第7章 ルール

 歌声がとまると同時に、響は夢から覚めた。もっと見ていたかった、心地の良い夢から。

 それと同時に、目の前で爆発的な歓声が上がった。遠くにいた人は、戎橋で爆破テロでもあったのかと勘違いしたことだろう。もしくは、阪神タイガースが優勝した時に匹敵する盛り上がりなんじゃないか。カープファンの響はぼんやりとそんなことを思っていた。

「すっげー!」

「いい曲、なんて曲?」

「えー、知らん、オリジナルかな」

「素敵!」

 興奮冷めやらぬ群衆は、響の知らない感情に突き動かされている。皆が皆、心音の下に近寄って行き、大なり小なり、お金を落としていく。

「ありがとうございます、ありがとうございます」

 心音の声が聞こえる。喜ぶべき瞬間なのに、響はある予感に襲われる。

「マズいぞ……」

 人の波が晴れるまで、優に十五分はかかった。反対側の欄干に、堂々たる佇まいの心音が現れた。両手で抱えるヤンキースのキャップ帽は、小銭から千円札、中には五千円札まで、溢れんばかりの金でひしゃげていた。

「あいつ、絶対調子に乗る……」




 響の予感はズバリ的中した。

「えっとー」

 いつもより半音高く、心音は歌った。

「響ぃー、何か袋、持ってない?」

「ん……」

 響はぶっきらぼうに答え、捨てずにとっておいたコンビニ袋を差し出した。心音は重々しく頷くと、指先でつまむようにひったくった。くるしゅうない、という心の声が聞こえてくる。

「いーち、にーい、さーん……」

 太陽が姿を隠し、薄暗い鼠色の空になっている。心音は一日かけて大阪市内三か所を行脚し、大量の金を稼ぎ出した。多くの人を集めてしまったため、人気のない公園まで移動し、現在に至る。

「なぁ、心音」

 公園のパンダに腰掛け、響は言った。

「にぃ、しぃ、ろぉ、なぁに」

 小銭を数えながら心音が答える。

「お前、どこであんな歌覚えたんだよ」

 膝の上に置いているリュックには、丸められた心音のカーディガンが乗っている。彼女が暑いと言うので持ってやっているが、なんだか、すごい偉人の持ち物を持っている気分だ。地面に落としたら首が飛びそうだ。

「んー……歌う――直前?頭の中にふっとね。いつもそうだよ。にぃ、しぃ――」

 マジか。響は思わずリュックを抱きしめた。

 あれだけ密度の高い歌を、即興で作り上げたというのだろうか。しかも、さも当たり前のように――なんなら――息を吸って吐いて生きるのよ、当たり前じゃない?くらいのフランクさで言いやがった。

「……ろーく、なーな、はーち、きゅう!」

 心音の数え歌はようやく終わったようだ。とんとん、とお札を整え、じゃらじゃらと小銭をしまう音が聞こえる。

「えー、こほん」

 わざとらしい咳払いには、隠し切れない喜びが混ざりこんでいる。

「本日の売り上げを発表します!」

 そう言うと、心音は口でドラムロールを再現し始めた。

 響は一応、顔だけ振り向いてやった。

「――じゃん!七万八千五百四十二円でーす!」

 心音はとびきりの笑顔ではずんだ。樋口一葉と野口英世を扇子のように並べ、両手でちょこんと持っている。

「マジかよ……」

 金ができた喜び、しかしあまりの大金に対する恐怖。心音が持っていたポテンシャルの衝撃、しかし絵に描いたように頭に乗る歌姫。様々な感情がいっぺんに押し寄せ、響は猛烈な頭痛を感じていた。オレも感情の切り替えスイッチが欲しい。

「すごくない?ねぇ、すごくない!?私!褒めて褒めて!」

 キャッキャッとはしゃぐ心音は心の底から嬉しそうだ。公園の砂地を蹴り上げ、ワンピースのスカートをぶわっとめくりあげている。

 昨日までのわがままっぷりがなければ、響は素直に心音をほめていただろう。どうしても、無一文です、と言われた時の怒りと脱力感を忘れられない。

「あー、すげえよ、確かにすげえ。心音お嬢様はお歌がお上手ですね!」

 響は乾いた拍手を贈った。パチパチという音が、二人だけの公園にこだまする。

「むー。思ってないでしょ」

「思ってるよ?」

 すました表情で答える響だったが、心音がジトリと見つめてくる。

「そんな態度とるならしーらない!これ、私が稼いだお金だから!好きに使うね」

 聞き捨てならぬとはまさにこのこと。響はリュックを抱えて立ち上がった。

「はぁ!?ちょっと待て、もともとお前が資金提供する約束だったじゃねえか!だからオレは、ずっと考えてきた家出計画を――」

「そんなことをー、言ったような……言ってないような……」

 心音はお札の扇子で顔をあおぎながら、薄っすらと見えてきた月を見上げている。

「お前な……」

 響は右手にぶら下がるリュックを見る。預かっているカーディガンが重しとなり、強く言うことができない。

「響、忘れちゃったの……?」

 おでこに吐息がかかるのを感じ、響は顔を上げた。

 目の前に、ガラス玉のように綺麗な心音の瞳がある。その透明度に響は驚く。果ての無い世界が広がっているような、祝福の音に満ち溢れているような、四六時中見ていても飽きない美しさだ。

「な、なんだよ……」

 この瞳にならずっと見つめられていてもいい。響が篭絡寸前まで追い詰められた時、心音は瞳をきゅぅっと閉じ、無邪気に笑った。

「持たざる者、文句言うべからず!」

 それは、昨日響自身が言った言葉だった。こんなところで返されるとは露ほどにも思わなかった。寝込みに杭を打ち込まれたドラキュラ伯爵の気分だ。響は胸を鷲掴みにした。

「ぐっ……」

「ねぇ、どうしよう、こんなたくさんのお金!なんでもできちゃうよ!」

 心音はパッと身を翻し、響から離れる。薄い月明かりに札束を透かし、くるくると回る。お金をビニール袋にしまい、歌うように笑う。踊るように砂地を蹴る。そして、響の見つめる中、公園の水道まで行って、きゅっと蛇口をひねる。ちょろちょろと出てきた水に、サンダルごと足をさらす。砂だらけになった足が綺麗になっていくのを、静かに見つめる。

「もう、こんな風に公園で足を洗うことなんてない。食べたいもの全部食べて、おっきなお風呂に入って、ふかふかのベッドで寝れるんだよ?」

 流れ落ちていく砂粒を見ながら、心音はしみじみと言った。

 響は、心音が突然大事な話を始めた気がして、黙って聞いていた。見ていた。

「大人っていいよね、自分で稼いだお金を、自分の好きなように使えるんだから。生き方だってそう。自分のやりたいことを、自分で選べるんだよ」

 ふいに向けられた心音の表情かおは、どこかで見たことのあるものだった。錆びついたような美しさが、響にはとても他人事と思えなかった。

「大人の階段のーぼるー」

 心音はそう口ずさみながら、公園の砂地を蹴った。

 せっかく水道で流したのに、サンダルの隙間から、砂粒のついた指先が見える。

「ねえ」

 雲間から月明かりが現れるように、その顔が不敵な笑みに包まれた。

「あとどれくらい昇ったらなれるのかな、私たち」




「んー!おいしい!こんなにおいしいもの、生まれて初めて!」

 何が大人だ。やってることは完全に子供だ。響は心の中で毒づいた。

 心音は札束を持ってマックに突撃し、迷わずチーズバーガーとてりやきマックバーガーとビッグマックを注文した。そして今、ほっぺたにケチャップをつけながらむぐむぐとほおばっている。家出を始めてから一番幸せそうだ。

「あんまり食わない方がいい。体に悪いんだから――」

「いーやっ!響ってくどくどくどくど、姑さんみたい。ねぇ、そんな人生で楽しい?」

 指についたケチャップをペロリとなめ、心音は言う。イチゴ色の舌がキュートだが、響はもうそそられない。自分の頬をトントンと叩いて、ケチャップのありかを教えてやる。

「ん、ありがと」

 心音は人差し指で頬のケチャップを取ると、今度はビッグマックの箱を開ける。「うわっ、これどうやって食べるの?」と小声で叫びながらバーガーを半分にちぎり、残りを響の方に差し出してくる。

「ほっとけ!オレはお前の健康を心配して言ってやってんだ!せめて野菜ジュースだけでも――」

「大丈夫ですー、私は響さんと違ってまだ若いので。それよりも、もっと色んなもの食べてみたい!」

 オレも同い年だボケ。その言葉を飲み込んだ響は、公園で背伸びをしていた美人を一生懸命探してみた。残念なことに、見つかるのはわがまま娘ばかりだ。




「ありがとうございましたー」

 サンダルを音高く鳴らしながら、心音がショッピングモールを歩く。右手には、買ったばかりのピンクの長財布が握られている。

「おい、どんだけ使うつもりなんだよ」

 響はへとへとになりながら心音について行く。

「え?だってお財布無いと困るし、リュックないと荷物運べないじゃん」

 二十分後、心音の背中にはピンクのリュックサックがあった。

「じゃあそれだけ買って終わればいいじゃねえかよ」

 可愛い洋服に囲まれ、響は肩身の狭い思いをする。周りにいるのは若い女性店員に若い女性客ばかりだ。別に悪いことをしたわけでもないのに、小声になってしまう。

 心音はハンガーにかかった洋服を体に当て、鏡に写して見ている。

「ダメ。女の子なのに、服が一着しかないなんて――」

 右手でプリーツスカートとホットパンツを持ち、右腕にTシャツを三枚引っかけ、左手にはサンダルを二つ――曲芸師みたいなバランス感覚で心音は歩く。

「じゃあ、もう一着持ってれば十分じゃ――」

 心音が試着室から出てくる。ギリギリまで短いホットパンツと緩めのTシャツの組み合わせを、響は直視できない。

「ダメ。人前で歌うのに、三種類以上は組み合わせを考えないと――」

 今度はノースリーブのシャツにプリーツスカート、早着替えのように、服の組み合わせを変えた心音が出てくる。

「だからって、計画的に使わねえと――」

「持ーたーざーるーもーのー?」

「あー!もー!わかったよ!勝手にしろ!勝手にぃ!」




 心音の服選びが永遠という名の物語を紡ぎ始めたので、響は店から退散していた。今はエスカレーター前の四角い椅子で、ラインとにらめっこしている。相手はクス子だ。

〔ちゃんと電波切ってる?〕

 はてなマークを持った犬のスタンプで心配される。

 響はちゃんと切ってる、と打った上で、

〔今は店のWi-Fi繋いでる〕

と送る。すぐにグッジョブ!とサムズアップする犬のスタンプが返ってくる。

〔調子はどう?〕とクス子。

〔悪い〕と響。

 少し間をおいて、

〔響のご両親、行方不明届け出したっぽいよ〕

 と、中々衝撃の事実が飛び込んでくる。響は声にならない悪態をつく。

〔あいつら、オレのことなんかどうでもいいくせに〕

 そう、結局のところ、あいつらが気にするのは世間体なのだ。高校生にもなる息子が家出したなどと、近所で噂されたくないだけだ。

〔警察の捜査でGPS使われるかもしれないね。SIM抜いといたほうがいいかも〕

「……は?」

 クス子からのアドバイスは少々難解だった。響にはよくわからない。

〔simってなんだ?〕

 小一時間、スマホの仕組みについて教わる響だった。

「んー……」

 プリペイドSIM。響の持つスマホには、その単語が光っていた。クス子の教養を受け、ネットで調べていたのだ。割高、契約不要、使い切ると自動的に解約、等と書かれている。

「んん……」

 スマホの位置情報をオフにし、次にスマホのカバーを取り外し、小さなちいさなSIMカードを取り出す。指先でつまめるくらいの、ちっぽけなカードだ。目の前まで持ち上げ、しげしげと眺める。

「んー……?」

 このカード一枚で、響がどこで通信をしたのか、携帯会社に全部筒抜けになってしまうらしい。なんだか恐ろしいものだ。世界というシステムに、首輪で繋がれている気分だ。

「ふんっ」

 ちょっと力を込めると、パキッと音が鳴った。SIMカードはあっさり割れた。響は二つに割れたSIMを床に落とし、靴底でぐりぐりと押しつぶした。

「響……」

 小さな音色を感じて、響は顔を上げた。エスカレーターの影から、心音がそ~っとこちらを覗いていた。バツの悪そうな顔だ。例えるなら、イタズラがバレた時の猫だ。

「あ?どうしたんだよ」

「えっとー……そのー……」




 響は怒りと笑いが入り混じった表情で固まっていた。原因は目の前のレジにうず高く積まれた商品の山だ。今にも天井に届きそうだ。

「こちらとこちらは、お客様がすぐに着られるということで、値札も切ってしまっておりまして――」

 困り顔を張り付けたアパレル店員が、ホットパンツと白いTシャツを掲げている。あと、薄いピンクのスニーカーも見える。

 響は震える手で財布を取り出した。今朝の喫茶店での出費で、残金は一万を切っている。

「じゃ、じゃあそれだけ払います……」

「かしこまりました。八千二百八十円になります」

「八千!?」




「だからゴメンてば。あんなに高くなるなんて、思わなくて」

「……思わなくて!?」

 響は光より早く振り返った。怒りが可能にした速度だった。頭の中で、脳みそが周回遅れでついてきた。

「お前なぁ、少しはオレの話を聞けよ!おかげでお前の嫌いなネカフェに逆戻りだ!金もほとんどなくなるし」

「それは……ごめんなさい」

 心音はしゅん、と膝を抱えていた。ここは手狭なペアシート。響たちは、昨日のネカフェまで歩いて帰って来ていた。残金はついに三桁に突入した。

「私、自分でお買い物するの初めてだったから、嬉しくて、つい……」

 足先の丸い爪を磨きながら、心音はしょんぼりと言った。

 響はまた怒れなくなる。毎回毎回、このお嬢様には初めてが多すぎる。知らなかったこと自体を叱っても仕方ないし、それはたぶん、心音のせいじゃない。

 とは言え、このままではマズい。現時点では、明日の朝食代すらない。キーボードをどかし、空いたスペースにノートを開く。白紙のページをペン先で何度もつつき、その度に唇を舐める。

「……ルールを決める」

 考えをまとめた響は、お尻で回転する。

「ルール?」

 膝に顔をうずめていた心音が、おずおずと頭を持ち上げる。

「たしかに心音の歌はすげえ。それは認める」

「ほんとう!?」

 心音の顔が輝くのは分かっていた。だから、響はそれより早く人差し指を上げた。

「ただし、今日みたいな使い方をされたら金がいくらあっても足りねえ。今後はルールに沿って出費してもらう。いいな?」

「えー、でも……」

 心音の顔が曇るのも分かっていた。だから、響はそれより早く念を押した。

「い!い!な!」

「……はい」

 わかったらシャワー浴びてよし、と言い、響は最後の小銭を心音に渡した。ありがと、と心音が出て行った後、自分はボディーシートで体を拭いた。ため息だけはつかせてもらった。




 翌日、心音は朝から歌っている。頭上の通天閣の窓が、朝日を反射している。それより眩しいのは、ホットパンツから伸びる心音の太ももだ。

 響は柱の陰から心音を見守っている。

 心音は反省したのか、気持ちを切り替えたのか、アップテンポな曲を見事に歌い上げている。朝早い時間だというのに、ぞろぞろと人が集まってくる。


 宣言通り、響はルールを決めた。

 〇ルール1、売上金の管理は全て響が行う。

 毎日の宿泊代、食費、入浴に洗濯。これから先、違う土地に移動もしなくてはならない。全て計画的に使う必要がある。

 必要最小限の出費に抑え、無駄遣いは一切しない。

 おかげさまで、この日以来、ビジネスホテルに泊まることができている(身分証を求められた時は兄の免許証が役に立つ)。ただし、一番安い部屋を選ぶため、ベッドは毎回セミダブルだ。

「絶対いや!」

 おさげを逆立てる心音に配慮し、響はソファで寝ている。


 大阪から京都へ。京都駅は大きな芸術作品のようで、窓の数を数えていたら一週間はかかりそうだった。

 声の通りがいいのか、心音はものすごく清々しい顔で歌っていた。大阪よりも外国人の比率が多く、その分、チップをはずんでくれる人も増えた。残念だったのは、若干海外のお金が混じっていたことだ。


 〇ルール2、常に移動する。

 警察に行方不明届けが出されている以上、一か所に留まるのは危険だと判断した。歌を披露し、一泊した後は、次の街へ移動する。バスや電車を使い、少しずつ東へ。

 夏の炎天下で歌うせいか、響には、心音が少しずつ疲弊していくように見えた。スポーツドリンクを常備し、ことあるごとに飲ませたが、それでも心音は移動の最中にこっくりこっくりボートを漕ぎ始め、ひどい時には響の肩にコロンと頭を乗せるのだった。響はその度に全身の毛を逆立て、膝の上に乗せたリュックを千切れるほど抱きしめた。そうすることで、自分の中にある、押してはいけないスイッチを押せないようにしていた。

 陰で見ている自分が汗臭いのに、なぜ日向で歌う心音から花畑のようないい匂いがするのか、いつも謎だった。そしていつも、寝起きの心音に張り倒された。

「なんで起こしてくれないの!変態!」

 こっちの苦労はみじんも考慮してもらえなかった。


 京都から滋賀へ。琵琶湖は大きすぎる鏡のようだ。大空と入道雲を写している。対岸が見えないせいで、一瞬、海と勘違いしてしまう。

 仕事を終えた後、二人して靴を脱ぎ、湖畔で水を蹴る。心音がばしゃばしゃとかけてくるので、響も全力で応戦する。口に入った水がしょっぱくないのが、不思議な違和感となって残る。びしょびしょになるまで、疲れ果てるまで遊ぶ。


 〇ルール3、生活必需品の購入は、都度申請すること。

 響にはよくわからなかったが、年頃の女の子には色々必要なものが多いらしかった。どうしても欠かせない生理用品、肌のメンテナンスのための化粧水、日焼け止めクリーム、リップクリーム……心音は次々とあれを買おう、これを買おう、と言い出すため、何をどのように使うのか、詳しく説明をさせることにした。時たま必要でない物を紛れ込ませてくるため、対応は慎重を要した。

「ケチ!」

「ケチッ!」

「ケー!チー!」

 いったい、その美しい声で何度罵られたのか、響はもう覚えていない。


 滋賀から三重へ。伊勢神宮へ参拝してみる。生えている木々の幹は、響の胴よりもはるかに太い。神社と言うより、古(いにしえ)の森に迷い込んだ感覚に陥る。大きな鳥居をくぐる度、空気の重さが変わっていくのを感じる。響も心音も、厳かな雰囲気に圧倒されてしまう。

 このころから、仕事につまずき始める。もちろん、心音の歌の素晴らしさは相変わらずだ。歌声も、歌の内容も日本一、いや世界一だと響は太鼓判を押す。

 変わったのは人の数だ。伊勢神宮周辺や先日の琵琶湖が一大観光地とは言え、大阪や京都などの大都会に比べればどうしても劣る。収入は明らかに目減りしていく。


 〇ルール4、食べるものは自由に選ぶ。

 響は「野菜を取れ」と口を酸っぱくして言ったが、心音がそれではあんまりだと泣きついてきた。歌を頑張ったのに、ご褒美が無いとやり切れない、というのだ。それもそうかと思いなおし、渋々ながら了承した。

 その日の売り上げに応じた食費を、響が渡す。心音が選ぶのはもっぱらジャンクフードで、ハンバーガーや牛丼、ラーメンなどを好んで食べた。これがまた、「おいしいおいしい」と言いながら食べるのだ。響には、心音が未知の世界を開拓していく冒険者のように見えた。ケンタッキーでほっぺたを鳥の油まみれにした時も、どこか楽しんでいるようだった。

「なに、響も欲しいの?だーめっ!」

 心音がコロコロと笑っているのが、なぜか自分のことのように嬉しかった。


 歌う回数が増える。多いときは一日に八回も歌う。それでも収入は一向に増えない。ヤンキースのキャップ帽が泣いている。

 心音は以前のように楽しそうに歌うことが無くなった。歌声は透明感を失い、表情も暗い。あれだけ聞き入っていた鳥たちは姿すら見せず、太陽は体力を奪う以外に仕事をしなくなる。

 響は貯金を切り崩しながらなんとかやっていく。

 

 〇ルール5、約束を守ること。

 お互い、価値観が違いすぎてケンカばかりするのは目に見えていた。

 だから、どれだけ感情が昂っても、四つのルールを守ることにした。響と心音が逃げ延び、生きぬく上で、四つのルールは(響的には初めの三つだけだが)どうしても外せないからだ。

「ホンットに守るの?」

 心音は怪訝そうな顔をしていた。

 最後の絆創膏を外しながら、響は言ってやった。

「オレはなぁ、絶対に約束を守る男なんだよ、覚えとけ!」

 そうして、日々は過ぎていった。




 朝、今日は三重を発つ日だ。

 ビジネスホテルの小さな机で、響は難しい顔をしていた。目の前には残金の書かれたノートが開かれている。

 心音の姿はない。代わりに、ケホ、ケホ、という音が洗面所から聞こえてくる。絶対に聞かれまいと、押し殺したような咳だ。

「心音ー?風邪か?」

「んーん!」

 気にかけてやると、すぐさま否定の言葉が返ってくる。ガチャリ、と扉が開かれ、イーッと白い歯を見せた心音が出てくる。

「ちょっと歌いすぎて、喉がイガイガするだけ」

 これでわかるでしょう?と言いたげに喉元を押さえているのが気に入らない。響は小さな声で毒づいた。

「んだよ、人が心配してやってんのに。はあ……」

 ノートにはあえて赤い字で残金を書いている。危険域に達していることを、視覚的に表すためだ。ベッドに腰掛けている心音の顔をチラリと盗み見る。浮かない表情だ。ここ最近はずっとそうだ。歌うのにも疲れているみたいだし、金はないが、気晴らしも必要か。

「なぁ、心音」




「え?どうして?急に?」

 長らく続いてきた緊縮生活が突然緩和され、心音は戸惑っているようだった。響が偽物にすり替わったのではないか、と疑うように、全身をジロジロ見てくる。

「せっかくこっちまで来てるんだし、フェリー乗る前にちょっと寄ってみようぜ」

「……お金大丈夫なの?」

 響が朝一で買ってやった龍角散のど飴をコロコロなめながら、心音は言う。心音は残金が減少傾向にあることを敏感に感じ取っているようで、この飴一つ買うだけでも、かなりすったもんだした。

『いーらーないっ、てば!』

『いーからなめとけって!』

 響としては、最近歌いすぎの心音に少し羽休めして欲しいだけなのだが――

「なんでどうでもいいとこで遠慮すんだよ」

「なにか言った?」

「いーや、なんにも」

 響は明後日の方向に吠えた。しかし困った。頑固な心音は、一度言いだすと聞かない。何かうまい言い訳を考えなくてはならない。

 恥ずかしいが、腹をくくる他あるまい。

「オ、オレさ!どーしても見たいんだ!かわいいアザラシ!」

 えぇ、と心音の口から声が漏れた。ガラス玉のような瞳は、明らかに軽蔑の光を宿していた。




 恥をかいてまでやってきたのは鳥羽水族館だ。展示生物の数は日本屈指となる約1200種類。あっちを見ても、こっちを見ても、大小さまざまな水生生物で溢れかえっている。

「響ってぇ、意外とお子様?」

 と、響をバカにしていた心音だったが、なにがどうして、いったん中に入ってしまえば、可愛い動物にはしゃぐ、どこにでもいる女子高生だ。ガラス越しにオットセイと会話したり、ペンギンの行列についていったりしている。

 響にとっては、久しぶりに見る心音の笑顔だ。少しほっとしながら、その横顔を見つめて歩く。

 さんざん悩んだあげく、響は土産コーナーでぬいぐるみを買った。心音が一番気に入っていた(ように見えた)、カピパラのぬいぐるみだ。水族館なのにカピパラに惹かれるとはこれいかに。しかし、一食我慢すれば買える値段だったので、昼飯を食べたふりしてこっそり買った。腹は鳴ったが、聞こえないふりをした。




 響は鳥羽港で愛知行きのフェリー券を買った。

 二枚のチケットを手に戻ると、待合室のくたびれたソファで、心音が静かに待っていた。

「大丈夫か」

「うん、ちょっとね」

 フェリーに乗った心音は、甲板で潮風に当たっていた。手すりに寄りかかり、流れていく伊勢の島々を見つめている。半開きになった小さな口から、ため息だけではない何かが漏れ出ているようだった。

 響は少し離れたところから心音の後ろ姿を見ていた。 

 天真爛漫な心音は、響の言いつけを聞かないことがままある。

 最近では振り回されるのが当たり前になっていたが、それをどこかで心地良く感じてしまっている自分もいた。

 それもこれも、全部あいつの歌が悪い。

 あんなに神秘的で、情熱的で、綺麗な歌、他じゃ絶対に聞けない。世界でたった一つの、かつ、一番の歌。世界中で心音だけが、オレの魂に直接語りかけてくる。そんな気分に、よく陥ってしまうのだ。

 ブオォという汽笛の音とともに、浜風が吹いた。おさげがバサバサとはためき、心音は片手で髪を押さえていた。




 響たちは名古屋駅に降りたった。

 久しぶりの大都会だ。よくわからないとんがり帽子のようなオブジェや、ねじれたデザインのビルが見える。

 困ったのは天候だ。電車の中から既に見えていたが、あいにくの雨だ。それも、ザアザアと音を立てるほどの雨だ。アスファルトを真っ黒に輝かせ、あらぬ方向にぴちゃぴちゃ暴れまわっている。

「すげえなあのビル、ねじれてるぞ」

 折り畳み傘の準備をしながら響はつぶやく。

「……うん」

 心音の返事は暗い。

「あっちなんか、窓が互い違いに見えるぞ」

「……うん、そだね」

 やはり、返事が半世紀遅れでやってくる。

「どうした、水族館ではしゃぎすぎたか?仕方ねえって、雨なんだし。今日はもうどっかに泊まろう」

 傘のカバーを外すのに忙しくて、響はこの時まで心音の顔を見ていなかった。なぜ気付かなかったのだろう。心音が、水族館を出てからずっと、この世の闇を全部詰め込んだような表情をしていたのに。

「……どうやって?お金ないのに?」

 雪女かと聞き間違うほど冷たい声に、響はピタリと手を止めた。背筋が凍り付いたような気がした。

 心音の顔は静かな怒りに支配されていた。こんなに美しいものを、響は生まれて初めて見た。絶句し、おののくほどの。

「……な、なんて?」

 冷や汗が首筋をなぞる。

「気付いてないと思ってるの?残りのお金、もうほとんどないんでしょう?」

「少ないけど、別に今すぐ無くなるってわけじゃない。心配すんな、オレがちゃんと管理して――」

「ウソつき……!」

 心音の声が、響の胸を貫いた。地を這うような、低い、重たい声だった。響は折り畳み傘を取り落とした。通行人が皆立ち止まり、土砂降りだった雨までもが、足を止めたように静まり返った。

 ジー、という耳鳴りと、バクバク主張する心臓の音、二つの異音が頭の中を埋め尽くし、響は正常な思考ができない。

「……ウソつき?オレが?」

「隠してるつもりなの?私、響が今日お土産コーナーで買いものしたの、知ってるんだから」

 血の気が引く。とっさに、ぬいぐるみを隠したカバンに手が行く。

「いや――あれは――」

 必死に弁明の言葉を探すが、混乱する頭では別のことばかり考えてしまう。バレた?いや、それよりも、見られていた?どこで?

「私には無駄遣いするなって言っておいて、君は好きなもの買うんだ。自分ならお金管理できるって言っておいて、いきなり水族館に行っちゃうんだ」

 心音の非難するような視線が、鋭いナイフのように突き刺さってくる。グサリ、グサリ、と容赦ない音がする。

「違う――そんなつもりじゃ――」

「何が違うの……?全部響が言ったことじゃない。全部響の思い通りじゃない……。私が稼いだお金を、君が、君の好きなように使ってる!」

 響は息のつまる苦しさと、肌を剥がれる痛みを同時に感じていた。そんなつもりじゃなかったのに、言い返すことができない。心音の言葉が、真実という重みを背負って体当たりしてくるのだ。

 なんとか状況を打開しようと、ぬいぐるみの入った紙袋を差し出した。

「違うんだ、心音……なあ、聞いてくれよ、これは、お前の――」

「うぅ!」

 声にならない声で、心音は白百合のような手を振った。響の右手ははたかれ、持っていた紙袋が駅床のタイルに跳ねた。

 響は紙袋の行方を目で追う。転がり、滑り、アスファルトの上で止まる。土砂降りの雨にさらされ、表面に濃い染みができていく。そして、同じくぐっしょりと濡れた声で、心音が叫ぶ。

「私だって!いっぱい我慢してるのに!可愛いお洋服が欲しい!スマホも持ってみたい!遊園地だって、行ってみたかった!響が言ったから我慢してたのに、響が言ったから信じてたのに!」

 心音の、綺麗なガラス玉のような瞳から、こんこんと涙があふれていた。響は今になって知った。心音がどれだけ我慢していたか、心音がどれだけ辛い思いをしていたか、どれだけの力を振り絞り、どれだけの歌をうたってきたのか。積もり積もった我慢は、知らず知らずのうちに彼女の中のダムをいっぱいにしていた。たった一つのぬいぐるみを落とすだけで、溢れてしまうほどに。崩れてしまうほどに。

 そして今、崩れたのだ。

 崩したのだ、自分が。

「こ、心音……」

 おさげを振り回し、心音は走ろうとする。

「ちょ、待てって!」

 響は慌ててその肩を掴む。泣きはらした目が、こちらに向けられる。

「その手はなぁに……?私のことが心配なの?お金がなくなるのが不安なの?」

「あっ……」

 言葉に感情があるのだとしたら。

 心音の言葉は今、間違いなく響を刺し殺さんとしていた。

「そんなもの、私いらない!」

 響は心音を止めることができなかった。

 雨粒の中に涙を混じらせながら、心音は走って行った。

「やだなに、ケンカ?」

「こんなところで――」

「あーあー」

 通行人にどれだけ陰口を叩かれようとも、響は気にならなかった。心音に言われたことが、心音の言葉だけが、ずっと頭の中で響いていた。

 ショックだった。心音のためにと思ってやっていたつもりだった。心音はわかってくれないどころか、もっとひどい勘違いをして怒ってしまった。いや、泣いてしまった。

 勘違い?

 心の中で声がした。

 地面に投げ出されたカピパラが、大きな水たまりを作っている。黒いビーズの瞳から、次々と雨粒が流れ落ちていく。

 違う。勘違いじゃない。独りよがりの、思いあがった、そう、ただの自己満足だ。心音が本当はどうして欲しいのか、オレは聞きもしなかった。

「何してんだよ、オレ……!」

 カピバラに近づき、びしょびしょになったそれを拾い上げた。水を絞ることもせずカバンに突っ込み、響は走りだした。




「心音!心音ー!」

 雨の中、響は傘もささずに走っていた。車のヘッドライトが雨で乱反射し、まぶしくてかなわない。

 焦りが響の心を蝕んでいた。心音はスマホを持っていない。一度はぐれてしまったら、この大都会名古屋で、どうやって心音を見つければいい?もし警察に見つかってしまったら?――いや、それならまだマシだ――もっとたちの悪い奴に連れて行かれたら?オレのせいだ、オレのせいで、心音は――はやる気持ちで、名古屋の街を駆けずりまわった。

 大通りを走り抜け、商店街の方へ突き進む。ビルの背丈がぐんぐんと下がっていく。だんだんに薄暗い通りが増え、も目につくようになる。そして、どこだかわからないほど入り組んだ、裏路地の裏路地で――

「はっ!」

――心臓が止まるかと思った。見えたのだ、心音の、白百合のような手が。地面にダランと投げだされていた。

 もうすぐで通り過ぎそうになりながら、響は急停止した。ぬれた地面で足を滑らせたが、なんとかこけずに踏みとどまった。

「心音ぇ!」

 心音は、段ボールや空き缶、タバコの吸い殻、無責任に投げ捨てられた生ゴミ、そういったものでぐちゃぐちゃになった地面に横たわっていた。なすすべなく雨にさらされ、水死体のように水びたしだった。響は自分が汚れるのもかまわず、すぐさま駆け寄った。その小さな肩を抱き、膝の上に乗せた。

「心音!心音!……はっ……!」

 心音はうんともすんとも言わなかった。それどころか、顔を火照らせ、苦しそうに息をしていた。額に手をやると、火傷しそうなくらい熱かった。響は驚きのあまり手を離した。

 今朝、ビジネスホテルで聞いたケホ、ケホ、という音が脳裏によみがえる。絶対に聞かれまいと、押し殺したような咳だった。

『心音ー?風邪か?』

『ちょっと歌いすぎて、喉がイガイガするだけ』

 響はもう、いいかげん自分を殴りたかった。

「心音、お前……」

 なんでちゃんと聞かなかったんだ。

 なんでのど飴一つで満足してたんだ。

 自分が独りよがりなことを考えている間も、心音は、ずっと――

「どんだけ我慢してたんだよ……!」

 小さな女の子を抱きしめ、響は肩を震わせる。心音の顔を、水の粒が洗っている。

 ピチャ、と音がする。

 コツ……という硬い音も混じっている。

 二つの音は溶け合いながら、響の背中に近づいてくる。

 響は心音の姿を隠すように、その小さな体を抱きしめ、振り返る。誰かがいる。裏路地に差し込む街明かりのせいで、顔までは見えない。しかし、ワックスで固められた黒髪に、響は強烈な既視感を感じる。

「……お前は!」

 そこにいたのは、スーツを着て、白手袋をして、丸眼鏡をかけた、大変に長身な男だった。

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