第15章 十年前

 この街には将来を期待された歌姫がいた。

 艶やかな黒髪をなびかせ、大きなガラス玉のような瞳をしていて、ちょこんとついた鼻が大層可愛らしい、お姫様のような人だった。

 白百合のような手で皆の声援に応えながら、愛の唄を振りまいていた。


 真っ黒な暗雲が立ち込めていたこの街の中で、彼女は一輪の花のようにったそうです。

 バカな男は――身の丈もわきまえず――その女性に惚れました。一目見た時、自分の全てを投げだしてもいい、そう思えたのです。

 男は彼女の前で滑稽に立ち振る舞い、無闇にカッコつけ、その視線を独り占めすることに躍起になっていました。

 そして幸か不幸か、彼女はバカな男の想いに気付き、そっと、寄り添うようになってくれました。


 そんな街のアイドルともいえる彼女が結婚した相手は、町唯一の極道、白崎組の若頭だった。

 町中が驚いた。いや、驚きなんて生易しいものじゃない。誰しもが自分の目と耳と鼻、あらゆる感覚を疑った。

 でも、どれだけ見返しても、結果は変わらなかった。地元一の歌姫は、ヤクザに幽閉されてしまった。


 理由はいくらかあったと聞いています。どれもひどいものでした。

 一番まともな理由でさえ、彼女の親が、白崎組に多額の借金をしていて、そのカタに嫁がされた……そのようなものでした。

 憐れ、バカな男は彼女を忘れることができませんでした。三日三晩泣き叫び、一カ月の間悲しみに暮れ、一年間、廃人のようにただただ生きながらえていました。


 街は静けさに包まれ、人々は明るさを失った。そのころから白崎組に対する恐れのようなものがはびこり出して、あの組には絶対に手を出してはいけないという、不文律のようなものができてしまった。


 そうこうしているうちに、白崎組は代替わりの時を迎えました。若頭は組長の座につき、あの女性は組長の子供を産みました。


 名は白崎心音。


 母親に瓜二つの、可愛い女の子でした。


 子供が生まれてからというもの、白崎組の組長は人が変わったように明るくなった。

 今まで一切行ってこなかった地元住民との交流を始め、地震や大雨の災害時には、手下のヤクザを総動員して救援に当たった。

 祭りなどのイベントごとに顔を出しては人々を助け、段々と、緩やかではあったが、周囲の信頼を得るようになっていった。


 全ては、彼女と子供のおかげだったのです。

 組の中にはいつも音楽が流れており、喜びと祝福に溢れていました。

 彼女は自分の子供に持ち得る全てを与えました。〝歌〟と〝音楽〟です。その才能を遺憾なく引き継いでいた子供は、三歳でピアノを弾き始め、四歳の時には母親顔負けの歌声を披露しました。

 白崎のオヤジはいつもニコニコしていて、妻と子供のことばかり考えていました。一緒にピアノを弾いている二人を見るのが、一日の内で一番幸せな時だと言っていました。


 あくまでも一説に過ぎないが、あの時の白崎は、ヤクザという生業から足を洗おうとしていた、なんて情報もあった。

 それくらい街は明るさを取り戻し、活気に満ち溢れていた。


 それでも男は、それをよしとしなかったのです。彼女は白崎に囚われたまま。なんとか状況を打破しようと、立ち上がったといいます。


 必死に勉強して、知恵をつけ。


 体を鍛え、力をつけました。


 そうして警察に入った男は、めきめきと頭角を現した。やる気も実力も誰よりも秀でていたから、現場に出て数年で刑事課からお呼びがかかった。

 暴力団事件を担当する、刑事二課に。


 白崎組から彼女を救い出すために、手段は選んでいられない。バカな男は、白崎組に潜入することを選びました。


 朝早くに出勤し、新聞の回収、部屋の掃除、車をピカピカに磨き上げ、上司先輩がくればお茶を出す。雑用を頼まれれば喜んで買って出て、自分の仕事そっちのけで処理する。


 電話番や皿洗い、タバコの買い出しまでやっていました。夜は遅くまで残り、泊まり込みになることも珍しくありませんでした。その厳しい下積みも、全ては上からの評価を得るためでした。


 そして、全ての準備が整った時、男の元に、一つの情報が舞い込んできた。

 古い知り合いからの情報で、男は信じ切っていた。


 最初は耳を疑ったそうです。そのころの白崎組は、汚い仕事を極力減らすようにしていましたから。

 それでも、その日が近づくにつれ、その情報は正しいということが否応なしにわかりました。


 白崎組の事務所で、大きな薬物の取引がある。


 そして、ヤクの売人がやってきました。


 男は警察組織の誰にも報告せず、一人で事態に当たることにした。

 手柄が欲しかったからではない。白崎組への融和ムードがはびこっていた当時の街では、こんな情報を言っても誰も信じないし、協力を得ることなんて夢のまた夢だったからだ。

 しかし男は、若さゆえの正義感を持っていた。誰にも負けることのない正義感だった。悪に手を染める白崎を許せなかった。


 そして十年前のあの日がやってきました。

 ちょうど今日のように、台風が過ぎ去った後の、暑い日でした。

 売人は、白崎のオヤジと応接室で話しこんでいました。何の話かは分かりません。覚せい剤の取引か、大麻の取引か、はたまた麻薬か……いずれにせよ、部屋を完全に締め切って、秘密の話をしていました。


 そんなところに一人の刑事が姿を現せばどうなるか、容易に想像がつく。

 白崎組はパニックに陥った。


 売人を逃がすため、白崎のオヤジは仁王立ちになり、叫びました。

 その隙に売人は部屋を飛び出し、組の中を走り回りました。

 そして、威嚇のためか殺すためかはわかりませんが、誰かが発砲しました。


 売人を逃がすわけにはいかない。

 若いバカは当然のように応戦した。持ってきた拳銃を取り出し、引き金を引いた。


 どちらが、いえ、誰の弾が当たったのか、未だにわかっていません。




「――流れ弾の一発が、心音ちゃんのお母さんに当たったの」

 何一つ――

「いつものように二人でピアノを弾いていたらしいわ。そこに売人が逃げ込んできて――ヤクザと刑事と――ぐちゃぐちゃになりながら追いかけてきて――お母さんは、まだ小さかった心音ちゃんを守るために、覆いかぶさったの」

――何一つ、知らなかった……!


「それ以来、白崎組では〝組事務所内での銃の使用〟、そして……〝音楽〟が禁じられたそうよ」


「なんだよ……!」

 響は涙した。


『えっ?あっ……うん。えっと、私のお母さんが音楽好きで、よく聞いてたの』


 どうりで古い歌ばっかり歌うはずだ。全部――全部!――十年以上前の歌ばっかりじゃねえか!


『うん!だって、世の中って、いい歌がたくさんあるでしょ?』


 まるで、自分がこの世界の住人じゃないみたいな言い方だった。

「心音……お前……」


『私でいられるから――かな』


 聞き逃していた。

 たいしたことない話だと、思い込んでいた。


『歌ってすごいんだよ。歌ってる間は、嫌なことを全部忘れられて、自分が世界の中心にいる気がして、世界が自分のために輝いてる気がして……それで……』


「ずっと我慢してたんじゃねえか……!」

 心音が本当は何を言いたかったのか、今ならわかる。

 心音が本当は何をしたかったのか、今ならわかる!


『ひぃとりぼぉっちが、せーつないーよるー……ほぉしをさーが、しーてるぅ……』

 白崎心音にとって――

『あしーたきぃみがいなきゃ、こまぁるぅうー……こまぁ……るぅ…………』

 心音にとって歌は――

『ど、どうかな……』

 心音にとって、歌とは――!


「聞く準備はできた?」




 コメダ珈琲の出入り口にかけられた鐘が、ガヂャンガヂャンと喚き散らしていた。

 私は最後の泥水を吸い上げ、一人、窓の外を見た。


 走れ、少年。

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