第一章 第二節


 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである ──ヨハネによる福音書 第10章10節


────────────────────


 1437年 ジュミエージュ修道院が農民達の襲撃にあった翌朝、あまりに優しすぎる日の光がパストゥールの頬を照らし、彼の意識を少しずつ虚空から引き剥がす。


 日溜りの温もりに包まれていく様な覚醒の途中、パストゥールの微睡まどろんだ思考に一瞬、昨夜のことは夢ではないかとよぎった──が、ベッドの横に誰かの右耳やら左脚やらが雑に転がるさまを見て、すべてがどうしようもなく現実であることを思い知らされた。


──もうこの世界には救いはない…


 神の抱擁のような陽光も今のパストゥールには、不快で中途半端に生温いもののように感じる。


 彼は今、酷く疲れていた。


 一度目覚めはしたものの、圧倒的な身体的損傷と致命的な精神的疲労で次第に眼の焦点を合わすことすら出来なくなってきていたし、ただもう無意識に永遠の眠りを欲していたため、静かに目蓋を閉じて自身の命がこのままついえていく予感に安息を感じていた。


 己が物心ついてから昨夜まで信じ続けていた神という存在が、パストゥールの世界からこぼれ落ちたその瞬間から、彼にとってこの世はどうでもいいものへと成り下がった。





 彼はすべてに疲れてしまった。





 もう疲れてしまったのだ…












 「うわわぁ〜、やるねぇ」


 不意に澄んだ子供の声がする。


 「だいぶ仕上がって来たみたいで嬉しいなぁ」


 何のことを話しているのかは皆目見当も付かないが、子供は床に伏しながらも辛うじて息のあるパストゥールに気付いているのかいないのか、その存在を歯牙にもかけずにお喋りを続ける。


 「ホーエンハイムはそもそもモノが違うけどぉ、シャルロットも凄いんだねぇ」


 子供は床に落ちた誰かの右耳をプラプラとつまんでもてあそびながら、嬉々として語る。


 ──シャルロット?


 シャルロット・ソフィアは最後にこのジュミエージュ修道院に残ってくれたスールの名であった。昨夜、農夫たちになぶられて、もはや彼女の命はないだろうと思っていたが…


 「信仰心の強い人間ほどさぁ、良いになるのにさぁ…」


 子供はパストゥールの髪を左手で雑に掴み上げる。


  「あ、あぐぁぁああ…⁉︎」


 パストゥールは突如として子供が発した暴力とその万力のようなチカラに驚くとともに、それは抗うことが出来ないであることを直感する。


 「……で、信仰を失った少年は良いになれるかぁい?」


 むしろ少年であるはずの子供から、少年と呼ばれたパストゥールだったが、手に入れられそうだった久遠の安息の代わりにおぞましい恐怖と痛みが襲ってきて、それどころではなくなった。


 ──に、逃げ…


 子供の左手からはすでに青黒いナニカがうごめいて、パストゥールの全身を浸食していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る