟骨のある辺りを小百合がそっとつまんだ。
「落ちへん?」
「大丈夫ですわ。ちゃんとサイズを見てお作りしてあります」
にっこりと笑いながら、小百合はテーブルの上に置いたトレイからイヤーカフスを手に取った。少し違和感があるのは重さのせいだろう。少しすればつけていることも忘れそうだ。
「コーンフラワーは矢車草のことです。あの青い花のような色が、サファイヤでは最高級とされています」
「あいつ、また無駄遣い」
「悟さまのささやかなお楽しみですわ。どうぞ、怒らないでください」
「小百合ちゃんに言われるとなぁ」
そうしないわけには行かないような気がしてくる。これも悟の作戦なら、乗っておこうと素直に思えた。
「そう言うと思った」
軽やかな声が、隣の部屋に続くドアの方から聞こえてきて、小百合とカイリは同時に振り返った。
「燕尾服ちゃうんか」
「日本の社交界で、いまどき、そこまでのパーティはめったにないよ」
そう言いながら颯爽と歩いてくるサトルは光沢のあるベージュのロングタキシードに、ベストとアスコットタイを合わせている。細身のパンツはただでさえ長い足をさらにすっきりとして見せ、このままモデルとしてランウェイを歩いても遜色ない。
「今度、パリの晩餐会で社交界にデビューさせてやるよ。燕尾服でな」
「ジョーダン、ポイッ」
つん、と顔をそむけたカイリの頬を、サトルがそっと手のひらで受け止める。
「あぁ、よく似合ってる」
イヤーカフスの着いているあたりに視線が注ぐ。カイリはくすぐったくなって身をよじって逃げた。
「ブラックを着ると思ってたけど」
「ヴィヴィのドレスがブラックだから、これでいいんだよ」
男は女の引き立て役になるのが、パーティーの鉄則だというのはタキシードを選ぶときにも聞かされたことだ。だからこそ、カイリと、カイリがエスコートする小百合のドレスはチェック柄がポイントだが、清楚な小百合が着るには少しカジュアルなロックテイストだ。
もちろん、よく似合っているけれど、サトルがカイリを基準に勧めたことは簡単に想像できる。
「だいたいカジュアルパーティーだし」
「でも、世界中のセレブが集まるんやろ」
「アッパーな人間ばっかりとは限らないな。見ればすぐにわかるよ」
「そう軽く言いなや。俺にはぜったいわからん」
「カイリさまはおわかりにならなくてもいいんですよ。間違いなくこちら側ですから」
「小百合ちゃんは優しいんか、そうやないんかわからんな」
カイリのつぶやきに、小百合はわかっていない顔で微笑んだ。
「この子は庶民のことはなにもわからないから」
サトルは二人を交互に見えて肩をすくめる。
「申し訳ありません」
小百合はそれでようやく気づいたのか、しゅんと小さくなったが、思い直したように顔をあげた。
「そろそろ、参りましょうか。悠護さんは先に乗ってます」
「悠護もタキシードなん?」
出口を示され、カイリは歩き出しながら聞いた。
「いいえ、燕尾です」
「なんで!」
シャンデリアが輝く、通常営業中の美容室へと階段を下りながら、カイリは声高に振り返る。サトルが苦笑した。声の大きさに、店内の美容師と客が振り返ったからだ。
ゴージャスなショート丈のドレスを着こなす美女を挟んで、タキシード姿の男が現れたのだから驚くのも無理はない。
先を行くカイリは遊び心のあるスタイル。後ろに続くサトルは、凡人が着たら結婚式だとしか思われないようなスタイルを見事に自分のものにしている。ウェーブのかかった長い髪は、サイドでまとめて肩に垂らしていた。
ざわりと店内の空気が乱れる。
最後に階段を下りたサトルが、そっと手をあげるのをカイリは視界の端に認めた。
まるで魔法にかかったように、それだけで色めき立とうとしていた客たちが静まった。ついでに、カイリまで唖然として階段から落ちかける。
「気をつけろ。転げ落ちたらみっともない」
小百合をエスコートしていたサトルに腕を掴まれて、カイリは苦笑いで肩をすくめた。
「そんな様子じゃ、向こうでも心配だな。ずっと手を繋いでいてやろうか?」
「アホ言うなや。男同士で気持ち悪がられるで」
サトルの腕を振り払って襟を正し、階段を駆け下りた。大通りに面した自動ドアが開き、足早に店を出てあんぐりと口を開いた。
回れ右してしまいたいのを堪えたのは、後ろにはどうせサトルがいるし、目の前の車体の長いホワイトのリムジンのそばに燕尾服の悠護が立っていたからだ。
開いた口がふさがらない状態のカイリに向かってひらひらと手を振りながら近づいて来る。
「意外にチンピラにはならなかったな」
「そっちこそ。結婚式、って感じでもないやん」
それは悠護が意識して立ち姿を変えているからだ。いつもはチンピラ風の服に合わせているのか、後ろ体重で力の抜けた立ち方なのに、今日は燕尾服をばっちりと決めて姿勢もまっすぐに伸びている。
見るからにパーティー慣れしている。しかもハイクラスのパーティーだ。
「これでも、海外ではサトルの代わりに、社交パーティーをはしごしてるからな」
「なるほどな。納得した」
「カイリも出てみればいいよ。クリスマスとかバカみたいにリッチでおもしろいから」
「いやや」
「ま、リタがゴリ押ししてくるから、一度は経験しなきゃ済まないよ」
他人事だと思って軽く笑い飛ばした悠護は、サトルの腕に掴まって歩いてくる小百合に目を向けるとまるで執事のように胸の下に手を当てて頭を下げた。
「今夜のパーティークィーンに、こんなところでお目にかかれるとは」
「冗談はよして」
「それじゃあ、プリンセスだ」
悠護のマシンガンのような褒め言葉にしらけた表情になる小百合を笑いながら、サトルは自分の腕に乗っている手をそっとはずして悠護を促した。
「エスコートを替わってやるよ。小百合、ここからヴィヴィたちと合流するまでぐらいは作り笑いを浮かべられるよな?」
「サトルさまがおっしゃるなら」
言った先から、なごやかな表情をさっと作って悠護に指を任せた。
「さて、こっちも合流までのランデブーだ」
ふざけたサトルが腰に手を回してきたかと思うと、抱き寄せられてこめかみにキスされた。
「あ、おまえ! 通行人がおるやろ。おい、店の中に手を振ってる場合やない! 離れろ。ただでさえ目立ってんのに」
「目立つの嫌いじゃないだろ」
「悪目立ちはいやや!」
サトルを押しのけたカイリは、できるかぎりの大股で車に向かって急ぐ。
「こんな車……、笹やんがまたぐったりするで」
かわいそうにと、心底からの思いを込めてつぶやいた。
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