第2章 夏

 三か月後、この時は夏服に変わっていた。

 響はうだるような夏の暑さに耐えきれず、扇風機とうちわのダブルコンボで頭を冷やそうとしていた。

「あー」

 うまくいかない。冷凍庫からくすねてきたソーダアイスも加え、トリプルコンボで体を冷やそうと試みたが、やはりうまくいかない。

 諦めてアイスの棒を放り投げ、シャーペンを握った。数学というものは不快だ。柔道で使うことはおろか、日常生活でも顔を出さないときた。だいたい、シリに聞けば割り勘だって余裕な時代なのに。

 畳に着弾したアイスの棒にアリが群がるまで、響はノートと睨めっこを続けていた。

「おい響」

 襖を開けて入ってきたのは響の兄だ。顔つきこそ響に似ているが、背が高く、肩幅が広く、首は丸太のように太い。響も鍛えてはいるが、生まれつき骨格が違うのだ。どう頑張ってもこうはなれない。

「響」

 響は黙って宿題を睨み続けた。手が動いていないので、問題を解いていないのは目に見えて明らかだった。

「響」

「あー!」

 実兄の野太い声が耳障りだった。響はシャーペンを振り回し、畳に背中を投げだした。

「帰ってきてるなら言え。着替えて道場にこい」

 それだけ言うと、野太い声は遠ざかっていった。

「宿題」

 古い木の天井を見ながら、響は最後の抵抗を試みた。

「いいから来い!」

 遠くから帰ってきたのは、やはり野太い声だった。

 響はアイスの棒を拾い上げ、群がるアリごとゴミ箱に捨てた。




 響の家は古い日本家屋で、すぐ隣に道場が併設されている。この家屋構成が示す通り、一ノ瀬家は代々、町の柔道教室で食ってきた家系だ。すなわち、その家族も漏れなく道場関係者となる。

 毎日毎日、兄の練習台にされ、響は心底嫌気がさしていた。ばしん、ばしーん!と、情けなく投げられるのはこれで十四度目だ。擦り切れた畳に左頬から墜落し、摩擦による熱さに顔を歪めた。

「おら、早く立て!そんなんじゃいつまでたっても俺に勝てないぞ!」

 野太い声が耳障りだ。響は畳に背中を投げだし、オリンピック級の胸板を睨みあげていた。

「別に兄貴に勝ちたくてやってるわけじゃねえし」

「あぁ?何か言ったか?」

「別……にっ!」

 腹筋と背筋、体のばねを使って飛び起き、響は兄に組み付いていった。

 奇襲をかけたつもりだったが、十五度目の敗北を味わうだけだった。




 夜も更け、家に帰ってきた響は、夕食にありついていた。

 今日の献立はごはんとみそ汁、ほうれん草のおひたしに鮭の塩焼き、茄子の小鉢と菜の花の和え物、それと、ぬか漬けが少々。

 投げられすぎて体の節々が痛い。受け身を取れと兄は言うが、受け身を取ったところで何十、何百と投げられれば人の体はいつか壊れる。畳で擦り切れた左頬もヒリヒリが止まらない。

「こら、肘をつかんの」

 はす向かいにいる母親から叱責が飛んでくる。

 左隣にいた兄も、すかさず追撃をかましてくる。

「お前高校生にもなって何しよんじゃ。やめえ」

 由緒ある家であるせいか、礼儀作法に細かいのが一ノ瀬家だった。響はそれが大っ嫌いだった。むすっとした顔で肘をおろし、白米をもしゃもしゃと噛んだ。

 唾液と混ざったデンプンが、じわっと甘くなるのを感じながら、こんな家早くでてやりたいと強くつよく思った。




 翌朝、これは水曜日の出来事だが、響は急いで身支度を整え、堅苦しい家から抜け出した。何故か右頬に、大きな絆創膏が貼られていた。

 目指すは山の上に位置する高校。学生たる響が、毎日のように通わなければならない場所だ。

 なだらかな坂道を、大勢の生徒が登っていく。ある者は歩いて、ある者は自転車を押して。一部の元気のいいやからだけが、自転車の立ちこぎでぐりぐりと登っていく。

 響の家は高校からまあまあの距離があるのだが、体力作りにちょうどいいという理由から、自転車の購入は見送られていた。故に、せっかくの夏服も意味をなさず、響は汗だくになりながら歩いていた。

 なぜこのような位置に校舎を建てたのか、授業をよく聞いていない響には一寸の理解も及んでいなかったが、実は、この地域一帯は山が多く、平地がとても貴重なのだ。これは小学生のころから社会の授業で散々言われてきたことだし、おそらく、高校でも地理の授業で言うはずだ。柔道少年がいつその事実に向き合うのか、なかなか難しい問題である。あるいは、古くから街に根付き、だだっ広い敷地に道場までこさえている一ノ瀬家であるからこそ、気付けなかったのかもしれない。

 ともかく、響は一度立ち止まって、顎先の汗粒を右腕でぬぐい、もう一度歩き出した。

 ちょうどその時、

「おっすん、響」

頭の後ろから、おっさんのような喋り方で声をかけられた。口ひげを生やした中年男でもいるのかと思ったが、ところがどっこい、声色はいたくカラフルだった。

「ぉあ、クス子」

 クス子とは、響より頭一つ分小さい女の子だった。響の目線だけの挨拶にも機嫌を悪くすることなく、奥二重のまぶたからどんぐりのような瞳を覗かせ、テンションの高い犬のようにグフフと笑った。

「あー、今日も暑そうだねぇ、扇いだげよっか」

「いーよ、おかまいなく」

「あっ、そーお?」

 響が遠慮すると、クス子はカバンから取り出した扇子を自分のために使った。セーラ服にかからないよう、肩の長さで切りそろえている黒髪が、サラサラと風になびいている。

「眠そうだね」

 クス子は響の目元を見て言った。高校生という生き物は、勉強遊びに部活に恋、やることが多すぎてよくよく不眠に陥る癖がある。響の場合、勉強と恋そのうちの二つが欠けているはずなのだが、いったいぜんたいどういうことだろう。

「まあな。ふわ~あぁ」

「また失敗したわけだ、じゃあ」

「うっせ!」

 二人だけで話を進められても困るので、きちんと記しておこうと思う。




 時間は巻き戻って昨夜、これは火曜日の出来事だ。右頬の絆創膏はまだない。

 憂鬱な夕食を終えた響は、こっそりと家を抜け出していた。

 英字の入ったTシャツに迷彩柄の短パン、黒いサンダルといういで立ちだ。手荷物は黒い、小さめのショルダーバッグ。その中には、二日分の着替えと財布、財布の中にはありあわせの現金三万六千二百十四円が入っている。

 夕食時、米の咀嚼中にこんな家早く出てやりたいと思っていた響だが、別に手をこまねいているわけではない。思ったことをすぐさま行動に移せるのが若者のいいところだ。

 お察しの通り、このころの彼は毎晩のように家を抜け出し、街からの脱出、ひいては一ノ瀬家からの脱出を画策していた。

 自転車を持っていないので、三十分ほど歩いて駅まで向かい、改札入り口の電光掲示板を見上げた。東に行くか、西に行くか、行き先と出発時間を吟味し、ICOCAを取り出した。

 死んだような顔をしたサラリーマンたちは、何食わぬ顔で改札をくぐっていく。規則正しい速度で、リズムで、誰一人つまずくことなく、ピッ、ピッ、とスマホやICカードを鳴らすのだ。高校生の響には、訓練されたゾンビの集団に見えた。

「よし」

 震える手でICOCAを持ち上げ、改札機に叩きつけた。

 これでゾンビの仲間入りだ。




「……ふう」

 駅のトイレで、響は顔を洗っていた。

 つい十年前に建て替えられた駅舎は、いまだにトイレの隅っこまでピカピカの光を保っている。自分の置かれた境遇とかけ離れた清潔感のせいで、どうにもこうにもなじめない。

 そうだ、じめじめとしたオレの気持ちなんて、誰も理解しちゃくれない。

 鏡に写った自分の顔を見つめながら、響はそう思っていた。

 



 電車はギィギィと車体を揺らし、真っ暗な線路上を走っていった。次第に線路の数が減り、上下線がお互いに駅ですれ違う、単線のエリアに入っていった。

 乗車してから一時間はたっただろうか、響はようやくホームのコンクリートを鳴らした。プシュゥ、と閉まったドアが体の左後ろを流れていく。

 聞いたことのない駅名、見たことのない景色、極めつけは駅員がいない。大都市に住んでいるわけではない響にとっても、これは新鮮なことだった。

 ホームにわずかに設置された街灯が、蚊やらハエやら蛾やらをしこたま集めている。それを見て、響は思う。人も虫も、明るいところにいざなわれるのが習性というもの。つまり、その逆を狙って田舎に来た自分は極めて有能なのだ。

「……よし」

 夏の深夜の生暖かい空気をたっぷりと吸い、響は自信をみなぎらせた。

 今日こそ、うまくいきそうな気がする。と、思っていたが、

「よぉ、少年」

世捨て人並みにすさんだ声が、十六の少年に敗北を突きつけた。

「げっ」

 響の額から流れた汗が、ホームのコンクリートをうがった。

 話しかけてきたのは三十前後のおっさんだった。固そうな黒髪を縦横無尽に伸ばし、無精ひげを生やし、無人のはずだった駅の、無人のはずだったベンチに腰掛けていた。

「今日はどこまでおでかけですかぁ」

 男に茶化され、響は胃の中をぐるぐるにかき混ぜられたような不快感を覚えた。ゲップをこらえながら返事を絞り出した。

「ど、どこでもいいだろ」

「どこでもいいが、あと七分で補導時間だぞ」

 男は無精ひげをジョリジョリと撫で、腕時計を見ながら言った。ロレックスだかオメガだか響にはわからなかったが、とにかく高そうな時計だった。チタンの光沢は、街灯の少ないホームでも高級そうな光を反射していた。

「七分で帰れんの、少年」

 不思議なのは、時計とは正反対な男の服装だ。薄緑色のポロシャツをアイロンもかけずに着用し、擦り切れたチノパンはいったい何年同じものを履いているのか、考えるのも恐ろしい。

「うっせーな!あと七分は何してもオレの自由だ!つけっ……、つけてくんなよ!」

 響はゲームに出てくる検事のように、男のよれよれの胸元を指さした。さっと向きを変え、無人の改札にICOCAを叩きつけ、ホームから外に出た。

「お前がどこに行くのも自由なように、俺がどこに行くのかも自由だ。止めてくれるな少年」

 男はベンチをきしませながら立ち上がり、響と同じように改札を叩いた。気だるそうにポケットに手を入れ、響の三歩後をついて行く。

 シュボッと音がした。その音で、響は男がついてきているのを感じ取っていた。男が吸っているタバコの銘柄だって知っていた。メビウスだ。アイコスやグローが流行ってなお、この男は紙巻きたばこを愛用していた。

「くそっ、くそっ……!」

 駅を出たはいいが、どこに何があるのかさっぱりわからない。細い国道を挟んでローソンがある以外、どこにも建物がない。あとはJRの線路沿いにうっそうと生い茂る雑草が、ざわざわと唸っているだけだ。

 アブラゼミの鳴き声が暑い。ジージーとまとわりついてきて、響の背中をぐっしょりと濡らす。

 響はセミたちにせかされるようにスマホを取り出し、グーグルマップを開いた。わかったことはニつだ。ローソンから山側に登ると、住宅街になっていること、そして、隣町までは歩いて四十分以上かかるということ。

「……」

 響は諦めて立ち止まった。ちょうど、ローソンへ渡る横断歩道の前だった。

「はい、十一時ね」

 そんなすさんだ声で告げなくてもいいのに。メビウスの煙に巻かれたわけでもないのに、響は強烈なめまいに襲われてた。

 国道を走る数少ない車のヘッドライトが、うなだれる響をハイビームで照らしていた。




「このかばちが!」

 ベチン!と大きな音が鳴り、右耳の鼓膜を貫いた。ついでに右頬が爆ぜた。

「うげっ!」

 響は畳の上に背中を投げだした。自分からいったわけではなかったので、思いっきり背中を強打した。受け身を取れと兄は言うが、実の父親に殴られたのだ。受け身うんぬんより右頬が痛い。

「おんどりゃぁ、これで何回目じゃ!」

「俺が知ってるだけで十八回、かな」

「お前は黙っとらんか!」

 父親と兄の声をぼんやりと聞きながら、響は天井を見上げていた。昼間は気にならなかったが、天井の木組みはかなりガタがきている。古い木材はところどころヒビが入っているし――手入れも掃除もされていないのだろう――ホコリや蜘蛛の巣があちらこちらにへばりついている。

「まぁまぁお父さん、今日も何事もなかったわけですし」

 道場の入り口の方から、男の声が聞こえてくる。言葉の内容こそ気遣いを見せたが、結局は他人事だ。他人事でなければ、どうしてあんなに抑揚のない声で話すことができる?男にとって、響の補導などアイスの棒に群がるアリに同じ。何の感情もなく、ただ、ただ、見つけては捕まえる。捕まえてゴミ箱に投げ捨てる家族にぶん投げる

「タケダさん、いつもすいません。息子がご迷惑をおかけしまして」

「いえいえ、仕事ですから」

 父親が頭を下げている音が聞こえる。つい数秒前まで鬼の形相で怒っていたのに、この変わり身の早さは結局、町唯一の道場主としての体裁を保つためのものだろう。

 響は体を起こし、右頬を拭った。焼いたもちのように腫れ上がっていた。

 立膝をついて聞いていると、響の視線に気付いたのか、タケダがこちらに目を向けた。

「響君、今日も無事でよかった。もう夜うろつくなよ。お巡りさんは心配なんだ」

 タケダの目は薄ら笑いで震えていた。まるで、プリンでいっぱいになった冷蔵庫を見る子供のようだった。

 それもそのはず、響の補導件数は近隣署で間違いなくトップ。生活安全課に所属しているタケダにとって、補導件数があがるほど嬉しいことはないはずだ。

 響はたちまち悔しい気持ちでいっぱいになり、そっぽを向いてタケダに答えた。とんできたのはもちろん、父親の罵声だった。

「なんじゃその態度は!お礼を言わんか!タケダさんに!」




 以上が響の寝不足の原因である。褒められた話ではないが、響はかれこれ数カ月もの間、同じようなことを繰り返していた。おかげで今ではタケダと旧知の仲だ。年は一回りも違おうかというのに、だ。

「なるほどねぇ、じゃ、昨日も十一時どまりか」

 扇子をパタパタとさせながらクス子は笑う。

「あー」

 響は不機嫌に鼻を鳴らすだけだ。右頬がかゆい。巨大な絆創膏の下に汗がはびこっている。かきたいのにかけない。もどかしい。

「それにしてもすごいよね、そのタケダって警察官。ぜーったいに響、捕まっちゃうもんね。次もやるの?」

「あぁ、こんなことで諦められるか」

「いいねいいね。いつかうまくいったら、教えてよね。校内新聞の記事にするから」

 クス子は人のよさそうな顔でニコニコしていた。記事にしたらバレるじゃん、と思う響だったが、数少ない理解者の機嫌を損ねたくなかった。反論の言葉は、アスファルトから立ち上る熱気と一緒に飲み込んでおいた。

「ちなみに……目下、取材中なのは謎の歌姫!」

 響が何も言わないでいると、クス子がここぞとばかりにノートを取り出した。あまりにも乱暴に引っ張ったので、カバンの端に引っかかってノートがしわくちゃになった。

「ぁん?歌姫……?」

 響はこの手の噂にさして興味がないので――というより、噂話が好きなのはだいたい女子の専売特許だと思っている――適当に聞き流すことにした。

「休憩時間になるとどこからともなく聞こえてきて、それはもう美しい声でうたうんだって。歌の内容はまちまちなんだけど、なんでも、一曲聞き終えることができると、幸福が訪れるだの訪れないだの!つまりだよ……?姿まで見ちゃった日には!いったいどうなっちゃうんだろうね!」

「知るかよ……」

 十五分ほど上り坂を歩き、ついに響たちの高校が見えてきた。校門は錆だらけで、あちこちはげて茶色になっている。校舎の外壁はコンクリートがむき出し、その上ポロポロと崩れかけ。山の上にあるせいで、グランドを作るスペースすらとれず、校舎のある敷地からさらに上に登ることで、ぽっかりとため池のように作られたグランドに行けるようになっている。不便なことこの上ない。

 しかも、まだ完全な到着とは言い難い。校門を入ってすぐのところに車回しが設けられていて、中心には、日本という国にありがちな小規模な庭園がある。その不必要な緑の向かい側に正面玄関が見えるのだが、ここは教師と来客専用。生徒が入る昇降口は、校舎をぐるりと回った裏側にあるのだ。

「でさ、歌姫の秘密を追ってるんだけど、まぁだぜーんぜん、尻尾も掴めなくて」

「ふうん」

 響とクス子は生徒の波にまぎれ、いつものように校門をくぐろうとしていた。

 その時だった。

「ちょっとはキョーミ持ってよー。手伝ってよー。校内新聞のアンケートでも、次期特集希望ダントツの一位で――」

 食い下がるクス子の言葉が、上品な重低音にかき消された。一台の真っ黒なセダンが坂を駆け上ってきたのだ。漆塗りでもしたかのように、艶のある黒だった。

 サスペンションが効いているのだろう、整備が行き届いていない坂道にも関わらず、セダンはなめらかな線を描いてくる。

「おっ、今日も社長出勤」

 扇子で口元を隠し、クス子がつぶやいた。

 その言葉につられるように、響も車の軌道を眺めた。

 セダンは響たちの真横を通過し、校門をすり抜けた。通過時の風で響の左腕がふわりと浮いた。

 車回しを歩いていた生徒たちはセダンの接近を敏感に感じ取り、蜘蛛の子を散らすように退避した。卒業式だって、こんなに完璧な花道を見ることはできない。

 セダンはペン習字のお手本をなぞるように、庭園の外周を綺麗に回った。そして、トメ、ハネをしっかりと表現するように、正面玄関前にピタッと止まった。

 多くの学生が息を飲んで見つめる中、助手席のドアが――響の位置からはよく見えないが――開かれ、バム、と閉じられた。出てきたのは、眼鏡をかけた、大変に長身な男だった。黒くて短い髪はワックスで固められ、短いソフトクリームのように見えた。喪服よりも黒いスーツをビシッと着こなし、手には夢の国のマスコットのような白手袋がしてあった。男はスッと横にずれ、後部座席のドアを――これも、響の位置からはよく見えないが――開いた。ドアノブを引っ張る音すら感じさせぬ、柔らかく丁寧な、それでいて素早く無駄のない動きだった。

「お嬢」

 男は縦笛のようにひょろ長い声で喋った。車から出てきたのが人間でなければ、ヘビでも召喚するつもりだったのでは、と錯覚しそうだった。

「着きました」

 コツ……とアスファルトが上品に踏まれた。シャムネコのようなしなやかさで降りてきたのは、艶やかな黒髪をおさげにまとめた女子生徒だった。

「ありがと、ミロク」

 女子生徒が口を開いた瞬間、傍らの黒いセダンが、突然グランドピアノに見えてきた。夏服の短い袖口から見える色白の腕は、さながら真っ白な鍵盤だ。トーン、と子気味よく押された音が、正面玄関の自動ドアでまっすぐに跳ね返り、庭園に生えている松の葉の間をすり抜け、校門付近の響にすっと届いた。

 ミロクは無言で腰を折り、女子生徒を正面玄関へいざなった。

 女子生徒はミロクの方を見ようともせず、いや、自分の進行方向以外にはみじんの興味も示さぬまま、正面玄関のど真ん中へ歩いて行った。油の刺されていない自動ドアが、大慌てで道を開けた。

「何度見てもすごいねえ」

 クス子は片方の眉を吊り上げながら言った。クス子だけでなく、この大仰な送迎を目の当たりにした生徒はみな眉をひそめ、ぽそぽそと何かを呟いていた。

 言いたいことはわかる。あの車一台とっても、響やクス子、その他大勢の生徒の家庭で手が届く代物ではない。さらに、運転手に加えてお付きの者も一人。ハッピーセットのおまけだって一つなのに、手が込みすぎだ。

 女子生徒の立ち振る舞いも一般人とは違う。歩き方は上流階級のそれで、がに股で歩く響が隣に行こうものなら、「なんて原始的な歩き方」と揶揄されるだろう。美しく整った顔は恐ろしいほど無表情で、二足歩行ロボットにマネキンの頭部をつけた、と言われた方がしっくりくる。

 こんなものを目の当たりにして気軽に声をかけられる生徒はまずいないし、それに加えて――


 女子生徒には、近づきがたい理由があった。


「白崎の一人娘、箱入り娘の日本代表だねぇ」

 クス子の言葉を、響はどこか上の空で聞いていた。

 ちょうど、女子生徒の後姿が自動ドアの向こうに消えたところだった。




 昼休みの到来を告げる鐘の音。全く嬉しくないその音から逃げるように、響は校舎を飛び出した。どうせ家に帰ったら柔道をさせられるのに、いちいち昼練にまで顔を出す理由はない。

 響の高校には校舎が三つあり、正面玄関のある校舎の後ろに二つ続けて立っている。手前から順に三年生、二年生、一年生の教室があり、一年生の校舎が道場と体育館に一番近い。なお、敷地面積の少なさを反映してか、一階が道場、二階が体育館という造りになっている。響はそこだけには近づかないようにしている。今日だって、二つ目の校舎の裏――頭上のグランドからカーテンのように垂れ下がる――コンクリートの法面に沿って歩いている。

 目前にこぢんまりとした倉庫のような建物が見えてきたので、響は速度を落として歩いた。ガス注意と書いてあるし、きっとあそこはガスボンベでも置いているのだろう。よし、今日はあそこの裏で休憩時間を過ごそう、と心に決めた。

 予定外だったのは、倉庫の裏に先客がいたことだった。倉庫まであと十二歩というところで、響はその存在に気付いた。

 聞こえたのだ、歌が。

 古い歌だろうが、有名だったので響でも知っていた。たしか、上を向いて歩こうという歌だった。

「上を向ぅいて、あーるこぉぅよ……涙が、こぼれーないよぉぉに……」

 倉庫裏だけ夏は鳴りを潜め、涼し気な風がそよそよと吹いていた。歌の持つ静けさが、そのまま周囲に溶け込んだようだった。

 響は足音を立てぬよう、細心の注意を払って近づいた。倉庫の角に手をかけ、そっと覗き込んだ。

 やっぱりだ。いた。

 法面の足下に沿って作られた蓋の無い排水溝、その溝に腰掛け、女子生徒が歌っていた。社長出勤の、箱入り娘だ。黒髪のおさげは手入れが行き届いていて、ふんわりと、それでいて艶がある。白い半袖の夏服にはきっちりとアイロンがかけられており、黒い膝丈のスカートにはしっかりと折り目がつけられている。そこから見える足は黒いソックスに包まれており、小さい、白いハートがアクセントとして入っている。

「ひとーり、ぼーっちの、よるー……」

 少女は小さな唇を天に突き上げ、呟くように歌っていた。透き通るような声ではあったが、たいそう寂し気に聞こえた。

 なんという歌のチョイスだ。響からすれば、贅沢極まりない少女の身なり、待遇。きっと家に帰れば、何不自由ない暮らしが待っているはずだ。さっさと歌うのをやめて、ここから退散願おう。

「一人ぼっちだって?送り迎えにお付きまでいるのに」

 思わず責めるような口調になった。

 少女は肩をビクッと震わせ、おさげと共に振り返った。大きな音に反応する子猫のようだった。すこし怯えていたようにも見えたが、ガラス玉のような瞳が響の姿をとらえると、きゅっと虹彩が絞られた。

「また君ぃ?」

 心の底からあきれたような声だった。さっきまで、同じ口から透明な歌声が出ていたなんて信じられない。

「悪かったな」

 響はすこしイライラして、倉庫の角を握りしめた。爪の先がコンクリートの表面を削り、小さな粒が指との隙間に入り込んだ。

「君、いっつもいるよね。なに、私のストーカー?」

 少女はツリ目になって響を見上げている。怒っているというよりは、やはり、あきれているように見える。

「別に来ようと思って来てるわけじゃない」

「じゃ、何してるの」

「……部活」

 ジトリと視線を向けられ、響の鼻からはつい、ぶっきらぼうな音が出た。

「部活?なに、ストーカー部とか?」

「ちげえよ!サボってんだよ、部活」

「あぁ~」

 綺麗なガラス玉のような瞳が、響の頬にへばりついている絆創膏を見た。そして、小さな頭が赤べこのようにうんうんと上下した。落ちこぼれなのね、わかってますよ、という納得の仕方だった。

「サボった先にたまたまお前がいるんだ。別につけてるわけじゃねえよ」

 響ははぁ、と息をついた。立っているのもたいぎくなり、何気なく腰を下ろした。少女と人一人分の間隔を空けて、彼女と同じように側溝に座った。

「ふぅーん」

 全然信用していない言い方だったので、響はちらりと横目で見た。そこには探るような少女の瞳があって、ずっと見てはいられなかった。咳ばらいを一つ挟み、誤魔化すように質問した。

「そういうお前は何してんだよ」

「私?私は――君が見たとおり、歌ってたんだよ」

 質問を返されるとは想定外だったのだろう、少女は一瞬言いよどんでから答えた。

「いや、そりゃ見りゃわかるけど」

 響は口ごもる。そういうことが聞きたかったわけではない。

「なんで歌ってんのか、って話」

「あぁ、そういうこと」

 少女はまた赤べこを再現した。

 わかりやすく言いなさいよ、と怒られている気分に、響はなった。そのせいで、つぶやくような少女の言葉を聞き逃してしまった。

「私でいられるから――かな」

「は?」

 まるで、目覚める直前に見ていた夢のような儚さだった。一秒後には、果たして少女が答えを口にしたのかさえ分からなくなっていた。

「ううん、なんでも。私、歌うの好きだから」

 少女は静かにおさげを振り、寂しそうな笑顔を見せた。

 きっとこれが答えなのだろう、響はそう思うことにした。

「歌ってすごいんだよ。歌ってる間は、嫌なことを全部忘れられて、自分が世界の中心にいる気がして、世界が自分のために輝いてる気がして……それで……」

「それで……?」

「それで……世の中には、道端で歌をうたって、それでお金を稼ぐ人もいるんだって!すごくない?」

「あー、そりゃいるんだろうけど、そんなのごく一部だろ……」

 響は変なところで現実的だったので、思ったことをそのまま口にした。それがマズかったのか、少女の顔からハリがなくなっていく。

「やめよっか、こんな話」

 唇をぎゅっと結んだかと思うと、少女は吹っ切れたように笑った。

「あ……は?」

 響は不意を突かれ、もごもごと口を動かすことしかできない。

「やめとこ。うん、それがいいよ。君は部活に戻った方がいいし」

 少女はパチンとウインクしながら、自分の右頬をとんとんと叩いた。怪我なんて怖がってないで、部活に出なさい、と言っているようだった。そして、響に反論の余地を与えずにすっと立ち上がった。白百合のような手でお尻の砂を払った。

「じゃあね、もう私のあとつけないで、バイバイ」

 先ほどまでの笑顔が幻かと思うような、冷たいつめたい表情で少女は言った。

 響は側溝に根を下ろした観葉植物のように、その場から動けずにいた。

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