第二章 相対彼氏

     1

 今日も宿屋せりざわの朝は早い。

 業種が業種であり、当然といえば当然ではあるが、まだ日の出る前だというのに、もうみんなであくせくと狭い旅館を行ったり来たり賑やかに働いている。


「どうも、おはようございます、社長」


 男性従業員のいわでらあぶが、まるで自身の頭髪のような、薄汚れて白黒混じったモップを両手にせっせと廊下を掃除していたが、社長つまりせりざわきように気付くと加齢のため曲がりかけている腰を頑張ってぴんと伸ばし、声を張り上げた。


「あ、おはよう岩さん」


 いきなりシャチョーなどと立派な呼ばれ方をされて、一瞬目が覚めかけた恭太であったが、威厳をとりつくろっておくかどうかを迷っているうちに、すぐにまた眠たそうな表情に戻ってしまい、そのままもったりよたよたと歩いていった。

 壁におでこぶつけた。

 ほんのちょっとだけ眠気が覚めた。

 前日に特殊なことがあったわけでもなく、本日特殊なことがあるわけでもなく、この時間の恭太はいつもこんなだ。単に、凄まじく寝起きが悪いのである。


さん、そこもう全部盛り付けちゃっていいから」

「はーい」


 厨房の前を通りかかると、料理人のかたいしとおると中居であるゆみの声。宿泊客の、朝食を作っているのだ。阿比留さんは、皿を出したり盛ったりのお手伝いをしているようである。


「おう、旦那さん、おはようございまあす」


 裏口が開き、とみしんぺいが入ってきた。


「ああ、おはよう。今日もご苦労さん」


 恭太は眠たそうな目をこすった。またまた、さらにほんのちょっとだけ眠気が覚めた。

 富居新平は、ここからさほど遠くないところに自分の和食料理店を構えている。彼の亡き父親の始めた店で、その父親が若い頃この旅館で二十年ほど働いていたという縁もあり、日によって空いてるいる時間を利用して手伝いに来てくれるのだ。とはいってもちゃんとした仕事の契約であり、お金も払っている。


「あ、旦那さん、おはようございますう」


 中居の一人であるいしだてこづえが、二階廊下のカーテンをすべて開け終えて、階段を下りてきた。


「突き当たりのカーテンレール、錆びと歪みでギシギシ引っ掛かっちゃって、寿命みたいですねえ。後で日ケ野屋さんにお願いしておきますね。あっ、そういえば、すっかり春ですねって思ったこと、通気孔のところで冬篭りしていたコウモリ、いつの間にかいなくなっちゃいましたよ。ちゃんと飛び立てたんですかね。まあ外に落ちてはいなかったから、大丈夫だったんでしょうけど。そうそう、旦那さん、来週ねえ、うちの息子がねえ……」


 いつものことではあるが、まあ、ぺらぺらぺらぺらうるさいうるさい。仕事上の話から始まったはずなのに、恭太が一言たりとも返さないうちに、どうでもいい話に発展してしまっている。

 さすが今日の発言が明日には北海道全域に伝わっていると、仲居仲間にからかわれているだけある。


「石館さん、終った? それじゃ、もう一つ頼みたいことがあるんだけど」


 女将さん、つまり恭太の妻である愛子がやってきて、あれやこれやと指示を始めた。


「ああ、なるほどですね。分っかりしたあ」


 と、石館こづえは跳ねるような足取りでまた二階へと戻っていった。


「さてと、阿比留さんは厨房はもういいかな。部屋の掃除してもらわないと。そうだそうだ恭ちゃん、あとでこうぜんにお布団取りに行ってきてよ」

「んん?」

「お昼まででいいから。それで、余裕があればでいいけど帰りに……恭ちゃん! ぴしっとする、ぴしっと! まがりなりにも旅館のご主人様が、そんな眠たそうな溶けたような顔して頭ふらふらさせてんじゃないの! 朝早いったって、お客さんとすれ違うことだってあるんだからね。というか、働いてるみんなにも示しつかないでしょう!」

「ふああああい」


 と欠伸を噛み殺そうと自分と格闘しながら、恭太はフロントに設置されているデータ端末へ向かいながら椅子に腰を下ろした。


「今日は確かあ、団体さんが来るんだよな」


 いま愛子に布団のことをいわれて思い出したのだ。

 左右の人差し指を伸ばし、ぎこちない頼りない手つきでキーボードを叩く。

 どこからの、どんな客だっけ。何名だっけ。

 あ……


「やべ、全部消えちまった!」


 画面に顧客データが表示されたかと思うと、突然文字が消え、真ん中に、登録無しの四文字がポップアップ。


「ここを選んで、こうだよ。消えてない」


 愛子は恭太の横に立って、キーを二つ三つ叩く。すると、画面に再び顧客データが表示された。


「おっけえい」


 恭太、安堵の溜息。GKナイスセーブ。


「おっけいじゃないよ、いい加減覚えなよ」

「そのうちにな」


 何年か前までは、よくぞこんなものがこのインターネットの時代に、というようなグリーンモニターで操作する端末がここには置かれていた。

 それすらも恭太にはややこしく、長年の苦労の末ようやくにして覚えてきたというところで祖母が、「データセンターとやりとりするから、うちにホストコンピュータはいらない」などと、さっぱりわけの分からないとんちんかんちん一休さんなことをいい出して、ウインドウズ搭載の端末を新規導入したため、これまでの操作経験やシステム理解の知識がリセットされてしまい、もうさっぱり理解不能で、覚える気にもなれない。


「いい湯でした。ほんまにー」


 宿泊客であり、恭太の所属するサッカーチームの監督である外国人の男、コージがやってきた。朝風呂を浴びていたらしく、浴衣姿で風呂桶を持って、頭には手ぬぐいを乗せている。いまにもドリフの歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。


「ピンボールはないんですか?」

「ないよ」


 どこの山奥の温泉宿だよ。近所にストリップ劇場もねえぞ。ったく。

 さて、こうして一時間、二時間、と時間も過ぎていった。

 従業員にとって毎日の仕事はほぼルーチンワークといえる決まりきった流れ作業で、まあ色々と例外もあるものの、大半は愛子が指示を出すか自分たちでやってしまう。経理も先代女将、つまり恭太の祖母がそろばんとパソコンを器用に使いこなしてテキパキこなしている。

 なにがいいたいかというと、つまり恭太の普段の仕事はそれほど多くはないということ。

 とりあえずここの主人として、責任者として、一通り形だけは仕事をしているうちに完全に目も覚めてきて、幸善屋から布団を取って戻って来るや休憩時間と称してサッカーボールを手に中庭に出、リフティングを開始した。

 右の甲、左の甲、左腿、頭、胸を転がして左の甲、右の甲。

 からん、かちゃん。

 下駄履きだというのに器用に蹴り上げる。

 大道芸でやるようなブレイクダンスさながらのアクロバティックな真似などは到底出来ないが、この地味な調子でならば二百回程度は落とさずに続けることが出来る。たまには五回も続かなかったり、明後日の方向に飛ばしてしまったり、ガラスを割ってしまうこともあるが。

 筋肉が温まってきたところで、地面に赤いカラーコーンを並べていく。

 軽く柔軟をすると、まずはボールを蹴らずに身体だけ、ラダートレーニングのように細かく腿上げをしながら、コーンの間をジグザグに抜ける。

 身体の向きは変えずに、そのまま後ろへ。

 それを何度か繰り返した後は、ボールを使って、同じコースをドリブルで抜ける練習。


「おお、キョン君。やってますね。わたしも混ぜて下さい。朝風呂入ってしまったけど入り直すから」


 コージが浴衣姿のままで中庭に入ってきた。


「いいけど、キョンに君を付けるのはやめてくれや」


 恭太はチーム内で、タメ口きくような仲の相手には下の名前をそのまま呼ばれ、目下にはキョンさんと呼ばれている。どちらも慣れるまでもなくしっくりくるものがあるが、キョンとクンの組み合わせは違和感凄まじい。少なくとも恭太本人には。

 さて、コーンを並べ変えて三畳ほどの小さな小さな競技場を作ると、恭太とコージの二人はボールの奪い合いを開始した。

 ボールを持っているのは恭太の方。

 まずはコージがどう出るかをじっくり窺うつもりであったが、動いたと恭太が認識した瞬間には、すでにボールを奪われていた。

 それほど速い動きには見えなかったのに。いや、むしろ、すうっとゆっくり歩み出したかのように見えたのに……

 まるで手品を見せられたかのようだ。

 奪われた以上は奪い返してやるまでだ。恭太は気を取り直した。

 しかしコージは、奪取の能力だけではなくキープ能力の高さも半端ではなく、まったく奪えない。

 背を向けてボールを守っているわけでなく、ずっと恭太に対して正面を向いたままだというのに。

 仁王立ちになって、ただ単に足で右に左にとボールを動かしているだけだというのに。

 それなのに、奪い取るどころかボールにかすることすらも出来ない。

 恭太は思う。

 やっぱりこの人、すげえ。本当に、上手だ。

 さすがブラジル代表に選ばれただけある。この技術力には、もう舌をまくしかない。

 浴衣姿のまま、というのが、舐められてるようでちょっとムカつくけど(といいつつ自分も下駄だが)。

 本当に、技術力は神懸かっているほどに素晴らしい。

 心の中でベタ褒めする恭太であったが、

 だがしかし……


「まだまだでーす」


 などと負けん気を吐きながらも、コージは地面に膝を付き両手を付き、ぜいはあぜいはあ要するにへたばってしまった。


「あのさあ、いくら引退して四十過ぎてるからって、その体力のなさは異常じゃねえのか。六十過ぎたシニアサッカーのじいちゃんだって、もっと走るぞ」

「いえ、暇さえあれば日本語の勉強していたので」


 キン肉マンのビデオで。

 しかも動かないと太る体質なものだから、引退後はとにかく食事を抑えていたため、すっかり筋力もスタミナも落ちてしまったということらしい。


「もう充分だよ。そんだけ喋れりゃ。じゃあさ、一緒に走り込みしようや。しばらく泊まる気だっつーんなら」

「そうしましょうか」


 恭太たちの所属するサッカークラブ、イクシオンACの監督になることが正式決定したコージであるが、その後も住居を探すつもりが毛頭ないのか、この恭太の宿屋に客として泊まり続けているのである。


「おい、あれコージじゃねえの?」


 客間の窓から、若い男。さらに奥からもう一人の男が顔を覗かせた。


「はい、コージです。本物です。へらんちょカーニバルの五島洋司のモノマネじゃありませんよ。ぜひH市を拠点に活動しているサッカークラブ、イクシオンACの試合を観にきてくださーい」


 笑顔でぶんぶんと両手を振るコージ。


「なに宣伝してんだよ、まったく」


 それよりなにより、なんでへらんちょカーニバルなんかを知ってんだよ。


「いつかJに上がるんじゃないんですか。お客さんに来てもらうための、ささやかな努力を惜しんでどうしますか。どうせ、もしもチームが上がっても自分じゃあJリーガーにはなれないって思っているでしょう。所詮地域リーグ、底辺、光ってない、輝いてない。まさか、そう思っていませんか」

「そこまでは思っていないし、思ったとしてそれのなにが悪い。そこまで自信持てる実力があれば、とっくにどっかでプロになってるっつーの」


 アマチュアの気持ちも理解しろってんだよ。

 というか、Jリーグだって、海外だって同じで、身の丈というものがあるだろう。

 どんな世界だって。

 組織にしても、個人の考え方にしても。


「おう、ごめんなさい。ちょっと頭にあった言葉を出してみただけであって、キョン君に対してというわけじゃないのです」

「いいけど、それよりキョン君はやめてくれ」


 二人は中庭での練習を切り上げて、建物の中に入った。

 と、恭太の背筋が凍った。


「いらっしゃいませえ」


 従業員一同の声が聞こえてくる。

 玄関から、ぞろぞろと客が入って来るのが見えた。


「やべ、今日は珍しく団体客が来る日なんだった」


 恭太は慌てて下駄を脱ぎ、もたもた靴に履き替えようとしながら、もう面倒だから履き潰したままでいいや下駄じゃなきゃ、と、そそくさと走って迎える側の列に並ぼうとする。


「イラシャイマセー」


 コージがいつの間にか、浴衣姿で従業員の列の中。

 履き潰した靴がずるりん滑って前へ転倒しそうになる恭太。なんとか踏ん張って持ち直すと、


「そこの一般のお客様あ、ちょっとこちらへ」


 コージのでっかい耳を引っ張って、ぐいぐいと奥へ連れていく。


「たいっせつな団体客様なんだよ! 札幌の偉い人らしいんだよ! なんであんたの方が先に来て並んでんだよ! つうか並ぶなよ!」


 子供のような外国人に、ぐちぐち小言を並べるのであった。自分も危うく顧客データ消去するところだったくせに。


     2

 がっ、と激しく肩と肩がぶつかりあった。

 こういちは、ずんぐりむっくり低重心の小熊のような体型を生かし、バランスを失うことなくさっとボールに駆け寄り、奪い取った。

 目の前に出来ているスペースをドリブルで駆け上がると、前線で張っているおおしろまさるを走らせるようなボールを蹴った。

 狙い通りに大城は全力で走り出した。

 パスを読んでいたはしもとひでが、すっと大城へと身体を寄せた。軽く肩を当て、ボールを奪取。

 しかしその後のボールタッチを誤って、大城に取り返されてしまう。

 すぐさま後を追おうとするが、大城の急加速についていかれず、あっさりとぶち抜かれた。全力で追いすがるものの、あと一歩というところで間に合わず、シュートを打たれてしまった。

 チェイシングの甲斐もあってそれは角度のない厳しいところからのシュートにはなったが、なかなかに狙う場所も弾道も勢いも鋭く、あわやゴールかというところ、GKのよしけんが両手で上手く弾いてCKに逃れた。


「気ぃ抜いてんなよ」


 CBの相方であるとうごんぞうが、橋本の肩を自分の肩でどついた。

 橋本は、ふんと鼻を鳴らしたのみで無言のままCKの守備につく。

 右腿から膝にかけてテーピング。

 足ならばサッカー選手として当然といえば当然であるが、右腕にもぐるぐるぐるぐると包帯を巻いている。むしろこちらの方が遥かに重体に感じられるが、腕であることだし足ほどはプレーに関係ないだろう。見ていて気になるだけで。

 現在行われているのは練習中のミニゲーム。ハーフコートを使った八人制サッカーだ。

 本来はフルピッチでやりたいところであるのだが、人数の関係で仕方がない。Aチームなど正GKのよしが仕事で遅れるということで、FPであるがさわらしんが代役をつとめているくらいなのだから。

 それでも今日はまだマシなほうで、女子マネージャのやけあずさがGKをやったという最悪な日もあった。

 なにが最悪かって、偶然なのかなんなのか彼女がファインセーブミラクルセーブの連発雨あられで、それからしばらくの間FW陣がすっかり自信を失ってしまったのだ。

 さて、八対八のミニゲームであるが、指導するのは新監督のコージだ。ピッチの外で、腕を組んで、試合の様子を眺めている。時折指示を出すものの、基本は選手任せで、ただニコニコと笑みを浮かべているだけだ。

 CKになった。

 キッカーはもといだ。

 手を上げて合図をすると、軽く助走し、強く、蹴り上げた。

 山なりに、ファーへ飛ぶ。

 待ち構えていたせりざわきようが高く跳躍、頭で中央へと折り返す。

 ゴール前中央で、たきもとたかしと橋本英樹が身体をぶつけあいながら上へ跳んだ。

 競り勝った橋本が、頭で大きくクリア。着地すると、そのままピッチを駆け上がった。

 クリアボールを拾ったおさむからパスを受けて、橋本はぐいぐいと上がっていく。

 まだ前線の人数が少ない。を背負いながら、少し溜めを作ると、反転、ロングパスを逆サイドにいる恭太へと送った。

 だが少し力んでしまったかボールが長くなってしまい、ラインを割った。


「ハッシー君、いまの一連の、とても良かった!」


 コージが拍手で橋本を褒める。


「でも、連係ミスは仕方がないが、個人のミスはしてはいけない」


 正論である。特に先ほどのような場では。DFが攻め上がる以上、下手な奪われ方をしたら失点に繋がりかねないからだ。

 橋本は返事もせず、無言で自分のポジションへと小走りで戻っていく。


「なんかお前、暗いぞ」


 権三が、また肩をぶつけてきた。


「暗くなんかねえよ」


 とりたてて明るい性格でもないが。

 タッチを割ったことにより、滝本のスローインでリスタート。

 恭太がすっと寄り足を伸ばすが、わずかの差で奪えず野木へと渡った。

 野木は単純にロングボールを、前線のひろひかるへと送った。

 広田は胸でトラップするとすぐさま反転しドリブル、しかし次のプレーのことでも考えていたのかボール処理を誤ってタッチが大きくなり、ゴールラインを割ってしまった。

 GK吉田のゴールキック。近くにいる橋本へ、丁寧にパスを出す。

 橋本は、今度は全体を見渡しながらゆっくりドリブルで進むと、大きく最前線へとフィード。

 今度は繋がった。

 FWの大道大道が、DFをかわして走り出し、上手く足の甲で受けた。ドリブルで独走だ。

 俊足ではないが、とにかく腕を思い切り振り、ガムシャラに、ぐいぐいと突き進む大道。

 目指すゴール前には、臨時GKである小笠原慎二が腰を落として構えている。


「見える!」


 大道の叫び。

 素人GKの姿が豆粒のように小さく見えたということか、はたまた蹴るべき神の弾道が見えたということか。

 とにかく大道は叫び、そして右足を振り抜いた。


「ダイドースーパー稲妻シュートおおおお!」


 は、GK初体験の小笠原が横っ飛びし、右手一本で弾いた。


「ガーーーン!」


 大道はがっくり地面に両膝を付き、両手を付き、うな垂れた。

 彼が落ち込みから復活するのにどれだけかかるのかは神のみぞ知るであるが、とにかくこうしてBチームはCKを得た。

 キッカーは和歌収だ。


「よーし、決めちゃうぞおおおおお」


 ゴール前の密集の中で、暑苦しい大道。スーパー稲妻シュートを弾かれたショックはもう癒えて、完全復活しているようであった。

 和歌収はボールをセットすると、助走し、蹴った。

 ゴール前中央へ。

 まるで特注申請したかのような、まさにどんぴしゃといった素晴らしいボールが橋本へと渡った。所詮アマチュアで、まあほとんどが偶然であろうが、しかしそのような良いボールがせっかく上がったというのに、橋本はてんでデタラメなタイミングで跳躍してヘディングを大きく打ち上げてしまった。


「ああもう、あんなまたとないボールを外すかなあ。みんなハッシーさんのセットプレーには期待してんですからね。よっ、Jリーガーの一歩手前男っ!」


 と大道が、素人GKに決定機を阻止されるという自分のヘマを棚に上げてからかった。

 その瞬間であった。

 橋本の表情が変わったのは。

 ゆっくりと、大道へ近づくと、どん、と胸で全身を突き飛ばした。

 とと、とよろける大道に、


「ふざけんなてめえ!」


 突如切れたように叫んび、掴み掛かったのである。

 取っ組み合いになった。

 しかしながら、体格差が大人と子供。橋本の腕力の前に大道はまったくかなわず、いいように髪や鼻を引っ張られている。


「いてて、鼻いて! ちょっと、なんで? なんで怒んの? あいたっ、まつ毛をつまんで引っ張るのやめてえ! 怒らないでよ! ふざけてないっつうか、ふざけんのおれのキャラでしょ!」


 大道は、橋本のヘッドロックを振りほどこうと必死にもがく。


「ふざけてんのは、お前の名前だけで充分だっての」


 お笑い芸人のやまさんかっつーの。と思ったか思わないかは分からないが。


「あ、あ、それいっちゃいます? いてていてて、頭を拳でごりごりすんのやめてくださーい、ほんと痛い! 禿げる!」

「おい、お前らいい加減にしろよ。みっともない」


 日野浩一が良識ある大人そして主将として、仲裁すべく二人の間に入ろうとするが、かっとなっている橋本にどんと胸を突き飛ばされ、


「ぶっ殺すぞてめえら!」


 一瞬で沸騰し脳の血管がブチ切れてしまった。

 仲裁するどころか野太い叫び声をあげ、頭頂からピーピー湯気を噴き上げながら、二人の胸倉をそれぞれぎゅっと掴んだ。


「もう、やめろやめろ」


 芹沢恭太が日野の手を掴んで引き剥がし、大道と橋本との間に身体を割って入れて両者を引き離した。

 橋本は、まだ興奮したように息は荒いが、すっかりおとなしくなっていた。やり場なく、視線を泳がせている。


「なんでおれが間に入るとますますヒートアップして、キョンさんだとすぐに収まるんだよ」


 不満百二十パーセントといった我らが主将の表情。


「知らないよ」

「くそ。あったまくんな。つうか、そもそもくだらない喧嘩してんじゃねえよ」


 日野は、橋本の胸を軽く押した。

 橋本は、まるで極道映画のような日野の表情や声に、まったく動じることなく、ただ呆然とした表情で突っ立っている。

 かと思うと、突然瞳を潤ませて大道の身体を強く抱きしめた。


「ごめんよダイドーごめんよ。おれのかわいいダイドー。鼻つまんで引っ張っちゃったりして。梅干ぐりぐりしちゃって。あまつさえ、まつ毛をつまんで抜こうとしちゃって。かわいいおれのダイドー」

「いや、おれハッシーさんのものじゃないんですけどお」


     3

「うまい!」


 日野浩一はビールを一気に飲み干すと、口から泡を飛ばしながら叫んだ。

 上機嫌である。

 練習中のミニゲームではあるけれど、一人で三点も決めたからだ。

 ここは居酒屋と家庭料理の店、ぷうりん。

 後藤権三が経営している店で、イクシオンACの練習場から徒歩でそれほど遠くないため、練習後に飲みに行く場合にはここを使うことが多いのだ。

 現在は夜の九時。仕事帰りの中年サラリーマンたちを主として、学生だけ女性だけのグループもおり、店内は非常に賑わっている。薄利多売ということで、それほど儲けが出ているわけではないらしいが。

 イクシオンACの選手たちはほとんどが二十代しかも前半の者も多いというのに、どちらかといわずとも中年サラリーマンたちと同列の存在感を放っているのは如何に。

 顔馴染みが店をやっているところからくる態度の大きさもあるのだろうが、単純にチームにそういう人種が多いということなのだろう。


「他人のビールもうまい!」


 日野浩一は、半分残っていた和歌収のジョッキをひったくると勝手に空けてしまった。


「お前はビールがクソまずいだろうな」


 と、大道大道に舐めるような嫌らしい視線を送った。


「ちょっとちょっと、ノッコさん! なに調子に乗っちゃってんですかあ! たかだか練習でゴール決めたくらいで。男は本番で結果出しゃいいんですよ! おれ開幕戦、決めてんじゃないですか」


 大道はムキになって反論した。

 今日の練習で行われたミニゲームで大道は、味方から良いパスを何度となくもらったというのに決定機を外しまくって、ただの一点すらも取ることが出来なかったのだ。

 GKの木場が仕事で遅れるということで、FPである小笠原が代理GKをつとめていたというのにだ。


「そうして過去の栄光にすがり付いているがいい。来年になっても、『おれッ、こう見えても去年の開幕戦でゴール決めたんだぜっ』」


 饒舌な日野。彼としては大道をおとしめたいわけでもなく、単に自分を褒めたいのであろう。ボランチで三点取った自分を。


「あの一発だけなわけないでしょうが! これからだって、点取りますよ。取り続けますよ。だいたいビールうまいもなにも、ノッコさんは味覚が鈍いから気分よければなんでもうまいんすよ。『うまい!』って味も分からないくせに、ジョッキ突き出してまあかっこつけて。犬のオシッコでも、気付かないくせにさあ。ゴンさん、ノッコさんのだけこっそり発泡酒にしちゃっていいですからね! さらに炭酸で薄めたってどうせ気付かないんだから」

「お前こそ、発泡酒にしたほうがいいんじゃないか? 金ないだろ?」


 給仕としてあくせく働いている後藤権三が、両手に重たそうなお盆を持ってよたよたとやってきた。仕事抜け出してサッカーをさせて貰っている分だけ、普段は頑張って働かなければならないのだ。


「まだまだまーだ退職金があるから飲めますよ。……あと、二回くらいは」


 大道は半年ほど前に、人材整理でバッサリ切られ職を失い、退職金も雀の涙、現在近所のコンビニエンスストアでアルバイトをして、少しづつ貯金を切り崩しながら就職活動中の身なのである。


「なに、ダイドーお前、シンを相手に決定機を外しまくったんだって?」


 突然大道に話しかけたのは、よし。仕事で遅れて今日のミニゲームには参加出来なかったが、チームの正GKである。


「ああもう! なんで蒸し返すのかな。いちいちおれに聞かなくたって、さっきの話を聞いてりゃあ分かるでしょう」


 大道はがりがりと両手で頭を掻くと、ファングさんって落ち着いた大人っぽい外見のくせして、たまにこうやって子供のようにチクチクくるからやんなるよなあ、と小声で呟いた。


「そういやハッシーの奴、むすっとした顔のままさっさと帰ってしまったけど、なんかあったのか?」


 木場が尋ねる。


「なんかあったもなにもさあ、なあんすか、ありゃあ。今日のハッシーさん、すっげー気色悪いの。人の鼻ぐりんぐりん摘まんで引き回しておいてさあ、いきなり抱きしめてくるんですよ。ダイドーかわいいよダイドーって。練習終ったら、口もきかないで缶ビール買ってとっとと帰っちゃうしさあ。オレンジジュース一本くれたけど」


 などと大道がこほしていると、


「遅れました。ちょっとタツヤに寄ってたので」


 コージが店内に入ってきた。おそらくは、アニメかテレビゲームの本でも立ち読みしていたのだろう。

 空いている席につくと早速、ビールと枝豆とプリンを注文した。


「ダイドー君、いま大声で楽しそうになんの話をしていたんですか?」

「気味悪がってるだけっすよ! ハッシーさんのことをさあ」


 大道は、今日の練習中に起きたことを話した。コージも遠くから見てはいたが、会話など細かなやりとりまでは知らないからだ。


「ってね、そんな感じで、今日は最初からなんか変でさあ。んで、コーナー外した時だったかな、おれが、いよっJリーガーっとかなんとかいったら、急にブツッとなっちゃって。ほら、ハッシーさんって、もとJFLで、しかも……その、あれだから……相当プレッシャーやらコンプレックスやらで苦しかったのかな、って、悪いこといっちゃったかなとは思ってるんだけど。あんなキレちゃうくらいだから」

「いや、そういうことならたぶん恋の悩みでしょう」


 コージはあっさり断定した。


「こらこらあ、そこのオッサン、いまのおれの話でなんでそういう結論になるかなあ」


 脱力して机に突っ伏す大道であった。


     4

 夜道。

 空に雲はほとんどなく、真っ白な満月から光がぎらぎらと地上に振り注いでいる。

 橋本英樹は一人、歩いている。

 右腕にまかれた包帯に手をやると、ひきちぎるように取ってしまった。

 くっきりと、腕には動物の歯型がついている。

 ぽつぽつと紫色の痣が出来ていたり、皮膚に牙の穴があいてしまっていたり、酷い有様だ。

 橋本は、昼間は動物病院で働いている。獣医の助手だ。

 避妊手術をする中型犬の、腹の毛を剃ろうとしていたところ、迂闊にも診察台から逃げられてしまい、病院全体大騒動。運の悪いことに来客が開けたドアから外に逃げてしまい、大通りに飛び出す直前、なんとかラグビーのタックルよろしく飛びついて捕まえたのだが、その際に必死の抵抗を受けて腕を噛まれてしまったのだ。

 それが、今朝のことである。

 酷い怪我といわれればまったくもってその通りであるが、それよりなにより恥ずかしくて、だから一日中ずっと包帯をまいていた。ノッコ(日野浩一)のバカに、くっきり歯型くんとか歯型王子とかふざけたあだ名つけられそうなのも嫌だったし。

 そんな感じに仕事は散々であったし、その後のチーム練習もどうにも気が乗らず、それどころかつまらない喧嘩までしてしまった。チームメイトの大道大道にイチャモンをつけ、ヘッドロックをかましながらまつ毛をぶちぶち抜こうとしてしまったのた。

 おれ、今日は本当に、ぼーっとしているよな。

 無理も、ないか。

 だって……


 家に着いた。

 古びた木造二階建てアパート。

 一階真ん中にある2K部屋で、彼は一人暮らしをしている。

 ドアを開けると叩き付けるような猛烈な勢いでカビ臭さが襲ってきた。

 歴代住人が蓄積してきた元々の臭いだけでなく、橋本自身も相当にカビを発生させるような生活をしているからだ。

 冷蔵庫の横にあるビニール袋の中に、田舎から送ってもらった八朔が入っているのだが、当初は綺麗なオレンジ色であったがおそらくいま袋を開けば毒々しい青ミカンだ。いつか気が向いたら捨てるつもりだ。

 サッカー雑誌やらエロ本やら、食べ終わったカップ麺のカップやらの散乱している部屋の中央には万年床。そこにどっかり腰を下ろすと、リモコンを手に取りテレビをつけた。お笑い番組がやっている。

 買ってきたビールを早速一本開け、一口。

 酔いも回っていないというのに、いきなり叫んだ。


「どこがやねーん!」


 などと、テレビに突っ込むんだろうな、ダイドーなら。がはは笑いしながらさ。

 あいつはさ、ほんと明るいよな。それだけでも、おれにとっては本当にたいしたもんだ。

 酷い振られかたを何度も経験しているといっていたので、ある日、聞いたことがある。具体的にどう酷いのか、酒の席で笑いながらに話をしていたけど、それを聞いた時、おれちょっと振るえ上がった。

 おれならきっと自殺してるなって。

 百歩譲って死なないまでも、少なくとも新しい恋なんか絶対にしない。もう恋なんかしないなんて・、いうよ絶対・♪ だ。

 お笑い番組がつまらないので、チャンネルを変えた。

 結局、他のどの局も面白くないのでテレビを消した。

 いつしかビールも飲み終えていたし、寝ることにした。

 寝床に腰を下ろしているので、ごろんと横になるだけだ。2K部屋、実に合理的だ。

 横になったところで、つまみを買い忘れたことに気づいた。

 いいや、いまさらもう。

 なんの味気なさも感じていなかったのだから、そんな程度なのだ。

 目を閉じた。

 そのまま何分かが過ぎたが、しかし眠れない。寝つきは相当にいいほうなのに。ビールも飲んでいるし、絶対に眠れるはずなのに。

 上半身を起こした。

 傍らに、もう一本ビールがある。帰ってきて冷蔵庫に入れるのを忘れたものだ。それを手に取り、開けた。

 ぶちゅぶちゅと泡が出てきて、すぐにそれを口を当てて吸った。

 一本目ですらちょっとぬるくなっていたくらいなので、こちらはもうほとんど常温。

 ベルギービールみたいなもんだ、と無理矢理自分を納得させようとするが、当然というべきか、全然美味しくない。

 ビール缶片手に立ち上がった。

 不味さに腹が立ったのだ。

 ちょっと味に変化をつけようと、キッチンから醤油を持ってきて、缶の飲み口にちょーっと垂らしてみる。

 麦と醤油、合わないはずはあるまい。


「では、あらためていただきまーす」


 口に含んだとほぼ同時に、ぶふっと噴き出した。


「金返せ畜生!」


 ひでえ味だこれは。殺人的なまずさだ。これで死んだら他殺か自殺か警察も判断に迷うぞ。

 しかし捨てるのももったいないので、根性で飲み干した。

 くらくらする。

 気持ち悪い。

 バカなことした。

 万年床の上で、掛け布団の上から横になった。

 しかし、やはりなかなか眠れない。

 眠れないでいるうちに、最初に飲んだビールが、おしっこになってきた。

 トイレ面倒だけど、行くか。

 メーカーもアホだよな、利尿作用のないビール作ればヒット間違いなしなのに。泡が絶対ぶひゅ・って吹き出さない缶とか。

 玄関から外に出て、建物の端にある共用トイレで用を足すと、手も洗わず戻ってきて、また掛け布団の上に横になった。

 天井からぶら下がっている電球が、かすかに揺れているのに気づいた。

 上から、ぎっちぎっちと軋むような音。だんだんと大きく、はっきりと聞こえてきた。

 確か真上の部屋には若夫婦が住んでいる。

 くそ、平日の夜だってのに。

 銛で天井ついたろか。

 どうでもいいや。他人のことなんか。

 ふう。

 ため息をついた。

 って、なにがふうだよ。なんに対してだよ。サッカーか? なんだ?

醤油味の殺人ビールか?

 考えるまでもない。おれの、全部がだよ。

 また、ため息をついた。

 橋本は、去年の夏にこの北海道へ、イクシオンACへとやってきた。それまでは、地元である石川県のJFLのクラブにいた。

 守備力強化のために是非と乞われて、二つも上のカテゴリーからやってきたわけだが、実をいうとJFLの試合に一度も出場したことがない。それどころかベンチを温めたことすらもない。それを承知の上でクラブから頼まれ、移籍を決断した。

 ここの選手とは、誰ともその話はしたことはないけれど、きっとみんな知っているのだろう。JFLなんて、試合記録を見ることなど誰でも簡単に出来るのだから。

 その頃、彼女がいた。

 移籍で石川県を離れる際、少し距離を置こうかと自分から話を持ち掛けた。要するに、別れようということ。もしもいつかまためぐり合って、その時にお互いに相手がいなかったらまた付き合うこともあるかも知れないが、と。

 それからずっと、後悔しているようなしていないような、自分でも自分の気持ちが分からない。あの時どんな気持ちだったのか。いま現在、どんな気持ちでいるのか。

 でも、あの劣等感の塊だった自分に、北海道までついてこいなどといえる勇気はなかった。

 せめて一試合でも出ていれば、また違っていたのだろうか。

 とにかくもう、あたらしい彼氏を見つけていることだろう。もう終ったことだ。

 そう思っていた。

 しかし、自分の中ではなにも終っていなかったのだ。

 自分の心が、まさかここまで弱いなどとは思ってもいなかった。

 石川県の友人から久しぶりに電話があり、その友人から、彼女が知らない男と一緒にいるのを見たと聞いた。

 手を取って引っ張ったり、気軽にボディタッチをしていてとても仲が良さそうだった。

 どくん。それを聞いた橋本の心臓は高鳴った。

 間違いない。

 それは新しい彼氏だ。

 間違いない。

 昨日の晩の電話である。

 それで今日はこの様だ。


「くそ。眠れねえ」


 立ち上がった。

 トイレだ。

 ったく、利尿作用のないビール作ればいいのに。つうか上、銛で突くぞ。


     5

 シュートを打たれた。

 完全にノーマークにしてしまっていた。崩されたわけではなく、単なる個人の判断ミスから。

 それでもGKの木場芳樹は鋭い反応を見せ、横っ跳びで食らいつこうとしたが、その頑張りも虚しくボールはグローブの指先を弾いてゴールの中へと吸い込まれた。

 後半二十分、1-1。

 前半に、カウンターが綺麗に決まって大城政のゴールで先制したイクシオンACであるが、そのリードを守り切ることが出来ず、同点ゴールを許してしまった。


 五月二十七日 日曜日

 帯広市営陸上競技場

 道東ブロックリーグ第二節 すずらんファイターズ 対 イクシオンAC


 どんどんどんどん、すずらんファイターズのサポーターの太鼓が鳴った。

 細い黄、緑、黒のストライプのユニフォームレプリカ、二十人ほどのすずらんファイターズのサポーターたちが喜びを爆発させている。

 赤色のレプリカ、アウエイであるはずのイクシオンACの方が十倍は多い。北海道を分割した狭い地域の中で行われるリーグだけあって、ホームかアウエイかはそれほど関係なく、とにかく存在するサポーターの絶対数がおおよそそのままゴール裏の人数として表れるのである。

 GK木場は地面を叩いて悔しがっている。届かなかったわけではない。グローブに確かな感触があっただけに、なおさら悔しさが倍増しているのであろう。

 その近くでは、CBの橋本英樹が呆然と立ち尽くしている。

 失点は、橋本のミスからであった。

 相手の蹴ってきた単純なロングボールを頭で跳ね返そうとしたところ、処理を誤って相手FWに渡してしまい、そのまま持ち込まれてシュートを打たれてしまったのだ。

 イクシオンACボールでキックオフ。

 大道大道は、横にいるツートップの相方、大城政へと転がした。

 相手が走り寄ってきたのを引きつけ、大城は大きく蹴った。

 芹沢恭太がサイドを駆け上がり、ボールを受けた。

 同点にされた焦りが無意識にあるのか、恭太は二人に囲まれながらも無理な突破を図って結局ボールを奪われてしまった。

 すずらんファイターズのボランチであるよねもとしようは、サイドライン際をドリブル。速度を緩め、SBのオーバーラップを待つが、その前にイクシオンACの野獣ボランチ日野浩一が雄叫びをあげながら背後に密着。

 後ろから足を伸ばしてボールを蹴り出す日野。スローインに逃れた。

 とりあえず難を逃れたイクシオンACであったが、しかし、そのスローインを基点に細かなパスが繋がって、あっという間にゴール近くまで運ばれてしまった。

 そして、CBの後藤権三が、相手FWのすずたつに抜かれてしまった。


「ドアホウ!」


 怒鳴る権三。

 何故彼が怒鳴るかというと、権三が抜かれたというよりも、橋本英樹がぼーっと残っていたせいでオフサイドトラップを仕掛けるのに失敗したという、それがピンチを招いた原因だからだ。

 斜めから、全力で腕を振り橋本が向かう。絶対絶命かと思われたが、鈴木達雄がボールタッチを誤ってしまい、その間に追い付くことが出来た。

 しかし……

 橋本と鈴木達雄、対峙はほんの一瞬であった。橋本は本職DFだというのに、鈴木のフェイントにあっさりと引っ掛かって、いとも簡単に抜け出されてしまったのだ。

 そして次の瞬間、鈴木は地に転がった。

 笛が鳴った。

 腕を引っ張り転ばせたとして、橋本にイエローカードが出された。

 橋本は、いらついたような、申し訳なさそうな、そんなやり場のない顔で、足を踏み鳴らした。

 普段の橋本と比べて、あきらかに調子が悪い。

 まあ、ここ数日の橋本を見ている者からすれば、やっぱりなということなのだろうが。

 守備の要であるCBがこのような調子だというのに、1-1というスコアだけを見ればしっかり戦えているようにも思える。これはさほど不思議なことではない。単純に相手チームのレベルが低いのである。

 開幕戦である前節も、漁師の魂FCというシーズン前降格候補を相手に9ー0の大差で負けているのだから。

 つまり、イクシオンACが前半に先制したのであれば、相手が引いて守るわけにもいかなくなったのを利用して、四点、五点、六点と畳み掛けられなければならないところなのである。

 まあこれはあくまでも、Jリーグを目指すチームの気の持ちようの話というだけであるが。イクシオンACにしても、残留争いをしていた去年と同メンバーということもあって世間的にはすずらんファイターズとどっこいどっこいの評価なのだから。

 イクシオンACの監督、コージはなにを考えているのか黙って腕組みをし、戦況を見つめている。

 そのすぐそばでは、控えDFの滝本孝がどうにも焦れったいといったオーラを盛んに発している。

 さもあろう。いくら橋本が元JFL所属の選手であろうと、現在ピッチ上でご活躍なされているあの有様よりも自分の方が下に見られているのではたまったものではない。(負けこそしたが)リーグ初戦で、コージの魔術のような采配を見ていなかったら、とっくに切れて文句をいっていたことだろう。

 そんな滝本孝の思いなど知るはずもなく、橋本の絶不調なプレーはなおも続く。

 「てめえ、ふざけてんじゃねえよ!」と、珍プレーを見せられる度に怒鳴り、叱咤していた後藤権三であったが、なおも酷さの加速が止まらないこの状態に、もうなにもいえなくなってきていた。見ていて、なんだかあまりに哀れで、ということであろう。

 その代わり、「監督も、替えてやりゃいいのによ」などと、しきりにコージを睨むようになった。

 また気の抜けたプレーであっさりと抜かれかける橋本であったが、権三のフォローで、なんとか持ちこたえて必死のクリア。

 運良く失点しなかっただけで守備陣ボロボロだというのに、元凶たる橋本本人が、自分のクリアしたボールを追って前方へと走り出した。

 不様なプレーで失った信頼や自信を取り戻そうということか、完全に連係無視の、無謀な攻め上がりであった。

 結果は案の定、神のみならず皆も知る。クリアボールは相手に拾われて、がっぽり空いた守備の穴へと大きく放り込まれ。橋本の攻め上がりは、ただ単に大ピンチを招いただけであった。

 左右のSBも慌てて下がろうとするが、遥かに危険なのは中央であった。攻め残って中央に固まっていたすずらんファイターズの攻撃陣が、このチャンスを逃すなとばかり三人、四人と駆け上がっているというのに、迎え撃つのが日野浩一と、あいや彼はいま突破されて、CBの後藤権三たったの一人しかいない状態なのだから。

 大波にざんぶり飲みこまれ絶体絶命の権三。

 この人数差の前に彼一人では、攻撃を遅らせることも、パスコースを邪魔することも、なにが出来るはずもなかった。

 中途半端なポジションのままずるずる下がるだけの権三の前で、すずらんファイターズの松浪裕太から鈴木達雄へ横パスを繋げられ、ついにシュートを打たれた。

 完全ドフリーの、ぽっかり空いたゴール真正面から。

 鈴木のシュートは蹴り損ねたのか、少し威力が弱かった。

 それでもしっかりコントロールされ、隅の隅をしっかり捉えており、決まっておかしくないシュートであった。決まらなかったのは、木場芳樹が油断せず、横っ跳びで指で触れ弾き出してみせたからである。


「ダメかと思った」


 権三は、いかつい顔を複雑に歪めて安堵のため息。

 ちらり、と守備に戻ってくる橋本の顔を見遣った。

 やっぱりここはバカヤロウとかなんとか、ガンといってやるべきだろうか、と迷っているような。


「バカヤロウ!」


 既に日野浩一が、橋本の頭をガスガスガスガスと容赦なく小突いていた。


「ノッコやめろっ、ハッシーだって生きてるんだぞ。感情があるんだぞ」


 慌てて制止に入る権三。

 さて、すずらんファイターズのCKである。キッカーはみどりかわてるという選手だ。

 小さい身体を小さく助走させ、蹴った。

 山を描いて、ゴール前の混戦の中へ。

 真ん中で橋本と、すずらんのやまひさしが、身体をぶつけ合い、跳躍した。

 ゴツ、二人の頭がぶつかり、鈍い音が響いた。

 橋本は着地と同時に、力抜けたように倒れてしまった。


 ぴよぴよぴよぴよ


 無数の天使が輪になって、くるくる回っている。

 打ちどころが悪かったのか、大の字になって完全にのびてしまったようだ。

 ボールは間一髪のところで恭太がクリア。

 こぼれを大城が拾ったが、すぐタッチラインの外へ蹴り出した。橋本がまだ起き上がれないでいるからだ。

 担架が呼ばれた。


 おれ、もうだめだ……


 真っ白でなにも見えない世界の中、橋本はそう思っていた。それだけあまりにも無数の天使たちがぴよぴよしていたのである。隣にパトラッシュが寄り添っているのではないかというくらいに。

 と、その時である。


「ヒデ君!」


 彼女の声が、聞こえたのである。

 いや、正確には元彼女の声だ。

 朦朧とした意識の中に、はっきりと飛び込んできた。


 しかし、なぜだ。

 なぜこんな北の大地に、石川県にいるはずの彼女の声が。

 ああ、そうか。

 おれは、もうじき死ぬのか。なるほど得心。いわゆる走馬灯というやつか。結構強烈にゴチってやっちゃったものな。おれとぶつかった、あいつがなんともなければいいが。

 そうか、おれは死ぬのか。

 悔いのない、人生であったろうか。

 おれの山河は美しかったであろうか。

 否。

 悔いばかりある、人生だった。

 だが、人はそれでいいのではないだろうか。

 無から生まれ、有を残して再び無に帰す。

 それはすなわち、有から生まれ有に帰すということと同じではないか。

 素晴らしき人間の人生、おれの人生。

 ああ、醤油ビール。


「ヒデ君!」


 彼女、よしざわゆうの叫び声に、橋本は、うっすらと目を開いた。


「うわ、本当にいる!」


 飛び上がったのも無理はない。去年別れた彼女の姿が、観客席の中にあるのだから。

 他人? いや、周囲に人のほとんどいないバックスタンド席、見間違えるはずはない。


 なぜこんなところに。

 しかし悠子……あれから一年近く経っているというのにまったく変わっていないな。

 新たな恋人と、うまくやっているのだろうか。それとも、うまくいっていないから、思わずこんなところへきたのだろうか。

 いやいや、うまくいってないはずないだろう。友人の報告では、仲良さそうだっていっていたではないか。

 いやいやいや、終ったことだ。

 悔いある人生で結構だ。

 ああ、結構だ。


「あんた、そんながばっと起き上がっちゃだめだよう。頭やっちゃって倒れてたんだからさあ、早く病院に行かねえと。まあぶつぶつ呟いちゃってさあ。ほら、病院」


 などといいながら、老け顔の主審が近寄ってきた。


「いえ、行きません」


 片手を突き出し、きっぱり断った。ノーサンキューだ。

 病院などに行ったら試合に出られないではないか。

 自分でもよく分からないが、橋本の心は燃えていた。内側から、懇々と力が沸き上がってきていた。無性にチャレンジしたい気持ちであった。

 これまで自分の内面になかったその感覚に驚くとともに、それがとても心地好かった。


 結果どうなるかは時の運だけど、

 とにかく、悠子に不様な姿は見せられない。

 だって、おれとの思い出も、良き一ページだったと思えなきゃあ、お互いあまりにも悲しいじゃないか。


 橋本は突然に雄叫びをあげると、両の拳で、自分の顔面をばかすかと殴った。取り憑かれたかのように、強烈に、猛烈に、ばかすかと、ばかすかと。


「おれさ、生まれ変わったかな」


 心境の変化などそんなリアルタイムに他人に分かるはずもないというのに、つい権三に聞いてみた。


「生まれ変わったもなにも、酷い顔になってんぞ、バカか」


 試合再開である。

 すずらんファイターズのスローインだ。日野浩一が背後から足を出して上手に奪ったが、横から近寄ってきたすずらんのなかいさむに、すぐ奪い返されてしまった。

 田中勇はロングボールで一気に前線へ。

 走り出す、すずらん鈴木達雄。

 オフサイドはない。

 絶妙の飛び出しを見せたかに思われた鈴木であったが、気付けば橋本がぴったりと密着している。

 鈴木の方が先にボール落下地点に先に入り込んだが、先にボールに触れたのは橋本であった。長身に加えてその高い跳躍力で、鈴木の頭の上から楽々と跳ね返して、イクシオンACの味方に繋げた。

 そのファイトと上手なプレーに、観客席から拍手が起きた。

 橋本は、ふふんと鼻を鳴らした。


「そんな単調な攻めが通用するかよ」


 今の今ままで通用していたからこそだというのに、橋本は知らぬ顔で大威張り。

 ボールを受けた日野浩一は、相手選手の緑川輝夫を引き付けるだけ引き付けて、恭太へとパスを出す。

 恭太はサイドを疾走し、飛び込んでくる米本将吾をひらりかわすとセンタリングを上げた。

 ゴール前ど真ん中、走り込んだ大道がジャンピングボレー。完全に枠を捉えていたが、しかしGKの読みと必死の横っ跳びで弾き出されてしまった。


「完璧だったのにニョニョーー」


 大道は両手で頭をかかえ、悔しがった。

 しかし、まだイクシオンACの攻撃は続く。今度はCKだ。

 ゴール前に、権三、橋本といった長身の選手たちが上がってくる。

 キッカーは和歌収。

 小さく助走し、蹴った。

 ゴール中央、すずらんの田中勇はクリアしようと跳躍した。

 田中勇は身長百七十八、決して小さくはないというのに、しかしそれより遥かに遥かに高く、橋本の頭があった。


「橋本スペシャル!」


 上空から、いや天空から、頭を激しくボールに叩き付けていた。


 さようなら、悠子。


 決別の、逆転ゴール。

 そして、試合終了を告げる笛が鳴った。


     6

「1、2、3、ダーーーッ!」


 橋本英樹はゴール裏のサポーターたちへ向かって右腕を突き上げ、張り裂けんばかりに絶叫した。

 歓声、拍手で応えるサポーターたち。どんどんどんと太鼓の音が響く。


「うじうじしてた奴が、なんだか変わりすぎじゃねーかよ」


 権三が、橋本の頭を肘で小突いた。


「うじうじなんか、しちゃいねえよ」


 橋本はゆっくりと振り向いて、バックスタンド中央へと視線をやった。

 そこには、元彼女が。そして、さっきは気が付かなかったが噂の新彼氏と思われる若い男がいる。

 友人のいっていた通り、確かに仲の良さそうな二人に思える。なんだか兄妹みたいに顔立ちが似ているしな。

 そっくりだな。相性最高なんだろうな。おれなんかと違って。

 新たな男の存在を視認したことで、関係の完全な終局を感じた橋本であるが、しかし心は晴れやかであった。

 面はおれのほうが少しハンサムだけど、ま、やさしそうな彼氏じゃないか。

 いいんじゃないか。

 それで、彼女が幸せになるのなら。

 そう心に呟きながら、バックスタンド中央へと、フェンスに沿ってゆっくりと歩き出した。

 新彼氏と一緒に、元彼氏のところに来るなんて、どういうつもりだ。と、考えなくもなかったが、まあそれだけ新彼氏との信頼関係が築けているのだろう。結構なことだ。

 彼女も階段を下りて、座席の一番前までやってきた。

 橋本は足を止めた。

 二人はフェンス越しに向き合い、見つめ合った。


「久しぶり」


 先に口を開いたのは、橋本であった。


「そうだね」


 彼女は恥ずかしそうに、軽い笑みを浮かべている。


「どうしたんだよ、こんなところまで」


 橋本は尋ねた。

 どんな答えが返ろうとも、ショックはない。心から、彼女の新しい人生を、選択を、応援出来る。

 だから橋本は心から微笑み、そう尋ねてみたのだ。


「うん。ちょっと家族旅行で、こっちに来ててね。お父さんお母さんはいま別のところ行ってるんだけど。あ、あれ、あたしのお兄ちゃん」


 彼女は、後ろにいる若者を手でさした。

 彼女に顔の似た若者は、小さく頭を下げた。


「え」


 橋本の目は、点になっていた。


「え」


 点になっていた目が、かっと見開かれていた。


「えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」


 あまりの凄まじい大口に、アゴが外れて先がぐっさり地面に突き刺さっていた。

 彼女、悠子はフェンス越しに立つ橋本の腕を両手に掴むと、ぐいと引っ張った。そして橋本の耳に、そっと口を近付けた。


「距離を置こうなんていわれたけどさ、距離なんて、置けるわけないよ。遠距離なのは平気だけど、我慢、出来るけど、心までは、離れたくないよ」


 囁くように、はっきりといったのである。

 橋本は、しばし呆然としていた。

 はっとした表情になったかと思うと、急に顔が真っ赤になった。

 悠子の肩を掴んで身体をぐっと突き放すと、改めて、腕を取って引っ張り寄せた。


「お、おれ、かかっ必ず、迎えに、行くから。もっと、大きくなって、いや、その、なんだ、色々としっかりしたら、必ず、迎えに行くから。だから……だからっ」


 しどろもどろながらも、なんとか思いを伝えようとする橋本であったが、途中でまったく言葉が出なくなった。

 顔をくしゃくしゃに歪め、泣き崩れてしまったのである。

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