第五章 オフ

     1

 炎天下。

 そんな言葉の相応しい、今日は猛暑日であった。

 道外の者は北海道に対して寒い涼しいというイメージを抱くかも知れないが、暑い時は暑いのである。

 地面からは、ゆらゆらと湯気が立ち上っている。

 今朝まいた水が、照りつける陽光に蒸発しているのだ。

 遥か遠くを見渡せば、もくもくとした分厚い雲が浮かんでおり、そこの近辺はもしかしたら激しい雨でも降っているのかも知れない。しかしここH市上空は、朝からからりとした青空が広がって、ぎらぎらと輝く太陽が容赦なく地面を照り付けている。


「どんどん上がれ!

 ハッシー、カシュー、マークずれてたぞ! なにやってんだよ!

 そこだ! 打て! ダイドーッ! あああああっ! うおおおーーっ、下手くそっ! 下手くそ下手くそ下手くそっ!」


 ドスのきいた声で一人ひっきりなしに叫び続けているのは、キャプテンのこういちである。

 ここはイクシオンACの練習場だ。

 見渡す限り草、草、草の広大な土地はすべて株式会社スポーツクラブイクシオンの所有物で、いずれは商業施設として、サッカーを始め様々なスポーツ場を展開したいと考えているらしい。

 しかし現在のところ、この土地にはサッカーの練習場しかなく、従って訪れる者はサッカークラブの選手やスタッフくらいのものであった。

 広大な草原の中に作られたフィールドで、現在行われているのは、主力組対控え組の紅白戦である。

 ビブスを着用している方が控え組だ。

 スコアとしては3-1で主力組がリードしているものの、控え組も気迫では負けておらず、勝負は実に白熱したものになっていた。

 先日、後期リーグ戦が始まり、イクシオンACはその初戦にて強豪である八蘇地信銀と対戦を行った。前期には、惜しくも敗れた相手であるが、今期は見事その試合に勝利し、勝ち点で追い抜いて首位に踊り立った。

 現在首位にいるという事実と、八蘇地信銀に勝利したことで得た自信により、いよいよ昇格を目指すということが現実味を帯びた目標となってきた。そのため選手たち戦意が非常に高まってきており、それは控え選手にまで及んでいたのである。

 長い笛の音が鳴った。


「しゅーりょおでーーす!」


 女性マネージャのやけあずさが、笛を手放すと両手を口に当て、叫んだ。

 これで紅白戦は終了、そして今日の練習も終了である。

 今週末には試合がないため、選手たちには四日間のオフが与えられることになっている。

 昨日、コージ監督の提案により急遽決まったものである。

 低予算のアマチュアクラブであるため、キャンプなど出来ないし、ならばいっそのこと反対に、というわけである。

 練習を終えた選手たちは、軽くグラウンドを走ってクールダウンすると、ビブスを脱ぎ、ある者はユニフォームのシャツも脱いで裸になったりなどして、ぞろぞろと引き上げ、みんな汗だらだらの状態で、コージ監督の前に集まった。

 コージはいつも通りの、なんだか微笑を浮かべているかいないのかといった柔らかな表情で選手たちの顔を見ていた。

 そして、口を開いた。


「みなさん、今日も練習、お疲れ様でした」


 ねぎらいの言葉に、うおおーい、などと日野や大道から、なんともだらしない返事が上がった。

 監督は口元の笑みを少しだけ強めると、言葉を続けた。


「みなさんが頑張ってくれたおかげで、我々はやがて首位に立つことが出来ました」

「とうとう、な。もしくは、ついに」


 せりざわきようが、ただした。


「そう、とうとうですね。残る試合ですが、わたしはそうは思いませんが客観的に見てレベルの劣るところばかりが相手です。しかしです、これからは、追われるプレッシャーという、一番の強敵がわたしたちの前には立っています。それに打ち勝つだけでなく、戦いを通じて、さらに連係を高めたり、攻撃のバリエーションを増やしたり、もっと、高みを目指す努力をしなければなりません。そうでなければ、もし残り全勝で決勝大会に出られたとしても、そこでわたしたちは全敗することでしょう。もっともっと、自分たちを高めていかないといけない」

「その通り!」


 と、日野浩一が野太い叫び声で合いの手を入れたのを受け、コージはいったん言葉を切った。

 みなの顔を見回すと、少しの沈黙の後、再び口を開いた。


「でもそれは、練習だけで一朝一夕に出来るものではないし、練習と、厳しい相手との実戦の中で、こつこつと鍛えていくしかない。もちろん練習が一番大事。だから今後の練習は、もっともっとハートフルなものになります。違います、ハードなものになります。肉体的に相当きつくなります。その肉体を頑張らせるのは精神です。だから、このオフを贅沢に駆使してリフレッシュして、英気を養ってください。良いオフにしてください。日記書いたら見てあげます。以上です」

「おめえら、分かったか? 監督のいうことよく聞けよ。でもリフレッシュっつーのは、心のこといってんだからな。走り込みは、しっかりやっとけよ。暑いからって、あまりエアコンに頼るなよ。まあダイドーのうちには、そんな上等なもんないだろうけど」


 と、キャプテンである日野浩一がコージの後を続け、


「それじゃ、解散!」


 叫んだ。

 こうして、イクシオンACの全体練習は一区切り。

 数日間のオフに入ったのである。


     2

「う~ちゅうから来た、おれはハイキック魔神~。だっぜーい♪」


 がさわらしんは、包丁の切っ先を巧みに使ってキュウリやトマトなどをかりかり削って野菜のお城を作りながら、妙な歌を口ずさんでいた。


「なになに、なにそれ? なんの歌?」


 背後を通り過ぎようとしていた同僚のなしみずそうが、食いついてきた。


「ん? ああ、知らね。サッカー練習の時に、よく歌ってる奴がいてさ」


 あまりに何度も聞かされるものだから、脳内にすっかり染み付いていて、つい無意識に口ずさんでしまっていたようだ。

 ここは、ホテルグランスリール二階にある、レストランレ・オーシュの厨房だ。

 駅南口正面にある、二十階建てのこの茶色い外装のホテルは、H市の、戦後の街の発展とともに歴史を刻んできた。現在ではすっかり見た目も中身も老朽化しているが、道東で一位二位を争う一流ホテルという評判はまったく落ちてはいない。

 その評判を支え続ける要因の一つが、このレ・オーシュの存在であった。

 とはいうものの、近年の観光客減少のあおりを受けて、以前ほどの栄華は誇れなくなってしまっているのだが。

 観光客の減少は、小笠原のサッカーチームメイトで旅館を経営しているせりざわきようもおおいに嘆いているところである。

 小笠原慎二は、ここで料理人として雇われている。

 高校を出てすぐに働き始めたので、かれこれもう十年ほどになる。

 最初から、サッカーを優先する契約で入ったため、役職上の立場は低い。給料も時給制である。福利厚生もなく、国民年金や保険に入っている身分である。

 しかしながら元々のセンスもあってか料理の腕前は上の者も一目おくものがあり、こつこつ長いこと働いていることもあり、内部では実質的にそれなりの発言権や地位を得るに至っている。

 ホテルのレストランでこのような雇用形態で働く料理人も珍しいかも知れないが、彼の場合、親の職場がこのレストランの得意先ということでコネがあり、多少の自由がきいたのである。

 現在は、実力を認められて堂々と働いているが。


「で、どうなん? そのサッカーはさ」


 梨水聡太が尋ねた。

 よく聞かれる質問であった。

 彼に限らず、色々な人から。

 気になるのならネットで調べれば分かることだが、しかし五部リーグなど、情報にたどり着くのもなかなか大変だし、そんな労力を費やすほどまでには興味はないのであろう。単に、ここにスポーツをやっている者がいるから聞いてみる、という程度で。

 だから、もしも小笠原が、もっと情報を得やすいJFL所属の選手であったとしても、周囲の反応は変わらなかっただろう。

 実際、小笠原の知人の大半は、彼がサッカー選手であることは知っていても、イクシオンACなど名前も知らないし、教えてあげても、すぐに忘れてしまう。


「ぼちぼちでんがな」


 小笠原は、そう返事をした。

 一生懸命に語ったところで、相手にさほどの興味がないことを理解しているから。

 なお、去年の残留争い真っ只中にも、やはり梨水聡太に同じことを尋ねられ、まったく同じ返答をしている。

 そんなやりとりをしながらも、手はしっかり動かしている。

 だんだんと、野菜のお城が出来あがってきた。

 メルヘンチックな洋風の城だ。

 いま現在、キュウリの皮を切っ先でカリカリ削って、城の窓枠を作っているところである。

 鼻歌混じりで楽しく仕事しているように見えるが、よく見ると足腰がぷるぷると震えている。

 客に出すための繊細な料理を作っているというのに、時間の有効活用のためにと、爪先で立ったり空気椅子をやったりなどして、筋トレをしているのだ。

 現在、彼の所属するサッカークラブであるイクシオンACはは、四日間という短いオフに入っており、今日が初日である。

 昨日の練習終わりに、監督であるコージは、昇格に向けた辛い練習に備えてリフレッシュしろといっていた。

 ならば完全なる休みを堪能しようと、仕事の休暇までとった者もいる。大道など、「自分探し」などとガラにもないことをいって、なんと旅行に出掛けたらしい。ろくに貯金もないくせに。

 小笠原は反対に、こんな機会だからこそフルタイムで思う存分に仕事をしたかった。

 それが自分にとってのリフレッシュであり、サッカーを頑張れる活力に繋がるのだから。

 ただ、自主トレに割ける時間がほとんどなくなってしまうので、それでこのようにして効率良く筋トレで鍛えていたのだ。オフを堪能といっても、せめて身体が鈍らない程度には保たないと。

 サッカー選手として一番大切なのは九十分走り切るための心肺であり、ジョギングはさすがには出来ないため、帰宅後にしっかりと取り組むしかないが。

 ディナー用に特注を受けて作り始めた野菜の城を、ようやく完成させた小笠原。通常の調理仕事に戻ったのだが、それから一時間ほどで勤務終了時間になってしまった。

 城作りが意外と楽しく子供時代にガンダムのプラモデルを作っていた時のような気分であったため、なんだかまったく働いた気持ちがせず、見習いたちの厨房の清掃などを勝手に手伝おうとしたが、


「あー、ダメですよ先輩! おれらの仕事とっちゃ!」


 新入りのまえけんに怒られ、ぐいぐい背中を押され、追いやられることに。


「ああ、ごめんな。つうかお前それ、石鹸ついたままの手だろ!」


 前田に背中を押されるがまま、厨房の外へと追放されてしまった小笠原は、諦めておとなしくロッカールームへ向かった。

 フルタイムなど久々だし、明日にばてて仕事に差し支えても困るから、考えてみればちょうどいい時間かも知れない。

 だいたい、いつも夕方前には切り上げてしまうから、レストランの営業後までいたことなんて久し振りだ。

 自分も入って一年くらいの間は、ひたすら掃除と皮剥きばかりやっていたのを思い出した。

 サッカー練習のために夕方から抜けてしまうので、夜遅くに戻ってきて、その分は無給で掃除をした。

 時給制だし、サッカー優先の契約なので戻る義務などないのだが、自分の気が済まなかったのだ。

 朝は朝で早いものだから、ほとんど寝る暇もなかった。

 でも、料理人はそうして育つのだ。

 厳しく理不尽な環境によって。

 サッカー選手としてはどうよというところだが、ハングリー精神は身に付いたと思うし。


「じゃ、頑張れよ。先に帰るわ」


 小笠原は、ちょっと格好つけて背中越しに手を上げてみた。


「お疲れ様でしたっ」


 後輩たちの挨拶の声の中、小笠原は薄暗い通路をいそいそとロッカールームへと向かった。

 仕事を終えて帰ると決まったのならば、一秒でも早く帰りたい。

 弟のしゆんざぶろうが今年大学を出て札幌で働いているのだが、今、兄の住むアパートに遊びに来ているのだ。

 一緒に、遅くまでビールでも飲もうと思う。

 なおシュンはH市に三日間ほど滞在する予定で、二日目である明日は、久々に幼なじみのバンに会うらしい。

 きっと、驚くぞ。

 村山伴と会った時の弟の反応が楽しみで、思わず笑みのこぼれてしまう小笠原であった。

 今日は絶対に内緒にしておこう。どんなに酔おうとも。


     3

 あれ……

 なんだろう。

 ちょっと、変わった?

 変わった、よな。

 でも、なにが?

 なにが、変わった?

 分からない。

 相変わらず、おとなしいし。

 優しいし。

 ……そうなんだよな。ほんと、優しいんだ、こいつはさ。

 薄給のくせに、これまで心配かけたからとかいってかかさず親に仕送りしているし。



 などと心に呟きながら、がさわらしゆんざぶろうは頬杖をついてニヤニヤと笑っている。

 川の小さな土手に腰を下ろし、河原の広場で一人ボールを蹴っている幼馴染の青年をずっと眺めている。

 幼馴染の青年、むらやまばんはならべた小石をカラーコーン代わりにドリブルの練習をしている。

 久しぶりに見るが、相変わらず上手である。

 まるでボールを手に持って駆け抜けているかのようだ。

 動作に無駄がない。

 一つの動作が、次のための予備動作にもなっているのだ。試合は相手がいるものだから、そう簡単にはいかないとしても、優れた技術を持っていることに間違ないだあろう。

 こつこつと練習してきた成果というだけではなく、元々の才能も多分にあるのだろう。

 さすが、J2といえどもJリーグのクラブからスカウトされたことがあるだけの人材だ。

 兄貴から聞いた話によると、彼はいまでもやはり一人別格の、Jリーグレベルといってもおかしくない実力を持っているとのこと。

 それなのにスカウトを断ってしまうなんて、本当にもったいない。

 夢見て頑張るげど、でもなりたくてもなれない、そのような者がたくさんいるというのに、チャレンジすらしないなんて。

 まあ、親友がそう考えたのであるならば、それはもう尊重するしかないのだが。

 俊三郎は、中学二年生の夏まで村山と一緒にサッカーをやっていた。

 その年の、夏の大会で大怪我を負ってしまった。

 左膝十字靭帯断裂及び、左膝半月板損傷。

 手術の後、十ヶ月にも渡るリハビリ期間を経て復帰を果たしたものの、既に仲間たちとの技術差が大きく開いてしまっていた。

 もともと、それほど上手でもなかったし、名前の通り俊足だけは自慢であったがそれすらも後遺症のため失われてしまった。常々自分には才能がないと悩んでいたことであったし、これは天が教えてくれた良いきっかけなのだ、とサッカーをやめた。

 それからは、サッカーに限らずスポーツそのものをまったくやっていない。

 勉強勉強で毎日を過ごしてきた。

 だからすっかり体力も衰えており、今日もつい先ほどまで村山と一緒にボールを蹴っていたのだが、あっという間にバテてしまい、早々に一人切り上げ、後はずっと眺めているというだけであった。

 村山はドリブル練習を終えて、リフティングをしている。

 このリフティングもまた、実に上手であった。

 最初は右足の甲、左足の甲、俗にいうちょんちょんリフティングを続けていたのだが、やがて蹴り上げて腿、さらに額、そこでしばらく静止させ、ころりと肩にこぼれさせ、踵で蹴り上げ、額、額、と跳ね上げ、前に落として腿、腿、足の甲。

 これは絶対に、地面に落としっこない。と、少し見ているだけでそう安心が出来るような、それは素晴らしい技術であった。

 曲芸のようにボールを蹴り上げ続ける村山へ、別のボールが、遠くから飛んできた。

 蹴り損ねたのか、少し離れたところにあるもう一つの広場から。


「おい……」


 気付いた俊三郎が、注意を促そうと腰を浮かしかけたその時である。

 村山は、自分の蹴っていたボールを背中越しに踵で、真上へと高く飛ばしていた。

 そして、隣の広場から飛んできたボールを、ほぼそのままの弾道で蹴り返すと、真上から落ちてきた自分のボールを足の甲に受けて、何事もなかったかのようにリフティングを続けた。


「ありがとう!」


 隣の広場で遊んでいる小さな子供たちが、元気のよい声で礼をいった。

 それからしばらくして、その子供たちが村山のほうへと近付いて来た。


「三三でやりたいんだけど、人数が一人足りないんだ。怖い顔の兄ちゃん、一緒にやらない?」


 小学生の高学年であろうか。五人。一人、女の子もいる。


「いいよ」


 村山は快諾すると、さっそく子供たちに混ざって、三対三のゲームが開始された。

 大人のハンデということか、村山は女の子のいる側に。

 俊三郎にはすぐ分かったが、どうも村山は、子供たちに気付かれないように手を抜いているようであった。

 なんだか、とっても楽しそうだ。

 子供たちも。

 村山も。



 あ…

 分かったぞ!

 なんだ。

 そういうことか。



 村山伴の、なにがこれまでと違うのかが分からずもやもやしていた俊三郎であったが、子供たちの表情に回答を貰って、すっきりとした気持ちになっていた。

 そして、自分の鈍感さに、我ながら呆れるばかりだった。


     4

「宇宙から来たあ、おれは、そうおれはあ、ハイキック魔神、ゼットゼットゼェーーット! チャージ完了ゼットゼーーット! チョイスは完璧ィ、パイオニーア!」


 ここは根室市。

 根室駅近くにある児童公園で、ジャージ姿の茶髪青年が奇妙な歌を口ずさみながらボールを蹴り上げ、リフティング練習をしている。

 おおみちだいどうであった。

 まったくなんの意味もない言葉を繋ぎ合わせただけの歌詞であるが、なんとなく口にしているうちにそれなりに曲らしきものが完成してしまい、なおもそれを口ずさんでいるうちに癖になってなにかにつけて歌うようになってしまったのである。

 軽快な曲のリズムとは裏腹に、手足の動きは実にぎくしゃく。

 また、ももで変な方向に跳ね上げてしまい、ぽてりと落としてしまった。

 リフティング、下手くそである。

 誰にいわれるまでもなく、自分でよく分かっている。

 なにせ十回も続かないのだから。

 芹沢恭太が、百回以上もこなせるくせして自分は下手だからなどといっているのを見ると、本気で首を絞めたくなってくる。確かに百回などたいしたことないかも知れないけど、でも百回も出来りゃ上等じゃねえか、と。

 まあ、十回が千回であろうと、実際の試合にはあまり関係のないものではあるが。

 自分の仕事はリフティングの回数を競うことではなく、試合で点を取ること。ただそれだけなのだから。

 こんなもの、単なるウォーミングアップだ。 

 大道が、はるばると根室市までやってきた目的は、心身リフレッシュのための観光である。

 サッカークラブのオフ期間を利用して、ついでに仕事も休みを貰って、一人旅にやって来たのだ。

 チームの仲間には、自分探しの旅だなどと格好の良いことをいってしまったが、そんなものに興味はない。

 まだ知らぬ自分を内面から引き出そうとしたところで、なんだかろくでもない、みすぼらしいものばっかり出てくるに決まっているからだ。

 いまのおれは、いまのおれだからいまのおれなのだ。だからこれでいいのだ。

 根室市はH市と同じ道東にあるため、旅といえるほど遠いところでもない。しかし日帰りの厳しいところに違いはなく、実際に昨日は旅館にだって泊まったことだし、旅といえば旅だろう。

 お、傷心旅行か? などとノッコさんやハッシーさんからは思い切りからかわれたが、もうとっくに、あの失恋のことは忘れている。

 マネージャのやけあずさとは、ほぼ毎日顔を合わせなければならないわけで、だから単なる記憶としては忘れ去ることは出来ないだろうが、感情としてはもう吹っ切れている。

 クラブの昇格へ向け、失恋ごときでいつまでも落ち込んでなんかいられないのだ。H市の、いや、道東の未来を背負って立つ存在なんだから、おれたちは。

 旅の餞別としてハッシーさんからカップ麺を一個貰い、昨日早朝に自宅アパートを出て、がたんごとん揺られて根室駅までやってきたのはいいが、しかし改めて財布を見れば宿代と帰りの電車賃を払うだけで精一杯。

 観光に来た以上は、旅先到着後もなにかと金がかかるのが当然であるというのに、なにも考えることなく家を出てしまったのだ。

 したがって、駅から徒歩圏内での、無料で出来る程度の観光を済ませると、もう行く場所がなくなってしまった。

 徒歩でさつ岬になど行かれるはずもないし。

 ヒッチハイクに成功したとしても、帰りも拾える保証などないし。

 行く場所がないだけならまだしも、昨日からほとんどなにも食べてない。

 はしもとひでから貰ったカップ麺を、昨日の昼に旅館で食べ、イオン根室店で試食のタコを一切れ食べたくらいだ。腹が減って、夕方に再度訪れたら、もうなくなっていた。

 と、そのような理由で、せっかくはるばるとよその観光地にまで来たというのにろくに観光もせず、単なる児童公園で下手くそな歌を歌いながらサッカーボールを蹴っているというわけであった。

 ウォーミングアップ代わりのボールリフティングを終えると、今度は小石をならべてドリブル練習。

 続いて、二メートルくらいの高さのコンクリートの壁に向かってシュート練習。壁のすぐ向こうに民家があるので冷や冷やであったが、むしろ集中力が高まる、とやり続けたはいいが、一回ボールが壁を越えて垣根を越えて民家の庭に飛び込んでしまった。

 運よく窓ガラスを割ることもなく、そーっと庭に潜入してボールを回収すると、シュート練習再開。

 二十回ほども蹴った頃だろうか。

 公園の横にある細い道路を、大学生くらいの若者が何人か、雑談をしながら通り過ぎていくのが見えた。

 一人がサッカーボールのネットをぶら下げているのに、大道は気付いた。

 この近くに、サッカーをやるところでもあるのだろうか。

 ちょっと興味を覚えた大道は、そそくさとバッグにボールをしまうと、公園を出て彼等の後をついて行った。

 五分ほども歩いて、駅前繁華街の賑わいがなくなってきたと思ったところ、突然に眺めが開けた。

 そこは木々に囲まれた、運動用の施設であった。

 入口には、根室市健康運動広場と書かれてる。

 入ってすぐのところにサッカー用の、その奥には野球用のフィールドがある。

 サッカー用のフィールドでは、年齢も服装も様々な男たちが、サッカーをやっている。一人だけ、女性もいるようだ。太った、中年女性だ。

 先ほど大道が後を追った青年たちは、大きな声で挨拶をすると、その中に加わった。

 加わったものの、それでもまだサッカーとしては人数は少なく、八人対八人だ。

 大道はピッチ脇に立ち、彼らのその様子をずっと見ていた。

 彼らは運動不足解消のためにボールを蹴っているだけなのか、あまり上手ではなかった。

 簡単なボールをトラップミスしたり、そもそもパスが真っ直ぐいかなかったり。

 でも、とても楽しそうであった。

 みんなのその笑顔、笑い声に、大道の全身はむずむずと痒くなってしまっていた。


「ね、おれも混ぜてよ!」


 半ば無意識に、叫んでいた。


「いいですよ!」


 リーダー格だろうか、あごひげを生やした男が手を上げた。


「それじゃ、おれと、交代して。もう、限界、だ」


 小太りの中年男性が、ビブスを脱ぎながら、どてどてと走ってくる。汗だくだ。


「だからこそ山ちゃんは、もっとやったほうがいいんだよ」


 あごひげの男が、笑っている。


「冗談じゃない。心臓が止まっちゃうよ。あ、それじゃあ僕のいたとこそのまま入ってよ。ボランチね」


 山ちゃんと呼ばれた小太り中年男は、大道に汗でぐしょぐしょのビブスを渡すと、自分のいたポジションを指差した。


「え、ボランチかあ。ま、いいや、どこでも。はい、分かりました!」


 元気よく返答をすると早速、汗ぐしょぐしょのビブスを身につけた。


「それじゃあ試合再開ね! ゲストさん、よろしく!」


 あごひげの男が叫んだ。

 ゲストさんとは、当然だが大道のことである。

 非ビブス組の一人が、ボールを蹴った。

 低い弧を描き、前線へと繋がった。

 そこから綺麗なパス交換で、ゲストである大道を容赦なく抜きにかかる。先ほど大道が公園から後を追い掛けた青年たちだ。

 彼らはそれなりに経験があるようだ。

 しかしそれなりでは、大道には通用しなかった。

 パスのリターンを読み、その軌道上へと走り、滑り込み、ボールをカットしていた。

 起き上がるなり一人をかわして、それにより出来たスペースを使って前線へと縦パスを送った。



 そうか……ボランチからは、こう見えるのか。

 で、あそこにいるはずなのが、おれか。

 面白いな。



 大道は新鮮に感じるこの視界を、楽しんでいた。

 先日、リーグ戦で右SBを務めた際も同じような驚きはあったが、あの時は相手のプレッシャーがあまりにきつくて冷静に楽しむどころではなかったから。

 大道からの縦パスは、前線へ上手に繋がったように見えた。しかし前線の味方は、目測を微妙に誤りトラップに失敗。転がったボールをGKにクリアされてしまった。

 ならば、と、大道は走った。前へ。

 軽く跳躍して、クリアボールを頭で受けた。上手に足元におさめると、そのまま走り続けた。

 相手のDFが近付いてくる。

 大道は速度を落とし、ボールを踏み付けた。

 二人は向かい合った。


「こっちへ!」


 あごひげの男の声。大道はすぐさまそちらへとパスを出し、DFの横を駆け抜けた。

 大道の足元に、出したはずのボールがあった。あごひげの男からのリターンを受けたのだ。

 守備のラインを完全に抜け出した。

 だが、ボールタッチが少し大きくなってしまった。

 それを見逃さず、GKが飛び出してきた。

 実は、タッチが大きくなったのは意図的。大道はそれによりGKの飛び出しを誘ったのだ。すっと加速してボールに追い付くと、GKの動きを冷静に読み、かわし、ドリブルでゴールまで運んび込んだ。

 ちょこんと蹴ってフィニッシュ。ゴールネットが揺れた。


「ゴーーーーーッル!」


 大道は両腕を天へ突き上げ、叫んだ。


「ゲストさん、すげえ!」

「ナイシューーッ」


 みんながわらわらよってきて、大道は一人一人とハイタッチ。何故か敵であるはずの相手GKまで一緒になって。

 気持ちのいい人たちだなあ。

 などと心地好さに浸っていると、突然視界がぐらりと揺れていた。

 あれ……などと思う間もなく、天地がひっくり返っていた。


「大丈夫?」

「ゲストさん!」


 みんなの心配する声を聞きながら、大道は大の字になって、青い空を見上げている。


「腹、減った……」


 ぐーーっ、とお腹が鳴った。

 みな、きょとんとした表情で顔を見合わせていた。

 そして、誰からともなく、笑いが起きていた。

 かくして大道大道は、旅先で知り合ったサッカー仲間にお茶とおにぎりを貰って、なんとか一命を繋ぎ留めたのであった。


     5

 宿屋せりざわ。

 北海道H市にある、古い旅館だ。

 夜。

 もう遅く、既に日付は変わっている。

 空には無数の、星のきらめき。

 西の向こうに、ぽっかり浮かんでいる大きな月。

 綿をちぎったような細かな雲に、月は姿を見せては隠れ見せては隠れ。

 そんな空の遥か遥か下、旅館の周囲は、しんと静まり返っている。野良犬の足音どころか、息遣いすら聞こえるくらいに。

 旅館は、繁華街のメイン通りの一本奥の、細い道沿いにある。

 十年前二十年前は、この道も深夜まで喧騒の絶えないところであったのだが、不景気のあおりを受け、そのため自然発生した他観光地との客の取り合いに負け、来訪者がすっかりと減ってしまって、近年は昼夜問わず常にこのようななんとも寂しい有様であった。

 宿屋せりざわは、古びた和風建築の旅館である。

 ところどころガタついてそうな窓からは、ぽつりぽつりと淡い明かりが漏れている。それらはみな通路からのものであり、部屋側の窓はどこも完全に真っ暗だ。

 今日は平日で、宿泊客自体がほとんどいないし、その少ない宿泊客も深夜のためとっくに就寝しているからだ。

 窓が開いて網戸になっていることもあり、ロビーから外へ、声が漏れ聞こえている。

 何人か、そのロビーにいるようで、ぼそぼそと声が聞こえてくる。

 いや、どうやら一人だけ、夜中であることをまるではばからない非常識な者がいるようで、凄まじい大声を上げていた。


「おっ! 美味いねこの酒!」


 小さなコップを片手に、低いガラガラ声を全開で一人騒いでいるのは、こういちであった。

 ずっとビールや焼酎でつまみを食べていたところ、先ほど恭太が日本酒を持ってきたのだ。日本酒党の日野としては、夜中だというのについテンションが上がってしまっていたのである。


「味なんて分からないくせに」


 隣ではながおかたくみが、やはり小さなコップを持ってちびちびと舐めるように飲んでいる。

 ロビーにいるのは芹沢恭太、コージ、日野浩一、長岡巧の四人だ。机を端に寄せて、椅子を集めて向き合うように座っている。


「今度、この酒に変えようと思ってね。酒蔵の人から、試飲用にたくさん貰ったから、お前ら二人に一本づつやるよ」


 恭太は、白い紙にくるまれた一升瓶を、日野たちに差し出した。


「え、いいのいいの? うおおおおっ、やったねっ!」


 日野は両手を突き上げて、子供のように喜んだ。まるでゴールを決めた時のようなテンションだ。


「出来れば、他の人にも飲ませろよ」

「分かった分かった。親父にちょっと味見させるよ。焼酎党だけど」


 何故、日野たちが恭太の旅館を訪れているのか。特に理由はない。

 しいて挙げるならば、恭太とコージが最近よく夜遅くまで夢などを語り飲み明かしているという、そんな時間の使い方を、日野浩一がなんだかちょっと羨ましいと思ったというところであろうか。

 思い立ったがなんとやら、その時たまたま隣にいただけの長岡を、嫌だ嫌だとぐずるのも聞かずに強引に引っ張って車に押し込んで、酒の肴を片手に突然に訪問したというわけだ。


「まあ、ノッコが味が分かるのか分からないのかは知らんが、美味いって思ってもらえたんならとりあえずよかった。これまでの酒よりもさ、仕入れ値がちょっとだけ安いんだよ。安いだけなら探すまでもなく、いくらでもあるんだろうけど、質だけは絶対に落としたくないって、うちの料理人が頑なにゆずらなくてさ。質とか、料理との相性とかさ」


 恭太はそういうと、改めて確かめるように、今後客に出すことになる新しい酒を口に含んでみた。

 不味くはないとは思うが、よく分からなかった。

 最近よくコージと酌み交わす仲とはいえ、基本的にあまり酒は飲まないので。


「まあその料理人さんのいうことももっともだよな。安いのはそりゃあ有り難いけど、それで質が下がっちゃあ客は離れていくし、難しいところなんだよな。料理に限らず、なんにしてもよ。なんていうの、価格と満足の曲線の交わるとこっつーのが、サービス業はその種類やランク、つまりはどんな客層をターゲットにするかによって違ってくるんだよな」


 その曲線を表そうとしているのか、日野は腕を交差させて妙なポーズを取りながら、当然といえば当然の理屈をさも偉そうに述べている。


「そうそう、そうなんですよねー。よく分かってますねえ、お坊さあん」


 宿直のいしだてこづえが、すすっと歩いてきて、彼らの脇のテーブルから空になった食器をせっせと回収していく。


「あの、お坊さんじゃないんだけどボク」

「あらら、和装が様になっているからつい」

「おれクラスになると、なんだって様になるんだよ」


 店番を終えてそのまま来てしまったものだから、いつも通りの着流し、つまりは和装で、なおかつ坊主頭ということで、まあ、石館さんは軽くからかったのであろう。


「あ、石館さん、それおれが片付けとくからいいよ。客じゃないんだから、こいつら」


 恭太は手を伸ばし、石館さんを止めようとするが、


「いいんですよいいんですよ。こんな景気の中でも、雇って頂いてるんですからあ」


 そう笑顔でささやきながら、細々した食器をたっぷり胸に抱え込むと、


「それじゃ」


 と、恭太にうふんとウインク一発、振り返るやふんと鼻息一発、重たい食器を精一杯に抱えてもったりもったりと去っていった。

 要するに、明るく嫌味なくこの終わらぬ不景気に恩と自分とを売り込んでいるのであろう。


「うち、厳しいっつっても人を切らなきゃならないほどじゃあないんだけど、石館さん心配性なんだよな。しょっちゅうそこのラックのお客さん用の新聞を勝手に読んじゃあ、やれリーマンショックだやれ派遣切りだ大量リストラだって騒いでいるからな。まあ、実際に旦那さんも失業して、いま札幌に出稼ぎに出て結局ろくなのが見付からずに建設現場で働いているって話だから、自分の身を心配するのも分かるけどね」


 恭太はさも同情しているような表情であったが、しかしいま一つ実感しきれてはいないようであった。

 それも当然かも知れない。

 経営そのものについては祖母や妻の愛子がすべて取り仕切っており、そのためあまりそういったことの知識や、時事問題などへの関心が薄いからだ。

 つまり気質としては、根っからのお坊ちゃんなのである。まあ、完全に任せてくれていると思えばこそ、愛子も頑張れるのであろうが。


「ああ、なんかよお、分かるなあ。石館さんの、その切羽詰まった気持ち。おれさあ、親の商売を手伝っているだけだけど、それでも肌で感じるもんな。大変さってのが。観光客が随分と減ったよなって、しみじみ思うもんな」


 偉そうに語り出す日野浩一。


「おれがガキの頃は、もうほんと観光客がうじゃうじゃいてさあ。こいつら一体どこからわいてくるんだよ、ってくらい。バイトが休んじゃうと、おれが手伝わされることになるんだけど、それが嫌で嫌でで仕方なかったよ。引っ切りなしに客が来てさあ。でも、大人になって色々と分かってくるとよ、淋しいもんだよな。土地の衰退っつーのがよ。淋しいだけじゃなく、生活もかかってくるしな。切実だよ、ほんと」


 日野浩一の家の仕事は、両親が経営する土産物屋である。

 手伝い、といっても、親が高齢になりつつあるため、日野自身が取り仕切ることもどんどん増えてきているし、おそらく将来的には後を継ぐことになるのだろう。このまま観光客が減り続けていくのならば、どうなるものかは分からないが。


「なんかさ、名物があるといいですよね。食べ物なんかの」


 長岡巧が、両手に持ったコップを意味もなく回しながら、ぼそり呟いた。


「ああ、いま流行のB級グルメか?」


 恭太は尋ねた。


「そうそう、そんなの。H市ってね、見るべき名所は多いけど、そういうのがないんですよ。名産は色々あるけど、まるまる釧路と同じで、H市の特徴になっていない。全部釧路に持ってかれちゃってるだけ。で、新しくなにかを作るとなると、まず思い付くのがB級グルメでしょう」

「シンとね、そんな話したことあるよ」


 シン、恭太たちの所属するサッカークラブのチームメイトであるがさわらしんのことだ。

 小笠原は、ホテルのレストランで料理人として働いている。それなりに発言権を得て、会議などで上の人達とやりとりをする機会も多いため、やはり観光客の激減は憂いに思うところらしい。

 彼は、「結局のところ簡単に試せるものとしてはB級グルメとか、そんなところなんだろうけど、でもそういうの流行させるのって両刃の剣なんだよな」と、難しそうな顔をしていた。


「はあ、B級グルメなんて、土産物屋は関係ないじゃねえかよ」


 職業柄、除け者にされたと感じたのか、日野が坊主頭を掻きながら不満そうにぼやいた。


「アクセサリーでも作ればいいじゃないですか。焼きそばキーホルダーとか。あとは、どこかに依頼して饅頭やスナック菓子を作る。あまだれ焼きそば饅頭とか、北海海鮮焼きそばチップスとか」


 長岡は、さも名案という表情を浮かべた。


「B級グルメイコール焼きそばかよ。けっ、俗な発想しか出来ない奴だぜ」

「はい。おれ、ニートですから。世間に出てない分、面白い発想が出来ないんですよ」


 長岡はこのようによくニートを自称する。実際には、ただ職探しをして無職というだけで、ニートではないのだが。おそらくは、精神的な諸々における自信のなさを、自らそういうことでごまかしているだけであろう。


「シンもね、あまりやりたがってはいなかったけど、うちもうちでB級グルメはちょっと無理かなあ。料理人の片石さんが、ヘソを曲げちまうから」

「うん、片石さん頭固いからねー。名前も硬い石のカタイシだったら、ぴったりだったのに」


 いつの間にかやってきていたせりざわあいが、軽口をいいながら持ってきた枝豆の皿を、そっとテーブルの上に置いた。


「おー、美味しそう。ありがとね、愛ちゃん」


 日野は愛子より二歳年下だが、平気でちゃん呼ばわりのタメ口である。

 愛子は、恭太たちの所属するサッカークラブであるイクシオンACの、先代マネージャだ。

 そこでの縁で、恭太と愛子は付き合うことになり、結婚をした。

 だから日野と愛子も、旧知の仲なのである。


「ま、同じもの作っても、それをA級だといって出すんなら喜ぶんだろうけどね」

「そうそう」


 愛子は、亭主の言葉におかしそうに頷いた。


「それじゃダメでしょう。庶民はいま、B級って言葉に躍らされているんだから。Bじゃなきゃ意味ないですよ。中身はともかく名前は」


 と、長岡が腕を組んでダメ出しをした。


「さしずめわたしたちは、E級グルメですね」


 ずっと黙ってちびちび酒を飲んでいたコージであったが、不意に口を開いた。


「え? ああ、五部リーグだから? A、B、C、D、E、か」と、恭太は指を折った。「まあ別にグルメじゃないけど」


 国内サッカーのカテゴリーで、頂点に存在するのがJリーグディビジョン1、いわゆるJ1である。続いてJ2。組織は違うが階層ピラミッドとしてはその下にJFL、そして地域リーグ一部と二部、県リーグ、これが基本的な構造だ。

 北海道だけは少し異なっており、地域リーグである北海道リーグに二部は存在していない。そのすぐ下には、北海道ブロックリーグがあり、北海道をいくつかに分断してそれぞれでリーグ戦を行うのだが、このブロックリーグが他の地域でいう県リーグに相当する。広大な北海道ならではの仕組みである。

 イクシオンACが所属しているのは、北海道ブロックリーグ。つまり一部であるJ1から数えて、国内五部リーグに相当する。


「B級グルメだからいいとかE級だからいいとかで満足せず、A級、超A級を目指して頑張りましょう。高みを目指して頑張るその姿が、感動を、そして次のお客さんを呼ぶのですから」


 一体なんのゼスチャーなのだか不明であるが、コージは思い切り両腕を広げてパタパタと振るってみせた。


「まあ、いわれなくてもよ、やれるところまで、やるつもりだよ。宇宙A級、いや、アンドロメダA級を目指してよ。そしたらよ、どんどん観客が来るようになるのかな。観光客も、もっともっと増えるかなあ」


 日野はわくわくした表情で、そこに自らの夢でも映しているのか小汚い天井を見上げた。


「増えます。間違いなく! まあここは銀河系なので、アンドロメダは別の星団ですが。でもいいですねノッコ君、その発想。サッカーで街が賑わい、街が賑わうからスタジアムにお客さんがくる。最高じゃないですか!」

「そうだよな! よっしゃあ、なんかやる気が出てきたぜえ! おれたちがサッカーで、再びこの地に活気を取り戻すんだ。英雄だぜ、おれたち!」


 日野は立ち上がり、うおおおと雄叫びを上げた。


「その意気です! 未来の英雄たちに乾杯!」


 コージも立ち上がり、コップを持った右手を高々と上げた。


「おう、乾杯!」

「ジークジオン!」


 際限なく盛り上がり続ける日野とコージ。テンションだけならば、二人は既に宇宙超A級であっただろう。

 でも、その夢を叶えるためにも、まずはしっかりと地に足を付けて、一試合ずつ勝利して、八蘇地信銀の追撃を振り切って、決勝大会に出ないとな。

 恭太はコップの酒をちびちびと口に運びながら、あらためて胸に決意を刻み込んでいた。

 地域リーグ、JFL、とステップアップした次の舞台に、おれたちが立っていられるか、そんなことは分からない。だけど、やらなければなにも始まらない。そしてその土台作りは、おれたち雑兵にしか出来ないことなんだから。

 それは当然だろう。五部リーグ所属のクラブに、年俸何千万の選手なんか、呼べるわけがない。いつかこの地に宇宙最強のJリーグチームを作って観光客を呼び込むためには、おれたちのような、才能は中途半端かも知れないけど夢だけは超一流というアマチュア選手の努力が不可欠なんだ。

 最終的には、おれたちはどこかで誰かに、夢をバトンタッチして、退くことになるのだろう。

 そうなることも含めて、おれの……おれたちの夢だ。

 礎を、築き上げるということが。

 だから、

 これからのきつい練習、頑張らないとな。

 必ず決勝大会に出るために。

 恭太は、ぐいと酒を飲み干した。

 と、せっかくしみじみと静かな闘志を燃やしているというのに、隣がバカ騒ぎで気分台なしであった。


「コウちゃん、歌います! 松園啓子の渚のふりふりスカート! ひゅっるっるっるー、ひゅっるるっるー♪」


 アルコールと夢の成分とのハーフ&ハーフで、すっかり出来上がってしまっていた日野浩一は、コップをマイクに懐メロを歌い始めた。ガラガラとした下品な大声で。

 深夜だというのに。


「ケーアイケーオーけっいっこー! ラブリーラブリーけっいっこー!」


 リアルタイム世代のほとんどの人が忘れてしまっているような、かなりマニアックな曲であるにもかかわらず、日野の振り付けも、コージの親衛隊的な合いの手も完璧。なんだか気持ちの悪い二人であった。

 一番を歌い上げ、二番に差し掛かる間奏部分を、日野が人間楽器で口ずさんでいる、その時であった。

 がしゃん、

 と、向こうの薄暗い通路から、皿が落ちて砕ける音が響いた。

 日野は歌をやめて、そちらへと視線を向けた。

 他のみんなも同様であった。


「愛ちゃん? おい、愛ちゃん……どうかした?」


 日野は、薄暗がりでうずくまっている愛子へと尋ねた。


「愛子!」


 恭太は慌てたように立ち上がると、日野を押し退けて愛子へと走り寄っていた。


「だい…じょうぶ」


 愛子は、砕け散った皿の前で両膝を付き、身体の奥から込み上げてくる吐き気に両手で口元をおさえていた。


     6

 せりざわきようは旅館で、抱えていた仕事を簡単に済ませると、ジャージ姿になってジョギングで練習場へと向かった。

 普段は自動車を利用するのだが、今日は時間に余裕があるのと、とにかく無性に身体を動かしたかったから。

 イクシオンACの選手たちは、四日間の完全休養期間を貰ったのだが、今日はまだ三日目。コージ監督からは、しっかり休んで心身共にリフレッシュするようにいわれていたのだが、毎朝のジョギング程度では、どうにもストレスが溜まるばかりで、いてもたってもいらなくなり、ついつい練習場へと向かってしまったのであった。

 一人で練習場を訪れたところで、せいぜいが芝の上を走ったり思い切りボールを蹴ったり出来るというくらいであろうが。

 それでもいい。

 芝を思い切り走るだけだって充分だ。

 と意気込んで、クラブハウスのロッカールームへと向かう途中のこと、


「あ、キョンさん」


 予期せぬ声に、恭太は肩をびくりと震わせた。

 その声に振り向くと、ドレッドヘアの長身の男、おおしろまさるであった。


「なんだ、大城か。お前もかよ」


 その言葉に、大城は頷いた。


「考えること一緒ってことですかね」

「そうだな」


 二人はロッカールームに入ると、下らない雑談などをしながら着替えを始めた。

 それから二十秒としないうちに、バタバタバタバタと慌しい足音。バン、と勢いよくドアが開いた。


「あっれえ、キョンさんたち。なんでえ?」


 きょとんとした顔で目をぱちぱちさせているのは、おおみちだいどうであった。

 まだまだ、それだけではなかった。

 三人でグラウンドへと入ると、既にむらやまばんがさわらしん、橋本英樹の三人がパス練習をしていた。そして離れたところでしゃがんでそれを見詰めている、マネージャのやけあずさの姿も。

 さらに、


「えー、なんでいるの?」


 と、自動車で到着したばかりのたきもとたかしあきぬましげおみよしけんが。

 さらにさらに、


「東口の英雄アイドルうマッハ十♪」


 ガラガラ声で大道譲りの妙な歌を口ずさみ、着流し姿で実用自転車の錆び付いたペダルをぎいぎい踏みながらやってくるのは、こういちであった。


「うおお、なんだなんだ! なんでみんな来てんだよ!」


 日野は慌てて急ハンドルを切ってしまい、転びそうになるのを踏ん張ってこらえた。

 そんな大袈裟に驚く日野の態度に、恭太は思わずぷっと吹き出していた。

 それにつられるように、大道も、小笠原も、笑い声を上げた。

 大城も、橋本も、三宅梓も。

 日野はしばらくぽかんとしていたが、やがて自らの坊主頭を叩くと豪快な笑い声を上げた。

 恭太は思う。

 結局、みんなサッカーが好きなのだ、と。



 話を聞いてみると、みんながみんな、初めはコージにいわれた通りに四日間のオフを活用しようとしていたのだが、サッカー練習が出来ないイライラが二日間で限界に達し、三日目の今日、一人でもいいからボールを蹴るぞ、とやってきたとのことであった。

 恭太と、まったく同じであった。

 オフに入ってたったの二日程度で練習場に来たい思いが限界に達するのは、それだけ現在、選手たちがみな昇格へのモチベーション高く保ってサッカーを出来ているということであろう。

 そして、八蘇地信銀の追撃を恐れているということであろう。

 みなとにかく、練習をしたいのだ。

 自信を深め、不安を払拭するためには、とにかく練習しかないのだから。

 とにもかくにもこのようにして、誰も予期していなかった集団自主練が開始されることになったのであった。


「暑いけど、気合い入れていくぜー!」


 結局、仕切るのはいつも通り、日野浩一であった。


「特にキョンさんはよお、生まれてくる跡取りのためにも、頑張んねえとな」

「バカ、ノッコ! いうなっていったろ!」


 恭太はびっくりして、声を荒らげ日野を睨み付けた。


「あ、やべ……。まあ、いいじゃねえか。めでたいことなんだから」


 日野は坊主頭を掻いて、ごまかし笑いを浮かべた。


「え、なになに? キョンさんとこ、おめでた?」


 小笠原に尋ねられ、恭太は仕方なく頷いた。


「へー、おめでとうございます! うわあ、キョンさんと愛子さんの子供かあ」


 大道がなんとも幸せそうな表情で、祝福の言葉を投げた。


「お前こら、なんで黙ってたんだよ!」


 高校時代からの親友である後藤権三が、肘で恭太の脇腹を結構本気でつついた。

 他のメンバーからも、ひゅーひゅーと冷やかされて、恭太は少し照れたように下を向いてしまった。



 妻の愛子が、吐き気を訴え病院に行ったのは昨夜、正確には今朝早朝のことである。

 診察の結果、妊娠が判明した。

 直前まで一緒にいた日野やコージには、心配をかけた手前、電話で診察結果を正直に伝えたものの、まだ安定期にも入っていないため、しばらくは黙っているように口止めしておいたのだ。



 それが、こいつときたらまったく。

 もう日野には内緒話は絶対にしないようにしよう。

 心に硬く誓う恭太であった。


「よし、お子さん生まれたらよ、北海道リーグ昇格おめでとうと合わせて、ゆりかごダンスしようぜ!」


 と、日野が早速ゆりかご揺らす動きを始めた。かごの赤ちゃんが泣いて引き付けを起こしてしまいそうな、実に不器用で激しい踊りであった。


「いやでも、予定日来年の二月だからなあ。昇格出来たとしても、リーグ開始はその三ヶ月後だろ。開幕戦でゆりかごも今更って頃だし、もう昇格決まって半年も経ってるんならおめでとうもなにもないだろ」


 冷静な恭太。


「ったくよ、せっかくおれたちが祝ってやろうってのに、妙な時期に仕込んでんじゃねえよ、あいてっ!」


 あまりの卑猥な言い草に、日野は女子マネージャ三宅梓から容赦のない顔面パンチを喰らったのであった。


「まあ、まだ先のことは分からん。いまはとにかく練習するだけだよ」


 恭太は少し緩みかけた表情を締めると、すっと立ち上がった。

 そして、拳をぎゅっと握った。

 未来を少しでも幸せなものにするためにも。

 誇りを持った仕事をしたのだということを、いつか子供に伝えるためにも。

 やるぞ。

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