第3話
白衣をロッカーに戻す。着替えた白シャツとスラックスを紙袋に入れ、ストールを首に巻く。
休憩室を出ると、昼食を食べに行く看護師たちと鉢合わせになった。
「望月先生、今日は上がりですか」
「ストールが素敵ですね」
働いている看護師の女の子たちが屈託なく明るいのは、小さな医院だということより、責任者の看護師がおおらかだからだろう。
肝っ玉母さんという言葉が似合いそうな恰幅のいいベテラン看護師は、今日も目を細めて女の子たちを眺めている。
サトルは彼女に会釈をしてから、女の子たちに答えた。
「明日は休むから、週明けに」
「お休みなんですか」
「旅行とか?」
カノジョはいるんですか、と続きそうなテンションに、
「こらこら、人のプライベートなんだから」
ベテラン看護師が割って入った。
女の子たちはそろってぺろりとかすかに舌を出した。
「はーい。すみませ~ん」
「望月先生、お疲れさまでしたぁ」
「それじゃあ、お疲れさまです」
さぁさぁと、羊の群れを追いやるようにベテラン看護師が手を動かすと、女の子たちは素直に歩き出す。
大通りへ出る彼女たちとは反対に、駅への近道になるわき道へ入った。
週五で働いているとはいえ、サトルはタイムパート医者だ。夜間救急に対応することもあるが、それはあくまでも院長の体調や都合が悪いときだけで、めったにはない。
ほかに掛け持ちしている職場もないし、いたって気楽なサラリーマンだ。
だからこそ、看護師たちがプライベートを詮索するのも仕方がない。
医者が高収入なのは個人医院を経営しているか、大病院に勤めている場合がほとんどで、サトルのような勤め方ではありえない。
それでもサトルは見るからにリッチだし、悠々自適が身についている。
だいたい真面目な医者は肩より長い髪をうねらせたりはしない。サトルの髪は天然パーマだが、それでも長く伸ばしたりはしないだろう。
そこについて、院長は個性だと面白がるだけだ。
閑静な住宅街を抜けて、大通りから駅へ着くと、サトルは駅の反対側へ出た。
そばの駐車場へ入る。
中央付近、存在感のあるシャイニングレッドの外車が停まっていた。
春の暖かな日差しの中で、幌を全開にしたコンバーチブルの運転席には大きなサングラスをかけた長い髪の女が座っていた。
「おつかれさまです」
迷いなく隣に乗り込むと、サングラスをはずして微笑んだ。長い髪が肩にたわんで艶めいた波を打つ。
「運転しようか」
サトルが声をかけたが、サングラスを元に戻してエンジンをかけた小百合はギアを静かに入れ替えた。
「ご心配なく。いつもどおりの安全運転ですから」
「東京じゃ、飛ばす場所もない」
「ええ、夜の首都高以外は」
不穏な一言を残して、車はすべるように走り出した。
ダッシュボードに入っているサングラスをかけたサトルは、ドアにひじをかけて、流れていく景色へ見るともなく視線を投げる。
都心の道路に出ても、排気ガスの渦よりもまどろみのような日差しが勝っていた。
「昼食はルームサービスで頼んであります」
ホテルのバレットサービスに車を預けた小百合は、ギャザーのたっぷりとしたフレアスカートを揺らしながら、豪奢な生け花で飾られたロビーの中に入っていく。
細いヒールが大理石に鳴った。
「君も一緒に」
エレベーターホールで待つ間に、サトルが言うと、
「ありがとうございます」
小百合はにこりと微笑んだ。
もちろん、初めから用意させているのだが、二人にとっては必要なやり取りだった。
「どうぞ」
クラッチバッグを持った手で、小百合が到着したエレベーターのドアを押さえる。
同乗した人間がいれば異質な二人に驚いたかもしれない。小百合は秘書と呼べるほどの雰囲気ではないからだ・
どちらかといえば、良家の令嬢といった雰囲気で、人の世話をするようにはとても見えない。
「予定に変更はありませんか」
「いいよ。今のままで」
「お店は押さえてあります。先方の希望通り、和会席にしました。赤坂のいつもの店です」
「一緒に、食べるだろう?」
エレベーターが最上階に着いた。
またドアを押さえようとした小百合の手が止まる。サトルはすかさず『開』のボタンを押して小百合の背中を促した。
「私はご一緒できません」
「毎回、同じセリフだな」
サトルが苦笑すると、小百合は乱れてもいないスカートを整えるように揺らして、子供っぽい目をあげた。
長いまつげがかすかに震える。
毎回、同じように断るのに、毎回、同じようにサトルの命令には逆らえないのだ。
「関係を持ったのが、すべての間違いでした」
ジュニアスイートルームの鍵を開ける。
今度はサトルが先に入った。
ストールを取ると、小百合が受け取る。
ジャケットも、シャツも、後ろについて回る小百合に渡した。
「先にシャワーを浴びる」
「では、昼食のご用意を」
バスルームの前で、小百合は顔を伏せて一歩下がった。
「うん」
サトルはあいづちを返して、中に入った。
服を脱いでカゴに入れ、熱いシャワーを浴びる。
お湯のしぶきの中で、サトルは何気なく自分の手のひらに目をやった。
少し前まで、昼食はほとんどカイリと一緒だった。
時間になると医院にやってきて、診察室で戯れた後、休憩室でからだを重ねた。
カイリはおぼえたての快楽をむさぼる少年のようだった。ひどく扱えば、それさえそれなりに楽しみ、濃厚に愛撫すれば、戸惑いながらも素直に快感に溺れた。
その類まれな素直さが、サトルの気持ちを複雑にさせた。
手に入れたいという、ただの欲望が、カイリとからだを重ねる時間の中で、必要にされたいという感情に変わって行ったからだ。
朝、触れたからだの感触が、昼になると薄れてしまう。
感覚の頼りなさに心を冷やしたこともあった。なのに、慣れていく。
泡だらけにしたからだを柔らかなシャワーで流しながら、サトルは目を閉じた。
バーヴェナのさわやかな香りが神経をリラックスさせてくれる。
慣れたわけではない。
不安を感じることがないぐらいに、カイリとの記憶が増えただけだ。
何より今は、夜になればかならず帰ってくるとわかっている。
カイリのこととなると、とことん弱い自分を笑いながら、シャワーを止めてバスローブを羽織った。
「シャワー、浴びないのか」
バスルームを出て、小百合にそっと忍び寄る。
「お化粧をイチからしないとダメになりますから。ご遠慮します」
ふふっと笑った小百合は、
「カイリさまに告げ口しようかしら」
いたずらっぽく言いながら振り返り、濡れたサトルの髪に気づいた。
「昼食のご用意はできてますけれど、おぐしを先に乾かしましょうか。お風邪を召されそうですわ」
言うなり、ふわりとスカートを翻して足早にバスルームへ入っていく。
「着替えもご用意できてます。おでかけには何をお召しになります?」
ドライヤーを手にした小百合に、イスを勧められる。腰掛けたサトルは髪を拭かれながら答えた。
「任せるよ」
「わかりました」
ドライヤーの音が高く鳴り響き、二人はしばらく黙った。
細い指が髪を梳きながら、丁寧に乾かしていく。サトルは目を閉じた。
髪を乾かしてやると目を閉じるカイリは、まるで大型犬のように従順だ。気持ちがいいと褒められる。
手本は小百合だ。
「サトルさま。……カイリさまにはいつお話になるんですか」
髪が乾ききる前に、ドライヤーの音が止んだ。
「いつ、だろうな」
他人事のように返したのは、頭の中がカイリの髪の感触でいっぱいだったせいだ。
「あまり先延ばしにされない方がいいと思いますけれど」
でも、サトルの意向に反する気はないのだ。
「あいつが、アパートを引き払ったら、そのときにするよ」
「気にしておいでなんですね」
「……しないわけはないだろ」
サトルは立ち上がった。
「着替えを手伝ってくれ」
「承知しました」
小百合が応える。
サトルが寝室に移動すると、小百合は部屋着をベッドへ並べた。肩から落としたガウンをさっと拾い上げて出て行き、下着とズボンを穿いた頃に戻ってくる。
小百合との付き合いは長くないが短くもない。
望月家を出たサトルが、大学を卒業してからだから、十年ほどになる。
出会った頃の小百合は少女の面影が濃く、望月の家が送ってきた刺客だろうと踏んだサトルはずっと距離を置いていた。
いつからだっただろう。
心を開くようになったのは。
小百合は少女から一人の女になり、サトルの身の回りのすべてを切り盛りするようになった。
手をつけてくれないのは、自分が望月の人間だからなのかと、小百合が泣いたこともあったが、否定と肯定を繰り返して、今の今まで二人のあいだに性的な関係はない。
今となっては小百合もさっぱりとしたもので、関係を迫った過去を消し去りたいと口にする。
表面的にはビジネスライクに振る舞っていても、二人は兄弟のようであり、仲の良い友人のようなものだ。
「カイリさまが、サトルさまをお嫌いなはずはありません」
「うぬぼれてはいるけどね」
「あんなことをなさったのに、カイリさまは寛大な方ですわ」
サトルのシャツのボタンを留めながら笑う。
二人の間で起こった出来事のすべてを知っている人間がいると知ったら、カイリはどうするだろう。
激怒するか。拗ねるか。
それとも、グレるか。
「愛だよ」
厚顔無恥な一言に顔を伏せ、小百合は一息置いた。
「そうですわね」
そんな一言で済ませることのできる毎日でなかったことを知っていて何も言わない。
それが、仕える者の務めと分別をつけているかのようだ。
小百合がサトルに意見することはありえない。普段は軽口を叩いていても、決定は絶対だ。
あのときもそうだった。
鎖につないだカイリの世話を頼んだときも、小百合は理由も聞かず、とがめることもしなかった。
小百合にとってはサトルだけが至上で、そのほかのことは眼中にない。
それが、望月家の郎党の、本家の人間に対するスタンスだ。
「サトルさまのそばに、私のような女がいることを、カイリさまがお怒りにならなければいいんですけれど」
「ないだろ。うっかり惚れてたとしても、そんな嫉妬はしない男だ」
カフスのボタンをつけてもらいながら、サトルは静かな笑みをこぼした。
カイリが固執するのは、愛する海だけだ。
夜の海でも、冬の海でも、かまわずに入っていく。あの男の還る場所。
それにサトルが嫉妬しても、カイリがサトルの生き方に文句を言うことはないだろう。
「遅かれ早かれ、いつまでも黙ってもいられないな」
長い髪を無造作にまとめて肩にたらしたサトルは、姿見に映る自分をちらりと確認して息をついた。
知っておいてほしいことと、知られたくないことが、あまりにも混在しすぎていて、自分でも把握が難しい。
知ったところで、カイリは驚いた顔をしたあと、深いため息を吐き出すだけかもしれないが。
「付き合いが深くなると、こんなことで悩むとはな」
食堂に移動して、冷製パスタの前に座ったサトルはしみじみと言った。
「一般人の真似事はたいへんお疲れになるでしょう」
小百合が笑う。
それに対しては何も言い返さなかった。
春の温んだ気温を考慮して小百合が選んだ冷たいパスタは喉ごしも心地よく、常温の甘いワインを一緒に愉しんだ。
その後は、資産運用に関する報告を聞いて、約束の時間までは個室でくつろいで過ごした。
小百合が部屋のドアをノックするまで、サトルがしていたことは、一週間の献立を考えることだ。
不摂生になりがちなカイリの食生活のため、外食を考慮してのカロリー計算と栄養バランス。好きな料理と、苦手な食材を克服させるための料理のバランスも。
手帳にあれこれと書き付けていたサトルは、身支度を調えた小百合を見て表情を和らげた。
淡いピンクのシフォンワンピースに、すかし編みのボレロカーディガン。長い髪を巻いて、ハーフアップにしている。
清楚な色気がピンクベージュの口紅に滲んでいた。
「きれいだね」
「ありがとうございます」
ふっとうつむき、頬を染めた小百合が、視線だけをあげた。
「けして、大滝氏のためではありませんから」
眉毛がきりりと上がった。
小百合が客人を『さま』の敬称で呼ばないことは珍しいことだが、大滝悠護に限っては毎回同じことを言われている。
もちろん理由があってのことだ。
「でも見惚れるんじゃないかな」
ライティングテーブルのイスから立ったサトルを、小百合が不満げに見上げた。
「それはあちらのご勝手です」
辛らつな言葉だ。
「サトルさまのご命令でなければ、同席なんてしません」
これも毎回のセリフ。
「
「早くお召し替えになってください。時間ですから」
小百合はツンツンとまくし立てた。機嫌が悪い。
大滝悠護は、サトルの友人の一人だ。
神奈川で絶大な力を持つヤクザの跡取りだったが、自分の性には合わないと継承権を放棄して、日本にはほとんど居つかない、本物の風来坊。
サトルが同じように大財閥のトップの座を捨てたことも知っている数少ない友人であり、それゆえに悪友だ。
海外を放浪する金のすべては、サトルの資産の一部を運用するトレイダーとしての手数料で賄っている。
その悠護と小百合は、かつては恋人同士だった。
おそらく好き合っていたはずだが、小百合のつれなさは半端ない。
悠護には未練があり、日本へ帰ってくるのは小百合に合いたいがためだとサトルは思っている。
それがいつも、損害の謝罪報告なのが小百合には許せないのか、それとも、悠護と関係を持ったことが青春のあやまちとでも考えているのか。
女の複雑な気持ちを見透かす術はなかった。
だから。
「あいかわらず、きれいだな」
部屋に入った小百合を振り返り、悠護が目を細めて放った一言にも、盛大に眉をひそめた。
嫌悪を隠そうとしない姿に、サトルは友人に同乗しながら苦笑する。
赤坂の料亭の一室で、先に来ていた悠護は縁側に腰掛けて煙草をくゆらせていた。
「今から食事だというのに……」
ツカツカと歩み寄った小百合はひざをついて煙草を奪い取ると、脇に置いた灰皿で乱暴にもみ消した。
「あなたには料亭も居酒屋も同じね」
「元気そうだな」
小百合の言葉を右から左に聞き流して、ロングTシャツにネックレスをジャラジャラと重ねづけした悠護は眼を細めた。
「席についてください」
つんと顔をそらして、小百合は自分の席に収まった。
サトルも静かに腰を落ち着ける。
悠護はのろのろと立ち上がって、よっこらせと掛け声を口にしながらあぐらをかいた。
『こっちに来たら、日本語の早すぎるのなんのって、女子高生のあれって早口言葉だろ』
悠護は日本語なまりのフランス語でまくし立てた。
小百合が咳払いをして、
「日本語で。きちんと」
ゆっくり、はっきりと言う。
「なんだよ。サトルだって、こっちのが得意だろうが」
「サトルさまがお話になったら、あなたの耳が付いて行かないでしょう?」
「まぁ、それもそうか」
落ち着いたところを見計らったようにドアの向こうから声がかかり、部屋係が姿を見せた。
初めから頼んであった、日本酒のぬる燗と先付けがテーブルの上に並べられる。
一通り終えると、部屋係が物静かに退室して、
「えー、このたびは」
悠護がひざに手を置いて声を大きくした。
「月間運用に大幅な損益を出してしまいまして、申し訳ありませんでした」
いつもと同じ言い回しだ。
サトルは、小百合からの酌を受けながら笑った。
立ち上がった小百合が今度は悠護のそばまで行って、お猪口を持たせた。
「いいかげんにしてくださいね」
低い声で言ったのには理由がある。
たまに損益を出す悠護だが、トータルで資本を割り込んだことは一度もない。
損益が億単位でも、利益はその数倍ある。
小百合も、なぜ運用に失敗するのか、それが単なるポーズであることを知っていた。
悠護は酌を受けながら、小百合の顔を覗き込んでにこりと笑った。
ゴロツキのような格好をして冷ややかなまなざしをしているが、笑うと途端に子供みたいな顔になる。
だから、小百合も突き放しきれないし、その自分の優柔不断さを目の当たりにするのが嫌で、余計に悠護との食事には参加したがらないのだろう。
つつけば燃える、感情のおき火がある。
「気をつけるよ」
小百合をじっと見つめて、悠護は謝った。
「私に向かって言われても」
「うん」
それでも悠護は可憐な横顔から目をそらそうとしない。小百合はあきらめて自分の席へ戻った。
サトルが酒を勧めると、小さなお猪口を両手で掲げる。
三人のお猪口が酒で満たされたところで、サトルが音頭を取って食事会が始まった。
「やっぱり、日本食は本場が一番」
料理に口をつけるたびに悠護が同じことを繰り返す。
「フランス人のセンスには正直、ついていけなくて困る。でも、イギリスのチップアンドフィッシュ漬けも胃が死ぬしな。だいたい、海外の日本食レストランのオーナーはチャイニーズかコリアンだし。本物じゃないよな」
「食にうるさいんだから、お抱えシェフでも雇えば?」
焼き物に手をつけながらサトルが提案すると、
「いや……、それもやってみたんだけど」
口ごもる悠護の続きは、冷たい目の小百合が受け持った。
「手をつけておしまいになるんでしょう」
冷淡な口調だ。
ハハッと笑って、
「小百合はなんでもお見通しだな」
と応える、
「呼び捨てはやめてください」
「小百合さん」
「……」
言葉をぐっとこらえて、小百合は重い息を吐いた。ちらりとサトルに視線を送る。
気づいたサトルは肩をすくめた。
「無理させてる?」
「仕方がありませんわ。私がイライラするのは、サトルさまのせいじゃなくて、この人のせいですから」
「ですよねー」
ふざける悠護は酒のせいもあって、上機嫌ににこにこ笑う。
怒られようが、蔑まれようが、かまってもらえれば、それだけで嬉しいに違いない。
「あぁ、そうだ」
悠護がくるりとサトルを向いた。
「なに」
「オンリーの恋人、できたんだって?」
「リタか」
箸をとめる。
フランスに住んでいる共通の友人だ。
小百合が二人の間で視線を行き来させた。
「今回、おまえの恋人に会おうと思って来たんだよ」
「……決定なんだな」
「ダメなわけ? 普通、見せびらかしたいんじゃないの」
「俺は誰にも見せたくないタイプ」
「だっけー?」
首をひねって、
「だいたい、おまえがオンリーを作ること自体がまれだろ」
軽口を叩いた。
「あなたと一緒にしないでください」
小百合が眉を吊り上げる。
「とっかえひっかえと、同時進行が、そんなに違うかな」
「どちらもサトルさまのことじゃないわ」
「そうかなぁー。なぁ、サトル?」
にやにや笑う悠護を、ほほえみで軽くいなして、
「今となっちゃ、若い過去だな」
さらりと答えた。
悠護が高く口笛を鳴らす。
「そんなに、イイんだ。男って」
「リタから、それも聞いたのか」
「聞いたよ~。褐色の肌の、よく笑う可愛い子って言ってた。そういう子をだましちゃいけないんじゃないのかぁ」
小百合がちらりと視線を向けてくる。視線を返したサトルは肩をすくめた。
誤解をそのままにしておくほうがおもしろそうだ。
その意図を読みとったのか、小百合は何も言わず悠護に顔を向けた。
「小百合は会ったことがあるんだろう」
「……」
「小百合さん。……見たことないわけはないよな」
「お会いしたことはありません」
「よっぽど大事なんだ」
ひひひと笑う。
「大事だよ」
サトルは臆することなく答えた。
「だから、おまえとは会わせたくないな」
「俺の誘惑に負けるタイプ?」
小百合がじろりと睨んでも、どこ吹く風だ。それどころかにっこりと笑い返す。
「落とせたら、褒賞ものだけどな」
「へぇー。身持ちがかたいんだ」
「男、だからな」
身も心も、ガチガチの男だ。
生粋の美少年でもないし、カイリの人生で、男に迫られたことはなかったはずだ。
サトルが力ずくでモノにしなければ、うっかりと関係を持つことはなかっただろう。
ただ、一線を越えると転がり落ちるようなところはある。
自尊心は人並みにあるが、気持ち良ければそれでよしとする、エピキュリアンだ。
「キョーミ、あるな」
「会わせないよ」
サトルは繰り返した。
「ホテル、チェックアウトして、おまえの家に泊まろうかな」
「何を考えてるんだ」
「退屈なだけ」
「プライベートスペースには泊めないよ」
「また、そんなつれないことを言うだろ」
「いつものことだろ」
サトルの言葉にちぇっと舌打ちした悠護は、タバコを探すしぐさをして小百合の視線をうかがい、あきらめて手酌で酒をついだ。
「俺を泊めておいた方がいいと思うよ。ゲストハウスにでも」
「どういうことですか?」
質問したのは小百合だ。
悠護はまた子供のように屈託のない笑顔を見せ、
「台風が近づいているからだよ」
日本酒をぐびりと飲み干した。
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