第4話

  ※2



「あー、ごくらく。ごくらく」

 お湯を揺らして浮上したカイリは、激しく髪を振って泡を飛び散らした。

 きめの細かい泡は、ジェットバスを満たしている。

「カイリ、それをするなって言ってるだろ」

 ドアを開けたサトルが、赤いトレイを片手に持って腰に手をあてた。

「あ」

「あ、じゃない。せっかくドライにしても、水が飛び散ったら意味がないだろ」

 ギャルソンのように指を立てた上に乗っているトレイには、青い瓶ビールが二本。

 バツが悪くて鼻先まで水の中に戻ったカイリを視線で叱り、薄手のバスローブを羽織ったサトルはジェットバスのそばにトレイを置いた。

「出ておいで。泡が鼻に入るだろう」

 子供みたいなしぐさにあきれて、サトルは髪をかきあげながら声をかける。

 バスルームとは別に作られたジェットバスは、湿気がこもらないようにドライ機能がついていて、湯に浸かりながらしつらえられた中庭が眺められるようになっているのだ。

「何回も言うけど、バブルバスで髪を洗うと痛むよ」

 バスローブをフックにかけて、長い髪をまとめてヘアクリップでとめて、広いジェットバスに入る。

「いまさらやろ」

 いつものように、素知らぬ顔で視線をそらすカイリの耳をひっぱった。

「ただでさえ痛んでるのに」

「リンスしたって意味ないやん」

「俺の手間ひまを、全否定したな、いま」

「してへん。してへん」

 へらへらっと笑いながらサトルの指を振りほどき、カイリはビールに手を伸ばした。

 時計の針は深夜を回っている。

 残業を終えて帰って来たカイリは、夜食をつまんですぐに、サトルが用意してくれていたジェットバスに飛び込んだのだ。

 新婚夫婦にありがちな、「おかえりなさい。ごはんにする? それともお風呂? それとも、わ・た・し?」という問いかけには、「食欲、次に睡眠欲」と答えるだろうカイリは、うっかりすると、何日もフロをめんどくさがるタイプだ。

 なんだったら、寝ている間にサトルが吹いておいてくれたらいいのにとも思っている。

 それほど寝ぎたなくても、意外と定期的に性欲は満たしておきたい動物的な男だ。

「あとで、流さないトリートメントな」

「べつに、俺はオマエみたいにちゅるんちゅるんな髪やなくてもええんやし」

「俺は、少しでも手触りいいほうが嬉しい」

「そんなこと言うても、俺のナイロンみたいな感触も好きやろ?」

「ナイロンのほうが、まだ上品だよ」

 カイリからビールを受け取って、サトルは笑いながら指を伸ばした。

 濡れた髪に触れる。

 潮で傷んだ髪は茶色い。

 濡れていても、スカスカのきしんだ手触りがした。

「やらしい触り方すんなよ」

 身体を引く。

「ビールぐらい、ゆっくり飲ませてや。家で飲むために寄り道もせんと帰って来てるやろ」「俺のために」

「ううん。俺のために」

 楽しそうに答えてビールをあおる。

「そーいや、俺、来週は出張」

「いつから?」

 浴槽のふちにひじを預け、水のしたたるカイリの毛先をいじりながらサトルもビールを飲む。

「月曜から一泊」

「週明けからか」

「旅行記事の写真撮影で。日帰りでもええんやけど。翌日は予備日」

「わかった」

「さびしいやろ。最近、出張なかったからな」

 からかうように笑うカイリに、サトルは余裕の笑顔を返して、指で首筋をなぞった。

「そういうことを俺にきくわけか。ふぅん。教えてやろうか。どれぐらい、さびしいか」

「いや、いらん。ビール半分残ってるし」

 な? っと首を傾げながら、瓶を顔の前に掲げた。

「さびしいよ」

 ビールを掴むカイリの指に手を重ねて、サトルは微笑みながら瓶をさかさまにした。

「うわ、わわわ」

 あわてて抗う力にも負けず、サトルは残りのビールをすべて泡の中へ流しきった。

「もったいない! サトル! もったいないおばけが出たら、おまえのせいやぞ」

「はいはい。出たらね」

「おっまえ……」

 取り上げられたビールの瓶がジェットバスの外に置かれ、サトルの手は泡の下、柔らかな湯の中に沈み込んだ。

「あかんって」

 追いかける指が、下腹部を探るサトルの手を引っかいた。

「わかってる、わかってる」

「わかってへんやろ」

 言いながら、カイリは指から手を引いた。

 耳のそばにキスをされて、からだの力が抜けるままに目を閉じる。

「あぁ、俺のビール」

 思わずため息が漏れる。優しく愛撫を始めていた、サトルが笑った。

「雰囲気って知ってるよな?」

「漢字は書かれへんで」

「じゃあ、カタカナでいいから、頭に思い浮かべてみて」

「フンイキ……」

 バカ正直に応えて試してみたカイリは、なるほどと息をついた。

 そっと挑んでくるサトルの指に、身体が少しずつ反応を示してくる。じわじわと滲み出てくる性欲の高まりに、カイリは身も心も預けるようにうっとりと目を閉じた。

 一日の疲れが、皮膚に浮かび上がって、そして泡に溶けていくような心地よさだ。 

「ほんと、単純だな」

 やわらかな息に肌をくすぐられて、カイリは自分からくちびるを求めた。

 ビールのことを忘れたわけではない。

 頭の端では、サトルが残しているビールがぬるくなることばかり気になっているのに、勃起し始めた股間の分身のように、気持ちがスイッチし始めていた。

 一日の仕事をやり終えて帰り着くこの家で待っている、夕食や夜食も、ビールやあたたかい風呂も、カイリにとって今ではなくてはならないものだ。

 そして、サトルと交わす情愛の行為も。

 快楽のための遊びだと言うには、心地が良すぎる愛撫だ。

 肌をなでられたら、震えが走り、やわらかく抱きしめられたまま眠りに落ちたくなる。

 もちろん、ほどよく疲れる行為をしてからだ。

 激しい性欲ではなく、やさしい情欲で濡れたままで抱き合う淫靡さは、心の奥の凝り固まった何かをもみほぐすような営みだ。

 性愛が本来は心をさらけ出し、互いを見つめ合うためのものだと言うことが今はよくわかる。サトルとするセックスを、他の人間と同じようにできるとは思えない。

 絶頂の瞬間、本当に無防備になる。それを動物的な本能は恐れているから、本気のセックスは心を許した相手としかできない。

 人間の真理だ。

「気持ちいい?」

 手の中の反応でわかっているはずのサトルがささやいた。ぼんやりとガラスの向こうに視線を投げていたカイリは笑う。

「ビール、ちょうだいや」

 サトルも笑った。

 セクシャルな部分に触れているのに、サトルはもう一歩を踏み込もうとしていない。

 やわやわと揉みしだかれて、カイリの分身もソフトなマッサージにうっとりと半分ほど起き上がっただけで、後はまどろんでいる。

 サトルからビールの瓶を受け取り、カイリはもそもそと移動した。

 察したサトルも身体の向きを変えてカイリがいた場所に収まり、胸で背中を受け止める。

 浅めのバスタブの中でカイリはだらりと伸びた。

 ガラスと水平に入れば、横たわって足先まで浸かることができ、今のようにガラスに向かって入ると、足首から先がバスタブのふちにのぼる。

「あー。ごくらく♪」

 まだ冷たいビールが喉を潤した。

 サトルは無理強いをせず、カイリへのいたずらをやめて、肩と脇の下あたりに腕を回して引き締まったからだを抱いている。

「カイリ。出張から帰ったら、紹介したい人間がいるんだけど。いいか」

「なに? 親とか?」

 ふざけて答えるカイリの足の指先がぴこぴこ動く。

「親か……」

 サトルは静かに反復した。

「ごめん。悪い冗談やったか」

 身体をずらして、カイリが頭を湯につけながら見上げた。

「溺れるだろ」

 腕で支えながらサトルは苦笑する。

「いればあってもらいたいけどな」

「亡くなってはんの? うちは、片親で。オヤジは会ったことないし、死んだって聞いてる」

 聞いてはいけないことを聞いてしまった気まずさを打ち消そうと、カイリは自分の身の上を饒舌に語り出す。

「母親ももうとっくに死んだ。大阪で」

「カイリ。別に、気にすることじゃないから」

 サトルは穏やかに笑った。

 いまさら口にしてもらわなくても、サトルはすべて知っている。

 カイリのことなら、ほとんど。

 姉が大阪に一人いて、もう何年も会っていないことも。

「親とは生き別れてる」

 まだ話していない、過去の話だ。

 真剣に聞こうとするカイリの目が、子供のように無垢に澄んでいる。

「乳母に育てられたけど、物心がつく前から教育を受けてきたから、育ての親もない……」

 なんでもないことのように口にしたサトルは、実際にも、なんでもないことだと思っていた。

「普通じゃ、ないんだよな?」

 生みの親がいなくても、育ての親のいるのが普通だと知ったのはいくつのときだっただろうか。

 カイリに問いかけながら、サトルは考えた。

 思い出せないのは、そんなことを聞いても、子供心に別世界のことにしか思えなかったせいだ。

「かなり普通やないな。俺もアレやけど」

 ぽかんとした表情を一転させて、カイリは明るく笑い飛ばした。

 自嘲するような乾いた笑いが貼りついた頬を濡れた手で撫でる。

「ほんまやったら、俺とこうしてることなんて、絶対になかったんやな」

「それはどうかな」

 カイリの爪にキスをする。

「ニースあたりの別荘に軟禁してたかもな」

「また軟禁! いややな。心底、いややな」

「どうせ、そのうちにあきらめるんだから、一緒だろ」

「あきらめたわけやないし!」

「そうだっけ」

「そうや!」

 力説したカイリは、自分の手をサトルから取り戻した。

「一人だったわけじゃないよ」

 サトルの言葉に、ビールをジェットバスの外に置きに行っていたカイリが振り返る。

「一緒に過ごした人間はちゃんといるから」

「でも、お側つきの遊び相手みたいなもんやろ」

「まぁ、そうかな」

「今日から、サトルのことは将軍て呼ぶわ」

「呼ぶな」

 手を伸ばして、カイリを引き戻す。

「もうビールはいいだろ」

「だいたい、ないやん」

「ほっとくと取りに行きそうだ。で、また廊下を水浸しにされたらたまらない」

「あぁ、ごめん。そんなこともあったなぁ」

「三日前もしてたけどな」

「すんませ~ん。で、俺は誰と会うん」

 素直にサトルの腕の中に戻り、カイリは目の前に水上の泡をかき集めた。

「資産管理なんかを任せてる人間」

「はぁ……、女か」

「どうしてわかるんだよ」

 カイリのへそを指でくるりとなぞって、サトルの指がおりていく。

 くすぐったさに身をよじりながら、

「人間、なんて持って回った言い方、相手が男ならせぇへんやろ。しかも美人やと見た」

「美人だと思うよ。でも、寝たことはないけどね」

「あぁ、それは信用するわ」

 さらりとカイリは肯定した。

 サトルは意外そうに眉を跳ね上げ、

「どうして? あっさりだな」

「資産管理、頼んでるんやろ? 財産を管理されてる相手と繋がったら、人生押さえられてるも同然やろう」

「そうか。考えたこと、なかったな」

「……」

 沈黙した後で、よいしょとからだを反転させて、サトルの足の間に座って向かい合った。

「望月の人間なんやな」

「そうだよ」

「関係は切れてるんやろ」

「切れてる」

「のに、まだ望月の人間が噛んでくるって、大丈夫なんか、それ」

「……心配してくれるんだ」

「俺なんかが気になることは、全部クリアになってるよな」

「すねるなよ」

 つんと横向いたあごに指をかける。

「好きにしていいって許しが出ただけで、いつだって数には入ってるんだよ。望月に生まれて、誰もが親なしで育つわけじゃないからな」

 鼻先にキスすると、カイリが顔を振って逃げる。

 サトルは楽しげに笑う。

「本家を継ぐかどうかって人間は、もしもを考えて複数育てられる。俺は本命のうちの一人だったわけだけど。望月から永久に逃げようと思ったら、死ぬしかないよ」

「とんでもないこと言ってんなぁ」

「俺が生きてるのは、総帥のスペアとして、もしものときは呼び戻すつもりだからかもな」

「戻んの?」

「もしものことなんて起こらないよ。そばについてる人間が絶対にさせない」

 強い口調で断言したサトルは、

「ずっとカイリといるから」

 甘く声をひそめた。

「ごまかしたな」

 にらむカイリに、

「この話はまた今度な」

 サトルが話題を終わらせる。

「まぁ、ええわ。聞いたって、別世界過ぎて意味わからんし」

 どちらともなく、くちびるが重なる。カイリはサトルの肩に腕を投げ出し、サトルはバスタブに背を預けてカイリの胸に手のひらを当てた。

 骨格をなぞるように肌を撫でる。

「んっ……」

 水にあたって硬くなっていた乳首を指に探り当てられ、カイリが息を呑むようにくちびるを引き結んだ。

 サトルと付き合うまでは、いじってもいじられても、くすぐったい以上の感覚はなかった場所だった。

 指にこすられ、押し付けるようにこねられ、カイリは片手をサトルの首筋にすがらせてキスを求めた。

 ただ触れられるだけなら、ゆるやかな快感のスイッチにすぎない。

 しかし、キスをしながらだと、乳首への愛撫は腰から上へ下へと体中へ広がる性感に変わっていく。

 ちゅっ、ちゅっ、と濡れたキスで舌を絡ませ、くちびるを離すたびに二人は深い息をつく。

 求め合う焦りのような気配に急き立てられて、サトルは二人の間で立ち上がっているカイリを握った。

 カイリも片腕を湯の中に戻して、追いかける。

 互いは同じ硬さを持ち、それぞれに慣れた肌触りを感じた。

「カイリ、疲れてるんだな」

 乱れる息の合間に、サトルが言った。

「え……? ん、あぁ、そこっ……。それ、それ……」

 サトルの首筋に頬をすり寄せて身体を支えながら、カイリは腰を揺すった。

 毎日、日課のように触っているから、相手の体調の変化が腰下ではかれる。

 サトルのそれは特技の域だ。

「なぁっ……、今日、……いれんの?」

「うん?」

 どうしようかと誘いかける声でサトルは答えた。

 本心で、どちらでもいいと思っていた。どうしても抱きたいほどの欲求があるわけではない。カイリが疲れているなら、無理強いはしない。

 しかし、カイリが欲しがって、そんな言い回しをしていることはわかっている。だから、あえて言葉では焦らし、遅れて指先で入り口をなぞった。

「入れようか。カイリ、このまま、またがって」

 サトルに促される形で、カイリは腰を落とした。

「あっ、くっ……」

 ほとんど慣らすこともなく、カイリが呑み込んでいく。

「ゆっくりで、いいから」

 窮屈さはサトルも同じだ。

「……いきそうなんやろ?」

 しかめた眉のまま、片目をちらりと開く。

「まだまだだよ」

「そうか」

 根元までは入れず、カイリはゆっくりと腰を動かした。

「うっ、ん……」

「ふ、……カイリ……」

 背中を抱き支える指で、まっすぐな背骨をなぞる。

 カイリは両手でサトルの頬を包んだ。

「……はぁ……。えぇ、気持ちや」

 浅い繋がりで繰り返し慣らしたカイリは、息を吐くように独り言をつぶやいて腰をさらに落とした。

「気持ちええなぁ、サトル」

「愛してるよ」

 言葉の柔らかさとは裏腹に、腰を揺すり上げる。

「んッ……ん……はぁっ、おく……」

「あたってる……?」

「ふっ……、ん、ん、ん」

 リズムをつけて、奥を突きあげるサトルの動きに合わせて、カイリは自身をこすりあげた。

「あっ、あっ……、いく……かも」

「うん? いいよ」

「早くてごめん」

 カイリのセリフに思わず笑みがこぼれる。

「気持ちいいよ。充分」

 言いながら、リズムを早めていく。

「あっ……! ん、くっ……!」

 カイリがのけぞった。湯の中に、あたたかいほとばしりが散る。

「あああああ~……」

 ふざけた声を出して、

「きもちよかったぁ~」

 サトルにもたれかかった。

「ごめんやで。明日は俺がサービスするわ」

「珍しいことを言うんだな」

「最近、ずっとやもんな。さすがにな」

 ぼやきながら、からだを離した。

 大きなあくびをするのを見て、サトルはジェットバスから出た。

「髪を乾かしてから寝ないとダメだからな」

 袖を通したバスローブの紐を手早く結んで、カイリのバスローブを手に取った。

「乾かしてやるから」

「はぁい。おねがいしますぅ」

 オクターブ高い声色を作って、カイリもジェットバスから出た。

「トリートメント、トリートメント」

 カイリの肩にバスローブをかけて、サトルは忘れないように繰り返した。



  ***

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