第11章 一度きりの魔球
どん詰まり状態の名古屋駅のロータリーに、一台のタクシーがやってきた。速度こそカメのように遅かったが、わずかな隙間を見つけると、潤滑油でも塗りたくったかのようにぬるんと入っていった。老練のドライバーは、割り込み技術だけは達人級だったのだ。
「はい、おまちどう」
「おっさんありがとう!釣りはいらねえ!」
うっは、やっべ!いっぺんやってみたかったんだ!これ!響はアドレナリン全開で一万円札を叩きつけ、わき目も振らずに飛び出した。一足先に出ていた心音と共に、駅の構内へと走って行った。
「お客さん……あれぇ……?」
春の名残の中、困惑する老ドライバーの声が背中をなぞった。
遅れること数秒、タケダを乗せたタクシーもロータリーまでやってきた。
「おい、早くしてくれ!」
「無茶言うんじゃないよ!順番待ちしなきゃ入れないよ!」
「じゃあここで降ろしてくれ!あとは走る!」
待ちきれないタケダは、ドアを勝手に開け放った。
「ちょぉっと待てぇ!まだ金をもらってない!」
「ちっ……釣りは……いらねえっ……」
こちとら安月給で働いているというのに、この出費は痛すぎる。タケダは血反吐を吐きながら一万円札を叩きつけ、後ろ髪をひかれる思いで走り出した。メビウスを何カートン買えると思っているんだ。
「も一度待てぇ!全然足りないぞ!さっきのお客は県外から来てんだ!」
「はぁあぁ!?」
カートンを訂正、箱買いだこの野郎。
「ど、どうするの?響」
「もっと遠くへ!もっと遠くへだ!」
響は改札口にぶら下がっている電光掲示板をチラリと見上げる。幸いなことに、あと二分で出発する便がある。急いで券売機にかじりつき、自由席を二枚買う。心音のおかげで、資金だけは余りある。タクシーの中で財布に入れ替えてあるので、もうこぼすこともない。
「先に行け!十五番だ!」
おつりを回収する時間が惜しい。響は心音の分の切符を渡し、乗り場の番号を告げた。
「うん!」
心音ももう、何も知らないお嬢様ではない。一人で切符を改札に通し、乗り場の番号を探して走り出した。
響は手早くおつりを掴み、お札と小銭を一緒くたにしてリュックサックに突っ込んだ。遅れを取らぬよう、ダッシュで改札を抜ける。
「響!こっち!」
ホームへ続く階段の下で、心音が白百合のような手を振っている。響は片手を上げ、先に行け、追いつく、と合図をした。
トントントン、と心音がリズムよく階段を駆け上がっていく。その後ろを、響は猛牛のように追いかけていく。新幹線の到着の知らせが聞こえてくる。その音楽を聞きながら、響はホームに躍り出る。心音の姿が、新幹線の小さな扉に消えていく。後は自分が入るだけだ――
「うっわっ!がっ!」
階段の最上段を蹴り上げるはずだった右足が、なぜだかびくともしなかった。動かなかった。響はホームのコンクリートに鼻から突っ込んだ。
「うぅ……ってぇ~!」
「はぁ……はぁ……少ぉ年ん!」
タケダが階段に這いつくばっていた。地獄から蘇った生ける屍が、響の右足首をむんずと掴んでいた。
「くっそ……!しつけえな!」
振り返ると、タケダが上り棒でも昇るかのように、響の右足を徐々に徐々に侵食してきていた。
「しつこくはない!こっちは仕事だ……!」
「仕事がどうした!オレは人生だ!何も知らねえくせに、邪魔すんな!」
響は左膝を折り曲げ、タケダの顔に踵を打ち込んだ。一回、二回、三回……食らいついてくる屍を容赦なく蹴り続ける。
しかし、タケダも警察官だ。彼には彼の務めがある。鼻が砕け、右目に大きな痣をつくろうとも、勢いだけの高校生を逃がしはしない。
「人生をかけるなら家に戻るんだ少年!今やるべきは女の子との駆け落ちじゃない!勉強して、大学に行って、一人の大人として仕事につくんだ!」
「それで何が変わるんだ!あの家に縛られたまま、オレは苦しくて息もできない!」
「世の中にはなぁ!どうにもならないことがあるんだ!みんなそれを押し殺して生きてるんだよ!我慢して生きてるんだ!自分だけその枠から外れようなんて、傲慢が過ぎるぞ少年!」
「なんだよ!どうにもならねえことを、どうにかするのが警察じゃねえのか!死んだ顔して働きやがって!説得できると思ってんのかよ!オレは心音と逃げていく!これからも、誰にも邪魔されずに!」
響は左足に渾身の力をこめ、とどめの一撃として振り下ろしそうとした。タケダの顔を砕き、追い払うつもりだった。
しかし、響の左足がめり込むより早く、タケダの顔が引っ込んで行く。響の右足から引きはがされ、ものすごい勢いで下の段へ落ちていく。
「てめえは……!」
タケダが悪態をついているのが聞こえる。その声の出所は、数段下の踊り場へと変わっている。そうだ、響の足がタケダをとらえられなかったのはひとえに、大変な長身の男による介入の賜物だった。
「はあ……はあ……はあ……」
激しく息をつきながら、響はよろよろと立ち上がった。
ミロクだ。ミロクがまた、どこからともなく現れたのだ。顔だけで振り向き、白手袋をした右手で、眼鏡を押し上げている。響の黒い目と、ミロクの小さな瞳が交錯する。
「早くしろ、お嬢を待たせるな」
いつも学校で聞いていた、縦笛のようなひょろ長い声ではなかった。これがヤクザか。ドスの効いた、鬼が唸るような声だった。
響は無言のままきびすを返し、今にも閉じんとしている新幹線の扉めがけ、全力で走った。扉に半分巻き込まれ、倒れ込みながら中に入った。すぐさま、心音が駆け寄ってくる。
「響!……大丈夫?」
「いっでえ……!」
響は床を転げまわりながら腰をさすった。その姿を見て、心音が愉快そうに笑った。
「はぁ~、危なかったねぇ」
「だからオレの言うこと聞けって言ったろ!警察に捕まったら、オレ達連れ戻されるんだぞ!」
めいっぱい怒鳴ったつもりだったのに、心音は一層楽しそうに笑う。クスクスと、幸せの音を振りまいている。まるで、響と一緒に汗を流すことが、楽しくて仕方ないといった様子だ。
寝転がったまま怒っても、効果ねえか……早くも後悔する響だった。
「でも、ちゃんと逃げきれたじゃない」
「結果論だ!」
響は狭い車内でできうる限り両手両足を伸ばし、大の字を再現した。心音に届け、オレのいら立ち。
「うん、でも大丈夫だよ。だって、何かあっても、君が守ってくれるでしょ?」
なぜか、心音の親近感をくすぐってしまったようだ。ひょい、と膝を曲げ、大きな瞳をキラキラさせながら覗き込んできた。
「は……?へっ!」
今や自身の弱点となりつつある心音の瞳。それがこんな、目と鼻の先にあるっていうのに、それに加えて服装がホットパンツときた。まぶしい生足が、息のかかる距離にある。
「今まで色んなことがあったけど、全部君が何とかしてくれたじゃない。信じてるよ、私」
心音の声が胸焼けするくらい甘ったるくて、響は脳に直接スタンガンを撃ち込まれた気分になった。要するに痺れたのだ。自分が謎の信頼を預けられているとか、真っ白な太ももがどれだけ魅力的でも見てはいけないとか、本当は自分の力だけで逃げ切ったわけじゃないとか、許されるなら太ももを永遠に見ていたいとか……感情の大渋滞が発生し、思考回路が通行止めになった。
「えぇう……そういうことじゃなくてなぁ……」
火照った顔を逸らし、口を濁す響だった。
さて、ジンがここまでぐちぐち言うのも珍しい。
一ノ瀬響はのぞみの中へ消えていった。嫌だねあの年頃は。自分のことを無敵だと思い込んでいる。人生なんとかなるという、漠然とした、根拠のない自信に満ちている。うらやましいなどと思うものか。そのうち俺のように、思い知ることになるだろう。そうなれば、なぜ自分が、人類史という物語の主人公だと思いあがっていたのか、心の底から後悔することになる。せめて、手遅れになる前に気付けばいいが。
ジンは片膝をついて立ち上あがり、加速していく新幹線の車体を見送った。しかし、本気で蹴りやがって。鼻が折れたかもしれない。腹立たしい。実に腹立たしい。権利ばかり主張して暴走する若者もそうだし、無責任にそれをサポートする無法者はなおさらだ。
少しでもイライラを押さえるために、ニコチンの摂取が不可欠だった。ジンは駅構内であるということを歯牙にもかけず、メビウスを口に咥え、火をともした。三日ぶりの水を味わう遭難者のように、長くながく、深くふかく飲み込んだ。成人なら表面積百平方メートルはあると言われる肺胞を、隅々まで真っ黒に塗りつぶした。そして、吐き出した煙の先にいる、ひょろ長い男を睨みつけた。
「それでいいのか、白崎の若頭が……」
黒いソフトクリームを頭に乗せた白崎組一の切れ者は、新幹線が出発してなお、ジンのホームへの進入を阻むように立ちはだかっていた。眼鏡を押し上げたあと、白手袋をした両手を背中の後ろで組んだ。
「ここは禁煙だ、不良警官め。十年前から何も変わっちゃいない」
「はっ……!てめえのとこのオヤジは知ってるんだろうなぁ、お前が、お嬢様の逃避行を手助けしちょると」
感情が昂り、地の言葉が漏れつつあった。どちらがヤクザがわからないほど、ジンの顔は怒りで歪んでいた。
「お前こそ、愛知県警に断りは入れとるんじゃろうのう。そっちの世界も仁義じゃろうが」
ミロクの口調も物々しかった。ジンと違い、その目に刻まれているのは使命感だった。
二人は長い間睨み合っていた。何もしゃべらず、しかし譲らず。ジンは睨み上げ、ミロクは見降ろし、永遠とも思える時が流れた。
「はいはい、わかってますよ」
先に大人に戻ったのはジンだった。タバコを足元に落とし、踵でぐりぐりと踏み消した。
二人の男は、それぞれの世界へ戻って行った。
新幹線に揺られること一時間と三九分。響は心音を連れて、宮殿のように広大な東京駅を歩いていた。建物の大きさ、人の数ともに今まででダントツの一位。これだけの人がいれば、毎日新しい病原菌をもらうことできそうだ。
「響、スマホ貸して」
次の行き先候補をGoogle先生に聞いていたところだったのに……響はスマホから視線を上げる。
「いいけど、どうすんだよ」
「さっきの人、マコトさん、連絡しようと思って」
心音は右手に持った名刺を見せてくる。名古屋でジャーナリストに貰ったものだ。
「お前、まだ……」
メジャーデビューは諦めろ、だなんて、何かの映画のセリフみたいだ。なぜそんなことを口にしなければならないのか、一週間前の自分に説明しても絶対理解してもらえないだろう。響は段々、現実味を感じられなくなっていた。
「違うの。取材はお断りしますって、ちゃんと言っておきたいだけ」
心音は首を振る。それを見て、響は渋々スマホを差し出す。
「それなら……まあ……」
「あー!スッキリした!」
皇居外苑、夕焼けに向かって背伸びしながら、心音が叫んだ。
「何がだよ」
「ううん、ちゃんと後腐れないようにできたね、って話」
「あぁ……」
都会のど真ん中。まるで異世界みたに存在する森を見ながら、響は頷く。やっぱりなんだか、現実味がない。このお堀の水だって、いったいどこからやって来ているのだろうか。災害時に氾濫したりしないのだろうか。唯一理解できるのは、これだけ景色が綺麗なら、確かにここでランニングをしたくなる、ということくらいだ。
「随分遠くまで来ちゃったね」
ポツリと声が落ちた。心音が、しだれ柳の足下で柵に寄り掛かり、錆びついた表情で水面を見つめていた。心細いのだろうか、不安なのだろうか、響は少し心配になって、声をかけるべきか迷ってしまう。
しかし、心音はお得意の感情早着替えにより、すぐさま無邪気な女子高生に戻ってしまう。
「東京だって!ねぇ!ディズニーランド行ってみたい!あ!スカイツリーとか!雷門も見てみたい!上野動物園って、今パンダいるんだっけ!」
あと、タピオカミルクティーが本当に流行ってるのか確認したいし、テレビで見たパンケーキのお店にもいきたい、原宿でお洋服も見てみたい、新宿のスクランブル交差点を歩いてみたい、山手線を一周してみたい……心音のやりたいことは枚挙にいとまがない。律儀にメモをとってやろうとしたら、三日三晩はかかりそうだ。でも、いきいきと話す心音をもっと見ていたくて、響はあえて、黙って聞いていた。
「あぁ、でも……一つだけ、だったね」
突然、催眠術が解けたみたいに、心音の笑顔が消えた。
なんなら、もう一つくらい――響はすぐにでもそう言ってやるつもりだった。しかしやはり、響のスイッチは遅い。遅い上に、硬くて、鈍くて、中々押せたもんじゃない。
「ねぇ響。私、いっこだけ行ってみたいところ、あるの」
「なあ、本当にこんなところでいいのか……?」
「いーのっ!」
ふふ~ん、と音符を飛ばしながら心音は喜んでいる。待合用の四角いソファに腰掛け、太もも眩しい生足をぷらぷらさせている。
響は疑心暗鬼に陥ったまま、入会証へ記入を続ける。カウンター越しに立っている女性店員に、兄の免許証ごと渡す。返ってきた免許証と、新品ほやほやの会員証を財布にしまい、バスケットとバインダーを両手で受け取る。心音、と名を呼び、部屋まで一緒に歩いて行く。
名探偵響は、シャーロックホームズよりも早く頭を回転させていた。心音がまた、我慢しているのではないかと勘繰っていた。これから先のことを心配して、あえてこんな、安っぽいところに行きたいと言っているのではないか、そう思った。
結論から言うとそれは杞憂だったし、響はもっと別のところを注意して見ておくべきだったのだが、一介の男子高校生に、いきなり百戦錬磨の大人の男になれというのは無理な相談だ。この時の響を責めることは、誰にもできないのだ。
それでも私たち人間は、いつも、いつの時代も、ないものねだりをして
罪な生き物だ。実に。
「うぁわ~……!すごぉい!」
閑散期に行くと稀に、大部屋に案内される、という経験はないだろうか。若干やらしい雰囲気の暗さ、模様がぼやっと浮かび上がる壁紙、キラキラ光るミラーボール、レーザービーム、四十インチはあろうかという大画面、豪華なことに、スタンドマイクまで。
そう、心音が行ってみたいとせがんだのは、ごくごく普通のカラオケ店だった。
響にとってはなんともない、ありがちな光景だが、心音はこれまでの旅で見せてきたのと同じ、テンションの高い不思議の国のアリス状態だった。
「これで曲選ぶんでしょ?知ってる!」
意気揚々と選曲用のタブレット端末を持ち上げたかと思えば、
「あれ……どうやって入れるの?」
やっぱりわからない、と持ってくる。大はしゃぎの大忙しだ。
何を歌いたいのか聞き、とりあえず二、三曲ほど予約してやった。バスケットに入っていたマイクを差し出すと、心音は「やたっ!」と悲鳴に近い声を上げながら、ひったくるように取っていった。大きなディスプレイの前に立つと、かしこまったようにぺこりとお辞儀した。
響はパチパチと拍手した。
「えへへ……じゃあ――歌います!」
前奏もなく、歌は始まる。心音が大きく胸を膨らませ、めいっぱい空気を吸う。その息遣いさえ、響の心を掴んで離さない。
「さいこおぉうぅを!もとーめてぇ――」
魂の輝きが直接音になって溢れ出るのを、あなたは見たことがあるだろうか。心を奮わされ、思わず叫び出してしまいそうになったことが、あなたにはあるだろうか。
「――ねぇ、みんながぁ……ゆぅうぅ――」
時にしおらしく、
「――こぉのままでいれたらぁ……――」
時に静かに、
「――遥かーこのさあぁきまでっ!――」
時に熱く、
「――生きている証拠だかーらっ――」
時に力強く、
「――僕らも走り続けるんだぁイェイっ!」
時に可愛らしく、心音は歌う。
「――ど、りぃむ!ファイターっ!」
ため息が漏れる。
感心なのか驚嘆なのか、感動なのか興奮なのか、はたまた歓喜なのか熱狂なのか、もしかしたら、衝撃や動揺まであったかもしれない。
響の中には百の感情しかなかったのに、心音の歌に乗って千の感情がなだれ込んできた。それが体中で溶け合い、混ざり合い、はじけ合い、万の感情となって暴れまわった。
「逢いぃたくて、逢いぃ、たくてぇ、こえーに、ならぁないーこぉえでぇー。きみぃのなまーえーぇをー呼びぃ、つーづけーるー――」
心音は誰よりも繊細だった。
「――な時も、どんな時も、僕が僕らしくあるーためにい――」
誰よりも勇敢だった。
「――つまずいたって、うぇいちゅぅごー!いぇー、いえぇー!」
そして、誰よりもかわいくて、
「――度でも、立ち上がりぃ、呼ぶっ!よおぉ、君の!名前っ!声がっ……!涸ぁれる、まっでぇ――」
誰よりもかっこよかった。
きっとオレは、一生この子に敵わないのだろう。響はそう思っていた。他の人の歌では絶対に満足できないし、ひょっとしたら、心音の歌なしでは生きていけないかもしれない。そんな、誰にも言えない秘密まで抱えてしまっていた。
「あー、楽しっ!」
十数曲も歌ったかというころ、心音はようやく羽休めに入った。宝石のような汗を光らせ、響の隣に飛び込むように座った。
「喉かわいちゃった」
「好きなの頼めよ、ほら」
響はタブレットでソフトドリンクのページを開いてやった。心音はタブレットを膝の上に乗せ、どれにしようかなと、ご機嫌なハミングを響かせていた。
「なぁ心音、お前、自分でも歌作れるのに、
「うん!だって、世の中って、いい歌がたくさんあるでしょ?」
心音はジンジャーエールをタップしながら、目を輝かせていた。
「なんだよそれ――あ、でもさ、なんか古い曲が多くね?」
「えっ?あっ……うん。えっと、私のお母さんが音楽好きで、よく聞いてたの」
「あー、確かに。親が車で聞いてた曲って、なんか耳に残るよな」
「……そうそう!それそれっ!」
コンコン、と扉が叩かれる。店員がジンジャーエールを持って入って来る。心音との会話は一旦途切れる。
響は、心音が白百合のような手でストローのビニール袋をピリッと破るのを、生け花のようにジンジャーエールにストローを差し込むのを、はじける炭酸を、白黒映画の名女優のように優雅に嗜むのを、じぃっと見つめてしまう。
「な、なぁに?」
心音のガラス玉のような瞳がふと、こちらに向けられる。ほっそりとした指が、まるでそうしなければ中身が暴れ出すとでもいうように、きゅっきゅとグラスを撫で始める。
「ん?あ、あー……」
ヤバい、何も考えてなかった。響は頭をボリボリとかいた。
「一番気に――気に入ってる歌とか、あんのか。あるなら、聞かせてくれよ、せっかくだし」
それらしい話を適当にしたつもりだった。心もとないながらも口にした。
それだというのに、心音は急に、緊張した面持ちになった。飲みかけのジンジャーエールをそっと置き、手を震わせながらタブレットをつつき始めた。なんの曲を探しているのか、響からは見えなかった。
「こ――」
「ねぇ」
もし一ノ瀬響が、もっと物を知った少年だったなら。
「ちゃんと――聞いてくれる?」
この時の心音を、清水の舞台から飛び降りる、という言葉で表現しただろう。
残念ながら彼の語彙力ではそこまでウィットに富んだ物言いはできず、私が聞いた時には、ただ一言、
ものすごく綺麗だった。
と、言った。
彼にはぜひとも、女性がどんな時に美しくなるのか、そういうところから勉強してもらいたいものだ。
しかし、前述のとおり、響は心音に見とれてしまっており、まともに口を利くことができなくなっていた。返すことができたのは、無言の頷きのみだった。
心音はゴクリと唾を飲み込み、カチコチと立ち上がった。ディスプレイの前に移動するまで、何度も何度も唇をなめていた。両手でマイクを持ち、こちらをまっすぐに見つめていた。
そして、この世の全てをため込むように、すぅと息を吸った。
遠く――遠くぅ――あーのーひかぁりぃまぁあで――とーどーぉいて――ほ――ぉしぃ――
響は。
時が止まったのかと思った。
自分と心音を、置き去りにして。
ひとりぼっちがせつない夜 星を探してる
明日 君がいなきゃ 困る 困る
心音の声はすごくシンプルだった。さっきまでの無限の感情から、様変わりしていた。
その表情に、心音の人生の全てが込められている気がした。
だって心音が、ディスプレイには目もくれず、自分のことだけを見ていたから。
ゴミになりそうな夢ばかり 靴も汚れてる
明日 君がいなきゃ 困る 困る
心音が全てだった。
心音が世界そのものだった。
瞳のきらめき、息遣い、額に光る汗……マイクを握る指先、めまいがするほど美しい黒髪、鎖骨、うなじ……一つでもかければ響の世界は崩れ去り、全てがそろうことで響の世界が完成する。
遠く 遠く 果てしなく続く 道の上から
強い 思い あの光まで 届いてほしい
子供のころ、どこかで聞いたことがあった。二、三年前には、車のCMにも使われていた気がする。
スターゲイザー――たしか、そのようなタイトルの曲だった。
「ひぃとりぼぉっちが、せーつないーよるー……ほぉしをさーが、しーてるぅ……あしーたきぃみがいなきゃ、こまぁるぅうー……こまぁ……るぅ…………」
最後はつぶやくように、心音は歌いあげた。
響は拍手もせず、身じろぎもせず、魂が抜けたように座り込んでいた。
あとにも先にも、これ以上の歌声はない。彼は後に断言した。
それ以上の言葉はもはや不要であり、そもそも、この時の彼女を言い表す言葉は、どの国の言語にも存在しない。これは彼の確信である。
とにもかくにも、彼女の歌声を聞いたせいで、魂だけがどこか別の次元へとすっとんでしまった響は、バカみたいに口をぽかんと開けたまま、ゆうに三十秒は呆けていた。
「ひ、響……?」
透き通るような声で、響は現実に引き戻された。
見ると、この上なく可愛い心音が、マイクを背中の後ろに隠し、もじもじと体をくねらせている。そして、せがむように聞いてくる。
「ど、どうかな……」
響は脳みそと口を一生懸命動かしたが、まともな返答ができなかった。なにぶん、自らの理解を遥かに超える体験を、たった今終えたばかりなのだ。げっぷをこらえながら、なんとか答えを捻り出した。
「すっ――すげぇ……すごかったよ……」
「そ、それだけ――?」
心音の顔がさっと曇る。
失意の表情を目の当たりにし、響は焦ってしまう。
「いや――それだけって言うか――なんか――オレには……っ……すごすぎて、なんて言ったらいいのか、わかんねえって言うか……」
なんとかいい褒め言葉がないか、必死になって記憶のページをめくる。立ち上がり、両手をさまよわせながら、次の言葉を紡ぐ。
「とにかく!今までで一番だった。オレが聞いてきたどんな歌手よりすごかった!それは、間違いねえ」
女心にうとい響なりに、最上級の賛辞を贈ったつもりだった。でも、なぜだろう。オレの笑顔がぎこちないせいか?フルマラソンでも走ったみたいに、息が荒いせいか?心音の頬はみるみる真っ赤になっていき、ガラス玉のような瞳には、じわりと涙がたまっていく。あぁ、我ながら、なんと
「――っバカ!」
部屋が爆発したのかと思った。少なくとも、響の鼓膜は両方とも蒸発した。マイクを使わずして、それほどの大音量だった。
心音はマイクを机に叩きつけ、怒れる神のように部屋を去っていった。あまりの迫力に、響は部屋の隅っこで縮こまってしまった。
「――え、なんで」
お前が乙女最大の勇気を踏みにじったからだ。私なら三カ月は言い続ける。
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