第二章 その7

 事態はより深刻になっていた。

 刃物を持った女は子供を捕まえたまま、遊園地内のバンジージャンプ台の頂上に来ていた。


「おい、よせ! バカな真似はやめろ!」

「お、落ち着いてください!」

「うるさい! こないで!」


 女を追いかけた父親とバンジージャンプ台の入り口にいた係員達は子供を捕まえた女に言葉で説得するだけで、近づけずにいた。

 なぜなら、ここはバンジージャンプ台。女があと数歩後ろに下がれば、女は子供と一緒に数十メートル下の地面に落ちてしまうからだ。

 そのため、父親と係員達はバンジージャンプ台に繋がる階段付近から動けずにいた。


「お、落ち着け!」

「うるさいって、言ってるでしょ!」

「お母さん、怖いよ……」

「ああ、ごめんね、りく。大丈夫、大丈夫よ」


 いつ最悪な事態が起きてもおかしくないこの場に、


「待って!」


 真希がやってきた。


「き、君は?」

「だ、誰よあんたは!?」


 突然見知らぬ人間が現れ、その場にいる全員が困惑する。

 しかし、真希はそんな状況を無視し、女に話しかけ始めた。


「どうして、どうしてこんなことするの!?」

「は、はぁ!?」


 真希の言葉を聞き、女が声を荒げるが、真希は気にせず言葉を続けた。


「その子は、さっきまで家族と一緒に遊園地を楽しんでいた! 家族と一緒に笑っていた! それは、当たり前だけど、絶対に壊しちゃいけないものなの! なのに、なのにあなたはどうして壊しちゃうの!?」


 真希の一連のこの行動は、普段の真希からは考えられない衝動的なものだった。 なぜそんな衝動的な行動を真希がしたのか、真希自身の言葉で説明することはできない。


 ただ、真希にはある絶対的な価値観があった。

 家族は、幸せであるべきだと。


 真希にとってあの三人家族は、真希の価値観と照らし合わせ、理想的なのだ。

 そんな家族の幸せが壊される。

 それは、とても苦しいものだ。


 そう、真希は理解していた。

 だから真希は衝動的な行動に出たのだろう。だが、


「……だって……かった」

「えっ?」

「私だって、この子と一緒に遊園地に行きたかった! 一緒に笑いたかった!」

「っ!」


 女の叫びで、真希の思考は急激に冷静さを取り戻した。

 同時に、真希は思った。

 自分は衝動的にとんでもないことをしてしまった、と。


「なのに、離婚して親権がなくなった私にはそれができなかった」

「そ、それはお前が原因だろ」


 父親が反論するが、


「分かってるわ! 離婚の原因は私。親権が私じゃなくあなたが持ったのだって原因は私。でも、会うくらい、いいじゃない! 私だって、この子の親なのよ!」


 女が泣きじゃくりながらさらに反論する。

 そして、そんな女の姿を見て真希はこの女がただ純粋に、子供に会いたいがために追い詰められて、どうしようもなくなってこんなことをしてしまったのだと気付いた。


「……もう、いいわ。どうせ私はもうこの子の母親ではいられない。この子にはもう、会えなくなる。ならいっそ、この子と一緒に誰もいない所へ」


 全てを悟った女は、ゆっくりと一歩、後ろに下がり始めた。


「や、やめろ!!」

「あ、ああ…………」


 父親の悲痛な叫び声を聞き、真希は自分のしたことが火に油を注ぎ、子供の命を危険にさらしたと考え、絶望が真希の心の中を支配していった。


 だが、真希は知る由もなかった。

 自分のおこなった行為が正解だったということを。

 結果的に真希は女に話しかけ、火に油を注いだことで時間を稼いでいたのだ。


 ある人物が、登場するまでの時間を。


「待てぇい!」


 何者かの声にその場にいた全員が反応し、一瞬動きが止まった。


「とぉう!」


 その何者かは、真希達の頭上を一回転しながら飛び越し、真希達と子供を捕まえた女の間に着地した。


「正義のヒーロー、クロスAただいま参上!」


 その瞬間、その場の時は止まった。

 その場にいる全員が、唖然としてしまったからだ。


 そんな状況に恥ずかしさを感じた勝善はクロスAのマスクの下で顔を赤らめるのだった。


「…………はっ! あ、あんた何なのよ!?」


 我に返った女がクロスAに扮した勝善にその場にいる誰もが言いたいことを口にした。


「言ったはずだ。俺は、正義のヒーロー、クロスA!」


 恥ずかしくて顔を赤らめる勝善は、やけくそ気味に叫んだ。


「す、凄い、ヒーローだ……」

「……そうだ。ヒーローだぞ」


 子供の憧れの眼差しとはこうも救われるものなのか、と勝善は思った。


「さて……」


 勝善がクロスAの衣装を着たのは、興奮した女の意表を突き、女を冷静にさせて事態を深刻にさせないためなのだが、急いで階段を駆け上り、状況を確認せず登場した勝善は自分が登場したことでどの程度事態の深刻化を食い止めたのかさっぱり分からないでいた。


 だから勝善は冷静に辺りの様子を観察し始める。

 ここはバンジージャンプ台。子供を捕まえた女は刃物を持ったままあと数歩後ろに下がれば子供と一緒に数十メートル下に落ちてしまいそうだ。


「……深刻化、食い止められてなくね?」


 まさか自分が登場したことで今にも子供と一緒に落ちそうだった女の動きを止めたとは思いもしなかった勝善は、この状況に頭を抱えたくなった。


「何のよ、一体! 私は、この子と一緒にいたいだけなのに!?」

「ん?」


 と、先ほどの真希の言葉に端を発する女がなぜ子供を捕まえたのか、その理由をまったく知らない勝善は女が何を言っているのかよく分からなかった。


「なぁ、あんた「話しかけないで! もう、誰の話も聞きたくない! 私は、この子と一緒にいたいだけなの! なのに誰も分かろうとしなかった! どうせ、私の気持ちなんて誰にも分からないのよ!」」


 勝善は女に話しかけようとしたが、勝善の言葉は女の叫び声にかき消されてしまった。


 さて、ここで確認しておくことがある。

 勝善は、バカである。

 ただ、バカとはいっても勝善はきちんと物事を考えて対処しようとする。


 しかし、勝善は結局のところ考えずに行動するタイプだ。

 そのいい例が後先考えず光との恋を成就させるために金を消費していることだろう。

 そして、勝善は売られたケンカは買うタイプでもある。


 以上、二つのタイプを合わせ持つ勝善は、


「舐めたこと言ってんじゃねぇ!!」

「えっ?」


 女の言葉にキレ、後先考えず女に向かって叫んでいた。


「お前! 私の気持は誰も分からないだ? どうせ自分の気持ちを誰にも言ってないだけなんだろ!?」

「えっ、えっと」

「はいか、いいえで答えろ!」

「は、はい!」


 女は勝善の迫力に押され、勝善の問いに正直に答える。


「ほら、見ろ! 私の気持ちは誰も分からないって言われてもな、言われなきゃ分かんないんだよ! 他人の気持ちなんてな、全部完璧にまるごと分かるなんてのは無理なんだよ! 何のために俺達には口があると思ってんだ! 言葉にして喋れよ!」

「あ、あの」

「誰が喋っていいって言った!?」

「す、すいません」

「いいか、耳の穴かっぽじってよーく聞け。俺の父親はな、どえらい借金を返済したあと、高校卒業までの学費を払うとだけ言って姿を消した。だから生活費は自分で稼がなくちゃならないし、食費削減のため毎日のようにクラスメートからお昼を分けてもらっている」

「えっ」


 勝善の話に、女が少し引いた様子を見せる。


「だがな、それでも俺は父親を憎んじゃいない! 何でだか分かるか? それはな、父親が俺のことを家族として愛していると言葉にして子供の頃から言ってくれてたからだ! だから俺は父親が心の中で俺のことを愛していると思ってるのが分かるし、この現状にも耐えられるんだ! あんたはな、最初に自分の気持ちを正直に話しておくべきだったんだよ。自分の気持ちは言葉にしないと相手に伝わらないんだからな。そして、言葉にして伝えていればあんたは、今日その子と一緒に遊園地で遊べていたのかもしれないんだぞ」


 勝善は、自分の言いたいことを全て言った。


 結局人は、他人の気持ちなど分からない。

 だからこそ人は、自分の気持ちを言葉にして伝え、他人に自分の気持ちを分かってもらうのだ。

 無論、時に言葉は嘘かもしれない。

 だが、正直に伝えればそれは事態を好転させることが多い。


 そんな勝善の言葉を聞いた女は、


「そんなの、そんなの、言われなくても分かってたわよぉおおおおおおおお!」


 その場に泣き崩れてしまった。


「い、今だ!」


 女が泣き崩れたことで、女が子供を離したのを確認した係員達が急いで女のもとに向かい、子供を保護して女を取り押さえた。


「りく!」

「お父さん!」


 父親が保護された子供のもとに向かい、子供は父親に抱きついた。


「大丈夫か? どこも痛くないか?」

「うん! ……ねぇ、お父さん」

「何だ?」

「僕ね、新しいお母さんのこと、好きだよ。でも、前のお母さんのことも好きなんだ」

「えっ?」

「り、りく?」


 子供の突然の言葉に父親と女が驚く。


「本当は、お母さんと離れ離れになる時に言いたかったんだ。でも、僕言えなくて、お母さんと離れ離れになって会えなくなってずっと寂しかったんだ。それで、今日のお母さんは少し怖かったけど、久しぶりに会えて、僕うれしかったんだ。お父さん、僕、お母さんとまた会えなくなるなんてやだよ!」

「りく、どうして急にそんなことを?」


 父親が、そう子供に問いかける。


「自分の気持ちは言葉にしないと相手に伝わらない。そうだよね、クロスA」

「へっ? あ、ああ、その通りだぞ!」


 と、何かイラッとしてキレて好き勝手に喋ったら事件が解決してどうしようかなーと、手持ち無沙汰を感じつつ突っ立っていた勝善は、慌てて話しかけてきた子供に返事をする。


「そうか。それが、りくの気持ちなんだな?」

「うん!」

「分かった」


 子供の本当の気持ちを確認した父親は、係員に取り押さえられた女のもとに移動した。


「あ……」


 女は、父親に何を言えばいいのか迷っている様子だったが、父親が先に口を開いた。


「今回の件、お前のことを許すつもりはない。しかるべき所で自分が犯した罪を償うんだ」

「……そう、よね」

「…………そして、罪を償ったあと、話し合いをしよう」

「えっ?」

「今思えば、離婚する時に私はお前にお前自身の気持ちを言う機会を作ってやれてなかったと思う。だから、話し合いの場は作るべきだと考えた。それに、お前だってりくの親なんだからな」

「う、うぅ、うわぁあああああああああああああああ!!」


 女は、心の中にあった何かが全て壊れたのだろう。

 今までの中で一番の泣きっぷりを見せた。


 だが、その涙は今までの中で一番暖かい涙であった。

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