第四章 首位

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 六月二十四日 日曜日

 道東ブロックリーグ 第五節

 イクシオンAC 対 バンビーボーイ

 会場 H市営臨海陸上競技場


 負けた。

 相手は、降格の最有力候補であるというのに。

 第四節を終えた時点での、ぶっちぎりの最下位であるというのに。

 そんな相手に対して、イクシオンACは敗れた。

 スコアは1-0。僅差ではある。が、いっそのこと、相手に内容面で上回られて複数失点で敗北していたほうが、選手たちの気持ちとしてはよほど楽であったかも知れない。よほど落ち込まずに済んだかも知れない。

 試合そのものは、イクシオンACがほぼ完全に支配していた。

 圧倒的にボールを回せていた。

 シュートを打てていた。

 ピンチもほぼないに等しかった。

 それにもかかわらず、負けた。

 これほどに、もやもやの溜まる試合があろうか。

 勝点3、取れていたはずなのに。

 敗因は、運も含めて様々な要素の組み合わせではあろうが、それをあえて個人に求めるのであれば、むらやまばんにあるといえるであろうか。

 村山伴、右SBの選手である。

 前半途中からなんとも弱気なプレーを連発するようになり、そこを上手く突かれ、サイドを破られ上げられたクロスに合わせられて失点、残り時間はまだまだたっぷりとあったが、しかししっかりと守り切られてタイムアップ。

 なおその得点が、バンビーボーイの放った唯一のシュートシーンであった。

 村山はもともと強気なほうではなく、というより、どちらかといわずとも弱気な性格である。

 しかしサッカーでは、自分のそんな性格となんとか上手に付き合いながら、それなりに活躍を見せていた。だというのに、今日、試合にならなくなってしまうくらいの異常なまでに弱気なプレーを連発するようになってしまったのは、相手選手とのちょっとしたいさかいがきっかけであった。

 村山のスライディングタックルを受けて転ばされた相手が、思いのほか激昂し、掴み掛からんばかりの勢いで詰め寄ったのだ。

 本当にサッカー選手かと思いたくなるほどに、本当に血液B型なのかと思いたくなるほどに、気が弱くていつもおどおどしている村山は、その勢いに飲まれてすっかり畏縮してしまったのだ。

 金髪、眉なし、釣り目に、こけた頬、まるで暴力団事務所の、鉄砲玉の若僧のような外見をしているというのに。

 ボランチのこういちが、村山やその周囲に、より気を配るようにしたため、失点後はチームとしては特にピンチらしいピンチを作られることもなく、むしろ圧倒的一方的に攻め立てたのであるが、前述した通りとにかくその一点を身体を張られて守り切られてしまったのである。

 こうしてイクシオンACは、相手に比べて実に三十倍ものシュートを打ちながらも、苦汁を飲まされる結果となったわけである。

 ただし、試合後に選手たちへかけた言葉によれば、コージ監督は試合に負けたことそのものについてはさほど気にしてはいないようであった。



 あれほどガチガチに相手が引いたのは、ただ相手が先制したからというだけではなく、こちらが強いと思われているからであろう。

 相手は最下位である。であれば残留のためにその虎の子の一点を、それこそ死に物狂いで守ろうとしたところで、なんら不思議はない。

 運不運もあり、とにかく今日は守り切られてしまった。

 ただ、それだけのことだ。

 だから、最下位相手に負けたことを気にする必要はまったくない。最下位相手だからこそ負けた、ともいえるのだから。

 今回の結果で、自分たちが自信を失う必要はまったくない。

 内容としては圧倒的に上回っていた。確実に自分たちは強くなってきている。それは間違いのない事実なのだから。



 と、このような理由によるもの。

 とはいってもなあ、と、選手たちの気持ちは簡単には晴れなかったかも知れないが、


「え、本当? おい、八蘇地信銀が負けたってよ!」


 日野浩一が、スタッフから聞いた情報に表情を一変させた。

 他会場で同時刻に行われていた試合、首位である八蘇地信銀が、審判のジャッジに泣かされて二人の退場者を出し、0―3で負けたというのである。

 八蘇地信銀は開幕三連勝、そして前節にドローで勝ち点二を失い、そして今節の痛恨の敗戦。

 イクシオンACは、開幕戦は八蘇地信銀に敗れ、その後三連勝、そして今節の敗戦。

 八蘇地信銀が一位、勝ち点一差でイクシオンACが二位。そして両者は次節に直接対決を迎える。


「引き離されたかと思ったけど、首の皮が繋がったぜ」

「いえ、むしろそれ以上かも知れませんよ。わたしたちの、今日の負けによって」

「あっ」


 日野浩一は、コージの言葉にはっと目を見開いた。

 つまりは、こういうことであろう。

 もしも今節、イクシオンACが勝利していたならば、八蘇地信銀を抜かして首位になっていたことになる。そうなっていたならば次節、八蘇地信銀は全力をあげてイクシオンACを叩き潰しに来たであろう。

 八蘇地信銀はやはり間違いのない今期における道東の強豪であり、万全の準備をした彼らに挑まれることは、まだ成長途中といって過言でないイクシオンACにとって脅威以外のなにものでもなかったであろう。

 追われるプレッシャーを一週間も受け続け、精神的に参ってしまっていたかも知れない。

 しかし現実として、八蘇地信銀に付き合うようにイクシオンACも敗北を喫したため、順位が入れ替わることはなかった。

 これによる大きな効果は二つ。

 イクシオンACが最下位に負けたということによる、相手の油断。やはり、たまたまこの順位にいるだけで、たいしたチームではないのだ、と。

 そして、八蘇地信銀のほうこそピタリくっつかれて追われる緊張感の中、次節を迎えることになるということ。去年まで毎年残留争いをしていた弱小クラブに追い抜かされるかも知れないという、なんともいえない不気味な思いを味わいながら。

 もしそう思っているのならば、油断などせず全力でイクシオンACに挑んできそうでもあるが、とにかく八蘇地信銀として複雑な心境になることは間違いのないところであろう。

 勝ち点でのリードというものが一番の優位点なのではあろうが、しかしこのような点を踏まえて精神云々を論ずるのであれば、次節はイクシオンACが絶対的な優位にあるといっても過言ではない。

 相手に重圧をかけて押し潰し、直接対決で勝利して勝ち点で追い抜いた後は、事実首位に立ったのだという自信を持って、残る下位相手との試合をすべて勝ち、追撃を振り切るだけだ。


「それよりも……」


 コージはちらりと、一人の選手へと視線を向けた。

 おどおどとした視線を泳がせながら、じっと俯いている村山伴へと。


     2

 国道二××号線。

 トラックが黒い煙と爆音をぼーぼーと上げて、引っ切りなしに行き来をしている。

 ここはH市の郊外。

 広大な周囲を草に囲まれた一本道に、ぽつんと建物が立っている。

 大きな横看板には、糸矢モータースの七文字。

 空を見上げれば雲一つない、澄み渡るような気持ちのよい晴天であるというのに、ガレージの中では雷雲が漂うどころか大きな雷が落ちまくっていた。


「バカ野郎!」


 オヤジさんことゆうは、そう叫ぶとむらやまばんの頭に容赦なくゲンコツを落とした。四十年分の油のにおいの染み込んだ、タコでごつごつとした拳を。


「すんません。すんません」


 村山伴はおどおどとした顔や物腰で、慌ただしく何度も頭を下げた。


「おれに謝るのは、まだいいけどよ、なんでさっきの客に謝んだよ。お前、なんか悪いことしたのかよ。調子に乗るだろうが、ああいうクソッタレなバカ客がよ!」


 ここは自動車の整備工場。

 村山伴は、整備士として雇われている。

 彼は先ほど、事故でドアがボコボコに陥没した自動車の修理を行い、それにかかる費用について客と揉めたのである。

 揉めたというよりは、一方的な難癖をつけられたといったほうが正しいだろうか。

 余りに酷い損傷であったため、時間をかけででもメーカーに発注して、ドアそのものを取り替えない限り完全には元の状態に戻らないことを事前に伝えていた。「それでも良い、急いでいるから出来る範囲で良い」、ということで請け負ったのに、いざ修理が終了してみれば「直せていないくせに、法外な金ばかり要求している」と客がケチを付けてきたのだ。

 それに対して村山が、すみませんすみませんとただ頭を下げるばかりなので、野津が間に入って客に料金の説明をしてやった。

 運転が乱暴なのか人様から相当に怨まれていて悪戯されたのか知らないが、とにかく状態があまりにも酷いため、修理にはかなり苦労をした。

 ドア交換以外の方法としては、完璧に近い対処のはずだし、たかだか数万ではほとんどこちらの儲けも出ておらず、しかもこの苦情のために他の仕事にかかれないことを考えると完全にマイナスだ、と。

 客は見るからに頭の悪そうな茶髪の若いカップルであったが、体は実を表すのか実が体を表すのか、やはり野津の説明をノミの糞ほども理解が出来なかったようで、ブチ切れ、騒ぎ、唾を吐き捨て、ビール缶を叩き付け、「ネットに書き込んでやる!」と捨て台詞を残し、二人して一心不乱に携帯電話の画面を食い入るように見詰めてカチャカチャいじりながら去って行ったのであった。

 そうした事態を招いてしまった村山の対応を、野津は叱っていたのである。


「本当、すんません」


 村山は、また頭を下げた。


「おうおう、謝れ謝れ。でもなあ、さっきみたいなアホ客のイチャモンに絶対に謝んじゃねえよ! お前が親切丁寧に仕事してよ、ぼったくりだなんだなこといわれてよ、なにがすんませんだバカ野郎! 見ててこっちが悔しくなるし、お前だって窮屈だろうし、それよりなによりうちの信用が落ちるんだよ!」

「はい」


 すっかり身を縮めて小さくなってしまっている。


「お前さ、若いくせに腕は生意気にいっちょ前のモン持ってんだからよ、自信持てや。な、このボケナスがよ。ちっちぇえ心臓しやがってよ、このクソがよ。同じくらいの年齢の奴らにゃあ絶対に真似出来ないような最高の仕事して謝ってんじゃねえや、唐変木のドアホウが。もう仕事に戻れや、ボケミソが」


 けなしているのか褒めているのか、なんだか分からないオヤジさんであった。


「はい」


 村山は消え入りそうな小さな声でぼそりというと、仕事に戻った。

 現在の言葉では、草食系などというのだろうか。おとなしい男であった。

 女性のように、いや、それ以上に気はきくのであるが、しかしながらとにかく気が弱く、はっきりと自己を主張したり、怒ったりすることが出来ない。

 選択権も、すぐ相手に委ねようとする。

 なにごとも、まず穏便に済まそうとする。それは穏やかな性格だからというよりも、怨まれたり、喧嘩をすることが嫌だからである。

 だから、なにも悪くなかろうともすぐに謝ってしまう。まるで弱腰の日本外交である。今回のように相手が調子に乗って、ますます自らを悪い立場へ追い込んでしまうこともたびたびあるが、だからといっていまさら性格は変えられない。

 幸いにして、高校を出てすぐに就いたこの職場では、みんなが自分を理解して庇ってくれるので助かっているが。

 容姿だけで判断するならば、村山伴という男は非常に怖い。ひょろりとした体型、金髪、釣り目、こけた頬、さらには眉毛がない。高校の頃に脱毛してしまったのだ。

 しかし性格はその正反対。幼い頃からいつもおどおどとしていて、すぐに自分を責めて落ち込むような性格であった。

 そんな自分との付き合いに疲れて、わざわざレベルの低い、不良生徒のうようよといるような高校に入学をした。

 そこで彼も、いかにも不良生徒ですといった格好をした。形から入り、このような集団の中において地味に溶け込むことによって、密かに自信をつけようとしたのだ。周囲に影響されないような鈍感さを、身につけようと考えたのだ。

 それで自分が救われるのであれば、悪い奴になろうとも構わない。本気でそう思っていた。

 それくらい、弱い自分が嫌いだったのだ。

 しかし結局、良くなることも、悪くなることも、出来なかった。

 性格も、なんら変わることはなかった。

 ただ三年間をびくびく肩を縮めながら過ごした、と、それだけであった。


     3

「はあ、不良になってみれば、小心な自分から卒業出来ると考えたってわけか」


 がさわらしんは、駅前の通りを歩いている。

 すぐ隣には、ひょろっとした金髪青年、むらやまばんが一緒だ。

 小笠原は、村山を喫茶店に誘ってコーヒーを奢り、色々と話を聞いて、数分前に外へと出たところだ。

 続きを、歩きながら話しているというわけである。


「はい、でも出来ませんでした」


 金髪の青年はうなだれ、地面に視線を落としている。それはいつものことであるが、今日は首の角度がさらに七度ほど下向きだ。


「まあ、それはそうだよ。そんなんで、人間の根本が変わるわけがないだろう」

「……シンさん、変わったじゃないですか。シュンが、そういってましたよ」


 相変わらずの村山のぼそりぼそり声だが、不満なのか少し口を尖らせたような表情になっていた。


「え、おい、シュンそんな余計なこといいやがったか」


 小笠原俊三郎、慎二の弟である。村山とは小中と同窓生の仲だ。

 慎二と村山は四歳差であるが、俊三郎を通じて小さな頃からの知り合いなのである。

 俊三郎も幼い頃に村山と一緒に少年サッカー団に入っていたが、もうサッカー自体を辞めている。


 なお、村山をイクシオンACへと誘ったのは、慎二である。

 村山は高校時代に、Jリーグのクラブからスカウトを受けたことがある。非常識にも、自信のなさに迷った挙げ句その話を蹴ったのであるが、それならうちに来てのびのびとサッカーをやるといい、と慎二が声をかけたのだ。


 話を元に戻そう。

 村山と同様に、小笠原慎二も自分を変えるためにあえて不良の多い高校に行ったという話だ。

 慎二は特にいじめられていたわけではない。しかし、やはり気弱な自分が好きではなく、日々の生活の中で自己主張の出来ない自分に不満をつのらせていた。心機一転、これまでの自分を捨てて生まれ変わるべく、あえてガラのよろしくない高校へと通うことにしたのである。


「バン、成績よかったくせに紋二高なんか行っちゃたのって、もしかしておれのせい? おれは、実際に頭が悪かったからってのもあるんだけど」

「はい」


 村山はぼそりと、しかしはっきりと頷いた。

 そして、続けた。


「でもおれは、ダメでした。まったく、変われませんでした」

「根の根がな。もうおっとり善良に出来ちゃってるもんな。蟻ん子踏み潰しても、うなされて眠れなさそうだもんな」

「なんでそれ、知ってるんですか? おかげでおととい、職場に遅刻ましたよ」

「ああ…そうなの? まあ、そうした性格であることで本人が楽だというんなら、別にいいんだけれど」

「楽なわけないでしょう」

「だよなあ」


 そうでなければ、成績優秀なくせにわざわざ不良の巣窟みたいな、しかも通学にやたら時間のかかるような高校に行こうとするはずがない。


「あ、じゃあおれここに用があるから」


 雑居ビルのところまで来ると、小笠原慎二は、その玄関階段を上り始めた。

 小笠原は、ホテルで調理師の仕事をしている。

 サッカー優先であるため、契約上はアルバイトのようなものであり、役職上の立場は下のほうであるが、料理の腕前は認められて重宝もされており、後輩をアゴで使ったり、それなりの発言権も持っている。いわば、サッカーを辞めた後のセカンドキャリアが既に保障されているような身分である。

 付き合いのある会社から、今度行われる地元の祭での、出店のメニューについての助言を求められて、コック長の代理としてこの中にある店へとやってきたのだ。


「コーヒー、ご馳走様でした」


 村山は、深く頭を下げた。


「おう。じゃあ、後で練習でな」


 小笠原は片手を上げた

 村山は、一人歩き出す。

 相変わらずの、しょんぼりとした元気のなさそうな顔で。

 生来の顔の作りがそうなっているせいもあるのだろうが、しかし実際に、元気がないようであった。せっかく小笠原に色々と悩みを聞いて貰ったというのに、それがまったく解決に繋がらず、時間をとらせたことに申し訳ない思いで一杯なのだろう。彼はそういう、優しい性格なのだ。

 村山の姿が、小さくっなった。


「で、この後なにがどうなるってんだよ」


 小笠原慎二の呟き。

 まだ建物の中には入ってはおらず、去り行く村山の背中をずっと見詰めていた。

 仕事の件でこの雑居ビルへ訪れたというのは本当であるが、実はもう一つ目的があった。

 駅前繁華街に、村山を連れ出すという目的が。

 コージに頼まれたのだ。

 むしろ、その頼みを聞いたからこそ、コック長の仕事を強引に奪って、繁華街の雑居ビルへと村山を連れてやって来たのである。

 詳しい話は特にコージから聞かされてはいないが、とにかく村山のためであるということであったし。

 と、その時である。


「てめえ、痛えだろうが!」


 村山の去って行ったほうから、低くガラガラとした怒鳴り声が聞こえてきた。それにびっくりして、小笠原は肩をすくませた。

 首を伸ばして見てみると、村山の進路を塞ぐように、三人の男たちが立っていた。

 三人とも、派手な柄のシャツを着て、サングラスをかけている。

 って、おい、なんだありゃ、バンの奴、チンピラにからまれちまってるよ……

 小笠原は心の中で舌打ちすると、階段を駆け降り、村山たちへ向かって走り出した。

 村山だって、チンピラとまではいかないが、他人が見れば同じ畑に感じておかしくない、そんな外見であるが、しかし実は、彼はとにかく優しく臆病。あんな連中に太刀打ち出来るはずないし、あしらい方だって知らないだろう。

 なんとかしないと。

 走る小笠原。さすがサッカー選手の脚力、ぐんぐん彼らへ近付いて行く。

 だがすでに村山は、男たちに完全に取り囲まれてしまっていた。逃げるのは難しいだろう。どうしたものか。

 

「兄貴、おい、兄貴! 大丈夫か? てめえ、兄貴の肩が抜けちまったじゃねえか!」


 一番の若者らしい男が、大袈裟に騒ぎ立てる。


「兄貴になにをするんですかぁ。絶対に許しませんデース!」


 なんだか外国人のようなイントネーションで、リーゼントの男が凄んだ。

 肩を押さえてうずくまっている坊主頭が兄貴分のようで、残る二人、若僧と外国人っぽい中年の男が、凄みをきかせながら村山へと顔を寄せた。


「うわああああ!」


 村山は恐怖に絶叫し、尻餅をついた。

 完全に腰を抜かしてしまっているようであった。


「あの、済みません! そいつがなにか?」


 小笠原慎二は走りながら、遠目から叫んだ。バンの脳細胞が恐怖に自己崩壊を起こす前に、と。

 ん?

 小笠原の頭に、疑問符が浮かんだ。

 段々と視界に大きくはっきり映ってきた、彼らの容姿に対し。

 ちょっと待てよ。

 ひょっとして、あの三人って……


     4

「バカじゃねえの、おめえら!」


 小笠原慎二は声を荒らげた。

 何事かと他の客が顔を向けたが、まったく気にする様子もない。

 小笠原のすぐ隣では、村山伴がおり、先ほどから机に突っ伏している。

 う、う、と声を詰まらせている。

 いまの小笠原の声が引き金にでもなったのか、

 くーーーーっ、

 と、声を上げて泣き出してしまった。


「ほらあ、ますます落ち込んじまったじゃねえかよ! どうしてくれんだよ!」


 小笠原は、バンバンと手のひらで机を叩き、睨み付けた。

 対面の席で、実に窮屈そうに肩を寄せ合い座っている、コージ、こういちおおみちだいどうの三人を。

 コージは、昔のコントに出てきそうな先端のくるくる巻かれたリーゼントのカツラをかぶっており、反省しているのかしていないのか、そのくるくるを引っ張ってはパチンと離したりを繰り返している。

 他の二人はまだ常識があるのか、少しばつ悪そうにおとなしくしている。

 ここは居酒屋兼家庭料理の店、ぷうりん。イクシオンACの所属選手である、とうごんぞうの経営する店だ。練習後に小笠原が、「こいつら三人に奢らせてやるから」と、嫌がる村山を無理矢理に引っ張って連れて来たのだ。


「バンを駅近くに連れ出せっていうから、なんか気のきいたことすんのかなと思ってたら、なんだよありゃあ! チンピラの振りして脅かしただけじゃねえか!」


 また小笠原は、手のひらで思い切り机を叩いた。


「だってノッコさんが……」


 大道大道は下を向いて、日野浩一の顔をちらちらと見ながら、両方の人差し指を、つんつんと突き合わせている。


「だってコージが……」


 日野浩一も、大道の真似して指つんつん。ごつい顔に坊主頭にガラガラ声なので、似合わないことこの上ない。


「だってダイドー君が」


 と、コージも肩を縮めて指をつんつん。


「ちょっと、そこループさせてどうすんの? コージ監督でしょ、やろうっていい出したのは!」


 大道がたまらず抗議した。


「誰だっていいんだよ!」


 小笠原は、ストローをアイスコーヒーのグラスに突き刺して抜くと、三人に向けて振るって、ピッピピッピと黒い水滴を飛ばし始めた。

 なにがあったのか、もう多くを語る必要はないとは思うが、ある程度は触れておこう。

 駅近くで、村山伴に絡んでいた三人組のチンピラ風の男。あれは、日野浩一と大道大道とコージであったのだ。

 極限状態に追い込むことで、村山の内部から男を引き出そうというコージの提案であったのだ。

 結果はこの通りであるが。

 民明書房の死夜苦シヨツク療法がどうとか、コージは必死に弁明していたもの、ますます暗くおどおどした感じに村山がなってしまったというのが現実であった。


「心臓がガラスなんだからさあ、こいつは。もう生来のものなのよ。B型とはとても思えないけど、こいつきっと魂がA型なんだよ。魂がA型の乙女座なの。な、バン」


 小笠原はそういうと、慰めるように村山の背中を叩いた。

 村山は、机に伏せたきり。鼻をすする音などをさせながら、時折うっと詰まらせている。


「でもバン君、それでいいと思いますか?」


 コージは真面目な表情になり、突っ伏している村山を見詰めていた。くるくるリーゼントのカツラをかぶっているので、なんとも冴えない様子ではあったが。


「あなたの人生、あと六十年あります。今後、一生、自分がそれでいいと思っていますか? 自分の胸に手を当てて、考えてみて下さい。大事な問題ですよ、顔を上げて、こっちを見て、ちゃんと考えなさい。さあ、顔を上げる!」


 コージのその力強くも優しい言葉に、村山はゆっくりと、顔を上げた。

 彼の視界にドンと飛び込んできた光景は、身を乗り出して恐ろしい形相で凄んでいる三人の超ドアップであった。


「うわああああ!」


 村山は絶叫しながら、飛び上がった。

 昼間に感じた恐怖が、甦ってしまったのであろう。

 もうあれは変装だったのだと分かっていようとも。


「お前らあ! ほんと殺すぞ!」


 小笠原が怒鳴り声を張り上げるが、三人はまるで聞かず、今度はサングラスを取って、睨めっこのような変な顔を村山へと突き出した。ほっぺた膨らませたり、唇突き出したり、顔をくしゃくしゃにして目を見開いたり、舌をレロレロさせたり。


「うわあああああ!」


 村山は両手で自らの頭を抱え込んだ。


「脅かしてませんよ。いまの全然脅かしてませんよ。楽しませようとしただけ。だから彼が泣いたの、わたしたち関係ない!」


 コージは無実の証明が出来たとばかり、嬉しそうにそういうと、わーいと両手を上げてはしゃぎ出した。


「そこまでに追い込んじまったんだよ! 関係ないわけあるか!」


 小笠原はまた、ストローでコーヒーをピッピと飛ばした。


「さっきからなにやってんだ、お前ら?」


 ここの店主でありイクシオンACのチームメイトである後藤権三が、怪訝そうな表情で、軟骨の唐揚げとタコスサラダとろとろソースがけの皿を運んできてテーブルに置いた。


「ちょっとね。ほら、お前の大好きな軟骨の唐揚げがきたぞ、全部食え」


 小笠原が、慰めるように皿を村山の前へと滑らせた。


「いえ、おれ唐揚げ系全般嫌いです」


 ぼそ、とした口調ながらもそういった主張だけはしっかりとする村山であった。


「え、そうだっけ?」


 小笠原は一つを指で摘んで、自分の口に放り込んだ。美味いのになあ、などと呟き咀嚼しながら。


「バン君、自分のこと好きですか?」


 コージが突然、なんの脈略もないようなことを尋ねた。


「嫌いです」


 村山、即答であった。


「唐揚げ全般と、どっちが嫌いですか」


 その妙な対比に村山は、今度は少し考え込んだ。


「唐……いや、おれのほうが嫌いです」

「いけません。好きでいてください。唐揚げも、自分のことも。バン君は二十三歳ですよね。もうそんなに、生きてきたんです。でもまだまだ、あと五十年も、六十年も、生きなきゃならないんです」


 コージは柔らかく微笑むと、続けた。


「周りは多分、あなたのこと好きですよ。みんな、ね。でも、周り、どうでもいいです。あなたがどう思うのか、それだけです。だって、生まれてから死ぬまでずっとあなたと一緒にいるのって、あなただけですよ。他人がどうであろうと、自分だけは絶対に、自分のことを好きでいてあげてください。その上で、さらに頑張って成長していきましょうよ。もっともっと自分を好きになれるように」


 コージは口を閉ざし、村山の顔を見詰めた。

 その言葉に、誰も口を挟む者はいなかった。

 その、優しく暖かい言葉に。

 しかしながら、とりたてて感動的なシーンにならなかったのは、やはりコージがかぶっているくるくるリーゼントのカツラのせいであろうか。


「とにかくです、まずは、今度の試合で、自信を取り戻しましょう。秘策、あります。どんなのか教えてしまうと意味がなくなってしまうので、試合の時の、プッツリ本番になりますが」


 そういうと、コージはニヤリと笑った。


「ぶっつけ本番のことか?」


 冷静に突っ込みを入れる小笠原であった。


     5

 七月十五日 日曜日

 北見市営陸上競技場

 道東ブロックリーグ第六節 八蘇地信銀 対 イクシオンAC


 FW むらやまばん……


「秘策って、これかよ……」


 メンバー表を受け取ったがさわらしんの、実に力ない第一声であった。

 通常は前日の夜までに出場メンバー等の情報は分かっているものであるが(自分たちのうち誰が出るのか分かっていなければ、対策ミーティングどころではないので)、今回、選手たちはなにも知らされていなかった。試合直前の、ウォーミングアップも開始という頃になって突然、コージはマネージャのやけあずさにメンバー表を配らせて、それを読み上げ始めたのである。


「えええ、おれが、DF?」


 おおみちだいどうが、素っ頓狂な声を上げた。

 彼が驚くのも無理はない。メンバーの関係でサイドハーフを務めたことならなくもないが、基本的に生粋のFWであり、DFなどは小学生からのサッカー人生で一度も経験がないのだから。

 本来FWである大道と本来右SBである村山、この二人のポジションが入れ代わっているという他は、スタメンもポジションもここ数試合となにも変わらず。

 しかし……

 小笠原慎二は、長いため息をついた。

 いかなる理由があろうとも、こんなふざけたことを強豪である八蘇地信銀戦でやるか? しかもプッツリ、いやぶっつけ本番で。

 小笠原は左SBであるため、もしもこれでFWや右SBがグダグダならば、位置的にフォローのしようがない。せいぜい、攻め上がりに気を使ってあげるくらいしか、なにもやれることがない。


「では、昇格への力道山ともいえる八蘇地信銀戦に向けて、今日の重要なポイントを説明します。バン君、君の仕事は点を取ることです。ダイドー君は、しっかりと守って下さい。以上」

「ポイントっつーか、それポジションの役割だろうが」


 日野浩一が、突っ込みを入れた。

 もっと大事なところを、コージは突っ込んで欲しかったのかも知れないが、そもそも野獣ボランチ日野は天王山という言葉すら知らないのであろう。

 ただ日野は、コージの策について反論するつもりはないようであった。

 すっかり監督を信用しきっているのであろう。

 慣れぬポジションを務めることになる仲間のフォローは大変だろうが、その程度の苦労はどの試合だって覚悟している。とにかく、やるだけだ、と。

 監督を信頼しているということに関しては、大道も同様のようで、


「よっしゃ。コージがやれっていうんなら、どこだってやってやるぜ。絶対に、無失点に抑えてやるっ。でもさ、チャンスがあれば上がってシュート打っちゃてもいいんだよねっ」


 と、突如降り掛かった難題に、むしろ燃えているようであった。


「ま、やってみるしかねえよな」

「なにが起こるのか、面白そうだしね」


 と、気持ちを奮い立たせる後藤権三たち楽天派。

 反対に、小笠原は、大丈夫かよと不安になる慎重派であった。

 チームのムードが真っ二つに割れる中で、一番の当事者である村山伴だけは、普段となんら変わらぬ顔であった。

 平然としている、というわけではない。

 普段通りに、なんだか自信のない顔をしているのだ。

 普段通りに、かかるプレッシャーにすっかり畏縮してしまっているようで、

 普段通りに、顔色が青くなっていて、

 普段通りに、身体はぶるぶると震えて、いまにも倒れそうで、

 そうした様子が、ウォーミングアップ、ピッチ入場、円陣、ピッチ内散開、と経るごとに、さらに酷くなっていった。そう、彼にスポットの当たる今章まであええ触れなかったというだけで、彼はいつもこのような感じなのである。いつもガタガタ震えているのである。

 普段通りでないところを上げるなら、そのガタガタが、ガタガタガタガタであるということくらいだろうか。

 普段からどんより沈んでいるように見えるために気が付きにくいというだけで、やはり彼もこのポジション変更に動揺し、より緊張しているようであった。

 そんな中、主審が笛を吹いた。

 イクシオンACボールでキックオフ。

 不安要素たっぷりではあるが、こうして力道山いや天王山となる戦いの火蓋が切って落とされたのである。



 おおしろまさるは、すぐ横でガタガタブルブル今にも土下座しそうなくらいに震えている村山伴へとボールを転がした。

 FW村山がどういうものかまったく分からないため、とりあえずは大道が相方の時とまったく同じようにやってみるつもりのようであったが……

 早くもその気持ちに暗雲発生か? いや、大城でなくともげんなりした表情になるだろう。

 ボールの上に乗ってしまった村山が、豪快に転倒し、背中から地面に激突したのである。

 キックオフの笛の音と同時に猛然とダッシュをかけていた八蘇地信銀のもりしんが、そのボールを拾って、そのまま中央へと切り込んでいた。

 森真吾、イクシオンACの天敵と呼んで過言でないFWの選手である。

 彼としては、おそらく相手の判断を焦らせるためのプレスをかけるだけのつもりだったのであろうが、幸運なことにボールを奪うことが出来た。調子に乗って、単身、敵陣不覚へ切り込もうとする。イクシオンACの選手たちが自分を苦手としていること、よく分かっているのだろう。

 しかし、立ちはだかったイクシオンACボランチのおさむが、上手く足を延ばしてボールを奪回。右サイドに張るせりざわきようへとパスを出した。

 相手の8番が、すぐさま恭太へと近寄り、ぴったり張り付いた。


「おーぶあーーらあああっぷ!」


 今日だけ右SBのおおみちだいどうが、後方から怪鳥のような声を張り上げながら駆け上がってきた。

 恭太は、相手選手を抜きにかかる素振りを見せたその瞬間、ヒールで後ろへ転がしていた。

 おっとと、とボールに躓きそうになりながらもなんとか受けた大道は、わけの分からない甲高い雄叫びを上げながら、タッチライン際を煙を上げて爆走。


「今日のおれはあ! オーバーラップ星人!」


 突き抜けた!

 雄叫びとともに。

 ……ゴールライン、を。

 駆け上がるのに夢中で、ただそれだけになってしまったのであろう。


「すんません……」


 肩を落とす大道。


「ドンマイドンマイ! みんなもどんどんチャレンジしてこうぜ!」


 こういちは大道を慰めると同時に、チーム全体を鼓舞した。

 八蘇地信銀のゴールキック。

 GKたなゆうは助走をつけ、思い切り蹴った。

 しかし天高く上がったボールは、上空の強い風に押し戻されてあまり飛ばなかった。

 センターサークル付近、八蘇地信銀DFのまさると、イクシオンACの今日だけFW村山伴が、落下地点へと走り、ボールを競り合った。

 いや、競り合いにはならなかった。

 村山は、茂木勝に軽く肩を当てられただけでぐらりとよろけ、転びそうになった。転倒こそしなかったものの、すぐわきで相手が跳躍してヘディングで前方へと送るのを、なにもせずに見ているだけだった。

 そして、はっとしたように目を見開くと、慌ててボールを追い掛け始めた。


「バン! 下がらないで前にいてよ! FWだろ!」


 大城政がドレッドヘアーを振り乱し、叫んだ。


「はあ。だから、いわんこっちゃねえ」


 遠く左SBの位置から見ていた小笠原慎二は、思わず舌打ちした。

 不安的中。やはりチームはボロボロだ。

 当然だ。

 ダイドーは、やる気だけはあるものの、守備力のある選手ではない。それなのに、DFをやらされている。

 でも、それだけならまだいい。存在はしている。駒には、なっている。

 バンは、完全に論外だ。

 うろたえるばかりで、まるでサッカーをやれていない。

 異常なほどに気弱な性格が、慣れない環境に放り込まれたことで、よりおかしくなってしまっているのだろう。

 精神論根性論の問題だけではない。

 サッカー選手の能力としても、バンは相手の行動を読んで対応するのは得意だが、しかし自らのアイディアで仕掛けるということを苦手とするタイプなんだ。

 まあそれも、もとを辿ればその気弱な性格に起因する問題なのかも知れないけど。

 笛の音が響いた。

 ボールを簡単に奪われた村山が、さほどピンチでもない位置だというのに、つい相手の襟を強く掴んで引っ張り倒してしまったのだ。

 主審は村山に歩み寄りながら、イエローカードを高く掲げた。


     6

 最悪であった。

 むらやまばんが、である。

 攻撃の基点になれない、いないも同然、と、それだけならまだいい。むしろ時折不要なファールを犯して、相手にチャンスを与えてしまっている。

 なんとかスコアレスのまま折り返したものの、後半になっても、それはまったく変わることはなかった。

 つい先ほども、村山のフォローに駆け寄ったおおしろまさるが、相手への接触プレーで一枚貰ってしまったばかりだ。

 それと比べれば最悪というほどでもないが、おおみちだいどうの守備も実に危なっかしい。ぱっと見としては村山ほど酷くはないものの、右SBという守備的ポジションであるためミスがそのままピンチに直結してしまっている。

 こういちが常に注意して頻繁に大道のフォローに入り、そのスペースを埋めるべくせりざわきようが少し下がって、と、選手たちがそれぞれ必死にバランスを取ろうとはしているものの、結果としては全体的にチグハグとしてまとまりのないものになってしまっていた。

 穴を埋めようとすれば、他に穴が空き、そこを突かれ、崩され、シュートを打たれる悪循環。GKよしの活躍がなければ、既に何点かは失っていたであろう。

 八蘇地信銀は昇格最有力候補の強豪であり、イクシオンACがベストな状態であったとしても、それでも勝てるかどうかなど分からない。

 と、考えるのであれば、押されている要因を個人のせいにばかりも出来ないが、しかし村山や大道が大きく足を引っ張っていることもまた、間違いのない事実であった。

 大道は、ほんの僅かではあるもののポジションに慣れてきているところが見えたが、村山は相変わらずさっぱりであった。

 そうした状況であるが故に、選手たちも声を掛け合い、集中を切らさず、実によく戦ってはいたが、圧倒的不利であることに違いはなく、守るだけで精一杯で得点の機会など生まれようもなかった。

 また、村山のファールで笛が吹かれた。

 遅れて、後ろからスライディングにいってしまったのだ。

 いまのでイエローカードが出なかったのは幸運であったが、おそらく次にはもっと軽いファールであっても、繰り返しの違反ということでイエローカードが出るであろう。そうなったら、二枚目で退場である。


「バン、もっとリラックスしろ!」


 小笠原慎二が遠くから叫ぶ。

 バンがこんな状態だというのに、なんでとっとと交代させないんだろうな、コージは。これじゃあ、元のポジションに戻したところで、まともに試合をすることなど無理だろう。こんな、すっかり自信をなくしている状態で。誰でもいいから、交代すべきだろう。

 小笠原慎二は、ついちょっと前まではそう考えていた。そう考え、胸の中にどんどんと焦りをつのらせていた。

 しかし、そうした感情に、変化が生じてきていた。

 ピッチ脇で、腕を組んで無言で試合を見ているコージの姿に。村山伴を信じている、村山伴に期待している、そんな、まるで迷いのないすっきりとした表情を見ているうちに。

 逆に、もしもここで交代したら、それこそ怖いことなのでは、と思うようになってきた。チームというより、バンにとって。

 もしもこの状態のままベンチに引っ込んだならば、もう一生立ち直れないのではないだろうか、と。

 出続けることで、このピッチ上で、もしもバンがなにかを見付けることが出来たならば、それは……

 だがしかし、小笠原が胸にどのような思いを描こうとも、目の前の現実は現実である。村山伴は、走り寄ってこぼれ球を拾ったはいいが、八蘇地信銀のまつやすろうに肩を軽くぶつけられただけで情けなくも吹っ飛び、奪われてしまっていた。

 松木安二郎は、すぐさま前線の選手へと縦パスを送った。

 ボランチの日野浩一がボールの軌道に走り寄り、足を延ばしたが、一歩届かず足先をかすめ、MF七番へとパスが通ってしまった。

 だが七番が前を向こうとした瞬間、小笠原慎二が横から強引に身体を入れて、ファール寸前といったやや乱暴なプレーで奪い返していた。


「しっかり守ってろよ!」


 味方守備陣ぐるり見回し叫ぶと、ボールをちょんと前へ蹴り出し、走り始めた。

 八蘇地信銀の六番が走り寄り正面を塞ぐが、小笠原はフェイントでするりかわすとボールを蹴り上げた。山なりのボールは相手ボランチの頭上を飛び越え、最前線で張る村山伴へ。


「仕掛けろ!」


 小笠原は叫んだ。

 村山伴はその声に少し遅れて反応。たた、と後ずさりしながらボールを追い、胸で受けた。

 その瞬間、背後にDFが密着していた。


「バン!」


 近くにいた大城が、前へ飛び出そうとする動きを見せた。良いパスがくれば自分が仕掛けるし、自分が囮になってバンが仕掛けてもいい、と。

 大城へのパスか、そう見せて反転突破をはかるか、もしくはキープして、上がってきた他の選手に渡すか。という三択が考えられる状況であったが、しかし村山の選択はそのどれでもなく、おおよそ常識的に考えられないものであった。

 相手ゴールに背を向けたまま、大きく、自陣へと、ボールを蹴り飛ばしたのである。

 もしかしたら、ほんの少し戻すだけのつもりであったのかも知れない。仮にそうだとしても、脚に込めるパワーを完全に間違っていたが。

 ボールは追い風に乗ってぐんぐんと伸び、真っ直ぐとイクシオンACのゴールへ襲い掛かった。

 バックパスに当たるため手を使えない木場が、下がりながら渾身の力を込めて跳躍、かろうじて頭に当てて跳ね上げ、CKに逃れた。

 木場の判断があと少しでも遅れたら、木場の跳躍があと少しでも弱かったら、あと少しでも身長が低かったら、間違いなくオウンゴールになっていただろう。

 ふう、と木場、仲間たち、スタッフたちから、ため息が漏れた。


「バン、お前なあ」


 小笠原は、どう声を掛けようか迷いつつ、とりあえず村山の名を呼んだ。


「出来るわけ、ないじゃないですかあ」


 村山は、泣き出しそうな弱った声を出し、泣き出しそうな弱った顔を、小笠原へと向けた。

 仕掛けろ、といわれたことについてだろう。自分に、そんなことが出来るわけがない、と。


「お前な、こないだコージらがあんなバカなことしたのは何故だか分かるか? それと、なんでいま現在、コージはこんなバカなことお前にさせているか、分かるか?」


 ゆっくりと、村山の前へと歩み寄ると、そっと肩に手を置いた。

 金髪眉なしの心優しい青年は、なにかをいいかけたものの、なにかを考え込むような表情のまま、なにもいえず、うつむいた。

 小笠原は、口元に小さな笑みを浮かべると、自ら発した問いに答えた。


「お前の力が必要だからだよ。お前の力なくして昇格はない、そう考えてるからだよ。……多分な」

「おれ……そんな……」


 村山伴は震える声でぼそりと呟いたきり、再び口を閉ざした。

 いつもと変わらぬ、村山の表情。

 しかし小笠原には、なにかが、ほんのちょっとだけ、変わったような気がした。

 まったくの思い過ごしかも知れないが。

 思い過ごしだろうとなんだろうと、ここまできてしまった以上はもう、コージの賭けに乗るしかない。

 だって、もしもこのままであるならば、きっとバンはサッカーを嫌いになってしまうだろうから。

 自分がこのクラブにバンを誘ったという責任も感じてはいるけれど、だから嫌いになって欲しくない、というのもあるけれど、それ以上に、バンにはサッカーをもっともっと好きになってもらいたい。足の大怪我でサッカーを諦めることになったシュンの分まで、サッカーを楽しんで貰いたい。だから……


「ほら、CKだぞ」


 小笠原はそういうと村山の腕を引っ張って、自陣ゴール前へと向かった。

 CKのキッカーは八蘇地信銀のしばじゆんいちろう

 さほど精度の高いボールではなかったが、おさむのクリアが中途半端になってしまい、再びゴール前に放り込まれ、混戦からあわや失点というシーンを作られてしまう。

 選手たちがブラインドとなって見にくい中を、GK木場が素晴らしい判断と反射神経で横へ倒れながらキャッチし、難を逃れた。

 木場は大声を張り上げ、味方の集中や前線からの守備を促して前へ前へと追いやると、大きくボールを蹴った。

 しかし、いくら木場が選手たちを鼓舞して集中を促そうとも、集中など、とても出来るはずがなかったであろう。

 何故ならば……


「ちょっとシンさん、なにやってんすか!」


 左SHのながおかたくみが叫んだ。困惑したように。怒り、呆れたように。

 FWの村山と肩を並べるように、DFである小笠原が最前線に陣取っていたのである。

 先ほどのは、流れからの攻め上がりだったから問題ないが、どうして最初からそこにいるのか……


「おい、ふざけんな、シン! 戻れ!」


 日野浩一も声を荒らげた。守備陣を統率するだけでなくキャプテンという立場であるため、その怒りは当然であろう。


「うるせええ! そもそも誰のせいでこんな事態になったと思ってんだよ!」


 小笠原慎二は怒鳴り一蹴。

 それをいわれると、まったく返す言葉のない日野であった。

 試合は続く。

 八蘇地信銀のインターセプト、そこから縦パスを通され、イクシオンACは、手薄しかも混乱した守備陳を突破されて、大ピンチを招いた。

 大道が、慌てるあまり頓珍漢なポジショニングを取ってしまい、するりとゴール前へと相手のパスが通ってしまった。

 八蘇地信銀のFW森真吾はボールに駆け寄りシュートを打つと見せてスルー、GK木場はバランスを崩して倒れた。後ろから走り込んで来た八蘇地信銀のFWながしげが、今度こそボールを捉え、右足を合わせた。

 しかし、八蘇地信銀先制ならず。長野茂樹がシュートを空振りしてしまったのだ。ボールはそのまま転がり続け、コーナー付近でゴールラインを割った。

 長野茂樹は、頭を抱えて悔しがった。

 GK木場芳樹は、立ち上がると大きな声で味方のプレーを怒鳴り付けた。

 失点していてもなんらおかしくない、大ピンチであったのだから。


「え、ちょっとシンさん。……まあいいや、もう」


 ため息をつく長岡巧。

 相手の決定力不足に助けられて、なんとかピンチを逃れただけだというのに、それでも小笠原慎二が本来のポジションに戻ろうとせず、また村山伴のそばに行ってしまったことに対してだ。

 長岡巧は不満顔を隠さず、ぶつぶつと不平をいいながら、自分がその分後方へと下がって空いた穴を埋めた。

 選手同士の勝手なポジションチェンジであるが、コージはなにも文句はいわず、さりとて指示の言葉を出すこともなく、ただ黙って腕組みをして試合を見ているだけであった。


「タク、こっち!」


 小笠原の叫び声。長岡巧がスライディングで相手のパスをインターセプトするのを見るや、そう叫び、前方へと走り出したのだ。

 長岡は器用な選手であり、いきなりの要求にもかかわらず、瞬時にして、山なりで相手の頭上を通して質の高いパスを前方へ送っていた。

 小笠原は走りながら足の甲でトラップ、突進してくる七番をかわすと、


「バン!」


 村山を走らせるスルーパスを出した。

 その声に、村山はびくりと肩を震わせると、まるで背中を突き飛ばされたかのごとく、走り出した。

 飛び出しがツーテンポ遅れた分、すぐに相手DFに身体を寄せられ、外へ蹴り出されてしまった。

 誰に怒鳴られたとしてもおかしくない、日野浩一にブレーンバスターを食らおうとも文句のいえない、実に気の抜けたような村山のプレーであったが、しかし小笠原は拍手で褒めた。


「バン、いいぞ! どんどんよくなってきてる!」


 小笠原だけではない。褒めこそしないものの、誰も責める者はいなかった。

 それが村山には、反対に辛かったのであろうか。

 俯いたまま、歯を勝ち勝ちと鳴らしている。


「よくなって、きてなんか……こんなプレーがいいわけないでしょう!」


 顔を上げ、悲壮な思いを叫ぶと、また下を向いてしまった。

 両方の拳が、強く握られていた。

 腕が、ぷるぷると震えていた。

 そんな村山の気持ちを知ってか知らずか、試合は進む。


「そこ塞げっ。くそごらあ!」


 守備に奔走する日野浩一の、無駄に大きな叫び声に、村山はびくりと肩を震わせた。

 ゆっくりと、顔を上げた。

 ゆっくりと、振り向いた。

 仲間たちの姿を、見た。

 チームがまったく噛み合っていないため、パスをどんどん繋がれ攻め込まれながらも、個人個人の頑張りで必死の守備を見せるイクシオンACの選手たちの姿を。

 中でも特に目立つのが、大道大道であった。傍目から見ても下手くそな、ただ相手に食らい付いているだけの、ただ頑張っているというだけの、守備というのも憚られるような守備。いくら本職のDFではないとはいえ、それは酷いものであった。

 でも、気力を振り絞って、頑張っている。

 戦っている。

 他のみんなも、一生懸命で……

 上手ではないものの……本当に一生懸命で……

 そう、みんな、上手な選手ではないのである。

 対戦相手のいる競技であるため相対的な能力の優劣こそはあるものの、見る者の誰をも唸らせるような絶対的な個の力などあるはずがないのだ。

 それは当然であろう。

 J1、J2、JFL、地域リーグ、そしてブロックリーグ、と、ここは、上から数えて五部に所属するリーグであるのだから。

 しかも、何人かプロ待遇の選手がいる八蘇地信銀と違い、イクシオンACは全員がアマチュアだ。

 だからこそ、コージ主導のもとみんなの力を結束させてチーム力とし、そして個人個人のレベルではとにかく必死に相手に食らい付き、勝つために戦っているのだ。


「それなのに……なにやってんだ、おれ……ほんと、なにやってんのかな」


 村山は、誰にも聞こえるはずのない小さな声で自分自身に語りかけるように、そっと胸に手を置いた。

 長く息を吸うと、ふーっと、大きく吐いた。

 どどどどど、と、芝だというのにけたたましい足音。


「おおばあらっぷせいじんっっ!」


 大道の叫び声であった。

 右サイドを駆け上がりながら、芹沢恭太からボールを受け、追い越した。

 そのなんともいえぬ気迫に圧されたか、村山は、ぽかんとした表情で見つめているばかりだった。

 下手くそなくせに、とにかく一生懸命に走り、チャレンジする、その急造DFのひたむきな姿に。

 その姿に熱いものが込み上げたのか、突然、村山は叫んでいた。

 いつもの気弱な彼しか知らない者にはとても信じられないような、絶叫であった。

 声にならない、大きな、大きな、獣のような、そんな、絶叫であった。

 走り出していた。

 大きく腕を振り、ゴールへと向かって。

 右サイドを不格好に駆ける大道と、反対サイドを並走する。


「ダイドー、クロス!」


 大声で、ボールを要求する村上。

 その声が届いたか、大道は六番のプレスをなんとかかわすと、体勢も整わないうちに思い切りクロスを上げていた。

 それは本職SBの村山からすれば見るに堪えない、精度の最悪なボールであった。

 でも、村山は、構わず走り続けた。

 DFに囲まれながらも、走り続けた。

 前へ。

 信じなければ、なにも起こらない。

 だから。

 そんな、吹っ切れた表情で。

 しかし、ボールは無情にも空中でラインを割った。

 いや、

 割ろうかというぎりぎりのところで、上空を吹く強風に押し戻されていた。

 ボールは八蘇地信銀のGK棚田裕也の頭上を飛び越えて、ぶれながら、ファーへすとんと落下する。

 ポストの左へ逸れて、あらためてラインを割るかに思われたが、しかし、そこへ村山が飛び込んでいた。

 DFに腕を引っ張られながらも、がむしゃらに、力の限り。

 ボールに、頭を叩き付けた。

 必死に横っ飛びをするGKの指先をボールはかすめ、そしてゴールネットが、大きく揺れた。

 村山が、勢い殺せずネットの中に突っ込んだ。倒れたその上に、どどっとDFが二人、折り重なった。

 時間が、止まっていた。

 場内は、しんと静まり返っていた。

 それほどに、みな呆然と突っ立っていたのだ。

 どちらのチームの選手たちも、そして、観客すらも。

 いつ試合を棄権してもおかしくないような、青ざめた顔でただおろおろとしていただけの選手が、まさか得点を決めてしまうなど、思いもしなかったのであろう。

 いつまでも続くかと思われる静寂を打ち破ったのは、イクシオンACの監督であった。


「ブラァーボ!」

 

 ピッチ脇に立つコージが、ようやく笑みを浮かべ、素晴らしい結果に拍手を送ったのであった。


 ドンドンドンドン!


 呪縛が解けたかのように、サポーターの太鼓の音、そして歓声、拍手が続いた。

 ピッチ上の者たちも、それらによって現実に引き戻されたようで、八蘇地信銀の選手たちはがくりと肩を落とし、膝をつき悔しがり、イクシオンACの選手たちは手を振り上げ、飛び跳ね、喜びを爆発させた。


「アシスト気持ちいいっ! 超気持ちいいっ! バンちゃん、ナイシューーーッ。おれの魂のスーパーグレートドラゴンライジングクロス、よく決めてくれたああ!」


 大道が叫びながら、村山へと駆け寄っていった。どこがスーパーでどこがドラゴンなのかはさておいて。

 ゴールネットの中、よろよろと立ち上がった村山は、自分が得点を上げたことが信じられず、まるで他人事のように呆然とした表情を浮かべている。つい先ほどまでの、他の選手たちのように。

「すっげえよ、バン、本当にすげえ! ぶっつけ本番のFWで、しかも昇格候補から点を取っちまうなんて!」

 小笠原慎二も、まるで自分が得点かアシストをしたかのように嬉しそうな表情で、村山へと近付いていった。


「おれ……あの、おれっ……あのおれっ」


 村山は、陸に上がった鯉のように口をパクパクさせながら、身体を、手足を震わせていた。

 なにを思えばいいのかすらも分からない、そんな完全に混乱したような表情であったが、やがて、ゆっくりとその表情が変化していった。

 口元に、その顔に、これまでチームメイトの誰一人として見たこともない、付き合いの長い小笠原慎二ですら見たことない、子供のような笑みが浮かんでいたのである。

 拳を握ると、ダンと強く地面を蹴った。

 ダンダンダン。

 さらに蹴った。


「ヒーーッハーーッ!」


 甲高い叫び声を上げながら、右腕を天へと突き上げていた。

 すっかり、ハイになっていた。

 羞恥もなにもない、そんな村山の姿であった。

 そんな村山へ、小笠原が飛び込んだ。

 抱き合う二人に、さらに大道大道が村山の絶叫をヒーハー真似しながら、腕を回し、抱きついた。

 芹沢恭太、大城政なども寄ってきて、金髪頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。

 なおも続く観客席からの拍手に、村山はあらためて手を高く上げ、心からの笑顔で応えた。

 だが、その笑顔もつかの間。村山は険しい表情に戻ると、自分のポジションへと走って戻り始めた。

 そう、まだ、試合は終っていないのだ。

 八蘇地信銀のキックオフで試合再開。

 まさかの失点に、追い付くべく猛攻をしかけようとする八蘇地信銀であったが、それはただ世の中のままならなさを思い知るだけであった。

 FW村山伴を中心とした、イクシオンACの前線が活発化し、彼らは完全に自陣へと押し込められてしまっていたのだ。

 村山は、かつての調子が復活しただけではない。自信というこれまでになかった武器を得て、自らどんどん仕掛け、または周囲を使い、八蘇地信銀の守備陳を切り裂いていった。

 いくらJリーグのクラブからスカウトされたことがある村山とはいえ、本来、そこまで圧倒的な相手選手との能力差はないはずである。それが何故このようになっているかというと、それは村山が新たな力を得たことに完全にハイになっていたことと、相手の混乱との相乗効果、ということだろう。

 後半三十分、コージの指示により大道と村山が入れ代わり、本来のポジションに戻った。

 すなわち大道はセンターFW、村山は右SBへと。

 村山の動きの質は、まったく落ちることがないどころか、むしろ慣れたポジションに戻ったことにより倍加した。

 チームとしても、それぞれが本来のポジションに収まったことにより、より噛み合うようになった。

 そして後半三十六分、選手交代により攻撃的な選手であるもといが投入されたことにより、一気に攻勢を強めた。

 八蘇地信銀はなんとか粘りながら、必死に立て直そうとするが、しかしその前にイクシオンACの追加点が決まった。

 もうロスタイムに入ろうかという時間帯に、村山伴からの、完全に敵陣を深く切り裂いてのクロスに大道大道が飛び込んで、頭で合わせたのだ。

 それから二分後、勝手なポジションチェンジから本来の左SBに戻っている小笠原慎二が、流れからぐいぐい上がって中央へ切り込んでミドルシュート、バー直撃の跳ね返りを大城政がドレッドヘアーで押し込んでダメ押しの三点目。

 ロスタイムの残りを危なげなく守り切り、そして試合終了を告げる笛。

 イクシオンACは八蘇地信銀を勝ち点で逆転し、ついに首位の座についたのである。

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