テイスト・オブ・ハニー

高月紅葉

第1話

 朝焼けの街を見下ろす高級マンションの十四階。

 二階建てのペントハウスの一室で、サトルはいつものように目を覚ました。

 体内時計はいつも正確で、寝直すことがあっても寝過ごすということはほとんど経験がない。

 キングサイズの広いベッドの端で裸の上半身を起こし、柔らかな春の日差しがカーテンの隙間を縫って室内に伸びるのを見た。

 真冬だろうが、真夏だろうが、いつも完璧に調整されているとは言え、季節感はきちんとある。

 ただ、春の朝の冷たい空気が、秋のそれと錯覚することもあった。

 今朝も、サトルは秋の気配を感じながら目覚め、太陽のやわらかな明るさに春を思い直した。

 隣で大の字になっていびきをかいている恋人は、ベットの半分以上を占拠して斜めに転がっている。

 薄いガーゼのタオルケットが巻きついている下は、全裸で間違いないだろう。

 潮風と海水で傷んだ髪は赤茶けてぼさぼさ。サトルがどんなに高級なヘアパックを使ってケアしても追いつかない。

 そっと手を伸ばしてみる。

 指先に乾いた感触。

 もぞもぞと動いたカイリが、薄くまぶたを押しあげた。

「だからな」

 ねぼけた声だ。

「波の大きい、小さいじゃないんやで」

 耳をこらしてようやく聞き取れるような、崩れた寝言でも、まだ海の話をしている。

 サトルはあきれて肩をすくめながら、カイリの頭を両手で抱えて額にくちびるを寄せた。

 浅黒い肌は、それだけで生命力の匂いがする。

 胸いっぱいに吸い込んで、額ではなく、鼻先にキスをした。

 くすぐったそうに身をよじらせるカイリが、くくっと笑う。

 寝ぼけたままだ。

「カイリ」

 起きないとわかっていて呼びかける。

 サーフィンを予定していれば、朝日よりも先に起きることも苦にならないくせに、そうでなければとことん寝ぎたない男だ。

 自分が昨晩に強要したアレコレをすっかり忘れて、サトルは身勝手にため息をつく。

『恋人』と呼べるようになったのは、つい最近のような気がする。

 快楽に弱いカイリを言葉通り手篭めにして、篭絡して、濃厚なセックスと美味しい手料理で飼い慣らして。

 いつのまにかお互いが、お互いの深いところにある柔らかな痛みを愛し始めていた。

 いまさら笑ってしまうような純愛だと、サトルも気づいている。

 カイリはどうだろうか。

 心が近づくにつれて、昼休みのセックスをしなくなった。一緒に食事をして、キスをして、それだけだ。

 たまにはその先に至ることもある。しかし、以前のような、イメクラまがいの痛いセックスはしていない。

 その代わり、夜の濃厚さは増した。

 心を開くほどに、セックスは親密になり、快楽が大きくなる。それが噂通りの真実だと、サトルもこの期に及んで思い知った。

 心の奥から湧き上がる情感が、そのまま突き上げるような情欲に変わる瞬間の、せつなさと甘美は一度味わえば忘れることができない。

 うわべだけの快楽とはまったく別次元の感覚だ。

 今まで数え切れないほどの女と寝た自分が、この期に及んで新しい快感におぼれる日が来るとは思わなかった。

 そして、その相手が、生命力の塊のような男だなんて。

 人生は、本当にわからない。

 また深い眠りに落ちていくカイリの髪から指を離して、ベットの端にかかっているコットンのローブを掴んで、寝室の隣にあるバスルームに入った。

 ラグジュアリーホテル並みのバスルームには両手をいっぱいに広げてもまだ余る大きな鏡がはめ込まれ、寝室にあわせてバリのリゾート仕様にまとめてある。

 ジェットバスのついたバスとは別にしつらえたシャワーブースで、熱めのお湯を浴びて目を覚ます。

 朝の香りに決めてあるブランドのシャワーソープをたっぷりと使い、今日という一日を閉じたまぶたの裏に思い描く。

 カイリに出会うまでは、重いため息で開いた目も、今は軽い吐息で開かれる。

 シャワーの後は、新しい下着と柔らかなコットンパンツに、寝室から持ってきたローブをはおり、ふかふかのタオルで長い髪の毛先から滴り落ちるしずくを絞りながら、寝室を出てキッチンへ向かう。

 カイリも知らないだろう、この家はおおまかに分けて4つのセクションで形成されている。

 ひとつはカイリも自由に動き回っている、住居の部分。

 それから天然芝のテラス部分が庭の代わりで、後はカイリが入ったことのない特別な来客用のリビングやゲストルームを配置したセクション。そして、中規模なパーティーぐらいなら楽々開ける、小さなプールを配したテラスのある本当の、ペントハウスだ。

 要は、このマンションの十四階部分に、三つの家が建てられているようなものだ。

 使い慣れたキッチンへ入って、儀式のようにお決まりの動作で、冷蔵庫のオレンジジュースをグラスに注いでコーヒーの準備をする。

 それから、インターフォンの脇のボタンを押した。

 一見は最新のインターフォンの受け手だが、脇のボタンを押せば、別の回線に繋がるようになっている。

 押してからオレンジジュースを飲んでいる間に、インターフォンに返信があった。

 ランプの部分が青から赤へのグラデーションで光り、サトルは手馴れたしぐさで受話器を使わずにハンズフリーでつないだ。

「おはようございます。悟さま」

 若々しく澄んだ女性の声が聞こえる。

「おはよう」

「本日は、夕食にお約束がございます。詳細は携帯の方へ。何かございますか」

「ないよ。いつも通りに」

「承知いたしました。良い一日をお過ごし下さい」

「君もね」

 手短なやりとりを終える。

 相手は、表向き資産管理を任せている小百合だ。その実は、生活のほとんどの手配を任せている。

 自宅は都内に別のマンションに用意してあるが、ゲストルームの2階に寝泊まりしていることもあり、インターフォンの特別なボタンは彼女への直通ラインだ。

 毎朝、スケジュールの確認を行うのが日課で、インターフォンが通じないときは、予定があるときのみ携帯電話で連絡がある。

 スケジュールの詳細を携帯電話でやりとりするようになったのは、カイリがこのマンションでほぼ毎日寝泊まりするようになったからだ。

 小百合の存在をカイリは知らない。

 もちろんサトルの財産の全貌も把握していないし、興味を持っていても、真実を聞くのを怖がって問い詰めてくる様子もない。

 小百合の方も、下手にでしゃばれば、サトルとの仲を疑われかねないと配慮して、めったに姿を見せなかった。

 いつかは説明しなければと思いながら、きっかけなんてものはそうそう訪れない。

 黙っていたところで詮索をしないカイリ相手だ。このままでも問題はないだろう。

 オレンジジュースを飲みきったところで、今度はインターフォンが鳴った。と、同時に声がする。

「サトル、どこや」

 寝ぼけたカイリの声。

 家のどこにいても確認できるように、各部屋にインターフォンをつけてある。

 特に来客がない限りは、どこの部屋にも音声が流れるようにしてあった。

「おはよう。キッチンだよ」

「……いま、降りるわ」

 家にバスルームがいくつあろうが、ベッドルームがいくつあろうが、所有自家用車が何台あろうが、豪勢だな、で済ませる男だ。

 小百合のことを知っても、あっそう、で流されそうでもある。

 しばらくして、リビングの螺旋階段をカイリが下りてきた。

 大きなあくびをしながら、裸の胸をぼりぼり掻いている。

「おはよーさん」

「早いな。コーヒー、持って行こうと思ってたところだよ」

「あ、うん。腹減ったから」

「たまごでも焼こうか」

「ん。……オムレツして。チーズ入ったやつ」

「いいよ」

 サトルがフライパンを取り出していると、キッチンの中に入ってきたカイリが近づいてくる。

「腰が痛いんやけど」

 背後から腕が首に絡んでくる。

 大きな子供はずっしりと重い。

「俺のせいか?」

 腕をとんとんと叩きながら答えると、耳元で舌打ちが聞こえる。

「もうそろそろ、歳なんでぇ、バックでがんがんに攻めるんはやめてもらいたいなぁ」

「奥まで届く方が好きなんだろ?」

 くるりと振り返って、カイリのあご先を掴んだ。ひげがちくりと刺さる。

「あー……、そやけど、しんどいねん」

「俺はどっちでも気持ちいいから、いいけどな」

「俺かて、別に。けどやっぱ、たまには」

「どっちだよ」

 笑ってしまいながら、くちびるを近づける。そっとキスすると、カイリの指がローブのさわり心地を確かめるように何度も動く。

 お気に入りの毛布をいじる子供の仕草だ。

「メシ、すぐできる?」

「できるよ。シャワーなら、後で。ヒゲをあたってやるよ」

「じゃあ、そうしよ。新聞、取ってくる」

 大きなあくびをしながら、ぺたぺたと足音をさせて玄関へと向かう。

 サトルはその間に、手際よくオムレツの準備をした。冷蔵庫に入れてある、刻んだ野菜にハムやキノコを混ぜた具材を出し、卵を丹念に攪拌する。 

 フライパンにバターを溶かして、たっぷりのチーズを入れて焼く。

 卵の焼ける小気味のいい音と、香ばしい匂いがキッチンに広がった。

「サトル、牛乳くれへん?」

「その前に、トマトジュース飲んで」

「え。いらん。牛乳でいい」

 新聞をコットンパンツの後ろに挟んだカイリが、そそくさと冷蔵庫に近づく。

 その手を掴んで引き止めた。

「最近、家で食べてないだろ? 絶対、ビタミン足りてないから」

「決め付けんなや。ちゃんとサラダ食ってる」

「ランチの添え物だろ。そういうのは数に入らないんだよ」

 棚から取り出したグラスにトマトジュースを入れて差し出す。

 カイリがあからさまに顔をゆがめて後ずさった。

「これはニンジンとリンゴも入ってるから、口当たりいいんだ。……はい」

「飲まんとあかん?」

「ダメ」

「これがなかったら、ええとこやねんけどなぁ」

 じっと見つめるサトルの手前、ぶつくさ言いながらカイリがグラスに口をつけた。

 寝癖の髪がぴょんぴょんと跳ねている。

「カイリの健康が、俺の生き甲斐だから」

 頭を引き寄せて、髪にキスした。さわやかなミントの香りがする。

「おまえは『おかん』か」

 カイリはけらけらと陽気に笑い、

「このトマトジュースはいけるわ」

 それが高級スーパーの中でもかなり高額部類に入るオーガニックジュースだと知りもしない。

「そうだろ。牛乳は朝食のときに飲めば良いから」

「とか言いながら、お兄さん、手が……なぁ」

「うん?」

 サトルはすっとぼける。

 新聞のふちをなぞりながら、指がいたずらにパンツの中へ忍び込む。

 張りのある肌をなでると、昨晩の情事が匂い立つように思い出された。

 汗をかくカイリの浅黒い肌と、乱れた呼吸。せつなく名前を呼ぶときの、苦しげな声。

「やらしい顔してんで」

 カイリの手にあごを押しのけられる。

「後、後! とりあえず、なんか食わしてや。朝から無理やし!」

 するりと逃げた動物的にしなやかな体は、軽い足取りでキッチンを出て行く。

 後は追わなかった。

 朝食の準備の続きに取り掛かる。

 パンツと揃いのシャツに袖を通したカイリは、申し訳程度にボタンをひとつだけ留めて、新聞をがさがさとめくっている。

 その目の前に、次々と皿やグラスが運びこんで、サトルは二人の食卓を作り上げた。

 チーズのオムレツに、クロワッサン。ハムとレタス。それから牛乳。

「いつ見ても見事やな」

 最後に運ばれてくる熱いカフェオレの湯気を覗き込みながら、カイリは長い息を吐き出した。

「ありがとう。じゃあ、食べようか」

言いながら、サトルはテーブルの上のリモコンを引き寄せた。

 いくつかのボタンを操作する。

 朝に似合う陽気なボサノヴァが部屋に流れ、自動で開いたカーテンの合間から、明るい日差しがフローリングの床へ伸びていく。

「さっきなぁ」

 フォークでおもむろにオムレツを半分に割りながらカイリが言った。

「ここに監禁されてた頃の夢で目が覚めてん」

 リモコンに手を載せたまま、サトルは一瞬だけ固まった。

「あぁ、もう違うんやなぁって、思って……。サトル?」

「う、うん?」

 カイリは無邪気だ。

 クールに構えてみせるサトルは内心、冷や汗をかいている。それだけのことをした自覚があった。

「それで?」

「いや、別に。それだけ」

 カフェオレを飲み、クロワッサンをちぎったカイリは、サトルの心境に興味がないようにさらりと言った。

 だから、サトルはいつもの自分を取り戻す。

「したくなった?」

 あの頃のような痛いセックスが生み出す、よどんだ快楽の記憶が体によみがえる。

「あぁいうやつ?」

 カイリはおいしそうに朝食を口に運ぶ。

 サトルはカフェオレボールを手にして、気持ちがいい食べっぷりを眺めた。

「縛ったり、ひどくしたり」

 カイリの食事姿はセクシーだ。

 健康的な手が、大きく開いた口へ、次々に命の元になる食べ物を運んでいく。

 その生命力の強さに惹かれた。どうしても自分のものにしたくて、そのすべてを支配したいとさえ思った。

「今のでええわ。もう、じゅうぶんやし」

 いらないと言わないところが、かわいいところだ。

「サトル、無言でエロい顔すんな。こわいから」

「見透かされてるな」

「昨日もあんだけやっといて、まだやる気満々なんがこわいねん」

「そんなこと言って……」

「俺は、もう若ないねん。お前と違って」

「年上なんだけど」

「性欲に関しては負ける。もっと運動とかして発散した方がええんちゃうん」

「誰にでも欲情してるわけじゃないよ」

 中身に口をつけずに、カフェオレボールをテーブルに戻す。

 カイリが顔をしかめた。

「そういうこと言ってんと、早よ食べぇや。今日は平日やねんからな。ほんま、おまえのペースで暮らしてると毎日が日曜みたいや」

「俺だって働いてるんですけどね」

「趣味やろ」

「ひどい言い方だな」

 確かに、働かなくても食べてはいける。それも飛びぬけてリッチに。

「今日は遅出なん?」

「早出の日。カイリは遅いんだろう」

「たぶんなぁ。撮影はないけど、まぁ、あいかわらず細かい作業が山盛り。撮影だけやったら楽やのにな」

「フリーになる話は?」

「まぁ、そのうち……やな」

「進まないな」

「まぁ、わがままも聞いてもらって、恩があるからなぁ。いまの編集長には」

 と、カイリは言うが、本音は別にある。

 カメラマンとして個展を成功させ、雑誌が編集した写真集も刊行されているのに、まだフリーにならずに専属でいるのは、カイリ自身が迷っているからだ。

「おまえがその気なら、いくらでも一流にしてやるのに」

「……」

 カイリが食事の手を止めた。

「そやから、まじめに考えてんねん」

 いつになく真剣な眼をした後、笑顔になった。

「ある程度のハクとか評判は、カネ積んだらどうにでもなるからな。その点は恵まれたと思って、俺は俺ができることをやりたいと思ってんねん。だってやで? あんな思いして勝ち取ったパトロンやからな!」

 ぐっとコブシを握って、こくこくと首を縦に振る。

「パトロンか」

 嫌味ではなく、サトルはその言葉を繰り返した。

「はじめから、金銭でどうにかなるってわかってたら、あんなことしなかったのに」

「ウソつけや。いまさらやろ。それに、おまえのあれは、そういうんやない」

 ハムでレタスを巻いて口に運び、カイリは最後の方をもごもご言った。

 初めからのギブアンドテイクにカイリが応えると、本気で思うわけではない。

 ただ、そんな始まり方がカイリにとっても、ふたりにとっても、実際よりもまだ、優しかったような気がするだけだ。

「結果は変わらんねんからええやろ」

 朝食を終えたカイリはテーブルに飾られたリンゴを丸かじりした。

 好きになったことだけが明らかな事実だ。

 今となっては。

 お互いがお互いを好きで、必要としていて、そばにいると決めている。

 それだけが今の真実。

 カイリの潔さに目を細めて、サトルは立ち上がった。大股に近づいて、座っているカイリのあごに指をかけ、上を向かせる。

 優しくついばむようなフレンチキスを繰り返す。

 あからさまなほど甘い恋人同士のキスに、たまらずに気恥ずかしさを感じたらしいカイリは真っ赤になって腕を振り回した。

 バチンバチンとサトルを叩く。

「愛してるよ」

「安売りすんな」

 言いながら、サトルの後れ毛に手を伸ばす。

 二人は、朝には濃厚すぎるキスを交わした。



 *** 

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