第5話
出張は両日ともに快晴だった。
カイリの仕事はさくさく進んで、予定を切り上げて昼過ぎには編集部に戻ることができた。
残したままのデスクワークを片付けておくつもりだ。
先に書籍部に寄って秋沙に土産を渡し、世間話もそこそこに部署に向かった。
資料や書類が山積みになったデスクがひしめき合う部屋は、地震でもあれば大惨事を引き起こしかねない。
書類雪崩は頻繁に起こり、毎日、一度はどこかで悲鳴が上がる。
「おつかれさんでーす」
いつもの調子で中に入ると、今日に限ってざわめきの具合がおかしかった。
電話をしている部員も、デスクで作業をしている部員も、心ここにあらずの様子で、騒がしさに空白がある。
奥を気にしているらしい。
何事かと手近な人間に聞こうとしたカイリは、息せき切って駆け寄ってくる部員たちに掴みかかられて身をすくめた。
「な、なんや! なんやねん」
「カイリさ~ん。待ってましたよ~」
「ケイタイ出てくださいよ!」
「え? 鳴らしてたん? 充電切れたんかな。あ、切れてるわ」
「社会人にあるまじき非常識!」
「とりあえず、寄ってくれて良かったですよ!」
「こっち、こっち!」
「ひっぱんな! ひっぱんな!」
たたらを踏みながら、カイリはデスクの島の合間を引き立てられる。
「カイリ!」
途中で足早に近づいてきた石神に引き渡され、
「怜。なんやねん、これ」
カイリは目を白黒させた。
石神はいつもの冷静さで答える。
「お客さんが来てるんだけど、カイリが来るまで帰らないって」
「そんなことぐらいでか!」
「それが……」
最後まで聞かず、カイリは応接スペースを囲っているついたての向こうに踏み込んだ。
「あれ?」
思わず、とぼけた声が出る。
来客が振り返った。
向かい合わせでソファに座っていた編集長がよいこらしょと立ち上がった。
「カイリ!」
スラリと背の高いからだが胸に飛び込んできて、カイリは思わず抱きとめた。
豊かなブルネットの髪。
南の島の、花の匂いがする。
日焼けとは違う、褐色のつやめく美しい肌。
腕をまわすと、見た目以上に身体のラインは引き締まっていて、出るところは出て吸い付くように寄り添ってくる。
南洋系のくっきりとした顔立ちは、ステージモデルのように整っている。
「リタ?」
花の香りが記憶を引き寄せた。
頭に浮かんだ名前を口にすると、カイリの首に腕を回した美女は英語で何事かをまくし立てた。
「え? なに? わからん」
「カイリの知り合いじゃないのか?」
編集長が言った。
英語は身につけていないはずの彼は、何のために座っていたのか。
上司として接待したのか、それとも、単に美女を眺めていたかったのか。
性格から言えば、間違いなく後者だと思いながら、カイリは首に絡みつく華奢な腕をほどいた。
「知り合いは、知り合いなんですけど……。まいったなー。誰か、通訳……」
視線で周囲に助けを求めると、編集長を初め、野次馬部員たちが一斉に一人を指差した。
「怜。英語なんかできたんか」
カイリが現れるまで、接待していたのも石神なのだろう。
「日常英語ぐらいだよ」
答えた石神は、なめらかな発音でリタに話しかけ、
「通訳するね」
リタを腕に抱いたままの、カイリを見た。
「カイリに会うために来たんだって。空港から直接来たから、……あぁ、サトルさんの知り合いなんですね……。サトルさんの家の場所を知らないから連れて行って欲しいって」
「それはいいけど」
つぶやいたカイリの言葉を、リタに伝える。
「俺の友人の知り合いで、一度、会ったことがあるんです。すいません、なんかややこしいことになったみたいで」
カイリは離そうとしたが離れないリタをそのままにして、編集長に軽く頭をさげた。
「カイリが来なきゃ、次の行き先がまったくわからないって言うからさぁ。良かった、良かった。……前向きに考えてくださいね」
リタに微笑みかけた編集長の言葉を石神が訳し、
「すっごい美人だから、モデルをやってくれないかと思って。知り合いなら頼んでよ」
「無理やと思いますよ」
即答して睨まれた。
そんな顔をされても困る。サトルの友人で、しかもパリの社交界では名うてのマドンナらしい彼女は、トラブルメーカーだと聞いている。
下手な依頼はトラブルの元だ。
「やんごとなき女性なんで、失礼があると後で揉めます」
そう編集長に耳打ちしておいた。
あきらめたかどうかはわからないが、
「なにそれ。まぁ、また後で説明してくれ。はい、通訳以外は撤収!」
手を叩いて、野次馬たちを散らした。
ついたての中には、カイリとリタと石神が残される。
「一人で来たんか、何の用で来たんか、聞いてみてくれるか」
石神に頼んだ。
「パリから飛行機に乗って来たって。一人で。後から人が来るみたいだけど」
返事が戻ってくる。
「恋人?」
「そうだって。え? ……あぁ、サトルさんの知り合いだったんですね」
異国人に怯みもせず、にこりと微笑んだ。
上品で中性的な顔立ちの石神は、ゴージャスなリタと並んで遜色がない。
「サトルさんのところへ連れて行って欲しいって言ってますよ」
「え? そうなん? でも、俺、片付けたい仕事あるしなぁ。とりあえず、連絡つけよか。そう言ってくれるか」
「わかりました」
石神の言葉を聞きながらカイリを見上げたリタが笑う。
ノープロブレムの一言は聞き取れた。
あとは石神が継いだ。
「待ってるって言ってますよ。食事をしてから帰りましょうって。浮き世離れしてますね」
「そういうタイプなんや。わかった。そう言わはるんやったら、待っといてもらおうか。仕事はすぐ済むし、その間にサトルに連絡を取るわ」
「どうします? ここで待ってもらいますか? 喫茶室でもご案内しますか」
「あかん、あかん。めっちゃ目立つから、ファッションの奴らに目ぇつけられたらめんどくさい。ここで待ってもらおう。なんかドリンク買って来るし、希望も聞いて」
「缶ジュースってわけにもいかないんじゃないですか。そっちは僕がどうにかします」
カイリの意向を伝え、応接セットのソファを勧めた。
リタは会釈してソファに腰掛けた。
すらりと足を組むさまは、まさしく大輪のバラだ。
「大丈夫ですよ、これで。カイリはさっさとサトルさんに連絡とって、仕事して下さい。編集長もこっちが適当に言っておきます。はいはい、行って行って」
急き立てられ、カイリはそそくさとデスクへ向かった。
まずは、サトルだ。
取り出した携帯電話がジャストのタイミングで鳴り出し、表示された名前のこれまたタイミングの良さに慌てて通話ボタンを押す。
「サトル?」
『その声からすると、もうそっちへ行ってるんだな』
サトルの声は、即座にすべてを理解している。
「どうしたらいい?」
『カイリに会えたなら良かったよ。迎えをそっちへ向かわせたから』
「俺と食事するって言って、待ってるけど」
『あぁ、そうなのか』
サトルは声のトーンを落とし、
『仕事の方は切り上げられそうなのか』
「すぐ終わる。連れて帰ってもいいけど」
『言葉が通じないだろう』
「別に困らんけど。今は怜が通訳してんねん」
『そうか。それは良かった。でも、トラブルメーカーと二人きりは、俺が困るんだ。迎えに行く人間に食事のことは伝えておくから、一緒に行ってやってくれ。悪いな。いきなりで。詳しくは帰ったら話す』
「そうして」
『あと、迎えに行かせたのは、本当なら場を設けて紹介しようとしていた人間だから。こんな引き合わせ方になってすまない』
「ええよ。そんなん。とりあえず、安心したわ。その人は、どれぐらいで着きそう?」
サトルの手回しから見ても、リタはかなり特別な存在らしい。
迎えは三十分以内に到着すると聞いて、カイリは電話を切った。
安堵の重い息をつくと、雑誌の山の向こうからは悩み深そうなため息が聞こえた。
「笹やん。どないした?」
最近、なにかとため息の多い笹田が目から上を見せた。
「あの美人、すごいですね。カイリさんの友達ですか」
「いや、知り合い程度。一度会っただけや。で、今日は何のため息」
「今度、大きなチャリティパーティーが都内で行われるんです。全世界のセレブが集まるって噂なんですけど。この記事を見てください」
書類の山越しに見せられた雑誌の記事に、すばやく目を通すカイリに、
「このパーティーの取材は抽選なんですけど」
「落ちたんやな」
「負けたんですよ! ファッションのヤツらは取材材パスをゲットしたのに、うちはダメで。すっごく悔しいんです!」
記事は上部が英語で、下部に日本語訳が添えられていた。
禁断の超セレブパーティーで、今回は特別に取材を受け付けるのだと書かれている。
取材はパスはプラチナチケット並みの価値が出ているのだろう。
「うちの押してる知的な女性のイメージのためにも、アッパーなパーティを大々的に記事にしたいって編集長が燃えてるんですよ。だから、いろんな人のツテに頼んでるんですけど、コネがあるどころか、反対にパスが余ったらくれって言う人ばっかりで……。どうしたもんだと思います?」
笹田は口早にまくし立てて、途方にくれたように肩を落とした。
「どうするやろなぁ。最悪、ファッションに写真だけでも頼むとか」
「それだけは嫌なんです。担当は同期なんですけど、すごく敵対心を持たれているんです」
「めんどくさいな」
「そうなんです」
笹田は心底からの迷惑顔で息をつく。
昔からあるファッション雑誌の編集部は安定した売り上げの花形で、近年発行されたばかりの『カレイドスコープ』は、いまやファッション雑誌の売り上げをしのぐこともあるが、社内的な位置づけは挑戦者だ。
カイリにはわからない編集者同士のつばぜり合いがあるらしい。
「カイリさん、カメラマン仲間で取材する人とか知り合いにいないですか?」
「急に言われても、わからんなぁ」
記事を眺めながら、カイリは首を傾げた。 知り合いをあたってみれば、パスを持っている人間で、写真だけ売ってくれる人間の一人ぐらいはいるかもしれない。
「コレ、出ル」
雑誌に影が差して、カイリはあわてて振り返った。
いつのまにやからリタは自由にフロア見学を初めていたらしい。
「出るって? パーティに?」
カイリは聞き取りやすいようにゆっくり話しかけた。
「ウィ」
フランス語で答えて、リタは指先をカイリに向けた。
「エンデュ?」
首を傾げると、花の香りがふわりと舞う。
うっとりと目を閉じかけた笹田が、ハッと我に返った。
「アンドユーですよ。カイリさん。カイリさんも出るのかって聞いてるんですよ!」
「あぁ! ノー、ノー」
首を振って答えると、リタは肩をすくめて辺りを見回し、編集長への報告を終えて、急ぎ足でこちらに向かっている石神を見つけて手招いた。
悠然としたしぐさに、フロア内の人間の目が釘づけになっている。
やって来た石神に通訳を頼む。
「あぁ……」
話を聞いた石神は言い淀みながらカイリを覗き込み
「どうして出ないのかって。……あー、あの人は出るはずだって言ってますけど?」
困惑の表情を浮かべた。
石神が気を回したことは、すぐにわかった。
『あの人』はサトルを指している。
笹田の手前、個人名を出さずにごまかしてくれたのだ。
「俺のことはええわ。そっちはそっちやしな」
答えを悩むカイリの腕を、笹田が両手で鷲掴みにした。
「石神くん! 取材パスが手に入らないか聞いてみてくれない!?」
「見境ないなー」
石神にお伺いの視線を向けられ、カイリはぼやいた。
それを了承と取った石神が通訳する。
「カイリさん。問題はないみたいなんですけど、条件出てますよ」
「いくらですか?」
目の色を変えて身を乗り出した笹田の勢いに、
「それって、そんなにすごいことなん?」
カイリがたじろぐと、石神が苦笑した。
「すごいことですよ。カイリさんは静物担当だし、こういうことに興味はないと思いますが。ハイクラスの女性向け雑誌はこぞって取材合戦に参加するみたいですよ」
「ふぅん。で、いくらやったら予算内なん?」
「カイリさん、条件はお金じゃないですよ」
石神が続けた。
「笹田さんには恩を売っておくのがいいと思いますよ」
「買うわ、その恩! カイリさんの身体がご希望なら、どんなことでもしていいです。死なない程度に!」
笹田がリタに日本語でまくし立て、
「いやいや、なんでやねん」
カイリが手をひらひらと動かして突っ込んだ。
「いいでしょ」
「あかん、あかん」
「笹田さん」
二人の間に、石神が割って入った。
「この前、カイリさんにお願いしてた男前セレブの紹介、あれ、あきらめてください」
「え?」
「プロジェクトとしては、こっちの方が競争力ありますし、あの企画を誰かに譲ってでもこっちに力をいれるべきですね」
笹田に断言してから、カイリを振り返った。
ぎくりとしたカイリの、嫌な予感はいまさらだ。あきらめを表情に浮かべたカイリに、石神はどこか楽しそうに、しかし表面上は同情を滲ませて言った。
「彼女の条件は、サトルさんと一緒にカイリもパーティーに出ることです」
「なんで!」
想像通りの言葉に、それでもカイリは叫んだ。
「おまえ、わざとそういうふうに持っていったやろ」
「そんなはずないでしょう! 日本のパーティーならカイリもいるはずだと思って、楽しみにして来たって言ってますよ」
「カイリさん! 取材記事!」
「なんでやねん。笹やん、めちゃくちゃ言ってるで。俺はカメラマン!」
「そうですよ。取材記事よりおもしろいものができますよ。編集長は絶対に喜びます」
にっこりと微笑み、リタに話しかける。
「笹やん。やばい。この通訳、暴走してるで」
「え?」
「暴走はしてません。失礼な。笹田さんも覚悟を決めてもらいますよ」
「……。おい、おまえ! さっき、編集長と悪巧みしたやろ!」
食ってかかるカイリを手のひらでやんわりと制して、理性的で清廉とした美貌に微笑みを浮かべた石神は、悪魔的な静けさで答えた。
「これがビジネスです」
「悪魔!」
「なんとでも」
さらりとかわして、
「チケットを二枚、用意してもらえます」
「ホントに!」
笹田がガッツポーズを握った。その肩を、石神が優しく叩いた。
「僕と笹田さんで出席します」
「うん、わかった」
「じゃあ、僕らはこれから打ち合わせですよ」
「うん!」
意気揚々とうなずいた笹田は、カイリの腕をごしごしとさすった。
「カイリさん。セレブ紹介の件、今回はあきらめるわ。だから、パーティーの詳細、教えてね。取材は場所が決められてるって話だから」
「いや、笹やん……、俺はそんな心配はせんでええと思うねん」
ぐったりしながら、腕に乗った笹田の手を握ってやった。
「それより、がんばれよ」
「え?」
「この悪魔が契約したのは、パスやないで。ちゃんと聞いてみ。チケットやから」
「え?」
子供のように、笹田は首を傾げた。
カイリを見て、石神を見て、リタを見てから、また石神に戻る。
「石神くん、チケットって言った?」
「言いましたよ。参加って、僕、言いましたよね?」
カイリに確認を取り、うなずくのを見て、
「ね? 笹田さん、ドレスの色、考えた方がいいですよ」
「え! えぇ~!」
叫んだ笹田に、石神はさらにたたみかけた。
「きちんとチケットがあれば、内部の取材もできますよ。みんな、それが取れないから、取材パスの獲得を目指してるだけですから」
「私、無理じゃない?」
魂が抜けたように呆然としてイスに座り込む笹田を、
「いまさら」
石神が笑い飛ばした。
「悪魔、悪魔や……」
「これで売り上げをガツッとあげて、カイリと一緒にタヒチ特集号をやりますから」
「怜、オマエ……」
「行きましょうね。タヒチ」
にっこりと微笑む。
美しいだけにおそろしい。
「笹田さん、大丈夫ですよ。ドレスのレンタル料金もちゃんと経費で落ちますから」
「そういう問題じゃないのよ。石神くんはキレイだからいいけど、って言うか!」
笹田はパッと立ち上がり、
「女よりきれいな男にエスコートされるなんてイヤ!」
本心を叫ぶ。
ニコニコと上機嫌に微笑んでいるリタに袖を引かれ、石神は状況を説明する。
カイリは同僚の肩を叩いた。
「もうしゃーないで。少なくとも編集長は大喜びするし。……この際、タヒチは笹やんも行こう。好きなモデルを連れて行けばええやん」
「カ、カイリさん~……」
ひ~んと差し伸ばして来る両手を握ってやる。
「笹やんもちゃんとお化粧したら、かわいいんやから、心配ないで」
なぐさめてやりながら、カイリは天井を仰いだ。
これは誰の陰謀だろうか。
何を話しているのか、聞き耳を立てても聞き取れない会話をしている二人に目をやった。
南国で咲き乱れる大輪の花のようなリタと、
普段は気配を隠しながらも、魔性の色気を秘めている石神のツーショットはさまになる。
二人は双子のようにフンイキが似ているのだ。それがお互いにもわかっているのだろう。
会話をする姿は、昔からの友人のように和んでいる。
カイリは妙に納得した。
どちらも、トラブルメーカーだ。
しかも、性的に乱れている、というか奔放なところもそっくり。
とんでもない二人が並んでいると思ったが、いまさら引き剥がせない。
これ以上、親密にならなきゃいいなと願うだけが精一杯だった。
***
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