第六章 リーグ制覇!
1
七月二十九日 日曜日
H市営臨海陸上競技場
道東ブロックリーグ 第七節 イクシオンAC 対 すずらんファイターズ
圧倒。
現状を表現するのに、この二文字以上に適切な言葉はないだろう。
イクシオンACは、人と人、人とボールの連動する、理想的といえるサッカーで、試合開始から後半二十五分である現在まで、ほとんど相手にペースを渡すことなく、ボールを支配し、攻め続けていた。
現在のスコアは、4-0。
決定機をしっかり決めきれてさえいれば、もっと差がついていたはずであった。
それから二分後、イクシオンACに追加点。
これで5-0になった。
勝利は確実。守って逃げ切りなどは考えず、最後まで攻め続け、もっと加点を、と、そのような興奮した雰囲気の中、当然イクシオンACの選手たちは、どんどん前へ前へ向かい、攻めに続けたのであるが、しかしそれが後の、誰もが予想もしえなかった悲劇を生むことになろうとは……
追加点を狙う意識が高くなるあまり、イクシオンACは失点したのである。
その後に繋がる結果としては、実に最悪な……
それは次のようなものであった。
すずらんファイターズのCB
それが風に乗って、守備陣を突破したすずらんのFW
イクシオンACのGK
柳沼昭司はドリブル、そしてPA内に入るや迷わずシュートを打った。
GK木場が身体を張り、止めた。……というよりは、トンネルでやらかしそうになったところ、運よく足の内側に引っ掛かって止まってくれた、というほうが正しいだろうか。
とにかく、せっかくゴールラインぎりぎりで止まったボールだというのに、しかし木場はそれに気付かず、後ろを振り返ろうとして、誤って自分の踵で自陣ゴールへと蹴り込んでしまったのであった。
オウンゴール。
すずらんファイターズゴール裏から太鼓の音。数少ないサポーターからの歓声。
そして……メインスタンドの観客からの、笑い声。
「いいぞ!」
という、からかいの声。
この笑い声こそが、この後の悲劇を決定付けるものだったのかも知れない。
木場の額から、どどっと汗が吹き出していた。
木場の顔が、すっかり蒼白になっていた。
「ドンマイドンマイ! 気にすんな!」
大量得点の試合で、相手に意地の一点を返されることなど、サッカーでは当たり前にあることなのだから。
しかし、その声はまったく木場の耳には入っていないようであった。
試合の残り時間、十五分。
木場は、壊れた。
それは実にはっきりと分かる、実に惨憺たる有様であった。
まともにキャッチが出来ない。
シュートと反対方向へ飛ぶ。
キックは必ず相手ボール。
ぼけっとして持ちすぎてイエローカード。
コーチングが目茶苦茶。支離滅裂。
CKの守備で、大道の頬に横っ飛びナイスパンチング。
再びオウンゴール。しかもJ1リーグで2004年に起きた、あの伝説に残るオウンスローを忠実に再現。
そして、笛の音。
試合終了。
5-2で、勝つには勝ったのだが……
試合終了と同時に木場芳樹、逃亡。
あまりの恥ずかしさに顔を赤らめ、目には涙を浮かべ.、会場から走って逃げ出してしまったのであった。
2
八月五日 日曜日
根室ハナサキガニスタジアム
道東ブロックリーグ 第八節 漁師の魂FC 対 イクシオンAC
漁師の魂FC 4-5 イクシオンAC
まさに打ち合いであった。
死闘、というよりは、単なる大味な試合。
なんとか勝つには勝ったものの、なんとも後味の悪い試合になってしまった。
この日のイオクシオンACは、全体的にリズムが悪かった。
その大きな要因は、GKにあるといっても間違いではなかった。
百八十四という長身は魅力的なのだが、まず欠点としてはコーチングがなんとも頼りない。
また、試合勘が鈍く、ボールに対してはそこそこ良い反応こそ見せるものの、どうにもポジショニングが悪く、あっさりと失点を許してしまっていた。
漁師の魂FCの選手たちも、今日のイクシオンAC相手ならばいけると思ったのか、打ち合いを挑んできてくれたため、運もあって勝つことが出来た。
引いてじっくりと攻めてこられていたならば、どうなっていたか分からない。
とにかく、これほど後に繋がらない、ただただ忘れてしまいたいだけの勝利など、今期になって初めてのことであろう。
ただし、勝ち点三を取れたことは間違いのない大きな収穫であった。
次節、イクシオンACが勝利し、もしも八蘇地信銀が勝ち点を取りこぼすようなことがあれば、リーグ戦優勝が決定する。
イクシオンACにとって、絶対的に有利な立場であることに、なんの変わりもなかった。
なんといっても次節の相手は最下位、今節に降格の決まったバンビーボーイが相手なのだから。
八月二十六日 日曜日
H市営臨海陸上競技場
道東ブロックリーグ 第九節 イクシオンAC 対 バンビーボーイ
イクシオンAC 2-2 バンビーボーイ
前節に降格の決定した相手に、まさかの引き分け、実に敗北に近い一戦であった。
この相手には、前回対戦時にも苦汁を飲ませられている。
相性の一言では片付けられないものもあるのだろうが、とにかく今期、鬼門と呼べる存在であることに違いはなかった。
勝ち点を一つしか稼げなかったため、イクシオンACは八蘇地信銀に追い上げられ、勝ち点で並ばれてしまったのであった。
リーグ戦は残り一試合。
今節を勝ってさえいれば、最終節は引き分け以上でリーグ制覇が達成出来たというのに、悔やんでも悔やみ切れない結果であった。
得失点のわずかなリードがあり、イクシオンACの首位は動いていないが、お互いの、次の対戦相手を考えると状況はかなり厳しいといえた。
次は、大量得点差での勝利が必要になるであろう。
八蘇地信銀も、逆転優勝のために大量得点を狙ってくるだろうからだ。
大量得点での勝利、ではなく、大量得点差での勝利ということは、いかにリスクを犯して攻めながらもしっかりと守備をするか、というところが鍵になってくる。つまりは、GKの優劣が直接的に響いてくるということだ。
「やはりこれはもう、ファング君に復活してもらうしかないですね」
試合後の会場。サポーター達に挨拶をする選手たちを、コージは腕を組んで見ながら、ぼそり呟いた。
振り返り、ベンチを見る。
ベンチでは木場が、すっかり憔悴しきったように、頭を抱えている。
彼には、なんとしても復活してもらわないと。
次節に勝って優勝し、そして決勝大会を勝ち抜くためにも。
そうコージは強く思った。
前節と今節とでGKを務めた吉田健二は、潜在能力はそれなりにあるはずであるが、まだ十九歳、これからの選手だ。
期待をかけて無理に出し続けても、むしろ潰してしまうだけだ。
今期、常にベンチにいたとはいえ、本来ならばベンチ外、第三GKという立場なのだから。
第二GKと呼べる選手は、出場機会を求めて昨年限りで出ていってしまった。しかしフロントは特に補強に動かなかったのである。
まさか自分のところのチームが昇格争いをすることになるなど夢にも思わず、切実な問題とは受け止めなかったのだろう。
当時、選手兼任監督であった日野浩一は、獲得の必要性を必死に訴えたものの、動いては貰えなかった。
今期、コージが監督に就任する際に、やはりGK補強の必要性を訴え、そこで初めてフロントが重い腰を上げてくれたものの、シーズンが始まったばかりというタイミングで、そうそう人物など見付かるはずもなかった。
フロントが昨年のうちから動いてくれていればよかったのであるが。いまさら、どうしようもない。
ファング君は能力も高いし、GKはそうそう退場になるポジションでもないし、怪我さえしなければなんとかなるだろう、とコージも少し甘く見ていたところがあった。
まさかこんなところで、彼の不調による離脱が響いてこようとは。
さて、どうしますか。
コージは、大きな鼻を撫で、楽しげに笑みを浮かべた。
3
「まだまだ!」
だがその気合いとは裏腹に、疲労に体力も限界に差し掛かっていること、いまにも倒れそうなくらいであること、遠くから見ていてもよく分かるほどであった。
「それじゃ、いきますよ!」
ゴールネットへと、ボールを蹴り込み続けた。
木場は残る体力を振り絞って、横へ倒れながらキャッチ、起き上がってはまたキャッチ。
延々と繰り返されるそれに、もうすっかりと息が上がってしまっている。
既に体力の消耗は限界を越えている。それでも肘で、指で這い、起き上がり、食らい付き続けた。
通常練習の後、もう一時間以上もやっている。
まさに地獄の猛特訓であった。
木場からコージ監督に、是非にと申し出たのである。
コージは、あまり意味のない練習だからやめようと断ったのだが、木場は頑として聞かなかった。
かくして渋々コージは許可し、かくしてもう一時間以上も木場はボールへと食らい付き続けているのである。
ボールが指先を擦り抜け、ゴールネットが揺れた。
さすがにもう疲労が限界を越えているだけあって、キャッチし損ねてしまう回数が増えてきていた。
「もっと、蹴ってこい!」
いまにも倒れそうなくせに、キッカーを睨みつけ、木場はそう要求した。
それを見つめるコージの視線であるが、実に冷ややかなものであった。
いまさらこのような練習で急激に実力が伸びるはずもないし、こんなことをせずとも実力としては既に必要充分なものを持っている。
ブロックリーグどころか、北海道リーグ、そしてJFLくらいならば充分に通用するだろう。J2でも、そこそこやれるかも知れない。
だから、木場本人にも伝えたことだが、このような特訓はあまり意味がないのだ。
むしろ、このような真似をしたがるということは、気が付いている問題から逃げている証拠。
根本的な問題は、まったく違うところにあるというのに。
「やはり……あれしか、ないでしょうか」
コージは、可笑しいのか悲しいのか、よく分からない表情で、自らの大きな鼻をなで、ぼそりと呟いた。
4
夜も遅い時間、今日もまた宿屋せりざわのロビーでは、主である
あくまでほんの少量を、ちびちびとであるが。翌日の練習に差し支えが出ては仕方がない。雰囲気さえ楽しめればいいのだ。
「昇格、とはなんでしょうか」
どんな雑談の流れからであったか、ふと、コージがそんな質問を口にした。
「なにって、仕組みじゃなくて意義や価値について? サポーターも含めてみんなと喜ぶためのもの。みんなで夢を共有するためのもの、かな」
恭太は即答した。
「でも、サポーターの一人もいないクラブもありますよ」
と、コージは切り返した。
「まあ、そうだけど。でも、みんなと喜びあえるということに違いはないし、上を目差すことが、いつかプロリーグに繋がったりもするわけだし。そうすればサポーターだって出来ないことないだろうし、夢の共同体はどんどん大きくなる」
「そうですね。夢の共同体、良い日本語ですね。要はみんな、ホラクエのようなレベルアップ、上を差すというのが好きなんですよ。そうした中で感動、悲劇があって、成長を目差し、そんなクラブが無数にあって、全体の底上げにもなっていく。日本が強くなり、キョン君のいう夢の共同体は大きく素晴らしいものになり、様々な活力に繋がっていく。活力とは大きく分けて、心の活力と、ビジネス的な活力ですね」
「よく分かんないけど、なんか納得しちゃうな。あと、ホラクエじゃなくてドラクエな」
などと、禅問答にもなっていないどうでもいい言葉のやりとりを酒と共に酌み交わしているところ、恭太の妻である
「調子、どうですか? 愛ちゃん」
コージは呼び止めた。
昼間もしている質問なので、聞いたところでさしたる意味はないのだが。
「悪くないよ。ありがと」
笑顔で昼間と同じ返答をすると、愛子は通り過ぎて行った。
先々週、愛子のお腹に赤ちゃんがいることが発覚した。
だからコージも、まめに愛子に気を配っているのである。
「おれ、年齢も年齢だから、もしも子供が出来たりしたらさ、もう引退かな、って思ってたんだ。子供のためにも本業に打ち込まなくちゃな、って」
酔っているから、というわけではないのだろうが、恭太にしては珍しい、自分のことを語り始めた。そもそもまだ、舐めるほどしか飲んではいない。
「それで、どうなったんですか?」
コージは尋ねた。
「面白いよな。反対にさ、いけるとこまでとことんサッカーをやりたくなったよ。子供のためにも、って。自分の親父がJリーグクラブの礎を作ったなんて、なんだか子供からすれば凄いことだもんな」
「頑張って、昇格しなければですね」
コージは目を細め、いつも口元に浮かべている笑みをより深くした。
「そうだけど、でもファング大丈夫かな」
ファングとは
サブのGKである
「ダメですね、ファング君は。いまの彼は、まったく使えない」
コージは、暖かな笑みを浮かべながらも、そう冷たく突っぱねた。
「GKのことはよく分からないけど、確かに動きも指示も酷いよなあ、最近。特訓に付き合ってくれなんていわれたから付き合ってやったけど、へとへとのバテバテになって、土まみれのボロボロになってっから、もしかしたら自信がついたのかなと思ったら、翌日の紅白戦は相変わらずの出来だったしなあ」
「はい。復調してからなら、あのような練習は実に良い練習になるのですが、現在の彼にはまったく意味がありません。……ですので明日は彼に、わたし流の特訓に付き合ってもらう予定です」
最終節は、おそらく大量得点差での勝利が必要。そうなれば、やはり木場の復調なしには昇格は有り得ない。コージはそう考えているのだろう。コップを舐めながら、恭太は思った。
「また、なんか変なことやらせるんだろ」
「いえ、そんな。きわめて厳粛で真面目な練習ですよ。そもそも、またとはなんですか? 怒りますよ、キョン君。いつわたしが彼らに、変なことなんてやらせましたか? いつ?」
「明日、だろ?」
「はい」
コージは、悪戯小僧のような笑みを浮かべた。
5
「こけこっこ……」
デパート屋上の子供ショーのように、ぼってりとしたニワトリの着ぐるみに全身をおおっており、頭部前方のみ穴が空いており恥ずかしそうに真っ赤な木場の顔が覗いている。
ここは駅前大通りである。
当然ではあるが、通りゆく人々が、なんとも奇異な視線を向けている。
子供らが近付いてからかったりしている。
「もっと大きな声で!」
近くで腕組みをしている男、コージが手を叩きながら叫んだ。さながらダンスレッスンのように。
「こけこっこー!」
木場はぱたぱた腕を振るい、やけくそ気味に大きな声を出した。それでも試合時のコーチングの声に比べれば、十分の一も出ていなかったが。
「まあいいでしょう。それでは次のステップ。腕をぱたぱたと羽ばたかせながら、むこうに見える看板まで走って行ってタッチして、思い切り叫んでから戻ってきてください」
え? という一瞬の躊躇を見せた木場であったが、着ぐるみの中で小さく首を振ると決意を固め、こっこっといいながら、手を振り走り出した。
びっくりしている人々を掻き分けるように、ニワトリは走った。
中の人である木場は、恥ずかしさに死んでしまいそうだった。
五秒後にいきなり心臓が停止して倒れても、なんら不思議はないだろう。伝説に残るバカな死に方だ。
昨日はそちらの望む特訓に付き合ってあげたのだから今日はこちらのいうことを聞いて下さい、と、そんな強引な理由で駅前まで引っ張り出され、そこで一体なにをやらせるのかと思ったら。
なんなんだよ、これは……
おれをバカにして、楽しんでいるだけじゃないのか?
「もっともっと!」
「心からニワトリになりなさい!」
「腕の振りが足りない!」
「なりきってない! 声を裏返して、こけーっ! 分かりましたか? こけーっ!」
「声が小さい!」
だんだんと、コージの注文が多く、勢い激しくなってきていた。
腕を振りながら、コージの前を行ったり来たりする木場であったが、やがて精神的な限界を迎えた。
メーターが振り切って、ガラスがパリンと割れた。
「なんの意味があるんだ!」
そう叫ぶと、トサカを掴んで頭部をむしり取り、思い切り地面に叩き付けた。
踵を返し、走り出した。
こっこっこっ。
ニワトリ、逃亡。
6
…という状態のままの
当然といえば当然であるが、木場は今日も絶不調であった。
守備陣の頑張りもあって、なんとか失点をせずに済んではいる。しかしGKが頼りないものだから、どうしても全体が引き気味になってしまい、得点の生まれそうな気配など微塵も感じられるものではなかった。
現在、前半二十分。
試合開始からずっと押し込まれているイクシオンAC。失点するのも、時間の問題といえた。
九月二日 日曜日
釧路市サッカー・ラグビー競技場
道東ブロックリーグ 第十節(最終節) パープルアロー釧路 対 イクシオンAC
「コージさん、おれ実力はまだまだですけど、でもおれのほうがまだマシですよ。ファングさんちょっと……ちょっとっつうかなんかもう見ていられない」
ピッチの外と内と、どちらでドキドキするのがまだ心臓に良いかということであろう。
「いや、ヨッシー君はここから彼を見て、その戦いぶりを学びなさい」
コージは特に心配したような様子もなく、さらりとそういった。
「戦い、ぶりって……」
ぶりもなにも、そもそも戦ってないじゃないか。ファングさん。
そりゃ、居残り特訓したりとか、自分の不調と戦おうとしていたのは分かるけど……
と、もごもご小声で吉田健二は呟き続ける。なんともやりきれない、と、そんな表情であった。
釧路の攻めは続く。
個人個人の頑張りでなんとか攻撃を食い止めていたイクシオンACであったが、真ん中を縦に切り裂く長いスルーパスを通されてしまった。
不調のGKをかばうCB二人の間に生じたギャップや、それを補おうとするボランチの立ち位置を、反対に上手く利用されてしまったのだ。
抜け出した釧路FWは全力で走りながら、ボールを受けた。木場芳樹の守るイクシオンACゴールへと突き進んでいく。
CB
釧路FWは突然、大きくよろけ転倒した。
横から走り込んだCB
主審の笛。
橋本に、イエローカードが掲げられた。
ペナルティエリア斜め前の、嫌な位置にてFKを与えることになってしまった。
キッカーの
主審の笛と同時に、軽く助走を付けてボールへ走り寄り、左足を振り抜いた。
ボールは壁を作るイクシオンACの選手たちの頭上を越え、綺麗な弧を描いて大きく落ちた。
ゴールネットが揺れた。
木場は、ぴくりとも動くことが出来なかった。
前半二十六分、勝利しなければ決勝大会進出は難しいというこの状況の中、こうしてイクシオンACは先制を許してしまったのであった。
個々の頑張りでここまで粘りの守備を続けてきたというのに、実にあっけなく。
ゴール裏では、釧路サポーターの太鼓の音。
そして歓声。
喜び抱き合う釧路の選手たち。
木場は、ただ呆然と立ち尽くしているのみだった。
「まだまだあ! 逆転しようぜ!」
「そうそう、おれ絶対に点を取りますから!」
イクシオンACボールで試合再開。
追い掛けなくてはならなくなったイクシオンACであるが、しかし試合は相変わらず釧路ペースのままであった。
最初から押せ押せの釧路であったが、得点が生まれたことによりその勢いは倍加していた。
先制を許したイクシオンACの選手たちに生じることになった、攻めたいのか守りたいのかというちぐはぐさを突いて、釧路の選手たちは一方的に攻め続けた。
釧路の選手たちは、どこからそのような活力が生まれてくるのか、とにかく走り、攻め続けた。追加点を狙い続けた。
イクシオンACは必死に跳ね返すのであるが、セカンドボールのことごとくを釧路に拾われてしまう。
そうしてすぐに自陣への侵入、パス回しを許してしまっていた。
イクシオンACの選手が、個々の頑張りでなんとかラインを押し上げても、ロングボール一発ですぐに押し戻されてしまう。
そしてまた、いまも……
釧路CBは、前線へロングパスを送った。
それに反応してFWが飛び出した。全力で走る。
自陣ゴール前にべったりであった木場も、意を決すると全力で飛び出していた。相手にボールの渡る前に、弾き返してやろうと。
「いけません!」
ピッチ脇で見ていたコージは、思わず腕組みを解き、叫んでいた。
木場は目測を完全に誤っていた。
眼前数メートル先で、釧路FWがボールを受け、そのまま木場の横を擦り抜けた。
木場は自分にブレーキをかけようとしたが、芝で滑り、豪快に転倒して背中や尻を打ち付けた。
守護者不在となったゴールに、釧路FWが落ち着いてゴールへとボールを転がした。
これで追加点。2―0。
いや……
釧路の追加点は、決まらなかった。
SBの
小笠原はノンブレーキのままポストに激突し、倒れた。
苦痛に顔を歪めながらも、すぐさま立ち上がり、右肩を押さえたまま、走り出した。
倒れたまま顔を上げて、その様子を見ていた木場。
「シン……」
そう呟きながら、ゆっくりと立ち上がった。
おれ、なにやっているんだろう……
なにも出来ない悔しさに、地面を蹴り付けた。
ボールの行方であるが、せっかく小笠原が捨て身のクリアをしたというのに、イクシオンACは一瞬にして、またもやピンチを向かえることになった。
またもや釧路のFWを走らせるスルーパスが、するりと通ってしまった。
GK木場と一対一になった。
FWのシュートモーションに、木場は反応し、横へ大きく飛んだ。
だがそれは、シュートコースとは完全に逆方向であった。普段の木場ならば、相手の蹴り足から冷静に弾道を判断出来たのだが、それほどに動揺していたのだ。
パープルアロー釧路、今度こそ追加点……いや、なんたる偶然の連続か、ボールはポスト内側の角に当たり、跳ね返っていた。
ねじ込もうと詰め寄る釧路FWであったが、跳ね返ったボールはころころと、不様に倒れている木場へと転がった。
迫り来るFWに恐れおののきながらも、木場はそのボールを抱きかかえ、守った。
単に運がよかっただけだが、なんとかピンチを凌いだ。
木場は立ち上がった。
「ファング君!」
どこからか、自分を呼ぶ声が聞こえた。
「特訓を、特訓を思い出しなさい! こけーっと叫びなさい! ファング君! ニワトリジェネレーター始動です!」
ピッチの外で、コージが叫んでいた。
スーツ姿で、大きく広げた両腕をぱたぱたと上下させながら、叫んでいた。
木場は、ちらりとコージを見ると、すぐに視線を戻した。
「特訓、ね」
呟いた。
分かっている。
というよりも……分かっていた。
自分の要請したキャッチング練習などよりも、コージが街中でやらせたあの変態コスプレごっこのほうが、遥かに意味のある特訓であったことを。
そう。
他人からいわれずとも、よく分かっているのだ。
自分の、欠点に。
どうしようもない小心者であるということ。
分かっているのだ。
中学生の頃、「お前キバだからファングな」などと先輩からいわれ、なんだか嫌だったが逆らえずに、その呼び名を受け入れた。
「ファング、てめえキーパーやれよ」
あんな地味なポジション、絶対に嫌だったけど、先輩に逆らうの怖いから受け入れた。
「ファング、つぶつぶオレンジ買ってこいよ」
自転車を飛ばして一日かけて一生懸命探したけど、そんなものどこにも売ってなくて、先輩にボコボコに殴られた。
高校に入ってからは、たまたま良い人たちばかりで、いじめられることはなくなったけど、でも、それで自分の根本が変わるわけじゃない。自分が成長するわけじゃない。
本性は、どこまでも情けない。小さい。
それを知られるのが嫌で、かっこつけた振る舞いでごまかし続けてきた。
本当の、自分を。
だから、今回のスランプも、完全に心の問題。
技術的な不調でもなんでもない。
だから、千本キャッチを何回しようとどうでもよくて、むしろコージの特訓こそに意味がある。
おれがダメ野郎だから、怒ったふりをして逃げてしまったけど。
でも、でも、仕方ないだろう。
恥ずかしいのなんか、嫌なんだよ!
心の中で叫ぶ木場であったが、それ以上いや遥かに大きな選手たちの絶叫に、ふと現実に戻っていた。
釧路のカウンターだ。
イクシオンACは、追い掛けなければならない手前、無理をして上がり過ぎており、そこを突かれたのだ。
人数不利の、絶対的なピンチであった。
釧路の選手が一斉に駆け上がり、大きな津波となってイクシオンACゴールへと襲い掛かろうとしていた。
そして木場は、ただ立ち尽くしたまま、ざんぶりと全身を飲み込まれた。
いや……
飲み込まれて、たまるか。
みんな、頑張っているんだ。
おれだけ、怠けていいわけがないだろう。
そうだ。
負けて……
負けてたまるか!
みんなで、決勝大会へ行くんだ!
木場は、迫り来る釧路攻撃陣を仁王立ちで睨み付けていた。
おれは、ニワトリ。
そう。
空を飛べるニワトリだ!
「こけこっこーーーっ!」
腹の底からの、凄まじい絶叫であった。
釧路FWは一瞬面食らったが、気を持ち直しPA内に入るなりコースを狙った鋭いシュートを放った。
だが、
狙い澄ましたそのシュートも、空を飛べるニワトリには通用しなかった。
木場は横へと跳躍し、至近距離からのシュートを両手でしっかりとキャッチしていたのである。
その反応の素晴らしさに、観客席からどよめきが上がった。
すぐさまキックで大きく前線へと送ったが、釧路CBが長身を生かしたヘディングクリアで、イクシオンACは再び攻め込まれた。
守備をするりかわした釧路FWが、強烈なミドルシュートを放ったが、木場は迷いのない横っ飛びでボールを弾いていた。
CKだ。
木場のプレーに、観客席から拍手が起きた。
「ファング、ナイスセーブ!」
復調、したのか、ほんとに? と、なんだか信じられないような表情ではあったが、とにかく日野浩一は味方のファインプレーを称賛した。
木場は、まだ倒れたままであった。
ごろり、と仰向けになった。
笑っていた。
木場は、声を立てて笑っていた。
すぐにそれは、スタジアム中に響き渡るような、まるで気でも狂ったのかといわんばかりの、凄まじいものになっていた。
身をよじって、木場は笑い続けていた。
敵も味方も、すっかり唖然とする中を、笑い続けていた。
なにに悩んでいたんだろう。
そう思うと、可笑しくて可笑しくて。
「すまん、CKだな。よし、絶対に守るぜ」
木場はいきなり真顔になったかと思うと、すっと跳躍するように立ち上がった。
これほどの短時間に、これほど人の顔付きが変化するものなのか、あれだけ淀んでいたのが実にすっきりとした表情になっていた。
釧路のキッカーは、狐につままれたような顔であったが、気を取り直すとコーナーへ小走りで向かった。
ボールをセットすると、大きく、蹴った。
山なりのボールが、ファーへと飛んだ。
「みんな、どんどん上がれ!」
木場は前へ突き出した両手を上下に振って、仲間たちを前線へ前線へと追いやった。
もう大丈夫だ。
心配かけた、みんな。
ヨッシーも、この数試合ゴールを守ってくれてありがとう。
木場は、後方から選手たちを見ながら、また、ちらりベンチを見ながら、心の中で呟いていた。
恥を怖れるのが自分の欠点。
小心者であることを隠すため、これまでずっと、演技をして、かっこつけていた。でも、そういう自分しか見せてこなかったために、どんどんみっともない自分をさらけ出すことが出来なくなってしまっていた。
みっともなかろうが、とにかくゴールを死守するのがGKの仕事だというのに。
例えパンツが脱げて尻丸出しになろうが、ゴールを守ればかっこいい。それがGKだというのに。
本当に、最低だった。
決勝大会のプレッシャーで畏縮するというならまだしも、個人的な感情からあんな小さくなってしまうなんて。
でも、そんな自分は既に過去。
もう、大丈夫だから。
おれはニワトリ。
それが、分かったから。
分かったというだけじゃない。そんな自分を、チームのためにもっともっと出していくようにするから。
ただしニワトリはニワトリでも、おれは空を飛べるニワトリだぜ。
だからみんな、安心して攻め上がれ。
そんな気持ちを背中に受けて、怒涛の攻めを見せるイクシオンACの選手たち。
釧路のDFは、苦し紛れのロングボールを蹴った。
しかしそれは意外にも大きく風に乗って、いやらしい位置に。DFとGKの間に、ぽとりと落ちた。
いや、落ちる前に、全力でペナルティエリアから飛び出した木場によって、大きく蹴り返されていた。
釧路FWがオフサイドぎりぎりの飛び出しを見せていたため、もし木場が相変わらずゴール前に張り付いていたならば、あわやというシーンを作られていただろう。
素晴らしい木場の好判断に、観客席から拍手が起きた。
その、大きく蹴り返した木場のボールは、釧路守備陣の頭上を抜けていた。
FW大道大道が全力で追い、走る。
釧路DFと競り合い、二人もつれるように倒れた。
頭上からボールが落ちて、たまたま倒れている大道の頭に当たった。
それは、ぽーんと大きく跳ね上がり、大きな山を描いてゴールへ。
GKの、伸ばす手の指先をすり抜けて、ゴールへ吸い込まれた。
「うっしゃああああああ、計算通りいいい!」
立ち上がり、両腕突き上げて雄叫びをあげる大道大道。
こうしてGK木場のアシストという予期せぬ形で、イクシオンACは同点に追い付いたのである。
それから一分後、カウンターからさらに得点が生まれた。大城からのパスを受けて、大道がシュート。GKが弾いたところへ、大城が詰めたのだ。
こうしてイクシオンACは、逆転に成功した。
ここで前半戦が終了。
後半戦が始まっても、イクシオンACの攻撃力は落ちることはなかった。
開始早々にCKから、
数分後、
そして、またまたCKから、日野浩一がこぼれをねじ込んで、それぞれ加点していった。
前半から押されに押されていたイクシオンACであったが、優勢劣勢、立場は完全に逆転していた。
イクシオンACの調子だけの問題ではない。
釧路の選手は前半あまりにも走り過ぎて、それにより足が止まってきていたのだ。
しかし釧路も粘りを見せる。
イクシオンACの前掛かりを突いて、インターセプトからのカウンター。そして、ミドルシュートを放った。
腰の入った、鋭いシュートであったが、木場芳樹がダイナミックな横っ飛びでパンチング。
ファインセーブに、拍手が起きた。
釧路のCKだ。
大量得点差での勝利が必要であるため、ここで無用な失点をすることは避けたいところである。
釧路キッカーは、助走を付け、蹴った。
低く速く、GKから離れていくような、良いボールが上がった。
しかし木場は、敵味方密集する中をすいすいと擦り抜けて、なんなくキャッチしていた。
「コーナーキックの蹴り方は、こうなー」
木場芳樹は、思わずダジャレを呟いていた。
我ながら、あまりのつまらなさにブフッと吹き出していた。
釧路の選手たちは、なんだか危ない人がいるという感じの怪訝な顔で木場を避け、持ち場に戻っていった。
「みなさん! あと一点です!」
コージの叫び声。
あとわずかで、後半のロスタイムにさしかかろうかという時間である。
他会場、北見市で行われている八蘇地信銀の試合に、スタッフが一人行っていおり、そこからの連絡を受けたのであろう。
イクシオンACと八蘇地信銀は、勝ち点で並んでおり、どちらがより大量得点差で勝利するか、得失点差を稼ぐことになるのか。それが、決勝大会進出を決めるためのカギであった。
あと一点取れば、決勝大会に出られる。
つまりはこのまま終れば、勝ち点も得失点も八蘇地信銀と並ぶということであり、それはつまり、総得点数によって八蘇地信銀が優勝するということになる。
イクシオンACとしては、なんとしても、あと一点を取らなければならない。
八蘇地信銀が失点するかも知れないし、など他力本願ではなく、自分の手で、決勝大会進出を掴み取るために。
もうロスタイムというぎりぎりのタイミングで、コージがこのようなことを叫んだのは、おそらく土壇場で八蘇地信銀に連続得点が生まれたりするなど、緊急事態が起きたのであろう。
後半に逆転してからはずっと、得失点差でリードしていたものだから、コージは黙っていたのだろう。
イクシオンACの選手たちは、どんどん前へ上がり、足の止まった釧路の選手たちを相手にパスを回し、シュートを打ち込み、波状攻撃を仕掛けた。
すでに後半ロスタイムも、数分が経過している。
主審が時計を見ている。
釧路CBがかろうじてクリアをする。
イクシオンACの右SB、村山伴は前へ出ながらそれを拾う。プレスをかける相手選手をかわして、一気にトップギア。サイドをぐんぐん駆け上がった。
中央へ切り込み、芹沢恭太とのワンツーで、ペナルティエリア内へ侵入。
相手GKが飛び出してきたところ、横へボールを転がした。
先ほどのFKでまだ攻め残っていたCBの後藤権三が、蹴り込んだ。
釧路の選手が、足を伸ばして弾き出そうとするが届かず、ゴールネットが揺れた。
そして、試合終了の笛が鳴った。
イクシオンAC、勝利の瞬間である。
だが、選手たちの表情に喜びはなかった。
誰一人として。
不安を満面に浮かべ、みな、ベンチへと顔を向けていた。
そう、ぎりぎりでさらに八蘇地信銀が得点を重ねた可能性だってあるのだから。
コージの元へ、スポーツクラブイクシオンの社員の一人である
コージは大きく頷くと、イクシオンACイレブンたちへ向け、両手で大きな大きなマルを作った。なぜか思い切りガニ股で、「いいともお!」みたいな感じで。
その、おどけた笑顔を見た瞬間、選手たちはどっと爆発した。
「やった!」
大道大道が両拳を天へ突き上げ、叫んだ。
「昇格だ!」
日野浩一も続いた。
「バカ、まだ昇格じゃねえよ」
後藤権三が、日野の坊主頭を拳でぶん殴った。
「おんなじだろ。だって勝つもん。決勝大会、おれたち勝つもん。全勝でよ!」
日野に限らず選手たちは、軽口を飛ばし合ったり、抱き合ったり、それぞれに喜びを爆発させていた。
「ヒーハー!」
村山伴と木場芳樹が、抱き合い、甲高い雄叫びを上げている。
その二人を小笠原慎二が押し倒し、三人はピッチの上を転がりながら、なお楽しげに奇声を上げ続けた。ヒーハー!
大きな男たちが幼児のように無邪気に喜びあう中、女子マネージャの
「ダイドー君、同点ゴールかっこよかったよ! すっごいみっともないシュートで」
背中を思い切り叩き、そして笑った。
「あ、ああ。決めるっ! おれ、決勝大会でも、みっともないゴール、たくさん決めるっ!」
振り返った大道は、両の拳をぎゅっと握った。
選手、スタッフたちの歓喜は、なかなか覚めることがなかった。
コージは、腕を組んで、そんな彼らを遠くから見守っていた。
そんな彼に、スポーツクラブイクシオンの社員が一人、近付いていった。
田島雄二である。
「正直、このメンバーでは残留がやっとと思ってました。……ほんとうにサッカーを知りませんね、わたし。選手たちの実力を、全然分かっていなかった。監督がチームに与える影響というものを、全然分かっていなかった。あなたに任せて、ほんとうによかったです」
彼はそういうと、コージへと手を差し出した。
コージも腕を伸ばし、二人は固く握手を交わした。
「戦いは、まだこれからです。もっともっと強くならないと、決勝大会を勝ち抜くのはむずかしい。でもいまは、彼らを褒めてやりたいと思います」
視線を田島雄二からピッチへと戻す。
芝の上では相変わらず、身体の大きな子供たちが無邪気な笑顔で駆け回り、転げ回っている。
そんな姿になにを思ったか、ブラジル人の監督は柔らかく目を細めながら、人差し指で自らの大きな鼻を掻いた。
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