第10章 再会

 ヤンキースのキャップ帽が、金の重みでへちゃげ始めた。

「すっごくいい歌!」

「お嬢ちゃんかわいいね」

「また聞かせて!」

 始めた、というのはつまり、まだまだ、どんどん、次から次へと金が追加されていく。

「ありがとうございます、ありがとうございます!」

 響は、心音がぴょんぴょん飛び跳ね、来る人来る人にお辞儀しているのを、オブジェの足下からそっと見守っていた。

 会心の一撃。風邪が治った心音は、響の想像をはるかに超える歌を紡ぎ出した。ここだけの話、新しい歌を聞くたびに、響は心音を抱きしめたくなる衝動と戦っていたそうだ。

「わあ……いい歌でしたね。はがねさん、小銭持ってません?私、おっきいのしか持ってなくて」

「ちょっと待てって泉里みさと……んー……あれ、まいっか。ほら」

 最後にカップルから千円札を受け取り、心音は深々とお辞儀した。そして、耳を跳ね上げるウサギのようにおさげを弾ませ、響の元へ走ってきた。

「見てみて!響!だーい成功!あっ!わっ、わわっ……」

 貰った金の量が多すぎて、縁に引っかかっていた小銭が数枚落ちた。チャリリリリン、と、金銀銅が地面で踊る。

「わっ……と、おいおい……落ち着けって」

 かがんで小銭を拾っていく響だったが、顔はほころんでいた。誇らしい気分でいっぱいだったのだ。全部拾って、ヤンキースのキャップ帽に戻し、ねぎらいの言葉をかけた。

「お疲れ様」

「……それだけ?」

 心音がふくれっ面になり、こちらから届かないところへキャップ帽を持ち上げた。響はすかさず次の言葉を並べた。

「最高の歌だったよ」

「ふふーん、でしょっ!」

 心音はコロリと満面の笑みに変わり、キャップ帽を差し出してくれた。はちきれそうなほど金をため込んだ帽子は、驚くほど重たかった。

 しげしげと帽子の中身を見つめてしまう響だったが、反対側から、興味津々を隠し切れなくなった心音の視線を感じた。

「これだけ稼いだし……どこでも一つ、行きたいところに行ってよし!」

「わっ!ほんとう?響、太っ腹!」

 心音は胸の前でパチンと両手を打ち合わせ、嬉しそうに笑った。どこへ行こうか、何をしようか、楽しそうに鼻歌も口ずさんだ。

 そんな心音の向こう側から、二十代前半と思しき女性が近付いてきた。もちろん私のことだが、別に若めに見積もるように依頼したつもりはない。響の数少ないファインプレーだと言っておこう。もっとも、真っ白なブラウスにスリムなデニムパンツ、さりげないアクセントで着けたブラウンの腕時計、手入れした爪先が見える、ヒール付きのサンダル、おまけにつやつやの黒色ロングヘアーに、ナチュラルメイクで整えた凛々しい唇、旅行のためにビシッと決めていた私を見て、女子大生と見間違えるのは無理からぬ話ではあろう。

 そういう女性の魅力とか色気に全く興味をそそられることなく、響は警戒していた。なぜなら私が、わざわざ人々の支払いが終わったあとになって近づいてきたからだ。



「こんにちは。ねえあなた、すごくいい歌だったわね」

 私は――マネージャーだろうか――連れの男の子と楽しそうに話している〝歌姫〟に声をかけた。

「へ?あっ……ありがとうございます」

 少女は意外そうに振り向いた。

 私はもろもろの説明を省くため、仕事で使っている名刺を差し出した。少女が白百合のような手で受け取るのを待って、自己紹介に入った。

「私、こういう者なのだけど、よかったら少し……取材させてくれないかしら」

「えっ、ジャーナ……」

「そう、ジャーナリスト!まだ小さい会社なんだけど、ネット上の噂とか流行をいち早く取り入れていこう、って方し――」

「わあ……!すごいよ響!本物のジャーナリストだって!どうしよう、私、デビューしちゃうかも!」

 これだから子供は。という言葉には、半分ほどやっかみが入っていることをお察し願いたい。誰しもこういう若い時代があり、ニコニコ笑っているだけで全てが許されていたのだ。あなたがその世代なら思う存分笑えばいいし、すでに成熟した大人なら、ぐっとこらえなければならい私に同情して欲しい。とにかく、歌姫はわかりやすく図に乗っていた。私の目には、少年に褒めて欲しくてたまらない、という少女の欲望も見え隠れしていたが。

「ちょ、ちょっと待てって」

 私にとって救いだったのは、少年の方が幾分か冷静だったことだ。少なくとも、この段階では。

「ジャーナリストってことは、雑誌とかに記事が載るんじゃねえのか」

「そうね、私の担当はネット記事だけど」

「すごい!私、ネットデビューだねっ!」

「だから待てって!心音、よく考えろ。そんなに目立ってどうすんだ。Twitterで告知するだけでもめちゃくちゃ危ねえのに、記事になって、有名になって、テレビなんかに出ちまった日には……お前の父親だって」

「そうね、その可能性は十分にあるわ!私、別に音楽業界の人間じゃないけど、あなたは間違いなく逸材よ!」

「逸材だって!どうしよう、サイン考えた方がいいかな……」

 少女は白百合のような手で両頬を包み込み、真剣に悩み始めた。悔しいが可愛いと認めざるを得ない。ちなみに、二人の会話から、それぞれの名前がヒビキとココネであることが判明した。抜かりなくメモさせてもらった。

「落ち着けって、心音、ルール2だ、ルール2。行くぞ」

 訳の分からないことをつぶやきながら、ヒビキ君はココネちゃんの手を引っ張り始めた。

「で、でも……ちょっとくらい」

 私としては、せっかく釣り針にかけた鯛を逃がすわけにいかない。全力で説得を試みる。

「そうよ、ちょっと話を聞くだけ。記事にするかどうかは、その後決めればいいわ。もし記事にしてもいいって約束してくれれば、謝礼も出すし」

「ほら響、お金も貰えるんだよ?」

「いーや、リスクがでかすぎる!行くぞ!あんまり同じところにじっとしてるわけにはいかねえんだオレ達!」

「響のケチ!私だって、おっきな所で歌ってみたいのに!音楽とか、ちゃんとつけて!」

「気持ちはわかるが我慢しろ!今じゃねえ――」

 ココネちゃんの腕が引っこ抜けるのではないか、と心配になるくらいぐいぐい引っ張っていたヒビキ君だったが、急に押し黙った。彼の真っ黒な瞳は、私の頬をかすめ、さらに後ろの方へ向けられていた。

「えっ――?」

 私もつられて振り返る。そこにいるのはもちろん、一緒に旅行中のジンだ。

 驚いたのは、ジンの方も、驚愕の表情をしてこちらを――正確には私ではなくヒビキ君を――見ていたことだ。

「少年……?」

「タケダ……?」

「「なんでここに……?」」

 二人の男は同時につぶやいた。ジンは世捨て人のような声で、ヒビキ君はかすれた声で。

 この時の私は事情を知らなかったが、二人はさながら、本能寺に攻め込んできた軍勢の中に、腹心の部下を発見してしまった織田信長、という塩梅だった。その衝撃たるやいかに。光秀め。

「逃げるぞぉ!」

 ヒビキ君は今度こそ問答無用の力でココネちゃんを引っ張り、ジンのいる方とは反対側に走り出した。ヤンキースのキャップ帽から小銭がこぼれ、お札が舞ったが、目もくれない。

「あっ!ちょっと、響……!」

 ココネちゃんはこけそうになりながら引っ張られていく。

 お金をそこら中にまき散らしながら、二人が逃げていく。ジャラジャラと小銭が跳ね、ヒラヒラとお札が舞う中、その足音が遠くとおくへ消えていく。

「もう、ちょっと、なんなの?」

 私は二人に代わってその場にしゃがみ、一枚ずつお金を拾っていく。だって、ざっと見ただけで百枚近い小銭と、十数枚のお札が落ちて、さらに数枚が今まさに宙を舞っているのだ。人間、年をとると本当に大事なものが何か、心に染みついて取れなくなる。

「くそっ!待て!少年!」

 おや驚いた、ジンはまだ染まり切ってないみたい。私は目の前を駆け抜けようとする警官のズボンに手を伸ばし、その裾を思いっきり引っ張ってやった。ジンは気持ちいいくらいの速度でこけた。ビターン、という擬音は、ジンのために存在しているのかもしれない。

「ぐ……!何するんだ!」

「それはこっちのセリフよ!せっかくの歌姫逃がしちゃって……落とし前はつけてもらうわよ!ていうかお巡りさんでしょ、落とし物は拾いなさいよ!」



 響は走りに走った。キャップ帽からは出血大サービスと言わんばかりに小銭が落下を続けていたが、立ち止まって拾うだけの余裕はなかった。

「どいてくれ!警察だ!」

 だいぶん距離があるが、タケダは間違いなく追ってきている。振り返ると、人ごみの山の向こうに、見慣れたおっさんの顔がある。

「はあはあ……くそっ!」

 始まりの駅で出会っていたためか、心音も文句を言わずについてきてくれる。とはいえ、男と女では体力にどうしても差が出てしまう。増してや、向こうは現役の警察官だ。その距離は、徐々に徐々に縮まってくる。

「タ、タクシー!」

 横断歩道に差し掛かったところで、響は天高く手を上げた。

 残念ながら、映画のようにタイミングよくとはいかない。カメのようにノロノロと進んできたタクシーが、縁側に腰掛けるおじいちゃんのようにどっこいしょ、と止まるのを、響は足踏みして待っていた。

「はい、どうぞ――」

「名古屋駅まで!急いでくれ!」

 心音を抱き寄せる格好で飛び乗り、運転手に強い口調で訴えた。

「はいはい~」

 白髪の運転手は、年季の入った声で返事をした。



 まったく、なんてことだ。タケダは自分の運命を呪っていた。

 せっかくの休みを人に使われた時点で腹立たしいのに、旅行先に、行方不明の出ている少年少女が二人とも現れるだと?

「止まってくれ!止まれ!止まれぇ!」

 急ブレーキの音など露ほども気にせず、車道に飛び出し、客の乗っているタクシーの前に躍り出た。ボンネットをバンバン叩き、凹む寸前まで力を込めた。

「何するんだあんた!お客さん乗せとるんだこっちは!」

 運転席の窓から、中年のタクシードライバーが怒りの顔を覗かせる。タケダは一切合切を無視して、後部座席で怯えている熟年夫婦を指さした。

「警察だ!事件の捜査で必要だ!今すぐ降りてくれ!」

「え……あ……はぁ?」

 大きな丸眼鏡をかけた男が、あなた正気ですか?と言いたげな顔で首を傾げた。隣に座っている妻らしき女性は、鬼気迫るタケダに怯えてしまい、座席の上で縮こまっている。

「悪いが説明してるヒマがない!あんたらの料金も払う、降りろ!降りるんだ!」

 タケダはドアをこじ開け、まず男を、次に女性を引っ張り出した。

「いやぁ、ちょっと、あなたねえ……あぁ!」

「ひいいぃぃ……!」

 男はあわあわするし、女性は悲鳴まであげた。警察手帳も持たず、私服でまくし立てるタケダを見て、警察官だと思う人間はまずいない。抱く感情は単純に恐怖だ。

「あんた!いったい何を――」

「前のタクシーを追ってくれ!追うんだ!早く!」




 バロック後期を代表する音楽家、アントニオ・ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集〝四季〟。音楽の授業で聞いたことがある人がほとんどではなかろうか。これは「春」「夏」「秋」「冬」の四つの協奏曲からなっていて、その中でも「春」の知名度は群を抜くだろう。

 そういった予備知識をすっかり忘れ去っていた響ですら、小鳥が鳴くような特徴的な旋律に聞き覚えがあった。

 どうやらこれは、老ドライバーの趣味らしかった。年をとって耳が遠くなったのか、かなりの大音量で流されている。

「お客さん、若いねえ。観光?」

 ゾウガメよりもゆっくりとした動きで、老人は喋った。耳の遠い人ほど、自分の声が聞こえないため、大声になりがちだ。

「いや、そういうわけじゃ……」

「えー?なんですかいな」

 そっちが聞いてきたんじゃ……と突っ込みたいのをこらえ、響は大声で返事をやり直した。

「そ!う!で!す!」

 老人はバルタン星人のようにフォッフォッフォッ、と笑った。

「ったく……」

「あのー……響……?」

「あん?」

 心音がおずおずと声をかけてきたので、何事かと思って隣を見た。そこで初めて、心音の頬が、自分の肩の上にあることを知った。響の太ももと心音の太ももは完全に密着しているし、なんなら、自分の左腕が心音の腰に巻き付いていて、心音は窮屈そうに身を縮めている。

「あの……離してくれると、嬉しいんだけど……その、苦しくて」

「えっ……わっ!」

 女の子の体って柔らかいんだな。ではなく、心音の腰ってメチャクチャ細いんだな。ではなく、それこそ春みたいないい匂いがするんだな。ではなく!無意識とは恐ろしい、と響は思った。自分がいつ心音を抱き寄せたのか、はっきり言って覚えていなかった。慌てて心音を離し、中途半端なバンザイをして座席の隅っこまで退散した。

「ご、ごめん……」

 絶対にぶん殴られる。いや、殴られるだけで済めばまだ軽い。ひょっとしたら打ち首もあり得るのではないだろうか。ヴァイオリンが「春」を告げる荒々しい雷を表現し始めたのに合わせ、響の鼓動も速くなる。

 ところが、

「う、うん……ちょっと、びっくりしちゃった」

心音はぎこちなくはにかんだ後、実につつましい動作でちょこんと座りなおした。お人形さんみたいな可愛さだった。

 あれ?響は自分の右頬を触ってみた。

 おや?左頬も一応確認してみた。

 どちらも無傷だった。首も繋がっている。不思議だ。

「おい!こら!開けろ!」

「うわっ!」

「きゃっ!」

 窓ガラスをドンドン叩かれ、響ははじかれたようにドアから離れた。同じく驚いた心音が、怯えたように左腕に抱き着いてきたが、もはや、やましいことを考えている暇はなかった。

 いつの間にかタクシーは信号待ちのために停車しており、いつの間にか追いついていたタケダが、窓ガラスにへばりついていたのだ。山姥やまんばみたいなタケダの執念深さに戦慄を覚えた。

 ていうか、どうやって追いついたんだ!?

「おい!開けろ!少年!」

 美しいヴァイオリンの合間あいまに、ドンドン、という音がリズムよく入って来る。音楽に詳しくない響でも、ヴィヴァルディと和太鼓の親和性が皆無であることが瞬時にわかった。

「んー……?なにか、騒がしいような……」

 老ドライバーがふごふごと言い始めたので、響はとっさに右手を――左手は心音に巻き付かれて使用不可だ――伸ばした。カーオーディオの音量を一気に最大まで上げ、名古屋中に春の訪れを告げた。一応補足しておくが、今は夏休み期間の真っ最中だ。

「…………!…………!」

 タケダが何を言っているのか、もはや聞き取ることはできなかった。窓を叩かれる振動さえかき消され、弦楽器特有の重低音が車体を支配していた。

「……!……!……!……!」

 鬼気迫る表情と、穏やかな春の訪れ。身振り手振りで伝わってくる「今すぐ降りろ」と、音楽の強弱で伝わってくる春の訪れ。繰り返すが、今は夏休み期間の真っ最中だ。

「お客さんも好きなんですかい。ふんふん、ふ~んふ~ん」

 大音量のヴィヴァルディに気をよくした、老ドライバーの鼻歌。信号は青に代わり、アクセルが踏まれる。

 拳を叩きつけながら食らいついてくる、必死の形相のタケダ。当然、車の速度には追いつけず、引きはがされていく。

 響と心音は、リアガラスからタケダの行方を確認した。

 タケダは交差点の真ん中あたりまで走った後、ぜえぜえと息を切らして立ち止まった。そして、響たちとは逆方向によろよろと歩いて行き、後方で待機していたタクシーによじ登るように入っていった。

 響は思わず心音の方を見た。

 心音も、こちらを見ていた。

 タケダがまだ追ってくる。それはそれで予断を許さない状況なのだが、響にはもう一つ、どうしても心音に言っておかなければならないことがあった。

「あの……離してくれると嬉しいんだけど……」

 あとで分かったことだが、響の左腕には、呪われたように手形の内出血あとができていたという。

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