第17章 ありふれた言葉

 白崎組の荘厳な事務所が目に入る。難攻不落の城のように、大きくそびえ立っている。

 響はようやく立ち止まり、肺の中に残っている使い古した空気を、一気に吐き出した。

「はあ……はあ……ぜっ……はあ……」

 服は絞れるくらいびしょびしょで、背中のリュックにも汗染みができている。今も顎の先から滝のように流れ落ち、地面の水たまりがどんどん大きくなっていく。

 息を整える暇さえ惜しく、響は白崎家を睨みあげた。

 それに呼応するかのように、一台の車がやって来る。真っ黒なセダンが、響の目の前で止まる。バム、と音がして、スーツの男が出てくる。二人、三人と出てくる。先頭に立っている男は、紫のスーツを着ている。

「おっ、来た来た」

 快活なその声は、東京で響を退けた張本人、ヤマダの息子だ。ツーブロックをがっちりと固め、ニカッと笑っている。

 響はまだ落ち着いて息をすることができない。強烈な敵意を持って、ヤマダの息子を睨みつける。

「おー、いい顔してるな。助けに来たってわけだ。あの子――えー、そういや俺、まだ名前も聞いてなかった」

「心音だ!白崎心音!あいつには、世界で一番の名前があるんだ!」

 響の肺はものすごい勢いで機能を取り戻した。堰を切ったように、言葉が口を突いて出た。

 踏んではいけない地雷を踏んでしまい、ヤマダの息子は参ったようだった。顔をしかめ、手をぶんぶん振った。

「あーあー、わかったわかった、大きな声出すなって」

 ヤマダの息子がパチンと指を鳴らす。命令を受け取ったヤクザの一人が、車の中から、大きな袋を持って出てくる。ハンガーにかかったそれを、ヤマダの息子はニヤリとしながら受け取る。

「で、どうする。行くか?一緒に」

 伸るか、反るか、響に問うて。



 タケダは警察署の屋上でタバコを吸っていた。

 遠くに見える学校で、本日文化祭が開かれているらしい。そのせいか、街中がどこか、にぎやかな気分に満ちている。

 いや――それだけなのか?

 少し嫌な気配を感じていた。刑事の勘と言うやつらしい。私には到底わからないものだが、これがよく当たるときた。この時も、例外ではなかった。

「はいはいなんですかぁ」

 タケダはポケットの中で鳴り始めたスマホを取り出し、いやいや応答した。世捨て人のような声が、煙と一緒に空に吸い込まれていった。

〔指定暴力団白崎組の事務所で、ひと悶着あるそうよ。警察官として、放ってはおけないでしょう?〕

「……なに、あの時みたいに、もう一度お前を信じろって言うの?それはちょっと、酷じゃありませんかねぇ」

〔はぁ?ナニソレ、だっさ、マジだっさ。ジンったら、まだあそこに落とし物してるわけ?いい加減にしなさいよ。もう十年前でしょ?〕

 タケダは怒りで歯を食いしばった。タバコがぶちっと切れるほど、食いしばった。

〔あの子の歌を聞いて、なんにも思わなかったなんて言わせないわ。少なくとも、心音ちゃんの歌で救われたのは私だけじゃない。たくさんの人が、あの歌で前向きに歩き出せたはずよ。あなただって……!〕

「俺は――」

〔あなたがあの日捨てたものを、響君はまだ持ってる。しっかり持ったまま、心音ちゃんを迎えに行ったわ〕



「私は私にできることをする。あの日の贖罪がまだ終わってないなら、ジン――今こそ立ち上がって進むときよ」

 彼女の歌の一節を引用し、私は、ジンに突きつけた。

 一方的に通話を切る。スマホの画面を開き、自分の会社のサイトにログインする。ここから、ネット記事を書くことができる。

 もちろん、SNSに拡散させることだって――。



 ガロロロ、という音がシートバックから全身に伝わってくる。高級車の椅子に体をうずめる響の姿は、ビシッと肩が角ばった、真っ黒いスーツに変わっていた。白崎組には顔が割れているため、いつもはボサボサにしている頭をワックスで丁寧に整え、大きな四角いサングラスを借りて手に持っている。そして今は、ぶすっとした顔で、ヤマダの息子にされるがままになっている。

「ほら……できた!むずいな、他人のネクタイ締めるのは」

 やれやれ、と言いながら、ヤマダの息子が深く腰掛ける。ちなみに、五人乗りのセダンに五人で乗っているため、ぎゅうぎゅうのすし詰め状態だ。

 礼を言うのもなんだかはばかられて、響は口角をぴくつかせる。

「若、まもなくです」

 助手席のヤクザがミラー越しに報告してくる。

「若やめろ」

「わ――」

「若やめろ、すぐやめろ」

「坊ちゃま」

「んあああ!」

 ヤマダの息子はツーブロックをかきむしり、枝毛をあちらこちらに生み出した。

 それを見て、響は、隣にいる男が自分とさほど変わらない、ただの少年なのだと悟る。きっとヤマダにはヤマダなりにあるのだろう、息苦しいところが。

「まぁいい!とにかく突入だ!おいお前、いいか。俺は事務所に入ったらまず、白崎のオヤジさんと応接間で会うことになってる。少し話をしたら、あれの手下の誰かが、娘さんを連れてくる。そうなったらお終いだ。あとは東京まで一直線よ。俺ができるだけ話を伸ばしてやる。その間にお前は、あの子を見つけて連れ出すんだ。いいな?」

 響は無言で頷き、サングラスをかけた。




 車は白崎組の大きな門の前で止まる。門の横に待機していたヤクザが、運転席に近付いてくる。

「いや~、すいません、遅れてしまって。ちょっと野暮用で……」

 後部座席から身を乗り出し、ヤマダの息子が明るく詫びた。門番のヤクザがサッと頭を下げたので、響はその視界に入らないよう、首をすぼめた。

 事務所の門が開かれる。黒のセダンは緩やかに入っていく。玄関の前まで、ヤクザがびっしりと立っている。その前を、ゆっくりと進んで行く。

 玄関に着くと、助手席のヤクザがサッと降りる。後部座席までツカツカと歩き、主のためにドアを開く。ヤマダの隣にいたヤクザが先に降り、「ありがとさん」と言いながらヤマダが降りる。

「ほれ、お前も降りろ」

 促され、響も足を踏み出す。何十人ものヤクザの視線が注がれている。ボロを出すわけにはいかない――そう思うことで、人間、余計に緊張してしまう。

 響も例外ではなく、不必要な深呼吸をしたり、周囲をキョロキョロ見回してしまった。

「おいおい、初めての遠征だからって緊張するな。あは、あっはっはー」

 ヤマダの息子が咄嗟にフォローを入れたが、周りを固めていた白崎組の連中が、ザッ、と足音を揃えて近づいてきた。

 とっさに険しい目つきになる響だったが、ヤマダの息子がそれより素早く動いた。響は振り上げようとした右手を押さえられ、仕方なく、サングラスの下から白崎組の面々に睨みを利かせた。

 黒いセダンの周りを、張り詰めた空気が覆う。たった五人のヤマダ組を、数十人の白崎組が包囲しているのだ。

 このまま戦争でも始まるのかと思ったら、大きな輪の中から、一人のヤクザがすっと出てきた。

「申し訳ありませんが、白崎の掟でして」

「いーや。わかってます」

 ヤマダの息子はへにゃりと唇を曲げ、懐から拳銃を取り出した。そして当たり前のように手渡した。他のヤマダ組もそれに続き、現場は一気に安堵の空気に包まれた。

 ホッとため息をつく響だったが、なんと、こちらにも白崎組が近付いてくる。

 やべえ、拳銃なんか持ってねえぞ?

 慌ててヤマダに視線を送ると、ヤマダは小さな声でシッ!と言った。

「あー、こいつは新人研修中で、まだ持たせてないんすよ」



 心音はまだ、グランドピアノの前にいた。

 固く閉ざされた鍵盤の蓋を、その上に乗っている母親の写真を、カピパラのぬいぐるみを、じぃっと見つめていた。

 最後くらい――弾いてもいいんじゃないだろうか。

 いや――弾きたい。

 そう思って、写真とカピパラを上に移動させ、鍵盤の蓋に手をかけた。十年も使われていないとは思えないほど、滑らかな動きで蓋は動いた。真っ白な鍵盤が、歓喜の輝きを持って顔を覗かせんとしていた。

「お嬢」

 あぁ、ミロクだ。

「それはなりません。白崎の掟です」

 音もなく入ってきて、また私を止めるのだ。

 心音は責めるような視線をお付きに向け、口をへの字に曲げた。

 お付きは、いつもと変わらぬ冷静さでそこにいた。

「ヤマダ様がお着きになりました。私はオヤジと一緒に出迎えねばなりませんので、一旦あけさせていただきます」

 ミロクは眼鏡をくい、と上げると、その場で音もたてずに回転した。

 その背中に向かって、心音は言いようのない怒りをぶつけた。

「嘘つき」

 ギシ、と廊下を踏みしめる音が鳴り、ミロクの歩みが止まった。

「私、思い出したよ……?ミロクが言ったこと」

 自分の声が、こんなにとげとげしくなるなんて。心音は思ってもみなかった。

「私の欲しいものをなんでもって……そう言ったのに……!」

 眼鏡の反射を利用してこちらを見るかのように、ミロクはわずかばかり顔を傾けた。その瞳に何が写っているのかわかって、心音は唇をかみしめた。

「しばしお待ちを。応接間に降りてきます」



「こちらです」

 スキンヘッドのヤクザに案内され、響たちは豪華な応接間にやってきた。革張りの大きな椅子が無駄に空間を占領し、よくわからないデカい木の置物や、トラの皮みたいなものが置いてある。天井付近の壁には――書道家の作品だろうか――達筆な字で何かが書かれている。

「オヤジ、ヤマダ様がこられました」

 スキンヘッドの声で、響は自分が何をしに来たのか思い出した。部屋を詮索することをやめ、目の前の敵に集中する。

「おぉ、待ってたぞ……!」

 心音があれだけ可愛いのだから、きっと、父親もかなりの美形なのだと思っていた。

 だから、汚いサンタクロースみたいなおっさんが出て来た時、軽く衝撃を受けた。めまいもした。

「いやあ、どうも、お世話になります……ん?おい、お前頭下げろって」

 ヤマダの息子に後頭部を押さえられ、ゴギッ!と首が折れた。

「ハッハッハッ!いや、いや、まあ掛けてくれ。いやぁ」

 心音の父親は口ひげを撫でつけながら大声で笑い、でっぷりとした腹を揺らしながら椅子に腰掛けた。

「では、失礼します」

 ヤマダの息子は白崎のオヤジの反対側に座る。

 響はヤマダの取り巻きにならい、その後ろに立った。

「いやあ、この度は本当に、喜ばしい」

「ハハハ、うちのオヤジも、同じことを毎日のように」

 響からは見えないが、ヤマダの目はおそらく一ミリも笑っていないだろう。言い方にトゲがある。

「娘も喜んどる。ただ――今朝は泣いとったぁ……やっぱり、生まれ育った家を離れるというのは……寂しいんじゃろう……正直なところ、ワシも寂しい」

 そんなわけないだろ!と叫びそうになりながら、やっぱり我慢できなくて、響は掴みかかろうとした。幸い、ヤマダの息子が咄嗟に右こぶしを振り上げてくれたおかげで、響の特攻は失敗に終わった。ドスッという鈍い音はしたが。

「ぅっ……!」

 腹を押さえてうずくまる響を、白崎のオヤジは不審者でも見るような目で見ていた。ヤマダの息子がまたフォローの手を差し伸べてくれる。

「なぁにをしてるんだお前は……あぁ!そうか、トイレに行きたいって言ってたな、ずっと」

 響はヤマダの息子の手を掴む。ヤマダは相当怒っているようで、万力のような力で握りしめられる。もうすぐで悲鳴を上げそうになりながら、響は引っ張り上げられるように立ち上がった。

「すいません、こいつ腹壊してるみたいで、来る途中もトイレに寄ったんですけど――ちょっとだけ、いいすか?」

「ん?あぁ、あぁ、いいとも」

「ほら、行ってこい」

 ヤマダの息子がこっそりとウインクした。合図だ。心音を救う、最初で最後のチャンスだ。

「う、うす!」

 背中を押され、響はワタワタと部屋を出る。スーツのサイズがあっていないのだ。歩きづらいことこの上ない。

「娘の準備ができたら、うちの若頭が来ることになっとる――」

 白崎のオヤジの言葉に耳を澄ませながら、襖を閉じる。外に控えているスキンヘッドに、小さな声で尋ねる。

「あ、あのー……」

「あぁん!?」

 先ほどまでの丁寧な姿勢はどこへやら、スキンヘッドは歌舞伎癪者のように目をひん剥き、響の顔をギロリと見てくる。

 響は思わず後ずさってしまうが、なんとか持ちこたえ、きちんと聞きなおす。

「と、トイレって、どこですか?」

 心音ってすげえ、こんな家に住んでんのか。

 妙なところで感心しながら、スキンヘッドのガンに耐え続けた。

「あっちだ」

 スキンヘッドは人差し指を廊下の奥に向けた。それが第二間接までしかないことに気付き、響はぎょっとした。

「あっ……ありがとう、ございます……」

 心音ってすげえ。

 妙なところで感心してばっかりだった。




 廊下は長くながく伸びており、左側は切れ間なく襖が並んでいる。

 右側はガラス戸になっていて、真っ白な砂利が敷かれた庭が見える。庭の真ん中にはデカい池がある。響の部屋よりデカい池だ。アニメや映画なら、鯉が飛び跳ね、ボチャンと水しぶきを上げる。そんな池だ。

 正面に視線を戻すと、トイレと思われる扉が見えてきた。響は扉の前で立ち止まり、キョロキョロと左右を見渡した。

 右の方は、ちょっと行った先ですぐに折れ曲がっており、その先が見えない。対して、左はまっすぐに伸びている。チラリと後ろを振り返ると、スキンヘッドのヤクザがこっちを見ているのがわかる。短い指を反対の手で撫でながら、こちらの動きを監視している。

 響は己と戦った。

 普通にトイレに入って、何食わぬ顔で出て、応接間に戻る未来と戦った。

 家に帰って――家には帰れないが――これ以上の怪我を負わず、暖かい――冷たいかもしれないが――布団に入って寝られる。そんな、普通の人が過ごす、普通の未来と。


 心音を置き去りにして手に入る、空虚な平穏と。


 拳を握りしめ、自分の足を叩いた。殴りつけた。道を間違えたふりをして、左に舵を切った。そそくさと、スキンヘッドの視界から逃げた。

「おい!」

 すかさず、スキンヘッドの声が追いかけてくる。

「おい!どこ行くんじゃ!」

 どたどたと走る音が聞こえてくる。響は足を速める。両サイドに時代劇ばりの襖が続いている。切れ間はないか、曲がり道はないか、必死に探しながら走る。

 そして幸運にも、左手前方に階段と思しき段差を見つけたその時、まさにその階段から、響が最も会いたくなかった男が現れる。

「ぅっ……!」

 響は廊下の真ん中で急停止した。そんなことをすれば悪目立ちするとわかっていたが、そんなことをしなくても結果は同じだった。だって、階段から降りてきたのは、この家で響の正体を知る数少ない人物――ミロクだったのだから。

 この男が驚きの表情を浮かべるのを、響は初めて見た。

 ミロクは小さい小豆のような瞳を、さらにさらに小さくして、針先で突いた点のようにして固まっていた。アホみたいに口を開けたまま、左足を階段の一段目に、右足を廊下にかけたまま固まっていた。

 前門のミロク、後門のスキンヘッド、選ぶなら後門一択だ。こんな化け物、相手にしてる場合じゃねえ!


「くそっ……!」

 目の前の少年が、ウサギのように飛び跳ねて逃げていくのを、ミロクは放心状態で見つめていた。

 まさかと思った。

 まさか、こんなところまで潜り込んでくるなんて。

 もう来ないと、確信までしていたのに。

「おい、待……この!」

 スキンヘッドの叫び声が聞こえた。少年が白崎の組員に体当たりをかまし、突破を試みたのだ。

「お前っ……!よく見たらあの時のガキじゃねえか!」

 スキンヘッドはすんでのところで持ちこたえた。少年はがっちりと抱えられてしまった。

「くそっ……!離せ!」

「離すかこの……!侵入者!侵入者だーっ!」



「はっ……!」

 心音は喜びと絶望を一緒に感じながら立ち上がった。誰が何のために入ってきたのか――お願いだから――わかりたくなかった。



「なにぃ!?侵入者じゃと!?」

 白崎のオヤジが怒りの咆哮をあげた。

 ヤマダの息子はあちゃ~と額を叩き、部下に目配せを送った。



 侵入者の一報を受け、襖という襖が一斉に開かれる。

 組長の娘の門出の日なのだ。白崎組の全構成員が集結していると、少し考えればわかるはずだ。

「くそ!離……せぇ!」

 それでも少年は諦めようとしない。スキンヘッドをぶん投げ、次に掴みかかってきた組員を跳ね飛ばし、暴走機関車のような荒々しさで前に進み続けている。

 なぜ諦めない?なぜ無尽蔵ともいえる力を持っている?なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……?ミロクは訳が分からなくなり、ジリジリと進み続ける少年を、驚嘆の面持ちで見つめていた。

「うぅ……!うあああ!」

 組員は次から次に出てくる。倒されてもたおされても、暗がりから出てくるゾンビのように、わらわらと湧き出てくるのだ。

「離せ!離せぇ!」

 少年は髪を掴まれ、ぶちぶちと引きちぎられていた。サングラスを引っぺがされ、粉々にされていた。頬を引っかかれ、血をにじませていた。スーツはビリビリに破れ、ただの布切れに変わっていた。右手を、右足を、左手を左足を、全てをまんべんなく掴まれていた。完全な団子状態になってなお、進むことを諦めないでいた。

「オレは……オレはぁ……!」

 五人目の組員に正面からぶつかられ、少年はうっ、とうめいた。

 しかしそれは、終わりの合図ではなかった。

「心音を助けに来たんだあぁぁぁぁ!」

 錆びついたミロクの記憶を奮い立たせる、大号令だったのだ。

 

『まぁ、ミロク……どうしてあなたが、こんなところに?』

 白百合のような手が、自分の頬を撫でていた。傷口を触られて痛みが走ったが、心地よくてミロクは笑った。

『お前を助けるために来たんだ』

 彼女は儚げに笑った。まるで枯れる寸前の花のようだった。

『ありがとう――でも、ごめんなさい。私はもう、あの人のものなの』


『それでも……!』

 ミロクは言った。

『それでも!』

 寝室に帰る彼女に、もうやめてと言った彼女に、強くつよく宣言した。

『俺は諦めない!』


 銃声が鳴り響き、怒号と悲鳴がグランドピアノの部屋を埋め尽くしていた。

 ミロクは、震える手で彼女を抱いた。

『あぁ……!ああ……!』

 救えなかった。ちっとも、これっぽっちも、たったの一度も。

 彼女を助けることだけが、それだけで、ミロクは生きていたのに。

『ミ、ロ……ク……』

 白百合のような手は、血で真っ赤に染まっていた。その手が、あの日のように自分の頬に添えられるのが、現実のことと思えなかった。

『お願い……あの子を……守って……あの子の、笑顔を……――』

 ミロクは泣いた。

 声も上げず泣いた。

 愛した女の亡骸を抱きかかえ、この世の全てを呪って泣いた。


 彼女が愛した子は、目を真っ赤に腫らして座っていた。

 あの日と同じ、ピアノの椅子に座っていた。

 ミロクは音もなく少女の傍らに跪き、うやうやしく申し出た。

『お嬢――』

 ちっちゃな心音は、鼻をぐずぐず言わせながら振り向いた。

『私はお母様に、あなた様のことを頼まれました。これからは私が、あなた様のお世話を務めさせていただきます』

『パパがね』

 心音は目じりを拭った。リンゴのような頬を、涙の粒が何度もなんども伝って落ちた。

『もうおうた、うたっちゃダメだって。ピアノさんも、ひいちゃダメだって』

 その全てを、ミロクは一つも余すことなく見つめ続けた。彼女の代わりに、全て見届けるつもりでいた。

『ママがね、さびしいときはうたいなさいっていったの、ピアノさんがたのしくしてくれるっていったの、なのに……なのにね……うええぇぇぇん!』

 椅子に座ると、まだ床に届かないほど小さな足――涙を受け止めるには、まだ小さすぎる手――この子が大きくなるのを、彼女は誰よりも待ち望んでいた。この子が成長していくのを、彼女は誰よりも喜んでいた。この子が幸せになることを、彼女は誰よりも祈っていた。

『わかりました。約束します』

 ミロクは心音のちいさな手をとり、励ますように言った。

『お嬢の欲しいものを、なんなりとお申し付けください』

 それは彼女と同じ、白百合のような手だった。

『いつの日か必ず、私が持ってまいります――』


「はあ……はあ……はあ……」

 気付いた時、ミロクは廊下の中心に立っていた。

 周囲には、気を失った白崎組の組員たちが、死体の山のように倒れていた。

「ミ、ミロクさん……?」

「アニキ、なんで……!」

 山の向こうでは、怯えた組員たちが狼狽している。ミロクの乱心に恐れおののき、近づけないでいる。

 ミロクは髪を振り乱し、手袋をきゅっと絞り、外れかけた眼鏡をぐぅっと押し上げた。傍らで腰を抜かしている少年を、小豆のような瞳で睨みつけた。

「早くしろ、お嬢を待たせるな」


 それは雷鳴のように低い声だった。

 響にはミロクの事情など一つも分からなかったが、彼がどういう信念を持っているのかだけは、鋭く感じ取っていた。

 バネのように飛び跳ね、ミロクが降りてきた階段めがけて走り始めた。

「い、行かせるか!」

 すぐさま組員が突進してきたが、後ろからミロクが音もなく滑り込んできた。ミロクはこの屋敷の誰よりも素早い動きで、組員の脇腹に当て身を食らわせ、後頭部を掴んで廊下に叩きつけた。

 響はヤクザたちには目もくれず、階段を目指した。

「やめてくださいアニキ!」

「なんであのガキの味方するんですか!」

「黙れ!俺がここに来たのは、最初からそれが目的だ!」

 言いあう声と殴り合う音が、響の後頭部をビリビリと揺さぶる。子供のケンカとはわけが違う、男たちの命のやり取りが、今まさに繰り広げられているのだ。

 戦場から、心音の元へ――響は階段のたもとにたどりつき、手すりを握った。勢いあまって滑っていこうとする体を引っ張りよせ、その一段目に足をかけた。

 その時だ。

「止まれクソガキィ!」

 ミロクがいるのとは反対側から、銃を持ったヤクザがやって来た。

 響の全身が硬直する。

 脳みそが、突然すぎる命の終わりを感じ取り、悲鳴を上げている。

 足を踏み出して逃げればいいのに、どうすることもできず、ただ、見入ってしまう。

「まて!家の中で出すな!白崎の掟を忘れたのか!」

 後ろの方で、一度に二人も三人も相手にしながら、ミロクが叫んでいる。

「うるせぇ!知ったことか!裏切ったあんたの言うことなんか――」

 銃を持ったヤクザは頭を振り回し、ガチリと重厚な音を鳴らす。

「やめろーっ!」

 ミロクはすさまじい馬力を見せ、まとわりついていたヤクザ三人を一気に吹き飛ばす。しかし、さらに四人のヤクザに組み付かれ、その姿を消してしまう。

 そして――十年ぶりの銃声が、白崎家に轟いた。

 


「あれぇ?」

 警察署の生活安全課で、若手の巡査がすっとんきょうな声を上げていた。

「おい、どうしたんだ」

「いや、今日調べで出そうと思ったんすけど……係長、知りません?」

 巡査が覗き込んでいる棚には、ついさっきまであったはずなのだ。少なく見積もっても、十四、五はあった。

「ないんすよ。わっぱが、一つも」



 そんなことしたって意味がないのに、響は頭を抱えてうずくまっていた。

 だが、銃弾は――体のどこにも当たらなかった。

 抱えていた頭をゆっくりと起こし、その原因を探る。見る。響を狙った拳銃は、それを握る右手ごと、何者かの足に踏んずけられている。銃口から情けなく立ちのぼる煙を、目で追いかける。

 いつもいつも、忌まわしいと思っていた。

 いっつもいっつも、行く先々に現れてきたから。

 そいつは今日も、忽然と現れた。


 世捨て人みたいな声が、その到来を告げる。


「そうだぜぇ、拳銃なんてぇ――どこで出したって犯罪でしょうがぁ……!ここ日本ですよみなさん!」

 そいつは苛立ちを隠そうともせず、鋼鉄の手錠を振り下ろした。さすがは警官、ぎゃっ、と叫ぶヤクザを、あっという間に拘束してしまった。

「タケダ……」

「ぼさっとすんな少年!今やるべきは俺への感謝じゃない、女の子と駆け落ちするなら、さっさと立って走らんか、このったわけがぁ!」

 遠くから怒鳴られただけなのに、響はケツを思いっきり蹴られた気がした。とにかく、二人が助けてくれた。三段飛ばしで階段を駆け上り、その先を目指す。



 一ノ瀬響三人目のバカは二階へと消えていった。いいねあの年頃は。自分のことを無敵だと思い込んでいる。人生なんとかなるという、漠然とした、根拠のない自信に満ちている。うらやましいなどと思うものか。そのうち俺のように、思い知ることになるだろう。そうなれば、なぜ自分が、人類史という物語の主人公だと思いあがっていたのか、心の底から後悔することになる。

 だから少年、気付く前に走り抜けるんだ。

「お前……!タケダかぁ!」

「おんどりゃあ、よく来れたなぁ!」

「タケダぁ!てめえ!」

 複数のヤクザがいっぺんに襲いかかってくるのを、タケダは舌なめずりして迎え撃つ。よれよれのスーツパンツのポケットから、護送用の縄がついた手錠を何本も取り出して、カウボーイのようにヒュンヒュンいわせて回す。

「あぁ?おら、おら!おらぁ!」

 ヤクザの群れの中を、怒れる猛牛のように突き進み、なぎ倒し、その合間あいまに手錠をかけまくっていく。

「あの日落とした、俺の正義をぉ!ここで拾わずしてぇ、なぁにが刑事じゃあぁぁ!」

 殴る蹴るは当たり前、時に手錠の腰縄を相手に巻き付け、そのまま引っ張ったり、手錠そのものを投げつけて鼻を砕いたり、ありとあらゆる方法でタケダは暴れる。暴れまくる。

 そうして雑魚を蹴散らしていくと、その下から、地面に這いつくばっているミロクが出てくる。

 威厳もクソもあったもんじゃない。黒いソフトクリームみたいな髪をぐっちゃぐちゃにし、眼鏡のグラスが片方行方不明に、白手袋はビリビリに破れている。

「よぉ、お疲れのようで」

 ミロクは「はっ!」と鼻で笑うと、タケダの手を払いのけ、自分の力だけで立ち上がった。

 廊下の奥から、手前から、左から、右から……ありとあらゆる方向から、ヤクザが無限に湧いて出てくる。二人を仕留めようと、我先に駆けてくる。


 バカは言った。

「不良警官め……十年前から何も変わっちゃいない」

 バカは言い返した。

「お前のオヤジは知っとるんじゃろうのう、お前が、お嬢様の脱出を手助けしちょると」

 二人のバカは背中合わせになり、吹っ切れたように笑った。



「心音ええぇ!」

 自分を呼ぶ声が聞こえる。

「はあ……!はあ……!心音!心音ぇー!」

 気のせいじゃない、どんどん、大きくなってくる。

 バン!と襖の大きな音が鳴り、心音はピアノ椅子から飛び上がった。

「……パパ?」

 血相を変えて入ってきたのは、心音の父親だった。いつもミロクが入って来る入り口ではなく、グランドピアノを挟んで、部屋の反対側から入ってきた。

 父親は口髭をわなわなと震わせ、だるだるの腹を震わせ、右手に持った拳銃をガチガチと震わせていた。その状態で、左手をバッと差し出してきた。

「心音、こっちに来なさい!」

 心音は怖くなって後ずさった。二人の間には、母親の写真が乗ったグランドピアノがある。

「パパ……?なぁに?どうして銃なんて――」

 怖かった。大好きだったお母さんを奪った銃が、死ぬほど怖かった。声を枯らして叫びたいのに、恐怖に喉を縛られ、どうすることもできなかった。

「お前をさらいに来た奴がおるんじゃ!いいからこっちに来なさい!」

「助けに来たぞ!心音ぇ!」

 部屋のすぐそばで大きな声が聞こえ、心音も父親も、咄嗟にその方向を見た。父親の額にドッと脂汗が流れたのを、心音は目の端で感じていた。

「はよせえ!早うこっちに来るんじゃ!」

 父親が狂ったように叫びだし、心音はパニックに陥った。嫌だいやだと首を振り、父親から逃げるように肩を縮こませ、窓際まで後ずさった。

「銃は出しちゃダメだって、パパが言ったのに……!どうして――」

「お前を守るためじゃ!背に腹変えられるか!」

「だってそれは――お母さんの――!」

「ワシが守ると言っとるのが!わからんのかお前はぁ!」

「心音!」

 父親の声を遮り、ついにやってきた。

 拒否したのに、二度と来るなと釘を刺したのに、なぜかスーツ姿で、なぜか髪にワックスまでかけて、後先なんてこれっぽっちも考えずに、命の危険があるなんてちっとも気にかけずに、響はやってきた。

「――ひびぎぃ……!」

 心音は涙声になりながら、その名を呼んだ。

 部屋の入口で仁王立ちになり、ぜえぜぇと息を切らしながらこちらを見ていた。

 本当に自分を助けようとしてくれている、世界で一人の、たった一人の男の子。

「ここ――」

「動くなぁ!」

 響が一歩踏み出した瞬間、父親がはじかれたように動いた。拳銃を両手で構え、侵入者の心臓に狙いを定めた。

 響はぎょっとして立ち止まり、心音と父親、両名を交互に見た。

 グランドピアノを中心にして、三人は大きな三角形を作っていた。窓際に心音、東西の入り口に響と父親だ。

「小僧!一歩でも進んでみい!ワシが殺しちゃる!」

「心音!助けに来たぞ!」

「進むなと言っとるじゃろうがぁ!」

「来ないでぇ!」

 心音は金切り声をあげた。

 怖かった。

 響が死んでしまうのが、大好きだったお母さんと同じように、この部屋で死んでしまうのが、自分の死より恐ろしかった。

「心音……」

 響は優しい声で言った。優しい目をしていた。

「私といると、また君に迷惑がかかる!絶対にかかる!君がどんなに頑張ったって、ぜったに敵わない……!」

「心音」

「心音!」

 響は優しく呼びかけてきた。父親は激しい口調で怒鳴ってきた。

「歌いたいだろ?」

「その男の言うことに耳を貸すなぁ!」

「わたっ――私――歌いたくない!」

 心音は両手で耳を塞いだ。両目をつむり、ぎゅーっと体を縮こませた。

 響がどんな顔をするのか、見たくなかった。

「私がいるだけで、みんなが不幸になるの!私と一緒にいて、お母さんは死んだ!私と同じクラスにいて、私と同じ授業を受けてるだけで、みんな死んだみたいに暗い顔するの!せっかく外に出たって、私は君のお荷物にしかならない!追いかけられて、捕まって、暴力を振るわれて!ボロボロになって!私が歌をうたい続けたら、いつか響だって死んじゃう!そんなの――それなら、私、歌なんてうたいたくない!」

 泣きじゃくりながら、必死に拒絶した。一本一本、白崎の呪いをくさびのように打ち込み、自分の心を、固くて暗い檻の中に閉じ込めた。誰にも開けられないようにがんじがらめにした。

「オレは死なねぇ!」

 それを簡単に、響は開けるのだ。天を震わせる声で叫ぶのだ。塞いだ耳にも、ちゃんと届くように。

「お前が歌うから!オレは死なねえんだ!」

 心音は恐るおそる顔を上げた。

 涙の鉄格子の向こうで、響が手を伸ばしていた。燃えるような表情で、こっちを見ていた。その背中から、さんさんと光がさしていた。

 ひっ、と嗚咽が漏れた。

「黙れぃ小僧!行かせはせん!行かせはせんぞぉ!ワシの娘じゃ!たった一人の娘じゃあ!それ以上そそのかしてみぃ、頭をぶち抜くぞぉ!」

 脅すように拳銃をガチリと鳴らし、父親は唾をまき散らした。

 それでも響は、揺るぎない瞳でこちらを見つめ続けていた。

「オレがいなきゃ困るんだろ!助けに来たぞ!」

 その声に導かれるように、心音は立ち上がった。歩きだした。

「待ちなさい!心音!」

「オレだけじゃない、クス子が会場作ってくれてる!マコトさんが人集めてくれてる!みんなが!お前の歌を聞きに来てる!」

 初めはさまよう様に。次第に、確信を持って。光の方へ進んだ。

「心音!止まれ!止まれと言っとるじゃろうが!」

「一緒に行こう!こんなところ出て、二人で逃げよう!心配すんな!お前が歌える世界なら、オレが探してやる!絶対見つけてやる!だから……!」




 ――心に響く、音はあるか?




 あります、と。彼女は言った。

 その声が。

 その声こそが。




「歌えぇええ!心音ぇぇぇぇ!」




 心音は飛んだ。

 あの人がくれた翼で、あの人めがけて飛んだ。

 とち狂った父親に、銃口を向けられているのが見えた。引き金を引かれるのもわかっていた。

 それでも走った。

 自分の居場所は、もう決まっていた。


 銃弾は、母親の写真に当たって砕けた。


「響!」

 心音は響に飛びついた。飛びついて、抱きついて、わんわん泣いて、その肩に頭をうずめた。頬ずりした。自分より大きな肩を、千切れるほど抱きしめた。

 響は、同じくらい強くつよく抱きしめてくれた。響の体は太陽のように熱くて、じんじんと心音を温めてくれた。

 真っ黒な殻が、唸りを上げて砕け散る。暗闇の中が、無限の光で照らされる。

 孤独という名の死神を返り討ちにして、心音の世界が完成する。

 涙は不思議と止まり、不思議と笑顔がこぼれた。勇気が自然にみなぎり、自然と力が湧いた。心音は響の肩に両手をかけたまま、その傷だらけの顔を、愛おしくてたまらない顔を、じっと見つめた。

 響はくすぐったそうに笑っていた。

「お美しくなられました」

 いつものように、音もなくミロクが現れる。

「あぁ……!あぁあ!」

「おーおー、派手にやってくれるじゃないですか」

 その後方に、自分のやってしまったことに呆然とする父親と、ヤクザの組長にお縄をかける警官が見える。

 心音は響から離れ、最後の使命を果たしに来たお付きに、きちんと向き直った。

「私はあの日、奥様に約束しました。何に変えても、お嬢の笑顔を守ると」

 片方だけになった眼鏡に写っているのは、心音に瓜二つの顔だった。

 ミロクは素早く跪くと、右手で響の手をとり、左手で心音の手をとった。そして――そっと、二人の手をつなぎ合わせた。

「お嬢、十年越しになりましたが、これが約束の品です。お嬢の欲しいものを、なんなりと――」

 心音は響の手をきゅっと握り、最大限の感謝を込めて歌った。

「ありがと、ミロク」

 ミロクは万感の表情で頷き、うやうやしく頭を下げた。

「少年!」

 ヤクザの親分を足蹴にしながら、警官がわざとらしく左手を傾けている。高級そうな腕時計を光らせ、悪ガキのような笑みを見せる。

「補導時間は十一時だ。忘れるな!」

「あぁ!わかってる!」

 響はニヤリと笑い、こちらに向き直る。

「行こう」

 もう迷わない。心音は頷いた。

「――うん!」

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