第一章 バカの恋物語、そして始まる新たな日常

第一章 その1

 朝。けたたましく鳴る目覚まし時計を止めるため勝善は枕元に置いてある時計に触れようとするも、枕元に時計はなく、勝善はすぐに体を起こす。

 居間の中央で寝ていた勝善は布団ごと玄関まで移動していた。


「またか」


 居間から玄関まで布団ごと移動したことに慣れた様子を見せながら勝善は立ち上がり、居間にある目覚まし時計のもとに向かい目覚まし時計を止めた。


 勝善は中学三年生のある時期を境にアパートでの一人暮らしを始めた。

 そして、勝善が居間から玄関まで布団ごと移動していた原因は、勝善が暮らすこのアパートの一室にある。


 政令指定都市の駅から下り行きの電車に乗り、五駅で到着する都会とも、田舎とも言えない中途半端な町。そんな町に勝善が暮らす二階建てのアパートはあった。

 このアパートは駅に程近く、スーパー、コンビニには徒歩五分圏内、各部屋に風呂とトイレを完備している政令指定都市から五駅分離れているとはいえ、家賃が高めの物件だ。


 しかし、勝善が暮らす二階左奥の部屋の家賃だけは同じアパートの他の部屋の家賃と比べて極端に安い。

 どのくらい安いのかというと、家賃の金額を見てほとんどの人が驚きを通り越して顔を青くして恐怖するくらいに安い。


 安さにはもちろん理由がある。

 勝善が暮らすアパートの部屋は、聞けば一週間は気分が沈むほどの話を持つ事故物件なのだ。

 そして、勝善が居間から玄関まで布団ごと移動しているのは、事故物件であるこの部屋でたびたび起こる心霊現象が原因なのである。


「布団の移動はしばらくなかったのになー。まぁ、いいか」


 だが、勝善にとって心霊現象に巻き込まれることなど、些細なことだった。


「さーてと、顔洗って朝食だな」


 そう言って勝善は部屋を出て、水道代節約のため近くの公園に顔を洗いに向かった。

 ちなみに勝善の朝食は、パン屋のおじさんがただでくれた食パンの耳である。


 さて、事故物件に住んでいる段階である程度予想し、水道節約、朝食事情の話で予想が確信に変わったことだろう。

 勝善は、貧乏である。

 貧乏の原因は勝善の父親に半分、勝善自身に半分ある。


 勝善の父親は、勝善の母親が勝善を生んですぐに亡くなってしまったため、勝善を男手一つで育ててきた。

 勝善はそんな父親に感謝していたが、勝善の父親は人が良すぎた。


 どいうことかというと、知り合いの連帯保証人になった結果、借金を作ってしまったのだ。

 実は、勝善が中学三年生の頃のごたごたとはこのことだったのだ。

 幸い、借金の方はどうにか返済することができたのだが、住む家はなくなり、手元には一円も残らなかった。


 そんな中、勝善の父親は勝善に住む場所として現在勝善が暮らすアパートの部屋を与え、高校卒業までの学費はどうにかするから生活費や家賃は自分で払うんだ、と言って中学三年生の勝善を一人にして姿を消してしまった。

 さすがの勝善もこの時ばかりは、ないわー、と思ったりしたのだが、最終的には自力で生活することを決めた。


 その後、勝善の父親は約束通り学費だけは払い続け、近況を知らせる手紙を送ってくるようになった。

 手紙には時々写真が同封されていてその写真は、マグロ漁船に乗る父親、炭鉱の中で作業をする父親、南極っぽい場所でペンギンと一緒に写っている父親、と必死に学費を稼いでくれていることが理解できると同時に、実はまだ借金返済できていないんじゃないかという疑問を持たせるものが大半だった。


 そんな写真を見たからか、自力での生活をより強く意識するようになった勝善は無理のない範囲でバイトに力を入れており、不自由なく、というよりも少し贅沢が出来る程度にはお金を稼いでいる。

 しかし、勝善は給料のほとんどを自身の恋のために使っていた。

 光に惚れて以来、勝善の生活の全てが光のためにあり、勝善は光との恋が成就するためならば一切金に糸目をつけなくなっていた。


 例を挙げるとするならばトランペットだ。

 光がたまたまテレビでクラシックの演奏を見ていたところトランペッターをかっこいい、と言っていたのを人づてに聞いた勝善は何の迷いもなくトランペットを購入した。

 ただ光にかっこいいと言ってもらいたい。そのためだけにトランペットにフェニックスという名前を付けるほど猛練習をした勝善だったが、結局光がトランペッターをかっこいいと言ったのは根も葉もない噂だということが判明し、今フェニックスは学校にある勝善のロッカーの中で眠りについている。


 そんな感じにお金を消費するものだから手元にはいつも僅かなお金しか残らず、勝善は節約できるところは徹底的に節約し、一日中部屋にいると体が物凄く重くなったり、夜中に騒音が発生する要因はないのに部屋の中がうるさくなったり、シャワーを浴びると常に視線を感じたり、トイレの流れる水が時々真っ赤に染まるといった布団の移動以外にも心霊現象が起きまくる事故物件アパートの一室に今も住んでいるのだ。


 というわけで、勝善は父親の借金返済に関した一件と自身の恋の成就のための浪費で貧乏なのだ。

 そして、貧乏生活をしてでも自身の恋を成就させようとしている勝善だが、残念ながらその恋はいまだ成就していない。




 部屋に戻り、朝食を食べ終えた勝善は登校の準備をして、再び部屋を出た。その直後、


「おはよう、筒森勝善。今日はいい天気だな」


 寝癖を直していない、ぼさぼさとした髪の一人の若い女性が勝善に話しかけてきた。


「げっ」


 声をかけられ、その女性を見た瞬間、勝善は会いたくなかった人間に会ったという感情を露骨に表した表情をした。

 勝善に話しかけてきた女性は、勝善の部屋の下に住むアパートの大家である加賀名かがなれいだ。

 そう、礼は貧乏生活をする勝善にとってもっとも頭の上がらない大家なのである。


「何だ、その態度は? 家賃上げられたいのか?」

「今日はいい天気ですねー、大家さん!」


 勝善は最高の笑顔で礼に返事をした。ちなみに今日の天気はくもりである。


「うむ、結構。ところできちんと飯は食べてるのか?」

「食べてますよ」

「どうせ食パンの耳とかなんだろ?」

「ぐっ」

「まったく、食べ盛りなのにきちんと食べないのは感心せんな」

「……はい」


 勝善が大家である礼に頭が上がらないのは、もはや言うまでもないが、勝善と礼の年齢差が少し歳の離れた姉弟ぐらいなためか、礼が勝善を弟のように心配することがあり、それが勝善が礼に頭が上がらないもう一つの理由だったりする。


「今後はきちんとした物を食べるように。いいな?」

「分かりました」


 礼が本当に自分を心配して言っていることを理解している勝善は素直に返事をした。


「さて、話は変わるが先月分の家賃はいつ払ってくれるのかな?」

「まともな物食べとけとか言ったあとに家賃の請求!?」

「それはそれ、これはこれだ」


 勝善は先月、自身の恋のために少しお金を使いすぎ、家賃を払えないでいた。

 そして礼は、金銭関係はきっちりとするタイプであり、弟のように心配している勝善がいい物を食べるよりも家賃を払ってもらう方が優先順位が高いのだ。


「で、どうなんだ?」

「そ、それは…………な、何とぞ、何とぞもう少しだけお待ちを!」


 勝善はそう言いながら土下座をした。

 ちなみに勝善は率先して安いプライドを捨てて土下座ができるタイプである。


「今月に入ってから三度目の土下座だな。とりあえず今は家賃の話はこのくらいにしておいてやろう。お前はこれから学校だしな」

「ありがとうございます!」

「ただし、帰ってきたらゆっくりと家賃について話し合おうじゃないか」

「……うっす」


 勝善は、今回は土下座をしても家賃から逃げ切ることはできなかった。


「それじゃ、気を付けて学校に行ってこい」


 そう言って礼は自分の部屋に戻っていった。


「くそっ、家賃どうしよう。先月分は大丈夫だろうが、今月分は……あー、何か割りのいいバイトしねぇとダメだな、こりゃ」


 勝善はアパートの自転車置き場に向かいながら、自身の財布の中身を確認して新たなバイト探しの決意をした。


 勝善の通う学校は、勝善が暮らすアパートに程近い駅からさらにバスに乗る必要がある程度に交通の便は悪い。

 そのため多くの生徒がバスを使って登校していて、徒歩や自転車通学する生徒は学校近くに住む者を含めても極端に少ない。

 だから、近くに住んでないのに徒歩や自転車通学する生徒は物好きに分類されている。


 勝善のアパートから学校までの距離はバスを利用した方がいい距離なのだが、定期券代を節約するため勝善は最初からバスを利用するという選択肢をはずしていた。

 そんなわけで物好きに分類される勝善は徒歩か自転車通学、どちらかを選択することになり、最終的に通学以外でも何かと役立つ自転車を安く購入し、自転車通学を選んだ。


「今日も頼むぜ、ブラックホース」


 トランペットのフェニックスのように、勝善は買った自転車にブラックホースという名前を付けていた。なお、自転車の色は青である。


「さぁ、向かうは愛しの牧野さんがいる我が学園!」


 時は、冬。筒森勝善、高校一年生。

 光と同じ高校に入学し、充実した毎日を送っていた。

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