第2話

「もうそろそろ、アパートを引き払ったらどうだ」

 と、サトルに言われて、

「めんどくさい」

 と、カイリはいつものように応えた。

 そこで困った顔をするはずのサトルは、今日に限って、

「引っ越しなら業者に頼めば良いよ」

 さらりと受け流した。

「まぁ、そうやな」

 カイリはそうとだけ答えた。ほかに、何が言えただろうか。

 独立の話と同じだ。

 迷っている。

 自分の基盤を決めかねて、どっちつかずが楽になってしまっている。

 これは、あまり良くない。

 わかっているけれど、わかっているだけに、わかりすぎているだけに、動くことができない。

 いつでも逃げ帰る場所があれば安全だ。たとえ、それが初めから負けを意識している悪癖だとしても。

 初夏に刊行される予定の単行本の打ち合わせを終えてデスクに戻ったカイリは、イスにどすんと座って息を吐き出した。

 そのため息が、リエゾンする。

「うん?」

 振り返ると、

「ん?」

 隣の席の女性編集者が積み上げた雑誌の間から覗いてきた。

「珍しい。カイリさんがため息なんて」

 よいしょと掛け声をかけながら、雑誌の山を可動式のキャビネットから床へ下ろす。

 長い髪をひとまとめにクリップでアップにして、申し訳程度の薄化粧。日々の疲れが目元ににじんでいる。

「……疲れてんなぁ」

 いつもながら、と続けそうになった言葉は飲み込んだ。

「疲れもしますよ。今年も、あの特集をやるって言うんだもん。苦手なのよ~」

「なんやったっけ」

「これだから、カイリさんは」

 両肩をすくめて、笹田は重い息を吐いた。

「恒例の、セレブな男前特集! あれって持ち回りなの。ついに、回って来ちゃったんです~。もー、ホントどうしよう」

 頭を抱えて、イスに座ったまま地団駄を踏む。

「適当にやったら」

「できるわけがない」

 ぎろりと睨まれる。

「これで一年の売り上げが左右されるとか言われてるんだから。去年の人たち、まだ独身かなぁ」

「独身じゃないとあかんの」

「そうじゃないけど、独身ならモアベター」

「ふぅん。大変やなぁ」

「大変なんですよ! セレブで、しかも顔が良くて、取材オッケーの人を探すだけでも大変なんだから。それに、目玉になる人がいないとダメなんです。そのあてが、まったくないんですけど……」

 笹田の目がどんよりと曇った。

「セレブじゃなきゃ、出版部の宮下さんに土下座するのに」

「あぁ……」 

 つい先ほどまで、額を付きあわせて出版の相談をしていた相手だ。

 しかも、仲のいい友人だが、そこはあえて言わずに置いた。あとあと面倒なことになりかねない。

「真人はあいかわらずダメなん」

 指でバツ印を作りながら聞く。

 人気のエッセイストで、とびきりの男前だが、カイリが頼んでも顔出しはしない。前にもグラビア登場を交渉したが、無理強いするなら、いくらカイリが間に入っていても、『カレイドスコープ』では書かないとまで言われてしまった。

 編集長からも、交渉ストップのお達しが出ているはずだ。

「交渉もできないんです。こうなってくると、ねぇ?」

 笹田が、半分に減らした雑誌の山にひじをついた。

「石神くんがセレブだったら、って思うわけなんです」

「いや無理やろ。フツーのカメラマンやで」

 人物を撮らない主義のカイリの代わりに、雑誌に載せる人物写真を一手に引き受けるのが専属カメラマン石神怜だ。

 すっきりとした細面の女顔で、カメラマンにしておくには惜しいぐらいにインテリジェンスに溢れた魅力がある。

 カイリは個人的に、フルートを吹くかハープを爪弾いていれば絵になりそうだと思っているぐらいだ。

「ヤラセはあかんと思うわ」

「わかってる、わかってるけど。この際……って気持ちになるのが、この特集のこわさなんですよ~」

「わからんでもないけど」

「それなら、まだ、カイリが虎の子を持っているじゃないですか」

 ふわりと降ってくるテノールに、カイリと笹田が引き寄せられるように顔をあげた。

 噂をすれば影。

 ちょうど、話に出ていた石神がそこにいた。

 とろけるような風合いの、藤色のセーターが華奢なからだのラインを強調している。深いVネックから鎖骨が覗いて、いつもより色気が五倍増しだ。

「もう、あらへんで」

 カイリはイスの背をきしませた。

「いるじゃないですか。笹田さんも知ってますよ。一度、会社にも来たことある……」

「あの紳士!」

「それはムリや!」

 立ち上がった笹田が叫ぶのにかぶせて、カイリも叫んだ。

「どうしてですかぁ。ぴったりですよ!」

 笹田の目がランランと輝く。

「あいつは、セレブやない」

 余計な入れ知恵をした石神をにらみつけて、カイリは口からでまかせに嘘をつく。

「そんなはずない。すっごく仕立てのいい、スーツ着てたもの」

「あれは、一張羅やで」

「紹介してあげればいいのに」

 わざとトラブルを起こしたいらしい石神が意味ありげに笑う。

「怜、おまえなぁ。あいつに借りを作ったらどうなると思ってんねん」

「雑誌の売り上げの方が大事だと思うけど」

「れい~!」

「そうですよ、カイリさん。よくわからないけど、すっきりとあきらめて紹介してください」

「嫌です!」

 すくりと立ち上がったカイリのデスクの電話が鳴る。

「カイリさぁ~ん。お願いですからぁ」

 電話に出ている間も、笹田が腕にすがってくる。

「はいはい。だいじょうぶ。今すぐ行く」

 口早に答えて、受話器を置いた。

「笹田ちゃん。ごめんな。ほんま、ムリやから。勘弁して。それこそな、怜に聞いてみ? 一人や二人、絶対に知ってるから」

「悟さんには勝てないと思うけど」

「なんでもええから、見繕えや」

 サトルが絡むと冷静になれないカイリは、飄々とした顔でトラブルを好む悪い癖の石神にすごんだ。

 それさえどこ吹く風で艶然と微笑む。

「石神くん、知ってるなら、隠さないでよ!」

 今度は石神が縋りつかれる。後輩相手に、今度は一歩も退かない必死さが、振り乱す髪に現れている。

「あー、僕も借りをつくると色々と」

「貸しを返してもらう相手もおるやろ」

「カイリ!」

 今度は石神がたじろぐ番だ。

 カイリはひひひと意地悪く笑って、デスクを離れた。

 呼び出し電話の相手は、打ち合わせを済ませたばかりの秋沙だった。先ほどの打ち合わせ終わりに、手が空いたタイミングで昼食を食べに行く約束にしていたのだ。

 ロビーに下りると、出版物の見本が並ぶ棚を手持ちぶたさに眺める背中が待っていた。

「いいタイミングやったで」

「え?」

 振り返った秋沙が首をかしげる。

「厄介ごとに巻き込まれそうやった」

「そうなんだ。どんなの?」

「店、行ってからにしよ。腹が減った」

 行く店はもう決めてある。近所に新しくできた定食屋だ。

 というわけで、今日は、サトルの職場へは顔を出さない。どうせ夜は同じベットで眠るのだ。

 半日会わないぐらい、どうってことはない。

 と、心の中で、誰にともなく言い訳してしまうカイリは、店に付くなり編集部での顛末を話して聞かせた。

 その間に注文も済ませ、料理が運ばれてくるのを待つ。

「あの特集、本当に人気があるからね」

「笹田ちゃんには色々と世話になってんねんけど、それとこれとはなぁ」

「悟さんにお願いするぐらいなら、真人に土下座した方がいいって思ってるんでしょ」

 秋沙が含み笑いで図星をつく。

 編集者にしておくにはもったいない、明るい笑顔の美青年は、定食屋の片隅にいても輝いている。

 店員の女の子からチラチラと見られていた。

「それか、良一に頼もうかな」

「リョウはセレブじゃないよ」

「オヤジさん、議員やろ」

「それとこれは別。今は、単なるサラリーマンなんだから」

 邪魔しないでと、言葉にしないニュアンスが前面に出てくる。こういうときの秋沙は頑固だ。

「なんやねん。ケチ」

「そういうことじゃないだろ」

 肩を揺らしながら破顔して、明るい笑い声をこぼす。

「頼んでも、『オヤジさん』絡みでNGだと思うよ」

「あー。そうかぁ。そうやんなぁ」

 秋沙の恋人、高木良一は政治家家系のサラブレットで、今は世間を知るために一流商社に勤めている。

「最近は会えてんの?」

 二人とも忙しい仕事だ。時間のやりくりは大変だろう。

「会えてないよ。でも、電話してる」

「一緒に住めばええのに」

「そうだよね、そうは思ってるんだけど」

 秋沙はくちごもって、手元のグラスの水滴を指でぬぐった。

「そういうカイリは、アパート引き払った?」

 問題が振り出しに戻る。

 カイリは大きなため息をついて頭を抱えた。

「まだ……」

「人のこと、言えないよねぇ」

 楽しそうな笑い声だ。指先でつんつんとつむじをつつかれる。

「今朝も言われた。引き払って来いって」

「そうすれば?」

「簡単に言うなよ。秋沙が良一と一緒に暮らすのとは、ちょっと違うんやで」

「一緒でしょ」

「違う、ぜんぜん違う」

 両手を握り締めて、顔を上げた。

「完全に飼われるってことやん」

「……言葉、悪すぎるよね?」

 秋沙が重く息を吐いた。

「なんだか、悟さんがかわいそう」

「なんで!」

「カイリ、悟さんのこと、好きだよね?」

「ん? ……うん、まぁ」

 それなりにと言いたいが、どうにも嘘っぽくて口をつぐんだ。

 こういうことに簡単に嘘をつきたくないと思ってしまう自分が何より怖い。

「悟さんはもっと好きだと思うな」

 きれいな顔で、さらりと口にした秋沙を、カイリは恨めしく見つめた。

 秋沙が目を細める。

「ねぇ、カイリ。悟さんのこと、紹介したくないのって、そういうこと?」

「……」

 すぐに答えられない。

「それ、言葉にせんとって」

 コトリと、ポストに手紙が落ちるように、答えが心の奥に落ちて、納得がいく。

「した方がいいと思うな」

 年下の友人は、優しく諭すように言う。

「なにかひとつぐらい、はっきりさせた方がいいよ。悟さんは大人だから、引いた線をムリに消したりしないと思うけど」

 正論だ。

 誰もカイリに突きつけることのない正論を、秋沙が口にしている。

 させているのは、自分だろう。

 確かに悟は強引なようでいて、心の深いところに土足で入るようなことはしない。

 からだを調教しようとしても、心まで苛もうとはしなかった。

 あれからずっと同じだ。

 カイリが何よりも愛している海のことも、理解と寛容さを示してくれている。

 スキだと言葉を口にしても、行動では逃げ腰になっていることも、わかっていて見逃してくれている。

 そして、けして選ばせたりせずに、選択肢を消して言ってくれるのだ。

 美味しい料理で釣ったふりをして、家に招き入れてくれる。快楽に溺れさせたふりをして、自由な出入りを許してくれる。

 どっちつかずが気持ちのいい関係を、終わらせたいと思っていても、カイリが選びきれないうちは遊ばせておくつもりだろう。

 もちろん、もうすでに、カイリはサトルの手中にいる。その手のひらの上で、ごろごろと心地よく自由に寝転がっているだけだ。

 何の責任も、そこにはない。

「多く愛する方が、いつも傷つくんだろうね」

 悟がそうだとは言わないけれど、と、秋沙はおまけのように付け足した。

「俺だって傷ついている」

 言った先から、カイリはげんなりした。

「ごめん。別に傷ついてないわ」

「カイリのそういうとこ、好きだな」

 にっこりと笑って、肩をぽんぽんと叩いてくる。

「借りぐらい、作ってあげればいいと思うけどね」

「そやけど」

「……あえて、言葉にはしないでおくけど。その気持ち、すごく良くわかるよ。そういうこと、悟さんにもうまく伝えてあげた方がいいんじゃないかな」

 借りが云々は、単なる言い訳だ。

 本当は、サトルを隠しておきたいだけ。

 ジェラシー絡みの、自覚したくない独占欲。

 もしも悟が雑誌に出ると言って、人物を撮らない自分の代わりに石神がファインダーを覗くとしたら、それもたまらなく落ち着かない。

 石神はカメラを通して被写体と深く絡み合うようなところがある。

 それが人物像に肉薄した迫力を生み出す。

 だからこそ、カイリは嫌だと思う。

 悟の中にあるどんなことも、自分以外には見せないで欲しい。

 それが理由だ。

 自覚したくない。本当の理由。

「同じような理由で、僕もリョウを公開したくないからね。まぁ、いつかは国政に参加するだろうけど」

 秋沙は眉をひそめた。

「悟さんは言われなくても、全部わかってそうだよね。カイリって本当に運がいい」

「金持ちやしな、あいつ」

「そういうことじゃなくて」

 明るく笑い飛ばした秋沙の表情に、カイリは心の中で胸を撫で下ろす。

 誰も口にしないけれど、秋沙と良一にはこれから先をどうするのか、大きな問題が横たわっている。

 良一が政治家になるのなら、同性の恋人はどうしたって足枷だ。

 もちろん良一は何の迷いもなく秋沙を選ぶだろうが、きっと秋沙はそれを許さない。一悶着も二悶着も起こるだろう。

 高木家だって優秀な息子を、おいそれと手放しはしまい。

「奥の手がね、ひとつだけあるよ」

「何の?」

「何の、って……。特集記事でしょ?」

「あ、あぁ。そうやった」

「しっかりしてよ」

 整った顔立ちに軽く睨まれ、カイリは肩をすくめて頭を掻いた。

 友人知人に美形が勢ぞろいしているとは言え、誰も彼も見るたびに唖然としてしまう瞬間がある。

 さすがに、毎日、目にしているサトルや怜の顔には慣れたが、たまにしか会わない秋沙や真人の顔は見るたびに感心してしまう。 

 神様の作る造形美というものは、いたずらなものだ。

 誰もが目がふたつで、鼻と口がひとつなのに、その高低や大きさや配置ひとつで雲泥の差が生まれるのだから。これは、カイリの愛する海の生物にはなかなかないことだ。

 いわしも鯛も海老も、何匹いても、よく似ている。

「沢村君にね、誰か紹介してもらえばいいよ」

「セレブな友人がいるんかな」

「現在、セレブじゃなくても、いいと思うんだよね。これから伸びる年下の男の子なんて、カレスコの読者は好きなんじゃないかなぁ」

「おぉ! さすが、編集やな!」

 思わず手を叩いた。

『カレイドスコープ』。略して『カレスコ』。

 万華鏡の意味を持つ、この雑誌の読者層は働く知的な女性だ。

 旅、料理、流行。それらすべてを、万華鏡をのぞくように愉しむというのがコンセプトで、扱うものはトレンド感がありながら上質なもの。

『少し背伸びして手が届く快楽』が宣伝文句だ。

 大人の女性でありながら、幼かった頃のお姫様願望も捨てない。そんなイメージ。

「まぁ、沢村くんは出ないと思うけど」

 二人の前に料理が運ばれてくる。テーブルの端に置かれたボックスからフォークを取り出しながら、

「真くんはいけるかなぁ」

 カイリはつぶやく。

「友永くんはほかの雑誌が小さな特集組んでたりするよ。ファッション雑誌とか」

「そうなん!」

「知らなかったの? 勉強不足だなぁ。沢村くんが出るのは、野球雑誌ばっかりだけど、話はいっぱい持ち込まれてるんじゃないかな」

「そうやろうなぁ」

 沢村和維も友永真も、大学野球で人気の球児だ。去年の十二月に、サトル絡みで縁があって、一緒にハワイへ旅行してからの知り合いだ。

 二人ともにわかに盛り上がっている大学野球人気の立て役者で、スタープレイヤーでもある。

「でも、本人たちに出てもらうより、誰か紹介してもらう方がいいんじゃない? 沢村くんは絶対にいいネタを持ってると思う」

「秋沙。そのネタが知りたいだけなんやろ……」

「それも、あるかなぁ~」

 鼻歌交じりに答えた秋沙はいたずらっぽく肩をすくめた。



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