第12章 現実
「だーかーら!なに怒ってんだよ!」
「だーかーら!怒ってないってば!」
響は、肩を怒らせながら歩く心音に食らいついていた。怒ってない怒ってないと十二回は聞かされたが、心音はズカズカという足音を隠そうともしない。このままでは歩道の石畳に足跡が残りそうだ。
「いいから早く、次の告知して」
交差点で信号に引っかかったところで、心音が要求してくる。
「今日はもう一回やっただろ」
「歌いたい気分なの!」
「さっき歌ったじゃねえか……」
「響さんは私の歌を理解してくれないので。違う人に聞いて欲しいのです」
「やっぱり怒って――」
「ません!」
心音は唇を尖らせ、そっぽを向いてしまった。信号が青に変わっても、動き出す気配がない。
あーあ、怒らせた。四方を囲む高層ビルたちが、いっせいに非難の目つきで見下ろしてきた。
いや、やっぱり怒ってんじゃねえか。響はビルたちを順番に睨み返した。
「心音」
「なに」
「今日はやめとこう、あんまり目立ち過ぎるのはよくない」
「ヤ!」
心音が頑固の出血大セールを始めてしまった。こちらと目を合わせないばかりか、返答に一文字か二文字しか使わないときた。
「はあ……いつになったら言うこと聞いてくれるんだよ……」
響は諦めてTwitterを開いた。歌姫の大移動、と銘打ち、次なる告知をツイートした。いいね!やリツイートがバンバン入って来るので、いいところで通知を切った。
「心音、行くぞ」
「ちゃんとやってくれた?」
「やーったって!ほら!」
響はドラマ水戸黄門さながらにスマホを掲げる。目に入らぬか、なあ。
「ふうぅん、べーっだ!」
たかがTwitterごときに、印籠ほどの効力はなかった。心音はイチゴ色の舌をペロッと出し、おちょくってきた。
「んなっ!?なにおぅ!」
「きゃー!響が怒ったー!」
それが〝もう怒ってないよ〟の意思表示であることを、響が理解する日は遠い。
二人は一つだけ見落としていた。心音は忘れていたし、響は知らなかった。
東京には心音を探している組織が一つだけあり、そこにはまさに、心音たちと同世代の人間がいた、ということを。
「またスマホか」
許嫁という、呪いのような存在を。
ミロクは白崎家の門扉をくぐった。名古屋から反転し、ちょうど今しがた、戻ったところだった。
「お疲れさんです」
頭を下げてくる組員をしっしと手で払いのける。バカが、留守にしていたことを、オヤジに気付かせたいのか。
足音一つ立てず玄関に向かい、物音一つ立てずに戸を引いた。
そこにはすでに、白崎のオヤジがいた。
「おーっ!ミロク、どこ行っとった」
オヤジはでっぷりとした腹と格闘しながら、革靴を履いているところだった。
ミロクは優秀な男だったから、動揺や驚きといった類の感情をすぐさま仮面の下に隠した。十年前にかぶったきりの、仮面の下に。
「お嬢を探しておりました。思い当たる場所をいくつか回ってみましたが、残念ながら……」
「そうか、そうか」
愛娘が見つかっていない、という報告なのに、オヤジはなぜか嬉しそうだ。心音のこととなると見境なく暴れ出すこのオヤジが、だ。さすがのミロクも、違和感が口をついて出てしまう。
「何かあったのですか」
「おーおぉ、そうだ」
ようやく革靴を履き終えたオヤジが、手すりを掴んで立ち上がる。ミロクはさりげなく手を差し出し、その助けをする。
「ついさっき、ヤマダの組長から連絡が入った。なんでも――ワシはよくわからんのじゃが――息子さんのあれに、心音が映っとったと」
「……スマホですか」
「あぁ、それだ。それで、そのスマホが言うには、心音は東京におるらしい。向こうも動いてくれちょる。ワシらもすぐに出るにゃならんじゃろ」
ミロクはついに、険しい顔をして胸を鷲掴みにした。言葉が出てこない。まさか、まさかこんなところで――お嬢――!
「先に行って待っとるぞ」
組員が玄関をさっと引く。オヤジは高笑いしながら出ていく。
何かの間違いであってくれ、ミロクはそう祈りながら、スーツの裏ポケットからスマホを取り出した。アプリを起動し、最後にGPS信号をとらえた地点を確認した。
心音が最初に出ていった日、彼女が履いていた厚底サンダルには、あらかじめGPSを仕込んでいた。名古屋で助けた時、電池交換もしておいた。そうとも、ミロクは十年前の約束を守るために、ありとあらゆる準備をしてきた。
「はぁあ……!」
だからそれが、東京のど真ん中に表示されていることは、故障でもなんでもないのだ。
響たちは山手線に乗り、渋谷駅へと向かった。地下鉄を乗り継いだ方が速いらしかったが、田舎者には複雑そうだったので諦めた。
渋谷に降り立つと、有名な忠犬ハチ公の像があった。スマホが普及するまでは、この可愛い犬っコロが待ち合わせの日本代表だったらしい。今でも愛用している人は多いとか。
「わぁ~!ねぇねぇ、ハチ公だよ!響、撮ってとって!」
心音は大はしゃぎだ。手を伸ばしてハチの足をなでなでしている。
「あー、わかった……よ?」
やれやれと思いつつ、スマホを取り出す響だったが、突如として天才的なひらめきに襲われた。
これはもしや、合法的に心音の写真を撮るチャンスなのでは?
そう思うと、途端に手が震えてきた。ヤベエ、顔がにやけそうだ。平常心、平常心……。
「響ーっ!早くっ!」
心音がハチ公の前でイーッ、と笑っている。リュックの肩紐を掴む白百合のような手、肩にかかる黒髪のおさげ、柔らかな曲線を描くガラス玉のような瞳、全てを克明に記録したくて、響は一ミリ単位で画角を調整する。
「ト、トルゾー……」
指先をぷるぷるさせながら、なんとかシャッターボタンをタップする。フラッシュの光とともに、カシュン、とシャッターが切られる。一秒も絶たないうちに、スマホの画面に撮った写真がプレビュー表示される。
やった……やってしまった……図らずも、今世紀最大のお宝を手にしてしまった……響は自分が恐ろしくなる。
「どう?ちゃんと撮れた?」
「あぁ……」
響はうわの空で答えていた。
なぜ、こんな時に思い出すのだろう。
真っ黒なセダンから、上流階級の人間のように降りてくる心音を。
校舎裏の法面に腰掛け、寂しそうな笑顔を見せる心音を。
調理実習でみんなからのけ者にされ、しかめっ面でシチューを食べている心音を。
写真の中の心音は、そのどれとも違う顔をしていた。心の底から人生を楽しんでいるように見えた。
今いるこの場所、この瞬間を、今生きていることの喜びを、全身で享受していた。同じ人間とは思えないほど、輝いていた。
「ねぇねぇ!私にも見せ――」
きっと心音も、見たかったに違いない。彼女が駆け寄ってくるのを、響はたしかに見ていた。
そして、その足が、ピタリと止まってしまうのも。
「――て……」
結局、心音がこの時の写真を見ることはついぞなかった。
「……どうした?」
心音の表情が凍り付くのを、響は初めて見た。リュックの紐にかけられた手は血管が浮き出るくらい強く握りこまれ、整った顔は青ざめ、蝋人形のように固まっていた。こっちに向かって駆け出した姿勢のまま、ブルブルと震えていた。
「あ~あ、本当に見つけてしまった……」
背後から声が聞こえた。心音の視線は、その声の方に向けられていた。
「間違いだったら、よかったのになぁお互い」
響はバッと振り向いた。そこにいたのは、ツーブロックをワックスでてかてかに固めた、色黒の男だった。男は真っ黒なスーツパンツにカッターシャツ、その上にはベストといういで立ちだった。鈍い光沢の革靴に柄物のネクタイ、左腕には金色の腕時計までしていた。その一つ一つがものすごく手の込んだ質感を放っていて、例えばカッターシャツにはシワ一つないし、ベストのボタンは、響が見たことのない色をしていた。初日の心音と同じく、金持ちだということが瞬時にわかる格好だった。年は自分とさほど変わらないように見えたが、にじみ出る威圧感が強烈だった。ライオンのようだと、響は思った。
「やっ、久しぶり。あんたは初めましてだな。俺はヤマダ組の一人息子――」
ヤマダの息子はカッターシャツの袖をまくりながら言う。
まさかその言葉が、旅の終わりを告げる言葉だなんて、響は思いもよらなかった。
「――聞いてるかもしれないが、その子の許嫁だ」
誰かに頭を殴られたのかと思った。響は強烈なめまいと、言い表せぬ恐怖を感じた。急いで心音の方に振り向くと、すでに、彼女の周りにスーツ姿の男が二人、迫っているのが見えた。
「いや……こないで……」
心音は肩を縮こませながら後ずさっていく。しかしハチ公に背中をぶつけ、すぐに逃げ場を失ってしまう。左右から、スーツの男が手を伸ばし始める。
「心音ぇ!」
響の反応は過去最高に速かった。振り向き、走り、片方の男に衝突するまで、わずか三秒のできごとだった。
「うぉっ!」
「なっ!こいつ!」
掴みかかってきたもう一人の胸元にもぐりこみ、スーツの襟をむんずと掴んだ。そのまま体を回転させ、片膝を落として投げる。
「うっ!」
下が畳でない場合、柔道はもはや凶器だ。投げられた方は下手をすると死んでしまうし、投げる方も、実践的でない技を出すとこうなる。
「いっつぅ~……!」
響は地面に打ち付けた方の膝を抱え、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。皿が割れたかと思った。
「ひ、響……」
心音が心配そうにオロオロしていたが、もはや「大丈夫」だの「気にするな」だの言っている
「はぁ……くっ……逃げるぞ!」
響は心音の手を取り、全速力で走った。
「今さら遅いわ」
苛立ちを募らせたヤマダの声が、背中をなぞるように追いかけてくる。その声を聞いて、二人は死に物狂いで加速した。
信号が青になる。縦横斜め、全ての方向に人が歩き始める。
かの有名なスクランブル交差点を、こんなにも楽しくない気持ちで渡ろうとは。響は心音の手を引いて、ごった返す人波をなんとかかきわけていく。
後ろを振り向くと、人ごみという名の森の切れ間に、スーツ姿の男たちが見え隠れする。派手なネクタイをしたり、サングラスをかけたりしているので、すぐにわかる。
何が東京だ、何が渋谷だ、響は毒づきながら走り続ける。十分も走れば、ただの住宅街だ。もちろん金持ちが住んでるんだろうが、これじゃあ逃げきれない。人ごみで足止めされるのを嫌ってみれば、今度は逆に、人が少なすぎるのだ。
「ひ、響……ごめんなさい!」
迷路のような路地を何度か曲がった時、心音が叫んだ。いつもは美しいその声も、星の光のわからない、闇夜に吸い込まれていく。
「あぁ!?なんでお前が謝るんだ!」
「だって私が、言うこと聞かなかったから……!」
「バカなこと言うな!勝手に決められた許嫁だろうが!なんでお前が!悪いことになるんだ!」
響は前を向いたまま叫び返した。振り向いて励ます時間がなかったから、代わりに手を握る力を、ぎゅうっと強くした。心音はきゅぅ、と握り返してきた。
それが、響の覚えている、心音の最後の感触だった。
「うわっ!」
角を曲がった瞬間、真っ黒なものが顔面にぶち当たった。暗くてよくわからなかったが、スーツを着た男の、右腕だった。
「響!」
心音の声が一回転して聞こえる。ヤンキースのキャップ帽がふっとび、響は後頭部からアスファルトに激突する。
いつの間にか、二人の手は離れ離れになっている。
「あ!ぁ!……っくぁ……」
一か月分滞納した寝起きの頭痛を、まとめて清算された気分だ。響は両手で頭を鷲掴みにした。
「はあ……はあ……あぁ……!」
住宅街の街灯が二重、三重に見える。フラフラしながら、塀に手をついて立ち上がる。
気が付けば、二、三人の男たちに両腕を掴まれた心音と、それを指示するヤマダの息子がいる。
「てめぇら……!」
響は叫び、すぐさま駆け寄ろうとした。だが、ヤマダの息子が立ちふさがり、右手を鋭く突き出してくる。
「おーっと、お前は待て――」
「んがあ!」
とっさに体が反応した。瞬時に半身になり、ヤマダの右手を左手でいなした。
「おぉ!柔道の体さばきか!ったぁ!」
誤算だったのは、ヤマダの息子が、響を超える素早さで動いたことだった。左手の正拳が、響の腹に突き刺さった。素人のそれではなかった。腰の入った、重いおもい一撃だった。
「うぐぇえっ!」
「響!」
心音の声が何光年も先から聞こえた。響はまたアスファルトに頭をぶつけ、今度は腹を抱えて体を九の字になった。肺が酸素を求めて暴れまわり、胃が内容物をぶちまけようとわめいていた。
「悪いなぁ」
ヤマダの息子の足が、目前に迫る。街灯によってできたやつの影が、自分の頭の上に覆いかぶさる。
「俺も武術をやっててな。お前と違って空手だが――」
「ぜっ……!はぁっ……!」
響はヤマダの息子を睨みあげた。
ヤマダの息子は腰を屈め、顔を近づけてきた。香辛料みたいな匂いが、ほのかに漂ってくる。
「俺だってこんなことしたくはない。でも仕方ないだろう、お前ら、有名になりすぎたんだ」
「……っくぁ……はぁ?」
「知らんのか?白崎の娘さん、ネットで画像が出回ってる。あんな可愛い子、そうそう見間違えんわな」
ヤマダの息子はクルリと振り向き、心音の方を見る。それが許せなくて、響は声にならない叫びをあげる。
「大人しくしとけばよかったのに……オヤジが知れば、白崎に連絡するに決まってるわ」
「はあ……はあ……」
「いいか、オヤジに連れ戻せと言われたら、俺は逆らえんのよ。お前も、白崎が地方の弱小組だからって甘く見るな。腐っても極道は極道。逆らえば木っ端みじんだ。ドラム缶にコンクリートごと詰められて、港から海にポイ捨てされて終わりよ」
心底恐ろしい話だった。ヤマダの息子の胸元が、どう見ても不自然に膨らんでいるのが、話の現実味を引き立てていた。
「白崎のオヤジはすでにこっちに向かってる。ここでくたばっとけ。俺らが、一人でぶらついてたあの子を見つけたってことにしてやる」
ヤマダの息子は響のズボンをまさぐり、響のスマホを取り出した。響の右手を無理やり引っ張り、指紋認証を解除すると、勝手に操作し始めた。
「あー、こんなにして、もう」
ぶつぶつとつぶやきながら、ヤマダは手早くスマホを叩く。僅か十数秒で作業を終えると、無造作に手から落とす。スマホは地面で数回はね、割れたガラスの破片が、街灯を反射してキラキラと舞う。
「Twitterのアカウントは消しといてやった。これでバレんだろう。あとはーなんとかして家に帰れ。じゃな」
気付けば、ヤマダの息子は心音の方に向かって歩いている。
響は乱れた呼吸にむち打ち、這いつくばって前進を試みる。アスファルトで肘をずたずたにしながらも、なんとか右手を伸ばし、ヤマダのくるぶしに掴みかかる。
「ぅるせえ!心音を離せぇえ!」
その瞬間、視界の外から無限の攻撃が降ってきた。
「若!」
「貴様!」
「若を離せ!」
蹴る、殴るだけではない。ある者は何か固いもので叩いてくる。心音を捕まえているやつ以外にも、大量のヤクザが周囲に控えていたのだ。
「うゔ!あぁ!ぐぅ……!ぐああぁ!」
「いやーっ!響!やめて!お願い!やめてーっ!」
「やめやめ!やめろ!やめろて!」
心音の悲鳴と、パンパン、と手を打ち鳴らす音、それらが聞こえて、やっと攻撃の手はやんだ。
「ひっ……ぅっ……」
響は、自分の体がただの肉塊になってしまった錯覚に陥っていた。腕も足も変形し、曲げることも、伸ばすこともできない。頬は腫れあがり、歯が何本も折れ、口の中を転がりまわっている。
「ったく――足掴まれただけだって!」
「しかし若――」
「若っていうのはやめろて、何度も言ったろがい」
「ぐぐ……!」
響は芋虫のように体を折り曲げ、意地でも前進を試みた。
「ぐぇっ!」
すぐさま背中に鈍器を振り下ろされ、リュックの重みが一瞬だけ五千倍になった。
「やめてっ!」
心音はもう、泣き叫んでいた。
「お願いもうやめて!やめさせて!響……響い!」
ヤマダにすがりつく、心音の姿が見える。悔しくて、悔しくて、響はまた、前進を続ける。
「ぐああぁ!」
今度は容赦がなかった。左から鋭い蹴りが飛んで来たと思ったら、右からも足が飛んで来た。響は使い古されたサンドバックのように、ボロボロになっていく。
「俺たちはあんたを連れて帰ればそれで終わりなんだ。それなのに、あいつが邪魔をする。わかるだろう……!」
「じゃ、じゃあ……!じゃあわたっ……私!帰る!」
心音の悲痛な叫びが、闇夜を駆け抜けた。
攻撃の手はピタリとやみ、絶望が響を支配した。
「パパの所に帰る!それでいいでしょう!?だから、響を傷つけないで!」
響は拳を握りしめた。
「心音……なんでお前……」
悔しかった。情けなかった。
「こんな時だけ、聞き分けいいんだよ……!」
心音にそんな選択をさせなければならない自分が、死ぬほど情けなかった。
「おい!」
ヤマダの息子が手を上げる。それを見て、響の周りにいたヤクザたちが、一斉に離れていく。
響は最後の力を振り絞って立ち上がる。
「うわああぁぁぁぁああぁああああ!」
わけのわからないことを叫びながら、ヤマダの息子めがけて突進していった。
「――ぐっ」
結果は火を見るよりも明らかだった。闇から戻ってきたヤクザたちに阻まれ、三度アスファルトに激突した。そしてまた、容赦のない攻撃にさらされた。
「やめて!やめてって言ってるのに!」
「だーかーら、あいつの方から来るんだって!」
「やめないなら!いいわ、私、舌を噛み切ってやる!」
「ちょちょちょちょ……!ちょい待て……!すとっぷ!すとーっぷ!」
攻撃の手は、またピタリとやんだ。響からは見えなかったが、ヤマダの息子はかなり声を上ずらせていた。
「怖いこと言うなぁ、あんたも白崎だなぁ。ほら帰ろう、さっさと帰ろう。ほら!撤収!撤収ーっ!」
ヤマダの息子は大慌てで部下を退散させた。何人いたかもわからないヤクザたちだったが、ものの数秒で全員が姿を消した。
スーツの波が消え去った後、倒れ伏す響の目に、心音の姿が飛び込んできた。
「はあ……げほっ……心音……」
心音はまるで、抱き着いてくる直前みたいな表情をしていた。このままここで、響と一緒に死んでしまいたい。そう言っているように見えた。あまりに切ないその顔が、もうどうしようもないという現実を、響に突きつけていた。
「心音……ダメだっ……」
心音の唇が、なにかを求めて開きかけた。白百合のような手が、響の方にピクリと跳ねた。
「ほら、行こう」
しかし最後は、ヤマダの息子に全部遮られた。心音は肩を抱かれ、クルリと背を向けた。
何も言わぬまま、響を残し、去っていく。
二人の姿が、闇の中へと消えていく。
「心音……心音……!心音えぇぇぇぇぇぇ!」
どんなに手を伸ばしても、響は掴むことができなかった。
警視庁渋谷警察署、生活安全課。
そこに少年が保護されていると、名古屋にいたジンの元に連絡があった。路上で大けがをして倒れているところを、通行人が発見したらしい。
奇怪なのは、少年は頭の先からつま先まで全身傷だらけなのに、誰にやられたのか、一言も喋らないのだという。
遅すぎる。ジンはエレベーターを待つのをやめ、階段を駆け上がった。そして、殴り込みのように生安課に突入した。
「タケダです、呼ばれた――」
「あぁ、こちらですよ」
手短に挨拶を終え、調べ室のドアを乱暴に開いた。
はじめは、死体が座っているのかと思った。
抜け殻のようになった響が、ただただ、存在していた。
右頬は腫れ、左頬は擦りむけ、左まぶたは膨れあがっている。唇の端からはまだ鮮血が流れ落ちていたし、隙間から見える歯の本数が、数時間前と比べて明らかに減っている。服はズル向けになり、露わになった肩が、青と黒の斑点状になっている。
ジンは無言のまま、少年と反対側の椅子を引いた。
少年は何の反応もしない。
ジンはそのまま何も言わずに座り、じっと、響の顔を見つめた。見つめていた。
かける言葉は、何一つなかった。
「……ふっ」
唐突に、響の口から息が漏れた。
「はっ……ぅ……」
目からは涙が、鼻からは鼻水が漏れだした。
「ひぅう……うぅ……!」
それでもジンは、黙って見ていた。
「ううぅうぅ……んぅぅ……っくぁ……!ぁあ……!」
響が声を上げて泣いても、黙って見ていた。
「ああぁあぁぁぁあ!ぅああーっ!……あぁ……あー!うああああぁぁあああ!」
響が髪をかきむしり、机を殴りつけても。
椅子を投げ飛ばし、窓ガラスを割っても。
ジンは黙っていた。
十年前の自分と同じ、どうしようもない現実を突きつけられた、傷心の勇者を。
黙って見つめていた。
「悔しいな、少年」
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