第12話
「はぁっ……」
昨晩の疲れがずっしりと残る腰を思わずさすりながら、重いため息をついたカイリは顔をあげた。隣のデスクからも同じようなため息が聞こえたからだ。
「ささやん。どうした……」
相変わらず積み上げられた雑誌で、すぐに顔は見えない。
「てか、美人になってるやん」
イスを引いて覗き込んだカイリは、振り返った笹田の顔を見るなり唖然とした。
「まつげエクステのせいだと思いますけど」
「昨日、あれから?」
「エステとまつげのエクステしました。それから、お寿司を……」
答える笹田の目が潤んだ。確かにいつもより長いまつ毛が震える。
「なに? どうしたん。なんかされたんちゃうやろな」
「そんなんじゃないですよー。私、あんな高級店、これから先、一生行くことないと思ったらウナギ食べながら泣いちゃったんですー」
「マジで?」
「はい~」
「よっぽどうまかったんやな」
「友人に店名を言ったら、一人十万は固いって言われたんですけど、どうしたらいいと思います? 返しようがないですよ。申し訳ないを通り越して、悲しくなってきちゃいました」
「まぁ、ええんちゃうん」
としか、カイリには言えない。
まさか笹田に、自分がサトルにするように身体で返せとも言えないし、もしそんなことを彼女が言い出そうものならリタは遠慮せずにいただいてしまうような気がする。
「彼女らは彼女らで楽しんでやってんねんで? 別に、俺が頼んだわけでもないし。ありがたく受け取っとけば?」
「そんなに楽天的になれませんよ」
「ならんとパーティーなんて出られへんで」
カイリの言葉に、笹田ががっくりとうなだれた。
「今日もエステやろ? 食事も誘われるで、また」
「どうして、そんなこわいこと言うんですか」
キッと睨まれる。
「ほんまやもん」
「どんなお礼をすればいいか、カイリさん一緒に考えてくださいよ~」
「はいはい。それは考えとくから、とりあえず、ささやんはパーティーを乗り切って、雑誌の売り上げをがつんと上げること考えとき。終わったら、締め切りまで何日もないやろ」
「それも苦痛……」
「ただで、美人にしてもらってええやないか」
「自分が磨けば光る素材なんじゃないかって誤解しそうです」
「うん。その通りやな。俺も知らんかった。さすがリタは見る目があるよな」
「また、そんな簡単に言う」
「そんなプリプリ怒ってるけどやで。俺にもとばっちりは来てるんやからな。パーティーだって一緒に出る仲やろ。俺も、当日は高級ヘアトリートメントされる予定や。そんな笑えること、誰のせいや思ってんねん
「雑誌の売り上げのためですよ!」
笹田は力強く答えた。
「そやったら、ささやんのエステもドレスも食事もぜんぶ、売り上げのためやろ」
「まぁ、そうですよね」
「それともなんか? 二人が男やったほうがよかったか?」
「いえいえ、そんなドツボにはまりそうなこと、夢にも思いません。ただ」
「なに?」
言いよどんだ笹田はこっそりとカイリに耳打ちする。
「変にドキッとすることあるんです」
「へぇー」
と、感情を込めずに相槌を返しておいた。
「あれだけの美人やからな、仕方ないよな」
「ですよねぇ」
笹田は納得したのか、胸をなでおろすようにして笑った。ようやく気持ちが落ち着いてきたらしい。
「ドレス姿、楽しみにしてんで」
「やめてくださいよ。プレッシャーかけるのは。それより、カイリさんはひらひらのドレスシャツ着るんですか」
「人に振るな、話を。そんなん、当日のお楽しみや」
カイリはふいっと顔をそむけるようにしてデスクに戻った。
***
湘南の波は穏やかだ。
房総半島の外海のような激しさはない。それでもカイリはそののどかさが好きだった。大波もいいが、小波もそれはそれで愛しい。
波を選んで乗ると、振るい落とされる心配もなく運ばれる。柔らかな安定感は心地がいいぐらいだ。
何本か楽しんで、カイリは早々に陸へあがった。今日は波乗りがメインではない。
リタとヴィヴィを鎌倉観光に連れて行ったサトルたちを待っているのだ。一緒に巡っても良かったのに、リタが気を回して海を勧めてくれたおかげで、カイリは久しぶりに海との短いランデブーを楽しんだ。
春の日差しの中で砂浜にあがり、ボードを置いて顔をあげると国道沿いにヴィヴィが立っていた。向こうも気がついたらしく、浜辺へ降りてくる。低いヒールのパンプスを手に持ち近づいてくると、砂の上のバスタオルを拾いあげた。
「おおきに。ありがとう」
会釈をして受け取ると、ヴィヴィは微笑んだ。
「みんなはその上のカフェにいるわ。一緒に行きましょう」
「わかった。水を浴びるから先に」
「かまわないわ」
すべてを言わせず、ヴィヴィが言葉をかぶせた。
「付き合うわ。荷物、持ちましょうか?」
「まさか! ええよ。たいしてないから。ボードがでかいだけでな」
カイリはボードを荷物の入ったカバンを肩にかけ、ボードを抱えて水道へ向かった。
全身の海水を流して、着替えを済ませる。
ヴィヴィは遠慮して目をそらすこともなく、柔らかな微笑を美貌に広げたまま一部始終を見ていた。
「俺に、話でもある? ささやんがどうかした?」
そんなヴィヴィが気になるわけでもなかったが、カイリは話を促してみた。単に興味本位で見たいだけなら、それでもいい。
つばの広い、一昔前の女優がかぶるような帽子をかぶったヴィヴィは、花柄のワンピースの裾を海風に揺らしながら目を細めた。
「サトルが愛している男を見ていただけ。彼女は問題ないわ。かわいくていい子。リタにつき合わせて申し訳ないわね」
「寿司を食って、泣いたらしいな」
「昨日はてんぷらにしたわ」
「今日も、これからやろ。何を食べるん」
「明日がパーティーだから、今日はヘルシーに懐石よ」
「そうか。ええな」
カイリは髪をバスタオルで拭きながら笑った。
てんぷらはまだしも、懐石と来られたら、また笹田は泣いてしまうのじゃないかと思う。
「海が好きなのね」
ヴィヴィの美しい瞳がまっすぐに向けられる。
その奥に燃えるにぶい炎をカイリは見据えた。
「サトルと、どっちが好きなの?」
いつかは聞かれるのじゃないかと思っていた。
実業家として成功しているだけあって本音をほとんど表情に表さない技術を持っているヴィヴィだけれど、サトルとカイリを見るときだけは違っていた。
瞳の奥で燃える青白い炎が、嫉妬なのかどうかはわからなかった。
ただ、何かを見定めようとする鋭さがカイリを敏感にさせたのだ。
「好きの種類が違う」
「子供みたいなことを言うのね」
鼻先で笑って、赤いルージュのくちびるを噛む。
「サトルは変わったわ。誰も彼をあんなふうには出来なかった」
感情をあらわにしたヴィヴィの情熱的な表情は、いつもより数倍、彼女を美しく見せる。
カイリは思わず目を奪われながら、リタが惚れ込んでいる理由がわかるような気がした。
外見の美しさよりも、身の内にひそめたこの感情の激しさは魅力的だ。地表の奥深くで沸騰し続けるマグマのように。
「あなたが変えたのよ」
女ほどこわいものはない。
澄ました顔の裏に、こんな情熱を潜ませて。そしてかつては惜しみもなく、サトルへと向けられていたのだろう。
「俺やない」
カイリは顔を背けた。荷物を背負い、ボードを抱える。
「そんな言葉、他の誰にも通用しないわ」
二人の脇を、物見高いサーファーたちはこれ見よがしに視線を向けながら過ぎていく。
もし、彼らが帽子のかげに隠れたヴィヴィのきれいな顔を見たなら、今夜は夢にでも見るかもしれない。
カイリは外野を無視して続けた。
「他に誰がおんのん。サトルが捨ててきた女全員に俺が何を選ぶのか、宣言せないかんわけか」
「あなたは本当のサトルを知らないのよ。あの人の腕の中でのうのうと飼われているだけだわ。サトルにふさわしくない」
カイリを行かせまいとシャツを掴んだヴィヴィの目は、少女のようだ。純粋でまっすぐで、曲がったものを許さない潔癖さがある。
カイリは目を伏せた。
言葉が胸に刺さって痛い。
「ふさわしくなくても、俺を飼いたいって頭を下げてくんのはあいつや。俺にはどうもできへん」
ヴィヴィの手を掴んで、シャツから引き剥がす。
「俺が何を選ぼうと、それは人にとやかく言われることやない。サトルにだって言わせへんで」
細く冷たい指先を握り締めたまま、カイリは目の前の一人の女を覗き込んだ。
「行こう。みんな待ってるで。何にもなかった顔に戻しとかなあかんで」
ハッとしたように息を飲んだヴィヴィの肩から力が抜ける。
カイリは手を引いて歩き出した。
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