第7話
※3
「あの顔、ご覧になりまして?」
いつになく機嫌のいい声で、弾むように笑いながら、小百合がワゴンの上で紅茶をカップに注ぎいれる。
「誰の?」
目の前のモニターを眺めていたサトルは顔をあげた。
映像を流し見ながら、別のことを考えていた。しかし、それは映っているのと同じ人間のことだ。
あまりからかうとカイリが怒ると言ったサトルに、そらとぼけて「そうでもない」と答えたカイリは、少しだけうつむいて笑っているように見えた。
その横顔の意味に、考えるでもなく思いをめぐらせていたのだ。
「失礼しました。考えごとのお邪魔を致しました」
「たいしたことは考えてないから、いいんだ。悠護もまさか、カイリみたいなタイプだとは思わなかっただろうな」
いくらなんでも、と言いかけてやめる。
自分でもそう思うが、口にすれば陳腐だ。
カイリの映像が流れているモニター画面の背後には、壁一面に十五枚のモニターが縦に三枚、横に五枚並んでいる。
サトルを囲む半円のテーブルにはスイッチが並び、ペントハウスの各部屋が画面に映し出され、警備室さながらだ。
「勝手に勘違いするのがいけないんです。どうぞ」
テーブルに紅茶が置かれた。
「私は、まさかとは思いませんけれど」
小百合は小さな声で言った。
肩越しに振り返ると、視線が合う。サトルは微笑みながら視線をモニターに戻した。
壁のモニターのひとつには、話し込んでいるカイリと悠護の姿が映し出されている。しかし、サトルの手元に映っているのもカイリだ。 ただし、服は着ていない。
「サトルさまのお選びになる方ですもの。生命力にあふれた美丈夫だと……」
「ものは言いようだな」
画面の音声はない。今は消音しているからだ。
しかし、聞こえなくても、サトルにはわかっていた。
モニターの中のカイリは、全裸で片足首を拘束されて、罵詈雑言を叫んでいる。
聞かなくても知っている。
「丈夫なのは確かだな」
「ご覧になるのは、お久しぶりなのではありませんか?」
声のトーンが下がった。気づかう気配に、サトルは紅茶のカップをソーサーごと手にして笑った。
「悠護が驚いてるのを見たら、懐かしくなった。ほんの数年間のことなのに、ずいぶんと昔みたいに思うな」
「あれからずっとご一緒にお過ごしですもの」
小百合の表情が和らいだ。
香り高い紅茶に口をつけて、サトルは自分が辱めた男を眺める。
ごく当然のように好きになって、自然に愛したわけではない。
もちろん、こんな男そのものに惹かれる日が来るとは考えもしなかった。
かつて、欲しいと心から願った相手とは、似つきもしない。
あの人は、血管が浮き出て見えるほど肌の色が白かった。
カイリは焦げ付いたように色黒だ。
溶けそうに微笑んだ人に比べて、がさつなほど豪快に笑う。
重い病で、命の残り火を数えながら暮らしていた人とは正反対の、生命力そのもののように行動的なカイリ。
ただ、明日にもいなくなりそうなところだけ、二人は一緒だった。
あの人の死が明らかだったのと同じように、カイリは見も心も海にささげて生きている。
いつ引き戻されても、カイリは黙って従うだろう。
海が自分を呼ぶ日を、呼んでくれる時を、カイリはずっと待っているようでもあった。
だから、サトルは繋ぎとめた。
激しい衝動だった。
スキとかキライとかではない。
誰にも、渡したくなかった。
海にも、友人にも、女にも、誰にも見せたくなくなった。
自分だけが保護していたい。たとえ、カイリが発狂してしまっても、息絶えるのが自分の腕の中ならそれでいいと、本気で考えた。
いっそ、願っていたかもしれない。
そんな結末を期待していた。
あの人の身体も心も、けして手には入らなかったからだろうか。
サトルは今でも考えてしまうことがある。
この想いは、あの、未熟だった自分の、はかない恋の代わり身だろうか。
「小百合は、カイリと顔を合わせていないだろう。あの時」
画面の中に、小百合が映りこんだ。
カイリは薬でぐっすりと眠っている。
サトルが出かけている間に、カイリを閉じ込めた部屋を清掃するのも、あの頃は小百合の仕事のひとつだった。
床で眠ってしまっているカイリにシーツをかけて身体を隠し、小百合は黙々と掃除をすませる。
シーツを剥ぐときも、その身体には視線を向けずに、そのまま退室した。
メイドの鑑のような態度だ。
年若い女性でありながら、主人の変態性欲によく付き合ったと、サトルはつくづくと可愛そうに思う。
同時に、そう思えてしまう自分は、やはり望月の総帥を継承しなくて良かったのだろう。望月のためにも。
「細心の注意を払いましたけれど」
そう答える小百合は、やはり望月の人間で、サトルの命令に従うことには微塵の疑いも持っていない。
あの時、カイリが死んでも、小百合は動揺しなかっただろう。サトルの行為を知っても、動機を尋ねることも、カイリの素性を気にかけることもなかったぐらいだ。
「カイリが、どこかで会ったことがあるんじゃないかって」
「まぁ……」
小百合は驚いたように目を見開いて、他のどこかであっただろうかと思案をめぐらせる表情をした後で、くすりと笑った。
「カイリさまですもの。動物的な勘ですわ。コロンの香りを消したりはしませんでしたし」
「そうだとしたら、本当に動物並みだな」
「そういうところのお有りになる方ではないですか? おそらく、悠護の素性にも思い当たっておいでだと」
「あぁ、そうかもしれないな」
それを、あの場で口にしなかったのは、カイリなりに悠護へ気をつかったのだろう。
「それでは、私はゲストハウスの方へ戻ります。リタさまがお目覚めになるころでしょう」
「カイリはまだしばらくは話し込んでるだろう。頃合いを見て戻るよ」
「承知致しました」
長い髪をさらさらと肩からすべらせて一礼をすると、小百合はワゴンを押して部屋を出て行った。
サトルはカップを乗せたソーサーを手に持ち、画面へ再び目を向けた。
映像が、切り替わる。
弱りきった身体で抵抗するカイリと、そんな男を無慈悲に組み敷くサトルの姿が映し出されていた。
乱れたシーツの上で、全裸でもつれ合う姿は濡れ場というにはえげつなく、どう見ても食うか食われるかの動物的な争いだ。
いま、カイリは、もうこんな顔をしない。
かと言って、毛並みのいいペットに成り下がったかと問われれば、それはもちろん違う。
サトルはやに下がった一人の恋する男になり、カイリは地に足をつけた生活を考えるようになった。
要するに二人は、少しだけ人間らしくなった。お互いを想い、尊重して、傷つけるのも、傷つくのも回避したいと願っている。
それが、ネックだ。
サトルはため息をつきながら、椅子に深く背中を預けた。
カイリは十分に自分を選んでいる。
今や、海とのランデブーを自重することも厭わないほどに。
だけれど、サトルには足りない。
まだ。もっともっと、カイリのすべてが欲しいと願ってしまう。
子供じみた独占欲だ。
身も心も手に入れたら、今度は、カイリの人生のすべてが欲しくてたまらない。
カイリは、かつて恋い焦がれた男には似ても似つかない。
あの人とはキスもしなかった。
だから。
カイリで叶わなかった恋を慰めようなんて思ってもいない。反対に、昔の恋で、カイリへの独占欲を薄められたらと考えしまうぐらいだ。
モニターの映像を消して、サトルは目を閉じた。
カイリの名前を口にして、静かにまぶたを押し上げた。
壁に並んだモニターのひとつに、悠護と話し込んでいる姿が映っていた。いつのまにかビンのビールを何本も飲み干している。
大口を開けて笑っているのを見ているうちに、サトルの身体は熱くなっていく。
甘すぎてめまいがしそうな嫉妬の味に、欲情している自分の未熟さに笑いがこみ上げた。
今夜もカイリが欲しい。
気持ちよさそうに目を閉じる、そのまぶたの端に口づけたい。そして、くすぐったそうに身をよじってくれたなら、それだけで幸せな気持ちになるだろう。
サトルは静かに息をついて、もう一度、静かに目を閉じた。
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