第8話

 飛行機が真っ青な空から降りてくる。

 カイリの腕につかまりながら、髪を押さえていたリタが、指差した。

 そのまま、腕を大きく回すように振った。

「あぁ、俺、知ってんなぁ。この飛行機」

 やわらかく滑走路へ降りた機体が走るのを見ながら、カイリはぼんやりとつぶやいた。

 そう。

 リタと初めて会った、タヒチの行き帰りに使った飛行機だ。

 行きは薬で眠らされていてまったく意識のないまま連れて行かれ、度肝を抜かれたのは帰りだった。あの機体の中は、クィーンサイズのベットがついているスイートルームだ。

 カイリとリタが待っているスポットまで走ってきた機体が止まり、タラップが取り付けられる。

 リタの希望で、恋人を出迎える付き添いはカイリの役目になった。

 リタがやってきて一週間。

 日本語がまるでできない上に、感覚が飛びぬけてセレブだから、基本的には一緒にゲストハウスに泊まり込んでいる悠護か小百合がどこに行くにも同行している。

 それでも、リタはことあるごとにカイリに会いたがった。

 ベットの中で、サトルが誰に言うでもなくぼやきを口にするほど、カイリも夜のたびにゲストハウスへ顔を出していた。

 片言の英語でしか意思の疎通はできないが、それなりにコミュニケーションは取れる。

「カイリ」

 腕を引かれて、カイリは我に返った。

 リタが、恋人の名前と、カイリを交互に呼び、待っていてと押しとどめるしぐさをして駆け出した。

 飛行機を出てきたのは、スラリとしたスレンダーな女性だ。細身のパンツスーツを身につけ、色鮮やかな金髪をきっちりとまとめ上げている。

 リタに向かって大きく手を振りながらタラップを降り、流れるような動作で両手を広げた。

「あー、あー、あー」

 一人残されたカイリは思わず、声を漏らす。

 駆け寄ったリタは迷いなく、彼女の腕の中に飛び込み、二人はそのまま濃厚なキスを交わした。

 いくら外国人でも、これは普通ではない。

 ここが飛行場のはずれで、ターミナルから遠く離れていることだけが救いだ。

 この二人なら空港ターミナルの出口でだって同じことをしたに違いない。

 恋人の腕に抱かれながら、この一週間で一番の笑顔を浮かべたリタは、文句なしに今まで見た中で最高の幸福な美しさで振り返った。

 軽く手を振って応えてやる。

 リタと恋人も手を上げた。

「はじめまして、ベアトリス・バルテルミーです」

 リタの英語で引き合わされた後、流暢な日本語が向けられて、カイリは一瞬だけ混乱した。

「みんなヴィヴィって呼ぶわ。そう呼んでくださる?」

 そっと手の甲が差し出され、カイリは思わず手に取ってしまう。

「山城カイリです。ええっと、コレ、どないしよ?」

「関西のイントネーションね」

 手の向きを変えてカイリの手を握り、ヴィヴィはにっこりと笑った。

「あぁ、大阪育ちやから」

「聞き間違えをしたらごめんなさい」

「いやいや、こっちこそ。標準語はでけへんから、ごめん」

「リタがお世話になって。ありがとう」

「いえいえ。言葉が通じへんから、会話もできてないんやけど」

「いいのよ。この子は、気に入った人となら、会話なんていらないから」

 ぴったりと寄り添うリタを抱き寄せて、肩越しに背後を振り返る。

「スタッフを連れてきているの、外まで一緒に乗せてもらってもいいかしら。滞在は別だから」

 飛行機のタラップの下に、数人の男女がまとまっている。

「どうぞ。じゃ、行こか」

 ドアを開けようと手を伸ばすと、いつのまにスタンバイしていたのか、運転手がすかさずドアノブに手をかけた。

 リタとヴィヴィが乗り、次にカイリ。

 それから男性二人と女性二人が乗り込んだ。

 みんな外見からしてバラバラの外国籍らしいが、フランクな雰囲気だ。

 英語でなにやら空港の話をしているのが、カイリにも少しはわかった。

 これもリタと過ごしているおかげだ。

 昔取った杵柄とも言える。

 かつて、ハワイで波乗り三昧に暮らしていた頃は、簡単な日常英会話ならできていたのだ。日本に帰ってきて、すっかり欠落してしまったが、リタの英語を聞いているうちに少しずつ勘所が戻ってきた気がしている。

 そのリタは、リムジンの奥で久しぶりに会う恋人に寄り添い、穏やかな口調で途切れることなく話し続けていた。

 今日のリタは、渋谷で買ったパステルピンクのチープなギャル服に、小百合が手がけた、サイドに寄せたラフなまとめ髪。細かいカールのかかった髪が肩ではずんでいる。

 日本の『カワイイ』文化を堪能しているらしい。

 チープな安い服も、リタが着るとそれなりに高級に見えるのが不思議だ。

 立ち居振る舞いのせいかもしれないし、なめらかな褐色の肌と華やかな中に独特のアンニュイさを持った美貌のせいかもしれない。

 しばらく仲良くしてみて、リタがなぜ社交界のトラブルメーカーと呼ばれるのか、カイリにもわかるような気がした。

 しぐさがチャーミングで、笑顔があけっぴろげで、すべてを手に入れていて、欲しいものはなにもないような雰囲気をしているのに、ちょっとした瞬間に、なにもかもをもう一度すべて欲しがるような、それをねだるようなところが小悪魔的なのだ。

 一方、ヴィヴィはカイリの想像に反していた。と、言うより、カイリはどんな姿も考えていなかった。

 立て板に水を流す勢いで話し続けているリタの、指の爪の一本一本を見つめながらあいづちを打っているヴィヴィは、ときどき顔を覗き込んでくる恋人に微笑む。

 男っぽいタイプだろうか、それとも誠実なタイプだろうか、ぐらいは考えていたが、実際に会ってみると感想はただひとつ。

 こんな美人が二人もゲイとはもったいない。

 そこに尽きる。 

 髪をまとめ上げているヴィヴィはお堅い雰囲気だが、髪を下ろして化粧の雰囲気を変えれば、さぞかしゴージャスな美女だろう。

 オンとオフの切り替えスイッチを探して見たくなると思いながら、カイリは右からも左からも聞こえてくる外国語にだんだん眠気を誘われてくる。特にリタのフランス語は、抑揚も柔らかくて危ない。

「カイリ」

 ハッとした。

 声をかけてきたのは、ヴィヴィだ。

「疲れているなら、眠っていいのよ」

「あぁ、ごめん。平気や」

 答えると、ヴィヴィは微笑みながらリタを覗き込み、フランス語で何かを囁いた。

 リタはにっこりと笑い、英語でカイリに何かを言いながら、窓に沿った座席の間を通ってスタッフたちの中に入っていく。

 謝ったのはわかったが、あとは聞き取れない。

「リタとも仲のいいスタッフなのよ。彼らはほとんど別行動になるから、今のうちに日本の話をしておいてと頼んだの」

「気ぃ使わせた。俺のことなんかええのに」

「そうはいかないわ。あなたの機嫌を損ねるってことは、彼の機嫌を損ねるってことと同意義でしょう?」

「彼?」

 首をひねってから、一人しかいないと気づいた。

「いや、別にそういうことはないと思うけどな」

 サトルだ。

 確かに、宿を提供するのはサトルだが、カイリがすねたぐらいでどうこうするだろうか。

 なんだか、最近のサトルならありえそうな気がする。

「意外やろ? 俺みたいなタイプで」

 先手を打った。

 ヴィヴィは口元に指をあてて笑い、

「そうね。男を選ぶなら、美青年だと思ってた」

「あいつとは付き合い長いん?」

 少し、間が空いた。

「そうね。短くはないわ」

 それが、色恋に疎いと自覚のあるカイリの中に、あるひとつの疑惑を芽生えさせた。

 事実だからと言って、いまさら傷つくこともない。しかし、言い出すこともできない。

 なぜかタイミングを逃した。

「でも、外見だけがすべてじゃないわ。事実、リタはあなたに夢中よ。サトルの手前、様子をみてるんでしょうけど」

「夢中って、そんなことはないんちゃう?」

「本当はサトルを怖がったりする子じゃないのよ。常識なんてないんだから。でも、どうやら、よっぽど釘を刺されているのか。それとも」

 言葉を切って、ヴィヴィは肩をすくめた。

「こっちが当たりかも知れない。サトルなんて関係なくて、あなたに嫌われたくないんだわ」

「一回しか会ってないで。そこまで言われるようなこと……」

 しかも、ヴィヴィはリタの恋人だ。

 カイリの考えを読んだのか、静かに息をついて、

「リタは私のものになんてならないのよ。一緒にいてはくれるけど、いつだってあの子は自由なの。心も身体も。そういうところを愛してるわ」

 ヴィヴィは幸せそうにうつむいて、足の上で指を組みかえる。

「いろいろと遊んでくれてるみたいでありがとう。さびしがりやだから、気に入られると大変じゃない? 下心があればいいけど、そうでないなら、ちょっと困るでしょう?」

「俺は別に。住む世界が違いすぎて、見てておもしろい。言葉が通じなくても、まったく気にならんみたいやし」

「恋に言葉なんて必要ないでしょう?」

 さらりと返される。

「ヴィヴィは、日本語が上手やな」

 また、間が空いた。

 ヴィヴィは自分の頬に手の甲を当て、つぃっと青い目を細めた。

「サトルが日本語を大切にしていたからよ」

 吸い込まれそうな、澄んだブルー。

 秋空のように淡い色彩だ。

 やっぱり、そうなんだろうとカイリは思った。長く一緒にいたから、すっかり忘れていたし、想像もできない。

 サトルだって、当たり前のように女を抱くのだ。

 今までだって、何人も、それはもう数え切れないほどしてきただろう。

 想像できないのは、したくもないと思うからだろうか。

「サトルがパーティーに出るだなんて、思いもしなかった」

 ヴィヴィの言葉を聞きながら、カイリはただ漠然と考える。

 自分だって昔は女を抱いたし、抱かれる側になるだなんて思ってもみなかった。

 力で押さえつけられ、焼き印を押されるような暴虐さで犯された。

 あのとき、サトルから愛情のかけらさえも感じられなかったら、カイリは死ぬことを選んだかもしれない。

 しかし。そもそも。

 相手がサトルではなかったら、あんなに耐えただろうか。

 繰り返される屈辱と恥辱に。

 男同士のセックスに、感じてしまう身体になっていくことに。

 もしかしたら、耐えようとも思わなかったかもしれない。

 サトルだから、サトルだったから、どこかに免罪符を求め続けたのか。

 なぜ、サトルはあんなふうにしたのか。

 それは考えないことにしている。

 答えは簡単じゃないと思うからだ。

 自分の選んだ道も、簡単には説明できない。

 

 あの行為を待っていたと言えなくもない。

 きっかけを待っていた。

 たぶん、無意識に。


「私には、サトルがあなたを選ぶ理由がわかるわ」

 カイリは静かに現実に引き戻された。

 瞳の中に映る自分の姿を見た。

 ヴィヴィは笑っていない。

 敵意は感じられない。しかし、好意といえるほどの優しさもない。

 試されている。

 そう思った。

 カイリは、

「おおきに」

 そうとだけ答えて、目を伏せた。



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