第5章 大阪

「あぁ……くそ、ガキが!」

 速達便で送られてきたゴリラが、足元で悪態をつき始めた。

「ぶっ殺してやる!」

 それだけならよかったのに、ゴリラはゴツイ玩具おもちゃを取り出してしまった。ゴリラの着弾時に重たい鉄の音がしていたが、やはり、スーツの内ポケットに入れていたのだ。タケダはすかさず足を出し、拳銃握るゴリラの右手を踏みしだいた。

「あぁ!!った!」

 ぐりぐりと革靴を捻り、ゴリラの右腕をすり減らしてやった。ゴリラはこめかみをピクピクさせながら、持っていてはいけない物を取り落とした。

「何しやがる!」

「それはこっちのセリフだアホ。目の前でそんなもん出されたら、パクらなきゃいけないでしょうが」

 タケダは遠くに消えていくティーンエイジャー二人を見つめた。手をつないで、まあ楽しそうに……やっかいごとが増えたのをひしひしと感じながら、ジャラジャラとうるさい手錠を取り出した。




 プシュゥ、と音が鳴り、電車のドアが閉じられた。タケダもゴリラも追ってこなかった。響は心音と一緒にドアに背中を預け、ズルズルと尻もちを着いた。

「「はぁ~」」

 お互いのため息がぴったりと重なり、響は心音を、心音は響を見た。

 別に面白いことを言ったわけでもないのに、響はお腹の中をくすぐられたような気分になった。

「ふっ……ふはっ……!ははははは!」

「あっ……ふふっ……!あはははは!」

 こらえきれなくなった笑いが、電車内にこだました。響は吠えるように、心音は歌うように笑った。他の乗客が迷惑そうに見てきたが、今の二人は無敵だった。誰の目も気にすることなく、大きな口を開けて笑った。

「君、すごいねぇ、投げ飛ばすなんて」

 ガタン、ゴトン、という音の合間あいまで、心音が笑う。

「マジビビったよ、お前、ホントにヤクザの娘なんだな」

 その笑い声は本当に心地よくて、響は自分の心が弾んでしまうのを感じていた。

「あ!またお前って言った!さっきも言ったけど、私は――」

「だー!わかった、わかった!ちゃんと呼ぶから!白崎!これでいいだろ?」

「白崎はダメ!ヤクザってバレちゃうじゃない!」

 心音に小声で叫ばれ、響は片目をつぶった。

「んー、じゃあ、こっ……ここね……?」

 試しに言ってみたが、自分で恥ずかしくなってきた。下の名前で呼ぶなんて、普通恋人同士でやることじゃないのか?

「なんで赤くなんのよぉ!」

「なってねえわ!」

 お前も顔赤いじゃねえか!と言いたい響だった。




「私も君のこと響って呼ぶから、それでおあいこってことでいいじゃない。後は慣れね」

「んー……それなら、まあ」

 響は不承不承唸った。三つほど駅を通過し、二人で空いた席に並んで座っていた。

「ねえ、それで、これからどうするの?」

 心音が首を傾げ、こちらを覗き込んでくる。

「ん、あぁー」

 響はカバンからA6ノートを取り出した。この日のために色々調べてきたのだ。今こそそれを発揮する時だ。

「いいか、あと五、六、七つめの駅で降りる。そうしたら、タクシーに乗り換える――」

 響は心音を連れて電車を降りる。切符をどうやって改札に通すのか聞かれた時はさすがに驚いたが(乗車するときは切羽詰まっていたので、響が二枚続けて通していた)、大きな混乱もなく地方都市の駅を出た。

「――タクシーで十五分くらい走ったら、新幹線の駅がある。そこまで行く――」

 駅のロータリーでタクシーを拾った。緩やかに走り出すタクシーの車内から、地方都市の繁華街がチラリと見える。小さな町だと、心音がつぶやいている。

「――新幹線の駅に着いたら、大阪行きの切符を買う。最終が九時十七分発だから、まだ間に合うはずだ」

 タクシーは郊外にある新幹線の駅に着いた。周りには住宅が広がっている以外、何もない。元々は広大な田畑が広がっていたのだろう、名残のように緑の土地がぽつぽつと見える。

「ふーん、どうしてここから乗るの?最初っから使えばいいのに」

「おま……心音が間に合うかどうかわからなかったから、チケット買えなかったんだよ。それに、途中で降りた方が撒けると思ってさ、警察」

「なぁるほどねー」

 心音は美しい旋律で頷いた。

「じゃあ、買うぞ……」

「うん……!」

 一万四百七十円。震える響の指先に、そのボタンはある。心音もかたずを飲んで見守っている。

 二枚で二万九百四十円、さっきのタクシーが二千七十円だったから、これを買うと残金は一万三千二百四円となる。もう後戻りはできない。響は両目をぎゅっとつぶり、財布にとどめを刺した。

「すっげ……!」

 滑るようにホームに入って来る新幹線を、響は半ば放心状態で見ていた。これはこだまと言うそうだ。今までの電車とはわけが違う。スピードも、行き先も、響が体験したことのない次元に跳ね上がる。夜でもはっきりとわかる白い車体が、未知なる世界への宇宙船のように見える。

「ははは……へへ……」

 自分でも鳥肌がたつくらい、気持ち悪い声が出る。しかし、それを咎める者はどこにもいない。人一人がやっと通れるくらいの小さいドアが開かれる。響はそこに、ふらふらと吸い寄せられていく。

「すごーい!」

 心音の声が上ずっている。

「広いんだなぁ」

 響は窓際の席に座る。最終便のためか、そこまで混雑していない。

「私も窓際、行っこ、おっと!」

 向かい合わせの位置に心音が座ったところで、新幹線は発車する。

「うわあぁあ、速いね」

「静かなんだな、すげぇ」

 フィルムの早回しのように、ビュンビュンと景色が流れていく。二人は小さな子供の様にキャッキャッとはしゃぐ。

「わぁ……!響!響!起きて!起きてってば!」

「うーん……?」

 肩をゆすられ、響はまどろみの中から引き戻された。銅の剣でまんじゅうに立ち向かう夢を見ていた。まんじゅうを切り裂くと、そこからタケダが現れ、その姿が父親になり、響はまたぶたれた。

「着いたよ響!大阪!」

「はっ!」

 地名を聞いた瞬間、響の脳は覚醒した。バッと飛び起き、新幹線の小さな窓に顔をへばりつけた。

 ものすごい光の量だった。響たちの街の、十倍はあった。背の高いビルの群れが、どこまでもどこまでも続いていて、その全ての窓に光が灯り、煌々と闇夜を照らしているのだ。神様が光でいっぱいのバケツをひっくり返した、そんな光景だった。




「うわあぁぁぁ」

 響が上下左右を見渡すと、

「うわーぁ」

隣にいる心音が、まったく同じ動作をとった。

 光の量が十倍なら、人の量も十倍だ。深夜十一時だというのに、新大阪駅は人で溢れかえっている。響たちの街と同じなのは、一定数のゾンビがぞろぞろと歩いていることくらいだ。

「オレ達……」

「本当に来ちゃったんだ……」

 響の体の中で、喜びと開放感が暴れ出した。きっと、心音もそうだったのだ。二人は体をこれでもかと小さくたたみ、大きな歓声と共に飛び上がった。

「「やったあぁぁぁあぁ!」」




 と、はじけたのもつかの間。ここに来て、ここまで来て、響は重大なミスを犯したことに気付くこととなる。

 ことの発端は、記念すべき逃走初日の宿泊場所を決める作戦会議だった。

 会議室として選んだのは近くにあったマクドナルドだ。二十四時間営業のおかげで、こうしてだべることができる。

「わああぁぁぁ!」

 心音はツタンカーメン王の墓でも発見したかのように顔を輝かせている。店員が差し出してきたトレイにポテトが乗っているだけなのだが、まるで「ポテト様に触るのは恐れ多い」と言わんばかりに両手をさまよわせている。

 いつまでたっても心音とポテトの距離が縮まらないので、仕方なく響がトレイを受け取った。

「うー、もしかして、響ってどケチ?」

 心音が涙目になりながらポテトを見ている。

「ダメだっつの、資金が少ねえんだから。これはショバ代みたいなもんだ」

 そう、テーブル席を確保するために響が買ったのは、一番安いSサイズ。二人で食べるには絶望的に少ない上、トレイの上で半分こに分けられている。なので、心音はリスのように一本ずつガジガジと噛んでいる。

「せっかくの初マックなのに……なんか損した気分――あぁ、でもおいしっ」

「あのなぁ、オレ達家出中なんだぞ、不要な支出は極力抑えること!これ鉄則な。あと、ジャンクフードは体によくねえから、あんまり食わない方がいい」

「あぁ!おいしかった!」

 さっき食べ始めたばかりなのに、心音は瞬く間に自分のポテトを完食していた。あと、こちらの話を全然聞いていない。

「ねえねえ響!私、こんなにおいしいもの初めて食べたよ!ね、もっとちょうだい!」

「てめえ……」

 怒りに震える響だったが、ここは店内だ。人の目がある。目立ち過ぎて警察沙汰なんかになってしまったら、故郷まで強制送還待ったなしだ。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせ、残りのポテトを全部押しやった。

 「こんなとこで金使ってる場合じゃねえんだよ。どうすんだ、今日泊るところ。オレは残り、一万三千と……二十四円しかない。心音は?」

 そう聞いた途端、心音の心臓が外に飛び出したのを、響は見た、気がした。

 真偽はともかく、心音はおさげを逆立て、はぅっと言って止まり、ポテトを噛み切った。それが意味することは、一つしかない。

「……は?」

 ポテトの先端が床に落ちた時、響の怒りは臨界点を迎えた。




「一銭も持ってないぃ!?」

 人の目があったのに、響は叫んでしまった。思いっきり目立ってしまったが、いや、そんなことはもはや些細なことだ。今、この女、なんて言った!?

「だーかーらー、ごめんなさいって言ってるじゃない。お金持って出る余裕なんて、全然なかったんだから!」

「ひ、ら、き、直るな!あとポテト食うのやめろ」

 心音はむぐむぐ言いながらそっぽを向いている。ていうか、またあっという間に完食されている。あまりにも自分勝手なその姿に、響は強烈なめまいを覚える。

「お前なぁ!」

「こ・こ・ね」

「うっせ!」

 そんな上目遣いで――いくら可愛く言ったって許すもんか。心音の美貌にときめいてしまいそうな自分をめった刺しにし、響は怒った。

「お前が資金提供するっていうから、オレはこの話に乗ったんだぞ!今まで貯めてた金全部はたいて――」

「まだ一万円も残ってるじゃん」

「――だからうっせ!これっぽっちじゃ一週間も持たねえ!二人いるなら、もっと早くなくなる!」

「あっ、じゃあ、私が歌で稼いであげる!」

 今世紀最大の名案!と言いたげに心音が胸を張る。ワンピースの胸元についたフリルがちょこんと揺れる。それを見て、響は自分の感情が怒りから呆れに変わっていくのを感じる。

「稼げるわけねーだろ!ストリートミュージシャンだけで食ってけるやつが、日本に何人いると思ってんだ!」

「知らないけど……私、歌は得意だもん」

 忘れていた。心音は極道の箱入り娘。超のつく世間知らずお嬢様だ。初マックに浮かれている時点で察するべきだったが、絶望的なまでに話が通じない。おかしいな、同じ日本人同士、ある程度似通った価値観を持っていると思ったのに。響はなんだか悲しくなってくる。へなへなと、マックのソファに体をうずめる。

「もう、どうすんだよ……」

 天井のライトが眩しい。響は両手で顔を覆い、暗闇の中に自分の心を閉じ込めた。

 あぁ、もう、本当にどうしよう。八方塞がりとはこのことを言うのだろう。残りの金では、二人して帰ることもできない。ジ・エンドだ。あとはこのまま、所持金が尽きるまで大阪で遊び、警察に捕まるのを待つだけだ。遊ぶってなんだよ、USJすら行けないぞ、この状況じゃ……。

 そうやって人生を悲観していると、暗闇の向こうから、申し訳なさそうな声が聞こえてきた。

「ごめんなさい……私、急に許嫁決められて、あのままいたら、結婚させられそうで……どうしても、家を出るしかなかったの」

 ちらりとテーブルの反対側を見る。おさげの女の子がしゅんと下を向いて、小さくちいさくなっている。

 許嫁なんてものが本当に存在するなんて――極道の娘ってだけで浮世離れしてるのに、いやしかし――極道の娘だからこそ、その話にはリアリティがあった。故に響はそれ以上心音を責めることができず、マックのテーブルに肘をつき、重たくなった頭を支えるしかなかった。

「……響は?」

 心音はつぶやくように言った。

「響は、どうして家出?」

 響は頭を抱えたまま、記憶を見た。自分がなぜ、あの家から逃げようと思ったのか、その悪夢きおくを見ていた。

「なんかさ、オレ……家に居場所なくて」

 自虐めいた笑いを漏らしたその時、頭上で息を飲む音が聞こえた。響はポテトの下に敷いてある〝マックでバイト〟のチラシを読んでいるふりをした。特に意味はないが、なんとなく、頭を上げるのははばかられた。

 数秒後、言いようのない沈黙は、心音の立ち上がる音で破られた。

「私、今からそこで歌ってくる。それで、お金貰ってくる」

 その顔は、戦う決意をした戦士のように張り詰めている。

「いや、今からじゃ無理だって……」

 何時だと思ってんだよ。響は店内の時計を顎で指した。

「やってみなきゃわからないじゃない!」

 ムキになった子供の様に、心音は叫んだ。響の制止など聞かなかった。バッと立ち上がり――腹の虫が鳴った。見事なタイミングだった。

「あっ……う、うん!」

 誤魔化すように咳ばらいをしているが、心音の顔は真っ赤になっている。響はあえて、心音の顔を穴が空くほど見つめてやる。Sサイズのポテトじゃ、さすがにお腹いっぱいにはならないか。

 心音は顔をますます赤くし、響の視線から逃れるようにテーブル席を後にする。

「あっ……!」

 慌てたせいか、心音はテーブルに足をぶつけてしまったようだ。その声があまりにとげとげしくて、響は眉をひそめた。

「あっ、おい……」

 声をかけようとしたが、心音は逃げるように店を後にした。

「はあ」

 そういえば、そうだったな。心音がひざを怪我していたことを思い出し、響はため息をついた。今度マックに来たら、トレイを片付けろって言ってやろう。




 ゴミ捨てを終え、響は店の出入り口に向かった。いつのまにか天気が後転したようで、パラパラという雨音が聞こえてくる。真夜中なので空模様は見えないが、おそらく分厚い雲に覆われていることだろう。

 おさげの女の子は、自動ドアのすぐ外で立ちすくんでいた。無理もない。所持金なしの上に手ぶら。歌をうたうどころか、雨の中を歩くことさえできない。

 響は無言で自動ドアをくぐり、アディダスのリュックをまさぐった。こういう時のための準備だった。側面のポケットに入れておいた折り畳み傘を、バッと開いた。無言のまま、心音の頭の上に差し出した。

「あ……」

 振り向いた時、心音の顔はくしゃくしゃだった。気付かなかったふりをして、響は話しかけた。

「傘、えんだろ」

「別に、我慢するもん」

「足、いてえんだろ」

「唾つけとけば治るもん」

 せっかくこっちが歩み寄ってやろうとしてんのに!響は唇の端をピクピクさせた。ヤクザの気質なのだろうか、心音は案外強情だった。

「飯、」

 だから響は、とっておきの攻撃を繰り出した。

「食ってねえんだろ」

 会心の一撃だった。




「い、いいってば……」

「いいわけあるか、ほっといたら痕残るぞ」

 響は心音を連れて、手近なコンビニに入っていた。

「うーん、これが……でもなぁ……」

 一般的な、ただ傷を覆うだけの絆創膏、三百二十四円。自然治癒力を高め、手早く、かつ綺麗に治す高機能絆創膏、四百九十二円。左右の手に持ったそれをさんざん見比べた挙句、高い方の絆創膏を籠に入れた。ドラッグストアで買えないのが痛い。コンビニ価格ってこええ。

「――で、食いたいもん、なんでも入れてよし!」

「……え」

 それまで後ろをとぼとぼついてきていた心音が、初めて目を輝かせた。

「ほんとう!?」

「ただし、カップ麺とかはダメ」

「えぇー」

 落胆するところが間違っている気がする。一ノ瀬響、十六歳の夏、だ。




「ど、どこに行くの?」

 右手に傘を、左手にコンビニ袋を、夜の大阪を響は歩く。雨に濡れないよう、かつ、体が触れ合わないよう、絶妙な距離で心音がついてくる。

「金が残り少ないからなー。とりあえず節約だ。ネカフェに泊まるしかない」

「ネカフェって……ネットカフェ?でもそれって、会員証とかいるんじゃない?」

「あぁ、それなら安心しろ」

 響はニヤッと笑った。何度も言うが、そのためにずっと準備してきたのだ。




「ではこちらに、お名前とご住所、ご連絡先をご記入ください」

 響は店員からボールペンを受け取り、入会書に必要事項を記入していく。

「身分証のご提示をお願いします」

「はい」

 不自然に思われないよう、自信たっぷりに運転免許証を差し出した。

 店員は何の疑問も持たず、免許証を受け取った。チラリと響の顔を確認すると、コピーを取るために店の奥へ入っていった。

「えっ、ウソ!すごいすごい!ねえ、どうやったの!?」

 一部始終を見ていた心音が、突然肩に飛びついてきた。ガクガクと揺らされながらも、響は優越感に浸ってしまう。

「くすねたんだよ、兄貴の免許証。体格は全然違うけど、顔だけは似てるからさ」

 ひどく得意げに言ってみたが、心音の反応は冷え切った味噌汁のように薄かった。

「えっ、わるっ……」




「十二時間パック、ペアシートで千六百八十円か……」

 響は難しい顔をしてA6ノートとにらめっこする。本日使った金額を事細かに書いている。

「ね、ねえ響、ネットカフェって、こんなにオープンなところなの?」

 心音は未知のダンジョンに迷い込んだ猫のように、そろ~っとペアシートのスペースに入ってくる。低いパーテーションで仕切られただけのネカフェの構造に戸惑っているようだ。なにせ、中で立ち上がろうものなら、頭がひょっこり出てしまう。入り口も簡素な引き戸がついているだけで、鍵がかかるわけでもない。加えて、ペアシートの名前の通り、中にあるのはまさにただのシート。一応フラットにはできるものの、ふかふかの布団やスプリングのきいたマットレスには程遠い。

「あん?あぁ……個室もあるけど、高いんだよ」

 事前情報を色々仕入れている響はうろたえない。

 もちろん、心音は違う。

「え!個室とかあるの?ウソ、信じらんない!個室にしようよ!せめて、女性専用エリアとかないの――ていうか狭くない?二人で寝るの?ここに」

 たしかに、ここは単純に狭い。パソコンの大画面を二人並んで見られる、と言えば聞こえがいいが、そもそも寝るための構造になっていない。どうあがいたって、二人して背中をくっつけて寝るしかない。

 そんな心音のわがままを、響が一刀両断する。

「じゃかあしい!持たざる者、文句言うべからず!」

「ん……むー……!」

 涙目になったって許すもんか。心音の美貌にときめいてしまいそうな自分をめった刺しにし、響は静かに言う。

「同じ理由で、コインランドリーも二人で使う。シッ!入れる時はオレから入れて、出すときはお前からにしてやる。だから我慢しろ」

 口を開こうとした心音に人差し指を立てて見せ、響は言った。当然だ。コインランドリーを一回余分に回すだけで、一食分の金が飛んでいく。

「……ケチ」

「あぁん!?」

 わがまま娘。響の中での心音の呼称が決まった。




 頬を火照らせた心音が帰って来たのは、それから三十分後のことだった。

「洗濯機回してきました!乾燥まで自動だそうです!」

 嫌みたっぷりに報告してくる心音を、響は冷静に迎え入れた。ノートにコインランドリーと書き込む方が重要だった。ふわりと漂ってきたシャンプーの匂いも、特に気にならなかった。ネカフェに備え付けの、安っぽい匂いだったおかげもある。

「んー、さん……きゅ……」

 何気なく隣を見ると、胸元を隠すようにして自分を抱きしめる、心音の姿があった。

 この時点で響は、心音のことをただのわがまま娘としか思っていなかった。だから、謎のツイスト運動に冷静に突っ込んだ。

「……なにしてんの」

「……ないの」

「はい?」

「だからないの!下、なにも!」

「げっ……!」

 響は慌てて顔を背けた。

 うかつだった。響は先ほど心音に寝間着を貸したが、(当然のように)男物のジャージ生地の半ズボンと半袖Tシャツのみだ。相手が男ならそれで済むのだが、今回はそうは問屋が卸さない。心音の下着は全て洗濯機の中を高速回転しているし、響は女性の下着なんぞ持ち合わせていない。

 明日、洗濯物が乾くまで、心音の方を見ないようにするしかない。それが響のうちだした結論だった。しかし、胸元を隠すことで忙しい心音は、今度は絆創膏を貼ることができないと言い出した。

「あっち見てるから、自分で貼れって」

「イ!ヤ!そうやって、私が油断した隙に見るつもりでしょ!」

「なんでそうなるんだよ……」

 絆創膏なんて買わなければよかった。響は後悔の念に苛まれた。

 目の前に、心音の右足が差し出される。擦りむいてから時間が経ったせいで、傷口の表面は既に乾き始めている。ベストな応急処置はもちろん、怪我した直後に患部を消毒し、絆創膏で蓋をすることだ。ただ、この高級絆創膏なら、体からにじみ出る体液を閉じ込めて、傷口の治癒力を高めてくれる。貼らないより貼った方がいい。

「ん」

 もったいぶる心音は、さぁ!遠慮なくガラスの靴を履かせなさい、と言わんばかりの表情だった。

 勘違いのシンデレラ。響の中で心音の呼称が一つ増えた。絆創膏をペロンとめくり、両手で端っこをつまんだ。真っ白な心音の足に、恐るおそる、近づけていく。

「ん……」

 絆創膏が傷口に触れたとたん、心音は身をよじった。その声が何かのスイッチのように働き、響の脳内を色で一杯にした。

 突然に、心音の体の隅々に注目してしまう自分がいる。少し湿っている、肩までかかるほどけた黒髪。シャツが大きいせいで見える、綺麗な形をした鎖骨。そして、恥ずかしがるように体をめいっぱい捻る、その仕草。安いシャンプーの匂いまで、急に花畑の香りで漂い始める。そして、女子の足って、こんなにツルツルしてるんだな――ツルツルの上にすべすべだ――オレの足と違って、毛が一本も生えてない。

 気付けば、響は妙に感心しながら心音の膝に絆創膏をなじませていた。

「はっ!」

 響はすんでのところで我に帰った。危なかった。一瞬、真っ白な太ももと半ズボンのすそ口で出来た影のコントラストに視線を奪われていた。

「はー、ふー」

 国家プロジェクトの建造物でも建て終えたかのように、響はため息をついた。

「あぁ!今なんかやらしいこと考えたでしょ!」

 心音の責めるような声が飛んでくる。響は驚き、動揺する。なんだこの女、エスパーか!?オレの心の中を読み取りやがった!

「べ、べべべ、別に考えてねーし!」

「ウ!ソ!絶対考えてた!信じらんない!絆創膏買ったのって、まさかこのため!?気持ち悪い!サイアク!」

「だから自分で貼れって言ったんじゃねえか!」

「そうやって、私の胸見る気なんでしょ!」

 バァン!と壁を叩かれ、二人は飛び上がった。

「おい……うるせぇな……!」

 普通に怒られた。唸る猛獣のような声だった。

 そりゃそうだ、既に夜中の十二時を回っている。

「「す、すみません……」」

 見えない相手に頭を下げながら、二人の夜はふけていった。

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