第3章 ひとりぼっち

 五時限目の授業は家庭科だった。特別授業は二クラス合同で行われることが多く、家庭科の調理実習もそのうちの一つだ。少女と響は隣のクラスだったから、必然的に顔を合わせることになっていた。

「あー、クス子、ニンジン取ってくれよ」

 やや筋肉質な体に、恐ろしいほど不釣り合いな青色のエプロンをつけ、さっきの男の子はニンジンを要求している。青色の三角巾をかぶってはいるが、雑に結んだせいか、クセの強い黒髪があちこちからぴょんぴょん飛び出していた。

「んん、いいよぅぉ」

 よくわからない発音でニンジンを放り投げているのは、黒髪の女の子だ。オレンジのエプロンに黄色い三角巾を――ニンジンの渡し方はぞんざいだったが――きちんと装着している。

「さんきゅ」

 男の子はニンジンを片手でキャッチすると、ヘタと先端を大雑把な尺でぶった切った。

「あぁーっ!」

 クス子がすかさず叫んだ。

「なんて切り方するんだよ、もったいない!」

「へ?あぁ……」

「『へ?』じゃないよ。響ー、野菜と女の子は繊細に扱えって、昔っから言ってるじゃん!」

「野菜は初めて聞いたぞ……」

 仲睦まじい、というのはあぁいうことを言うのだろうか。あと、男の子はどうやら響というらしい。少女は隣のテーブルからこっそり観察していた。

 今日の料理はベタなカレーを嫌った教師により、ホワイトシチューとなっている。ルー以外にほとんど変わりがないということは、暗黙の了解により突っ込み禁止となっている。息苦しい座学と違い、わいわい楽しめる調理実習だからこそ、余計な紛議は避けたいと思う生徒が多いのだろう。

 そう、調理実習――友達と一緒に料理を作って、きゃあきゃあ言いながら食べる――本当なら、絶対に楽しいはずの時間なのに。


 包丁も、まな板も、食材も調味料もレシピを書いたプリントも、果ては盛り付け用のお皿さえ、少女の手の届く距離には無かった。


 もちろん、少女はいつでも参加できるよう、薄いピンク色のエプロンと三角巾をつけ、普段おさげにしている髪をポニーテールにまとめ上げ、髪が入ってしまわないように気をつけている。

 でも――

「私皮むくね」

「じゃあ私お水ー」

「なあ、鍋の蓋知らね?」

 誰も、話かけてはこない。

「うそ、そこにない?」

「マジマジ、見てみろって」

 誰も、誘ってなどくれない。

 ストン、ストン、とまな板を鳴らす包丁も、カチッという音の後に出てくるガスコンロの火も、きゅっと絞られる錆びた蛇口も……すべて、少女にとっては遠い世界の出来事に見える。幼いころに読んだガリバー旅行記と同じ、夢の中の、空想のお話に見える。

 少女は時々、透明人間になれたらいいのに、と思うことがある。誰からも見えず、触れることもできず、時たま聞こえてしまう呼吸音や足音でその存在が疑われたとしても、結局は見えない存在。

 そうであれたら、あぁ。こんな風に誰かとぶつかることもない。

「あっ!」

 調理の邪魔にならないように下がっただけのつもりだった。しかし、そのせいで隣の班の女の子と背中同士で衝突することとなってしまった。女の子は持っていたお皿を全部落とした。

 陶器の割れる不快な音が、六枚分いっぺんに轟いた。家庭科室はとたんに張り詰めた空気になり、教室内の生徒全員が一斉に手を止めた。手を止めて、少女の方を見ていた。

 少女は時々、透明人間になれたらいいのに、と思うことがある。

 そうであれたら、こんな風に奇異の視線を向けられることもない。

 少女は腰を屈めた。ぶつかってしまった女の子に手を差し伸べ、謝罪の言葉を口にした。

「あぁ……ごめんなさい、私――」

「ひっ!」

 女の子は顔を引きつらせ、床にお尻をつけたまま後ずさった。上履きでお皿の残骸を蹴散らしながら、全速力で下がっていった。そして、別の女の子の足もとにたどり着くと、ひしっと抱き着いた。

「ご、ごめんなさい白崎さん……!わっ、私が……よそ見してたから……!」

 ブルブルと震え、目に涙をいっぱい貯める女の子は、可哀そうなくらい怯えていた。少女はいたたまれない気持ちになり、そっと目を伏せた。泣き出したいのを必死にこらえ、割れたお皿の破片を一つ一つ、手に取っていった。

「あら、あら、どうしたの、あっ……」

 頭の後ろから声が聞こえ、少女は振り返った。そこにいたのは家庭科の教師だった。

 それでとりつくろったつもりなんですか、先生。

 その言葉を言ってしまいたくなるほど、教師の顔には引きつった後がくっきりと残っていた。

「白崎さん、危ないからいいですよ。それは私が片付けますからね」

「でも、先生――」

「大丈夫、大丈夫。ほら、怪我しちゃいけないから、それもちょうだい」

 教師は大黒天も真っ青な笑顔でそう言った。なんで、ちっとも怒らないの?なんで、そんなに笑顔になれるの?お皿の破片をひったくられながら、少女は一人で考えていた。




「は、はい、白崎さん」

 大きな白いお皿が、遠慮がちに差し出された。たっぷりのホワイトシチューで満たされていた。

「ありが――」

 少女の声は尻切れになっていった。お礼を言おうと顔を上げた時、お皿を差し出した主が既にいなくなっていたのだ。今は机の反対側で同級生に囲まれ、ほっと胸をなでおろしている。

「はあ」

 大きなため息をつき、少女は三角巾とエプロンを外した。

 パパっと食べて、自分のお皿を洗って、できる限り早くここから出て行きたかった。そう思って、使い古されたスプーンを握った時、隣の席から話し声が聞こえてきた。いや、話し声なら教室中から――少女を除く、教室中から――聞こえている。

「土日映画見に行こうぜ」

「いーけど……何見るん」

「そう言えばねえ、私、今日、歌姫の歌聞いちゃったかも!」

「えー、マジマジ?どこで?」

「廊下歩いてる時に!でもね、最後まで……」

「今日あっこよってかない?」

「どこー?」

「新しくできたって言ってたじゃん、この前」

 そんな中、隣の席に注目してしまったのは、それがいかにも、秘密結社の秘密会議のような重大さで執り行われる、ひそひそ話に聞こえたからだ。

「それで、今日も家出するの?」

「あぁ」

 家出――少女にとって、その響きはとても魅力的に思えた。その言葉が表紙に書かれた、大きな本が見える。めくるめく大冒険が、その本の中には詰まっている。そんな気がした。

 どうやら、家出の話をしているのは響とクス子のようだった。他の班員からすこし距離をとり、机の端っこに引っかかるように座っている。少女はスプーンでシチューをかき混ぜながら、並々ならぬ好奇心で二人の方を見ていた。

「問題は行き先でしょう?タケダって警察官、どうするの」

「あぁ……でも、新幹線使ったら生活費まで吹っ飛んじまう。何かいい方法を――」

「悩ましいねー。回数だけなら、確実に家出の達人に近づいてるのにね」

「うっせ、今日こそ成功させてやる」

「はいはい、期待してるよー」

 クス子はケラケラと楽しそうに笑っている。

「あとちょっとな気がするんだけどなぁ……」

 響の方はというと、心外そうに鼻を膨らませ、右頬の大きな絆創膏をポリポリとかいている。その姿が妙に様になっていて、少女は吸い込まれるように見てしまう。

 そうやってじいっと見ていると、響がスプーンをシチューにひたし、ひょいっと持ち上げ始める。大きな大きな口を開け、熱々のシチューを食べようとしている。

「あっ!」

 急に、電球が灯ったように響が叫んだ。

「あれなんてどうだ、ほら、深夜バ――あん?」

 右頬に絆創膏をした男の子が、ふいにピタリと固まった。あんぐりと口を開けたまま、こちらを見ていた。

 気付かれた!

 少女はすぐに目を逸らし、目の前のシチューに集中した。

「どしたの?響」

「いや……」

 少女は一心にシチューを見つめ続け、他人事を装っていた。二人の視線が右耳をチクチクと刺したが、それ以上の追及が来ることはなかった。

 余計なことしていないで、早く食べてしまおう。スプーン握る右手に力を入れ、少女は決意する。とろみがかった白い液体の中に、大きめに切られたニンジン、ジャガイモ、ブロッコリー、鶏肉が浮かんでいる。玉ねぎは溶けてしまったのだろうか、見つけることができない。使い古されたスプーンでひとしきりかき混ぜた後、鶏肉をすくい、口元へ運ぶ。

 きっと、おいしいものだと思っていた。

 何の味も感じなかった。




「お嬢」

 ひょろ長い声とともに、後部座席のドアが開かれた。少女にとっては、もう一度牢獄の中に収監されるという、あまり喜べない儀式だった。通学カバンを手に取り、引きずるようにして車を降りた。

「ありがと、ミロク」

 朝の言葉を切り取って貼り付けたように少女は言った。小学生の図画工作並みにぶきっちょな貼り方だった。それなのに、お礼を言われたミロクはうやうやしく頭を下げていた。それが余計に気に入らなかった。

 少女の家は巨大な日本家屋だった。響の住む一ノ瀬家が街で一番古い家だとするならば、こちらは町で一番大きな家だ。柱や壁の素材、瓦の一枚一枚に至るまで、財の限りを尽くしていると言える。道場なんてないのに、敷地はテニスコート四つ分はあるし、それだけの広さを全てカバーする、背の高い塀が建てられている。少女を送り届けた真っ黒なセダンは専用の車庫までブーンと走って行くのだが、二階建ての家屋が大きすぎて、車庫がどこにあるのか見えもしない。

「おかえりなさい、お嬢」

 そして、金をかけているのは建築物だけではない。玄関の先にはスキンヘッドにスーツの大男が立っていて、今まさに、少女にぺこりと頭を下げている。

 少女は眉間にシワを寄せ、豪華な装飾の施された玄関扉をくぐった。これは自動ドアではないが、スキンヘッドが開けてくれた。

 家の中に足を入れた瞬間、ひんやりとした殺気が少女を包み込んだ。思わず身震いし、自分で自分を抱きしめた。振り返ると、大きなおおきな門扉が、スーツの男たちによって閉じられていくところだった。外の世界が、門扉に押しつぶされるように消えていく。

「お嬢」

 まるで、「それ以上見てはいけませんよ」と言わんばかりに、スキンヘッドがその巨体で視界を遮ってきた。

 少女は顔をしかめ、怒りにまかせてローファーを脱ぎ捨てた。靴が真横になっても関係ない。だって、どんなに散らかしたって、スキンヘッドが靴箱に入れてくれるのだから。

 中の見えない襖が延々と並ぶ、板張りの廊下。どれだけ強く踏みしめても、ミシ、ともギシ、とも鳴らない。実はコンクリートでできていると言われても、ちっとも不思議ではない。

「お嬢」

「お嬢」

「おかえりなさい、お嬢」

「学校はどうでしたか」

 家の中はスーツを着た人で溢れかえっている。自分の部屋まで戻りたいだけなのに、すれ違うたびにかしこまった挨拶を投げられる。それも、少女のためにわざわざ道を開けてまで。

 少女は全部のボールを無視して歩く。受け取ったって、投げ返したって、何かが変わるわけじゃない。この人たちは、私を気遣っているわけじゃない。そうでなくちゃ、毎日無視されるのに、毎日話しかけることなんてできない。

「おや、帰っていたのか」

 自分の部屋まであと一部屋というところで、恰幅のいい男に会った。油まみれの声が不快で、少女は立ち止まった。この家にあって、少女に道を譲らないのはこの男だけだった。

「おかえり」

 男は目じりのシワを濃くしながら言った。白髪交じりの髪をオールバックにして、サンタクロースみたいな口髭を蓄えて、大きな腹を高級なスーツでひた隠し、金色の腕時計で全体のバランスを図っているようだった。

「ただいま、パパ」

 認めたくないが、この男は自分の父親だった。たとえ全身の毛が逆立とうとも、唇がストライキを起こそうとも、言葉を交わさなければならない相手だった。少女は辛らつな声で返した。

「学校はどうだった」

「宿題あるから、またあとで」

「そうか、頑張るんだぞ」

 父親の顔が満足そうに緩んだのを確認し、少女は再び歩き出した。カバンを握る手が震えていた。




 ようやく自分の部屋に戻り、少女は大きなため息をついた。カバンをおろし、勉強机に肘をつき、すぐに突っ伏した。

 ここは二階だ。六畳一間の中に、勉強机とベッドが押し込まれた窮屈な部屋。窓際に飾られた小さなドリームキャッチャーが、入って来る風に揺れている。外ではチチチ、と鳥が鳴いている。どんな鳥なのか、少女は見たことが無い。

 少女はおもむろに立ち上がり、部屋を後にした。向かったのはすぐ隣の部屋だった。襖を開くと、この家で一番洋風な空間が広がっていた。

 だだっ広い、二十畳はあろうかという和室。あまりに広すぎて、部屋の出入り口が東西二箇所に設けられている和室。その中心に、神様のような存在感を放つグランドピアノが置いてある。それ以外は何もない。

 グランドピアノの蓋は固く閉じられていて、今は使われていないことがわかる。それにしては不自然なほど手入れが行き届いていたが、少女は何の疑問も持たずに近づいて行く。

「お母さん……」

 ホコリ一つない鍵盤蓋の上に置かれた写真たてに、少女は触れた。写真には一人の女性が写っていた。少女が大人になったら、きっとこの写真と瓜二つの美女が誕生するのだろう。それほどまでに似ていた。

「お嬢」

 ひょろ長い声が聞こえ、少女は写真たてから手を離した。この家ではいつだって、みんなが自分の邪魔をする。

「大丈夫ですか」

 入ってきたのはミロクだ。一切無駄のない動きで襖を開け、最短距離で近づいてきた。

 少女はこのお付きがあまり好きではなかった。いつも――学校以外では――びったりついてくるし、頼んでもいないのに色んなお節介を焼いてくる。その全部を無表情でやりぬく様は、見ていて非常に気分が悪い。

「……別に」

「では、お勉強の方を。アイスティーをお持ちします」

「いらない」

「コーヒーの方がよろしかったですか?」

「いらない!」

 甲高い声が天井を叩き、ピアノの蓋を震わせた。写真たてがカタカタいうのを、ミロクが運命さだめのように見つめていた。

「ではなんなりとお申し付けください。お嬢の欲しいものを持ってまいります」

 ミロクは臆することもなく、取り繕うこともなく、ひょろ長い声で淡々と言った。その姿に腹が立って、少女はまた大声をあげる。

「私が欲しいのは一つだけ!わかるでしょう?」

 自分の心臓を鷲掴みにして、少女は訴える。

「なんでもっていうなら――」

「お嬢」

 ミロクの表情は変わらなかった。あっという間に少女の足下に歩み寄り、写真たてに手をかけ、パタンと倒してしまった。

「それだけはできません。白崎の掟です」

 少女は唇の端を噛んで悔しがった。誰も自分の気持ちをわかってくれない。誰も私を自由にしてくれない。お嬢、お嬢、と決められたように呼ぶだけで、心の底から私を気遣ってくれる人なんて一人もいない。

 これだから、この家は大嫌い。その言葉を飲み込んで、肩を怒らせながら部屋を後にした。

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