心に響く音はあるか

影宮閃

第1章 それが君の記憶

 もし、歌に愛された少女がいるのだとしたら。


 白崎しらさき心音ここね以外に、オレは思いつかないだろう。


 なぜなら、彼女の声は神秘的なまでに美しいからだ。

 可憐な響きは小鳥のさえずりより尊く、清流のように瑞々しく、その上、絹のような柔らかさをたたえていながら、一級品の料理包丁のように研ぎ澄まされていて、すっ、すっ、と心の一番奥まで入って来る。一度聴いたら最後、人間からアメンボまで虜になる。


 そんな声を、こんな時間に、オレは独り占めしている。


「大人の階段のーぼるー」

 彼女はそう口ずさみながら、公園の砂地を蹴った。

 せっかく水道で流したのに、サンダルの隙間から、砂粒のついた指先が見える。

「ねえ」

 雲間から月明かりが現れるように、その顔が不敵な笑みに包まれる。

「あとどれくらい昇ったらなれるのかな、私たち」




 心に響く音はあるか




 夏の蛇口は生ぬるい。

 ひねって出てくる水は、たいてい変にあたたかい。差し出した手にぬるりとまとわりついてくる。

 せっかく涼もうとしたこちらの気分を、いたく害された気分になる。


 彼女の歌声は違う。


 その口が開かれた瞬間、聞いてる人間の頭からつま先まで、瑞々しさでいっぱいになる。

 その速さ、光が音を持ったら、という以外に説明のしようがない。身構える前に胸を鷲掴みにされるから、彼女の声を聞いて虜にならない者などいない。

 一度聞いたら最後、人間からアメンボまで彼女の虜になる。例外はない。


 一ノ瀬いちのせひびきも、その口だった。


 その時はまだ学ランだった。なにせ十六の高校生だったからだ。響はやさぐれていたから、第一ボタンだけでなく第二ボタンまで開け放ち、校舎の裏をがに股で歩いていた。

 気分はすこぶる悪い。今日の天気が、無地のキャンバスに灰を塗りたくったような曇り空だから。ではない。

 響の成績があまりよくないのが原因なのだ。

「はーあ……」

 しわくちゃのジジイみたいなため息をつきながら、響は歩き続けた。左手の校舎を見上げ、ぼっさぼさの黒髪をかきむしり、ゲジゲジ眉毛を歪め、もう一度ため息をついた。

 昼休み。

 本来であれば昼食をとり、友と語らい、校庭でサッカーでもするのが嗜みというものだろうが、柔道部の響にとっては昼練をする地獄のような時間であり、故にため息をつかざるを得ない。

 そうでなくとも、人生の岐路に立とうかというのに。

 そうやって自分の運命を呪いながら歩いていた響に、文字通り人生を変える出会いが訪れた。

「ん……?」

 かすかな空気の震えを感じ、響は立ち止まった。よくよく耳をそばだててみると、震えの正体は呟くような歌声だった。本当に小さな、小さなちいさな声だった。

 声の方へ近づいて行くと、教員が使う駐輪場の屋根、古ぼけたトタンが見えたあたりで確証を得た。

 誰かが歌っている。

 響は校舎の角を曲がり、駐輪場を視界に捉えた。

 雲はそこだけ晴れていた。


「君の歌をー、きかせてー、きかせてぇ……閉じた、僕の、こ、こ、ろ、にぃ……」


 歌っていたのは少女だった。

 ただの少女ではない。歌に愛された少女だ。

 彼女の周りだけが陽の光に照らされていて、自然のスポットライトのようになっている。丈の長いスカートを膝と一緒に抱え、駐輪場のコンクリートに尻をつけ、太陽を見上げるようにしている。

 なんとも神々しい絵面だが、特筆すべきはやはり声だ。

 先述の通り、その声が響の心に染み渡るまで、一瞬の間もなかった。加えて、その情報量の多さ。艶やかな黒髪をおさげにしているとか、大きな瞳が綺麗なガラス玉のようだとか、ちょこんとついた鼻が大層可愛らしいとか……そういった彼女の魅力が、歌声に乗って全部いっぺんに押し寄せてきた。

 この時の感情を、響は後にこう振り返っている。

〝魅力の押し売り、濁流、大洪水〟

 思春期の男子が、照れ隠しを目的として女子の悪口を言うのは特段珍しいことではない。

 だが、かくいう私も、彼女の歌を初めて聞いた時、同じような感覚に陥ったことは認める。

 メロディーを奏でる者も、リズムを取る者もいない。彼女一人で口ずさんでいるだけなのに、さびれた駐輪場の周りは音に溢れ、美しい旋律に自然までもが心を奪われていた。

 鳥は羽を休めて聞き入り、雑草の中に混じっていた猫じゃらしが左右に揺れ、風までもが、彼女のおさげを絶妙なタイミングで揺らした。

 ましてや人間たる響の受けた衝撃など、察するに余りある。たとえ呆けて見入っていたとしても、誰も文句は言えないだろう。

「きーみーの声が……教えーてくーれ……た……」

 とは言え、見られた当人からすれば、そんなことは知ったこっちゃない。せっかく人目につかない校舎裏を選んだというのに、穴が空くほど見つめられるなんて(しかも初対面の男子に!)、迷惑この上ないし、恥ずかしいやら気持ち悪いやら、十七の乙女心ではいっぺんに処理しきれない。

 小さな口があっと開かれ、白百合のように綺麗な手で覆われてしまった。歌声はパタンと止まり、祝福されていた空気たちが、化学スモッグで汚染されたようにくすんだ。

「あっ……」

 響はとっさに手を上げたが、全くもって間に合わなかった。

 少女は口をへの字に曲げ、ぱっぱと立ち上がった。その瞬間、鳥は飛び立ち、猫じゃらしは頭を垂れ、風までやんだ。

 そして、おさげの軌跡を残し、少女は立ち去った。


 あっという間の出来事だった。

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