第6章 初稼ぎ
「オヤジ!落ち着いてください!」
「オヤジ!」
白崎の家では、暴君が暴れまわっていた。
「オヤジ、どうか――」
「だあぁぁまれええええい!」
止めに入ったスキンヘッドをどつきまわし、飾り物の皿をぶん投げ、襖を四枚蹴破った。そこでようやく、白崎のオヤジは止まった。
「はあ……はあ……ミロク!ミロクはどこじゃ!」
「はいオヤジ、ここにおります」
身だしなみを整えたミロクは、物陰からすっと出た。まるで、影の中を移動してきたような静けさだった。
「心音はぁ!心音はまだ見つからんのか!」
怒れるオヤジは、至近距離で唾をまき散らしてくる。血走った眼が、今にも飛び出してきそうだ。
「はい。残念ながら、未だ」
ミロクは一切の動揺を見せずに答えた。眼鏡を押し上げた以外、体のどこも動かさず、震えもさせなかった。
白崎のオヤジはミロクの顔を隅から隅まで睨みつけ、奥歯をカチカチ言わせながら下がっていった。
「心音には逃げられる、若いのは捕まる。お前ら!あとどれだけワシの顔に泥を塗るつもりじゃあ!」
家にいたヤクザたちが震えあがる。もちろん、ミロク以外の。
「オヤジの許可さえいただければ」
ミロクは一人、前へ出た。手袋をした手を胸に当て、うやうやしく頭を下げながら。
「今すぐ、お嬢を探しに出かけます」
「それで!それで!?探しに行ったついでに、今度はお前が蒸発するんか?えぇ!?」
オヤジの怒りは、組員の誰もが経験したことのないものだった。誰一人許されることは無く、罵詈雑言は一晩中収まらなかった。
真夜中の警察署、タケダは裏口に設置された自販機に寄り掛かっていた。官公庁の灰皿は数年前に全て撤去されており、敷地内は完全禁煙。しかしタケダは、真夜中で人がいないのをいいことに、携帯灰皿で一服とっていた。マズい。非常に。
「おい」
裏口がガチャリと開かれ、当直の警察官が顔を覗かせた。タケダと同階級だが、先輩の刑事だ。
「そこで吸うなや。二課長が呼んどるぞ」
「はいはい、わかってますよ」
吸いかけのメビウスを携帯灰皿に突っ込み、タケダは自販機から離れた。
警察本部では捜査一課、二課、三課、四課と、事件の種類ごとに細分化されている刑事部門だが、所轄の警察署ではそうはいかない。人数に限りがあるため、ある程度まとめられるのだ。警察署の規模でまちまちだが、タケダの所属では刑事一課、二課の二つとなる――
タケダは署の非常階段を上り、三階までやってきた。裏口からひと気のない廊下に入り、表階段付近にある扉を乱暴にノックした。
――刑事一課とは、犯罪のほとんどを占める盗犯、殺人や強盗などの重大事件を扱う強行班、この二つを抱える、まさに刑事の花形と言える存在だ。警察署の中でも特に大きな部屋を与えられている――
「はい」
中から返事をもらえたので、タケダは扉をぐいっと押した。すねたような表情で、中に入っていった。
――一方、呼び出しを受けたのは刑事二課。主に薬物事件や詐欺事件などの知能犯を捜査する部門だ。一課と比べて人員が少なく、部屋も半分ほどの大きさしかない。それでも、刑事二課がなくてはならない理由がある。それが――
課員がせわしく動いている中、どっしりと自分の席に座り込んでいる男がいる。タケダはその男に挨拶する。
「あーどうも。課長がお呼びだと伺いまして」
――暴力団犯罪を担当している、ということだ。
二課長が顔を上げた。その顔を見て、タケダは素早く感じ取った。伊達に十年以上警察で飯を食ってきたわけじゃない。この顔は怒っている顔だ。それも、自分の都合で。
「得意か」
二課長は豚のような男だった。鼻が短く、髪はハゲかかり、ぜい肉で横腹がボンレスハムのようになっている。その、出荷前の豚が、鼻息荒くまくし立ててくる。
「拳銃所持で現行犯一人、そんなに得意か」
「あぁ……」
タケダはコーラから炭酸が抜けていくような返事をした。
「お前はええよのう、現逮手続き一つで手が離れる。こっちはこんな真夜中に、逮捕状の請求と送致の準備、留置にも頭を下げんといかん。白崎とのすり合わせで四課の課長補佐にも連絡する羽目になった。向こうも叩き起こされて、機嫌も悪くなるわ。怒られるのはワシじゃ。え?わかるじゃろうが、お前なら、一人上げるならどれだけ事前の根回しが――」
くどくどくどくど、ぐちぐちぐちぐち、二課長の(自分勝手な)説教は終わりが見えない。タケダは弁明の言葉を愚痴の合間に無理やりねじ込んだ。
「いやぁ、すいません。別件追いかけてたんですけど、目の前で、たまたま、出されましてね」
事実をありのまま言っただけなのに、二課長の態度は軟化しない。むしろ、余計に厳しい目つきになり、タケダを睨みつけてくる。
「なぁにを……今さらこんなもんあげて、戻れるとでも思っとるんか」
噛みかけのガムを吐き捨てるように課長は言った。その言葉に、タケダはこっそりと舌打ちを混ぜた。クソが。そんなつもりはみじんも無い。じゃあなんだ、お前は目の前で犯罪が起こっても見逃せと言うのか。
「まさか、俺はもう生安課員ですよ」
「んんん……!」
謎の暑苦しさで響は目覚めた。見覚えのない天井が目に入る。壁は途中で切れている。背の低い仕切りだ。そうか、ここはネカフェだ。だとしたらおかしい。夏とは言え、ここなら空調がバッチリ聞いているはずだ。びっしょり寝汗をかくなんて、どうかしている。
違和感に気付いたのは、上体を起こそうとした時だ。左腕が上がらない。鉛でも括りつけられたように、ずっしりとしているのだ。
「んー……何が……」
右手で目をゴシゴシこすり、左隣を見た。心音がしがみついていた。
「はぁっ!?」
心音は気持ちよさそうな寝顔をして、響の左腕を抱きしめている。柔らかそうな胸元が、響の腕に合わせて形を変えている。というか――体中の神経が、左腕に集中してしまう――得体のしれない柔らかさを感じ、頭がコンマ一秒で沸点を迎える。
「おい、ここ……」
舌が縛られたように動かない。それどころか、全身が金縛りにあったように動かない。
どうしよう、助けを呼ぶべきか?いや待て、この状況を、どう説明すればいいんだ?混乱に混乱をかき混ぜられた脳みそで必死に答えを探していると、今度は心音が、左腕に頬ずりをしてきた。響は全身の産毛が逆立つのを感じた。
「うーん……お母、さん……」
その声があまりに切なくて、響は途端にやましい気持ちから解放された。
なんだよ、極道の娘だなんだ言っても、結局は同い年の女の子だ。きっと、初めての家出で心細くなっているのだ。
「おーい起きろーここねー、朝だぞー」
響は心音の肩を優しく揺さぶった。肩にかかっていた心音の黒髪が、はらはらと落ちていった。
「ん……お母、さん?」
寝ぼけているのか、目を覚ました心音の表情はとろん、としていた。なぜか、溶けかけのアイスのように甘い匂いがした。
「響だよ、ひ、び、き。昨日一緒に家出した――」
「あ、ひびきぃ……?うぅーん――」
心音は大きく伸びをする代わりに、響の腕をぎゅーっと抱きしめた。全身に血流がめぐり、徐々に顔色が戻っていく。同時に、正常な思考回路も。
「――響!?」
お忘れのことと思うが、響の右頬はつい昨日に治ったばかりだ(左頬には未だ絆創膏が貼られている)。その、ぴっかぴかの右頬を、心音渾身の張り手が襲った。
「いやあぁあぁ!」
「だーかーらー、不可抗力だって」
響は不機嫌に唸った。右頬が再び絆創膏に覆われている。高級絆創膏を全部使い果たす羽目になった。
「無理よぉ!そんなの!私の……む……むね……!」
ワンピース姿に戻った心音が、死ぬほど苦しそうにあえいでいる。昨日と同じように胸元を抱きしめている。
「いや、しがみついてきたのはお前の方だし……」
響はげんなりとしてコーヒーをすすった。ちなみに今、ネカフェ近くにあった喫茶店に入り、カウンター席でモーニングにありついている。パンと葉物野菜とスクランブルエッグ。シンプルだがバランスはいい。心音は朝マックなるものを食べてみたいと主張していたが、響は断固拒否した。野菜をとれ、と何度言ったかわからない。
「私、知ってるんだから!男子って、いつも女子のスカートとか、胸ばっかり見て!揺れたとか透けたとか、そんな話ばっかり!」
「いやだから、さっきのはお前から――」
「でも、思い出すんでしょう?」
心音は自分の体をひしっと抱え、涙目になって見てくる。
「あとになって、思い出すんでしょう?」
さらに心音が腕に力をこめるため、ぎゅっと胸元が強調される。画像記憶と感覚記憶が連動する。響は寝起きの柔らかさを思い出してしまい、ついつい口元が緩んでしまう。
「ほらぁ!やっぱり!」
「あぁ、いや、これは……」
ヤベッ、顔に出てたか?響は慌てて頬を引き締めなおすが、時すでに遅し。
心音はハリネズミのようにきゅーっと体を縮めてしまった。
「私もう、お嫁に行けない……!」
「お嫁に行けないならいいじゃないか。許嫁の話も無しにできる」
だいたい、女心に無頓着なのが男という生き物だ。響も男なので、漏れなく心無い言葉をかけた。当然、涙声の心音にぽかぽか叩かれるという結末を迎えた。
「ぅんーん!」
「いてっ、いてっ!わかった、わかった、悪かった!オレが悪かったよ!ほら、これでいいか」
「ひぅ……!」
心音はカウンター席の隅っこまで逃げ、縮こまるようにして泣いていた。
「はぁ……てか、なんでオレが謝ってんだ……」
お嬢様が復活するまで、響は天井のシーリングファンを眺めていた。
コーヒーの無料おかわりをもらい、ノートの隣に置く。右手に持ったペンをカチカチ言わせ、会議開始の合図とする。
「それで、今日どう生き延びるか。きちんと決めるぞ、方向性を」
ちゃんと今後の方針を決めておかなければ……。二日続けてネカフェは避けたい。色んな意味で危険が多すぎる。
「決まってるじゃん。歌うの」
モーニングの朝採れレタスをさくさく言わせながら、心音が言う。
お嬢様だからもっと上品な食べ方をするものだと、響は思っていた。
「お前……まだそれ言ってんのかよ」
「じゃあ、他に何か方法あるの?おまじないでお金が増えるなら、私もするけど」
「んん……!」
誰のせいで金欠になったと思ってんだよ!響はもうすぐで心音をぶん殴ってしまうところだった。落ち着け、相手は女の子だ。とてつもなく可愛くて、とてつもなくわがままな女の子だ。やっぱり、ちょっとくらいオシオキしてもいいかもしれない――
「あっ、そうだ。一つだけ確認しといていい?」
視線を上げると、モーニングを食べ終えた心音がニヤリとしていた。悪だくみを思いついたガキ大将みたいな笑い方だった。
「なんだよ」
「持たざる者、文句言うべからず!なんだよね」
アーケードの下を、心音は胸を張って歩いて行く。おさげをポンポン弾ませ、さぞ楽しそうだ。顔立ちが整っているうえ、モデルのような体型、歩き方。大都会にやってきても、ひときわ存在感を放っている。三歩後ろをがに股で歩きながら、響はそんなことを考えていた。
「姉ちゃん、姉ちゃん、かわええな。ちょっと遊ばへん?」
こうやって声をかけられるのは、これでもう四度目だ。チャラチャラした男の多いこと多いこと。
「ごめんなさい、これから用事があるの。あっ、そうだ。グリコのところで歌うたうから、よかったら見に来てっ!」
恐るべしは心音の適応力の高さだ。四回ナンパされて、四回ともこれだ。客引きでもやらせたら日本一になるんじゃないか。三歩後ろをがに股で歩きながら、響はそんなことを考えていた。
宣言通り、心音は有名なグリコの看板までやってきた。正確には、グリコの看板が見える橋の上だ。昼前だが、さすがは日本第二の都市、大阪。橋の上は常に何十人もの人が行き来しているし、立ち止まってグリコを撮影する人も多い。
「じゃ、私歌うから、待ってて――あっ」
心音はいたずらっぽくはにかんだ。
「帽子、貸してっ」
ヤンキースのキャップ帽を取られ、響は眩しい太陽に目を細めた。
あんなに張り切って、どうせうまくいきっこないのに。その言葉を封印して、橋の反対側まで逃げるように移動した。他人の振りを装いながら、欄干に背中を預けて心音を見る。
心音はグリコ側の欄干まで歩いて行き、きょろきょろと辺りを見回している。よし、と息を整えると、欄干を背にして立ち、響のキャップ帽を逆さにして足下へ。あそこにお金を入れろ、ということだろうか。
準備を終えた心音が、こちらに視線を投げかけてくる。響は肩を少しだけすくめ、どうぞご勝手に、と意思表示する。心音はパチンとウインクする。白百合のような両手を握り合わせ、胸の前まで持っていく。小さな口を開き、道頓堀のよどんだ空気を吸い込んでいる。
あぁ、響はそれまで忘れていた。彼女の歌声を、その尊さを。
彼は後にこう回顧している。
もし、歌に愛された少女がいるのだとしたら。
白崎心音以外に、オレは思いつかないだろう。
それは響が聞いたことのない歌だった。メロディーも、歌詞も、全て心音のオリジナルのように思えた。それでも、道行く人は一人残らず手を止め、足を止め、歌の出所を探し始めた。見つけた者から順に、吸い寄せられるように心音の方へ歩み寄っていった。
心音の歌声は、それはもう美しかった。色で表すなら澄みきった白、感触で表すなら極上の絹。飾り気がないのに、誰にも譲らぬ存在感があり、マイクも何も使っていないのに、遠くとおくまで響く。濁り切った都会の空気が、情景が、洗濯されたみたいに綺麗になっていく。三日ぶりに太陽が姿を現したかのような感動が、道頓堀を染め上げていく。
歩くこともできなかった僕が
初めて光の中に立つ
君と開いた冒険の書は、まだ書き始めたばかり
泣くこともできなかった僕の
思い出がここから始まる
あと、必要なのは君の――さあなんでしょう
それだけであとは何もいらない。気付けば、無限の幸福の中に響はいた。
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