きらりキラリ

かつたけい

第一章 コージ

     1

 きゅうじゅうにっ、きゅうきゅうさんっ、きゅうじゅうよんっ、きゅうじゅうごっ


「あー、失敗だ、くそっ」


 右の爪先で軽く蹴り上げたつもりであったが、力を込めすぎてしまったようで、ボールはあさっての方向に飛んでいってしまった。

 失敗という事実は蹴ってる本人だけが知ればいいことなのに、下手くそに蹴られたボールが腹を立てたのか、その一秒後、周囲の人々全員の聴覚に訴える結果となった。早い話が、飛んでいったボールが客間の窓ガラスを割ってしまい、しんと静かな中を凄まじい音が鳴り響いたのである。

 やべえ、あれ、お客さんの泊まってる部屋だよ。

 せりざわきようは心の中でそんな声を出しながら、割ってしまった窓へと早足で駆け寄った。


「大丈夫ですかあ」


 なんだか間抜けな声をあげながら、ガラスが割れて大穴になった窓枠から内部を覗き込んだ。

 確か宿泊客のいる部屋のはずだが、幸いにして外出中なのか人の気配はないようだ。

 恭太はとりあえずほっと胸を撫で下ろした。

 しかし……

 他の部屋の窓が、ひと部屋、またひと部屋、と開いていった。

 宿泊客たちである。

 なにごとか、という顔で恭太のほうを見ている。


「あ、すんません。なんでもありませんから。ちょっと窓ガラスが割れちゃって。お騒がせしました」


 割っちゃって、のほうこそこの場に適切な表現なのだろうが、わざわざいうことでもあるまい。リフティングしていたのを見ていた人には、分かってしまっているだろうけれど。


「ター坊、あんたまたやったね!」


 老婆が怒り心頭といった形相で飛び出してきた。どう見ても鬼にしか思えない恐ろしい表情であるが、恭太が人間である以上、この老婆もまあ人間なのではあろう。彼女の名前は芹沢トモ子。恭太の祖母なのだから。

 宿屋せりざわ。

 芹沢恭太が経営している旅館の名前である。

 北海道の東部にあるH市の南、海に面してはいないがそのすぐ近くにある。

 H市は、近年すっかり寂れてはいるものの、由緒のある観光地。温泉が出て、新鮮な魚介もたっぷり味わえるところだ。

 恭太はそんなH市にある宿屋せりざわの主人であるが、実際に切り盛りしているのは祖母のトモ子であり、そしてその実権や経験は、実の息子をスルーして恭太の妻である芹沢愛子に受け継がれつつある。

 しかし立場がなかろうと主は主だ。と居直って威張っていられればまだしもであったが、悲しいかな、そのご主人様は、首を掴まれた子猫のようにすっかり小さくなって、トモ子に連れられてすごすごと建物の中へと入ってきた。

 なんと運の悪い。妻の愛子が、二人の女性従業員を連れてあたふたと早歩きしているところに出くわしてしまった。


「恭ちゃん、さっきの音、もしかしてまた」


 いぶかしげな視線を亭主に向ける愛子。


「もしかしてもなにも、なんにもないよ」


 けろりとした表情を浮かべ、恭太は場をごまかそうとする。


「もしかしてもなにもない、だろ。日本語は正確に使いな。窓ガラス割ったくせに、なんにもなくないだろ。まったくター坊ったら、サッカーだか作家だか知らないけど下手くそのくせに暇さえあればボール蹴ってるんだから」

「下手だから練習してんだろが」


 いわれっ放しも面白くないので恭太はちょっと逆らってみた。

 でもやっぱり十倍になって返ってきた。


「ここで蹴るこたないだろ。下手くそが多少練習したってなんにも変わりゃしないんだよ。そんなことしていて割れたガラス代以上に稼げるのかい。そもそもサッカー選手だなんていっているくせに、お金がかかるだけで一円の稼ぎにもなってやしないじゃないか。まあ多少なら趣味ってことで我慢もするさ。でもこんなとこで下手クソ披露して、あげくの果てには窓を割って。一度っきりでも困ったものだというのに、これで何度目だい? ただでさえ昔に比べてお客さんが減ってるんだよ。これ以上いなくなったら、どうすんだい」


 そしたら、親父みたいにラーメン屋でもやりゃあいいじゃねえか。と、さすがにそれは口には出せなかった。いま現在養う家族(どちらかというと養われている?)と従業員を持つ身として、さすがにちょっと無責任過ぎる発言かなと思ったから。というのは自分の心へのいいわけで、単にまた十倍返しになるのが面倒なだけだ。

 祖母と孫とがそんなやりとりをしている間にも、次々と質問にやってくる従業員に対し愛子がテキパキと仕事の指示を出している。

 やがて従業員全員が去ると、愛子は大きく伸びをした。


「それで、窓ガラスの手配したの?」


 伸びをしながら、尋ねる。


「いや、まだ……」


 恭太はばつ悪そうに答えた。


「あたしやっとくからいいよ。恭ちゃん、変なとこに頼んじゃいそうだもん」


 いつもの業者だろ。そんなん間違えるかよ。

 と思ったが、これもまた思っただけで口には出さなかった。以前、屋根修繕でいつもの業者を頼まずにたまたま手元にあったチラシを見て電話してしまい、そこが悪質業者でぼったくられたことがあるから。

 お金は損するし、馴染みの業者の顔は潰してしまうし、と、愛子とトモ子に散々小言をいわれたものである。

 従業員がまた愛子に指示を仰ぎに来た。愛子は目まぐるしい忙しさににこやかではないものの、かといってこれっぽっちも不満顔を浮かべることもなく、手早く指示を伝えていく。

 観光客自体が以前に比べて相当に減ってきているため、基本は暇なのであるが、そのため従業員数が少なく、忙しくなる時はこのように突発的に忙しくなるのだ。


「じゃ、あたし電話してくっから。はい恭ちゃん、どいてどいて」


 愛子は亭主を邪魔とばかり押しのけると、フロントのほうへと小走りだ。

 彼女の後ろ姿をしみじみと眺めている恭太。

 ちょっと、逞しく、なりすぎだよな。

 結婚したばかりの頃は、仕事のことなんにも分からなくて、自分のいうことをなんでもはいはい聞いてくれたのにな。

 これじゃ、どっちが主人なのか分かりゃしないよ。

 だったらちゃんと仕事すればいいだけじゃないかと祖母に怒鳴られそうなことを、心の中で呟いていた。

 さて、愛子様の目まぐるしい活躍により仕事は迅速に進み、正午も過ぎて、ようやく落ち着ける時間が出来た。

 従業員たちもみんな集まって、お茶の時間が始まった。

 従業員、といっても人数も少ないので、この機会に、この旅館で働いている人間をすべて紹介してしまおう。

 まず女性従業員。いわゆる仲居さん。

 ゆみ、五十二歳。十六のころから、もう三十年以上も勤めている大ベテランだ。

 がしらさと、三十四歳。

 いしだてこづえ、三十七歳。お喋りで、彼女に重要なことを打ち明けようものなら、翌日には街中に広まっているという。

 続いて男性従業員。

 いわでらあぶ、六十二歳。もともと、旅館に出入りする植木職人であったが、職をなくし、五年ほど前から従業員として雇っている。

 最後に、料理人。

 かたいしとおる、五十五歳。

 とみしんぺい、四十三歳。近くで料亭を経営しており、営業時間外にこちらに来てくれている。

 これらの者に、恭太たち三人を加えたのが、この旅館で働く全員である。

 部屋の隅にあるテレビには、昼のメロドラマが流れている。

 十四型のブラウン管テレビ。画面の横に、縦一直線に並んだチャンネルボタンがあることから、相当な旧式だと分かるであろう。

 あと数ヶ月でアナログ放送も終わってしまうというのに、このテレビに限らず旅館全体としてなんにも地上波デジタル放送に対応させる準備をしていない。

 確固としたポリシーがあるわけではなく、ただ単に買い替えるお金がないのだ。

 だから恭太は今日も、そんな話はおくびにも出さず、時折煎餅をかじりお茶をすすりながら、黙っておんぼろテレビに視線を向けている。うっかり地デジの話をしようものなら、「屋根の修理にぼったくられてなければ、全部屋設置出来たんだけどねー」と愛子の小言が飛ぶからだ。

 とはいえ、アナログ放送終了までにはなんとかしないとな。この部屋は最悪テレビを撤去すればいいけど、客間でそうはいかないからな。今時テレビがないなんて、それだけで相当なマイナスポイントになるし。

 クサナギの馬鹿野郎、必要ないってのに地デジだなんだ余計なこと進めやがって。

 ホテルはいいよな。電波が来てなくたって、エロビデオで儲かるもんな。千円でカード買わせてさあ。

 ホテルの実情をまるで知らないので、好き勝手な文句をいう恭太。

 と、突然、正面玄関のガラス戸が開いた。まあ、だいたいの場合、ホテル旅館の玄関扉などは突然開くものであるが。


「マトバさん、いますか?」


 入るなりそう声をかけてきたのは、外国人の男であった。

 長身で、がっちりしている。灰色のスーツを着ており、一見すらりとしているが、中に相当量の筋肉が押し込められているのが分かる。大きな鼻が特徴的だ。一見若そうに見えるが、目尻のシワなどから考えると四十代半ばくらいだろうか。

 中南米に多く見られるような薄い褐色の肌。加齢のためか元々なのか、頭髪は少し寂しい感じだ。


「マトバ、さん、ですか?」


 中居の田頭里子が応対した。さん付けするか躊躇したのは、男が旅館関係者か宿泊客か、どちらのマトバを求めているか分からなかったからであろう。


「旦那さん、お客さまの中には、そのような方はいないはずですよねえ」


 彼女の問いに、恭太は頷いた。

 帳簿を確かめてみるまでもない。もしもマトバなどという名前ならば、記帳の際に恭太の印象に残らないはずがない。

 ということは、この人は……


「コーヘーさん。マトバコーヘーさんです」


 やっぱりだ。

 でも、どうしてうちに尋ねに来るのか。

 なぜ、うちを知っているのか。


「的場耕平さんは、もう亡くなってます。一昨年」


 恭太はゆっくり立ち上がりながら、正直に答えていた。


「オトトシとは?」

「二年前」


 流暢な日本語を操るくせに、こんな簡単な言葉が分からないのか。

 外国人の男は、自分の指を一本、二本と折り曲げた。

 少し考え込むと、


「オー」


 がっくりと肩を落としながら片膝をついた。


「あの……」


 恭太が近寄ろうとすると、男はすっと立ち上がった。


「失礼しました。もう大丈夫です。それではまた」


 男は深く頭を下げると、玄関の外へ出た。寂しげに微笑みながら手を振ると、ゆっくり戸を閉めた。


「なんだったんだ、ありゃ」

「さあ。こっちが聞きたいわよ」


 夫婦は顔を見合わせた。二人の顔にはおっきなハテナマークが浮かんでいた。


     2

 芹沢恭太はフェイントを仕掛けた。

 右のアウトサイドでちょんと外側へ蹴り出す素振りを見せつつ、足はそのままボール上を滑らせて、折り返すようにインサイドで内側へ。

 単純なフェイントであるが、二度連続で来るとは思わなかったのだろう。今度は見事、ながおかたくみを抜いた。

 気持ち良さに油断したわけではないが、ちょっとタッチの大きくなったところを、あっさりととうごんぞうに奪われてしまった。

 だが恭太は、すぐさま半ば強引に身体を入れて自ら取り返すと、そうへパスを出した。

 宇野井聡太は、飛び込んで来た小笠原慎二をすっとかわすと、反転しつつヒールで横へパス。しかしせっかくのパスをおおみちだいどうがまるで感じておらず、慌て受け損ねてボールはラインを割ってしまった。

 いま彼らがなにをやっているかというと、サッカーの練習、三人ずつに分かれてのミニゲームだ。

 ここは、一応サッカーグラウンドなのではあるが、季節が季節であるため全面雪に覆われており、ただの雪原になってしまっている。

 元々は本当に、ただの野原であった。十年程前、細い川に沿って一部を開拓して、サッカーの練習に使えるよう整備したのだ。

 ちょっと雨が降るとスパイクの裏にベタベタと土がくっついてきて最悪だが、晴れているときは、適度なクッション性を持った快適なグラウンドだ。芝には及ばないが、そんなものはないのだから贅沢もいっていられない。

 とまあ、これは春から秋にかけての話であり、現在は、前述したようにすっかり雪に覆われていて、みんなで掻き分けた狭い範囲でしか練習が出来ないのだが。

 昨日掻いたばかりであり、数日も経つと、凍ったりまた雪が積もったりして大変なので、今日はみんな一生懸命だ。地面の状態が悪くないうちに(恵まれた環境しか知らない者には充分に悪いが)たっぷりと練習しようと。

 彼らは、イクシオンACという社会人クラブに所属している選手たちである。

 北海道の、道東ブロックリーグに所属している、将来のJリーグ入りを目指して活動しているクラブだ。

 道東ブロックリーグは、日本におけるトップリーグであるJ1を一部とすると、五部に相当する。

 本当はもっと大人数で練習出来ればいいのだが、みんな仕事に忙しくて集まれないのだから仕方がない。

 今日は特に酷くて、GKのよしを入れても七人しかいないのだから。

 運が良ければこのあと何人か遅れて来るかも知れないが、とにかく現在いる人数で出来ることをやるしかない。

 将来のプロリーグ参加を目指しているとはいえ、現在のところプロ契約選手の一人もいない完全なアマチュアチーム。それぞれ仕事を抱えている以上は、このような日もある。とはいえここ数年、このような日が非常に増えてきているわけだが。

 Jリーグ自体が人気に陰りが見られるくらいなので、無名のチーム所属の身では職場の理解を得ることが難しくなってきたためだ。


「もう疲れたよ。シュート練習にしようぜ」


 後藤権三が、固められた雪の上にどっかりと座り込んでしまった。


「お前、おれと同い年だろが。まったく。タバコなんか吸ってっからだよ」


 恭太は、高校時代からの付き合いである親友の不甲斐ない姿を見せられて漏らさずにいられなかった。まだ三十歳のくせしやがって、と。


「バカ、おれ今吸ってないだろ」

「今吸ってないだけだろ、今」


 練習が終わったら早速一服するくせに。


「酒とタバコは、仕事のストレスがあるからしょうがねえの」


 いいわけしてやがる。

 仕事というより、奥さんのストレスだろが。

 権三の妻である花子は気さくで優しいが、亭主にだけはやたらと厳しいのだ。

 店を抜け出してサッカーをやらせて貰っているわけだから、そうなるのも仕方ないのかも知れないけど。うちの愛子なんか、まだ優しい方だ。

 とはいえやっぱり……集まりが悪いよなあ。恭太は、改めてそう思う。

 試合の日には出てやってんだからいいだろ。などと、あからさまにそんな考えを持っている者はさすがにいないだろうが、そんな雰囲気が少なからずあるのは間違いない。みな、サッカーが好きだから続けてはいるものの、他のことや、仕事も大切なのだ。

 サッカーで飯を食っているわけではない、という立場身分を考えれば当然の考え方ともいえるわけだが。

 恭太は比較的チーム練習に参加している方だが、それはたまたま他の者よりも時間が作れるというだけの話だ。それなりに熱心であるのか、他に趣味がないから惰性で続けていられるだけなのか、それは自分でも分からない。

 好きといえば好きだし、辞める理由もないし、ということからとりあえず続けてはいるものの、冷静に考えるとこのようなピリッとしていない環境だとちょっとむなしいような気もしてくる。例えが妙かも知れないが、負けてあげるからねと最初からいっている者を相手にトランプゲームをやっているような。

 現在は二月の下旬。あと数日で暦の上では春を迎えるといっても、ここは北海道、実際問題として周囲はまだまだ雪におおわれており、非常に寒い。

 このグラウンドも、練習のために雪掻きしたわずかなスペース以外は、完全に真っ白。白ウサギが紛れていたらまず見つけるのは困難であろう雪原である。

 その雪原では先ほどから、白ウサギではなく人間の子供達が遊んでいるのだが、いつの間にか、その中にひとり大人が混じっていることに、ふと恭太は気付いた。

 先ほど、宿屋せりざわに姿を見せた、あの日本語流暢な外国人だ。

 ひとり屈み腰で、なにやらせっせと作業をしている。

 どうやら、かまくらを作ろうとしているようだ。

 だが、積もっているのは降ってそれほど経っていない粉雪、さらさらとしてそう簡単には固まってくれない。悪戦苦闘している様子が、遠目からでもよく分かる。


「無理だろ」


 後藤権三も彼に気付いていたようで、突然ぼそりと呟いた。

 外国人の男は、なおもかまくら作りを続けていたが、突然、わずかながらも積み上げてきた作品を躊躇なく踏み付けて、早口で怒鳴り出した。


「ポルトガル語っぽいね」

「なんていったんだろ」


 長岡巧と木場芳樹が話している。何故かは分からないが、みんなあの外国人に注目しているようだ。まあ、子供の中にいて目立つということであろうか。


「なぜ雪くっつかないですか! じゃねえの?」


 恭太がぼそり。


「こんなやわな家に暮らせません! じゃねえの?」


 権三。


「なんだそりゃ」


 恭太は苦笑した。


「あの外人、さっき、うちに来たんだよな」


 権三の家は、家庭料理店兼居酒屋である。


「ああ、お前のとこにも? で、的場さんいるかって?」

「最終的にはね。最初は黙ってモツ食べてたんだけど。途中で自家製プリンも頼んでたけど。別のテーブルで、うちの常連客が、キン肉マン知ってるかなんて話しててさ、主題歌の話になって、なんか違ってる気がするけどどこが違うんだろう、なんてやってたら、それはなんとかデースって割り込んできて、そいつらと溶け込んじゃってさ。おれキン肉マンよく知らないけど、まあ詳しそうに楽しそうに笑顔で語ってたよ。そのあと突然、おれのほうに近寄ってきて、的場さん知ってますか、って」

「なんて答えた?」

「誰こいつ、って思ったし、的場さん死んだなんていいたくなかったんだよな。だから、『知ってるけど、遠いところに行ちゃった、もう帰って来ないよ』っていってやった。『オー』って片膝ついてがっくり来てたよ」

「なるほど。じゃあ、その後におれんとこに来たんだな」


 恭太は納得した。といっても、あの外国人が何者なのかはまださっぱり分からなかったが。

 かまくら作りを諦めた外国人の男は、今度は子供達の輪に入ってなにやら話をしている。

 子供たちは、誰かの持ってきたサッカーボールを蹴り始めた。

 外国人の男も、その中に混じり、奇声を上げて走り回ってボールを追っている。


「無邪気なもんだな。ちょっと本人から直接聞いてくるか」


 恭太は、そちらへと歩き出した。

 彼が的場さんのなんであるのか。それをただすために。

 いったい何者なんだ、あいつは。

 芹沢恭太は、まだ深く残っている雪に足を突っ込み突っ込み、子供たちの方へと歩いていく。正確には、子供たちの中に混じっている、外国人の男の方へと。

 外国人の男、そして子供たちは、恭太の接近にまったく気付いていないのか、声高らかにボールを蹴り続けている。

 と、その時であった。子供の一人が蹴り損ねたボールが、ぽーんと高く上がり、恭太の方へと飛んできたのは。

 恭太は一歩進んで胸でトラップしようとしたが、完全に落下地点の目測を誤っていた。慌てて足を出すものの、ボールは明後日の方向に飛んで行ってしまった。

 子供たちは、指を差して大笑い。外国人の男まで、両手を叩いておおはしゃぎだ。


「ここ雪だらけなんだから、しょうがねえだろ!」


 恭太は苦しい弁明をした。

 でも自分が蹴飛ばしてしまったのは事実。飛んで行ったボールを取りに行く。すぐ見付かったが、しかし危いところだった。川のほんの少し手前に落ちていたのだ。ボールは弁償すればいいけれども、川に落ちたら多分死ぬ。たまに雪で埋もれて見えないこともあるし。

 ほっと胸を撫で下ろし、ボールを拾って戻る恭太に、


「ちょっと、わたしたちとゲームしませんか?」


 外国人の男が声をかけた。


「ゲーム?」


 男の日本語はしっかりしており、ゆっくり丁寧で、はっきり聞き取れたが、それでも恭太は聞き返した。発言の主旨が読めなかったからだ。


「ストリートファイター2をやろうってわけじゃありません。ファイナルファンタジーでもない」


 どんだけ日本のテレビゲーム通だよ。恭太の顔に、ぴぴぴっと縦の青筋が走る。


「それで」恭太の持つボールを指差して「あなたたちと、わたしたちとで試合をしましょう」

「子供とおっさんだろ。勝負になんないよ」

「わたしたちの不戦勝! 勝利ですね! うおおおおお!」


 外国人の男は両腕を高く上げ、吠えた。


「外人、うるせえ! ……じゃあ、あいつらに聞いてくるから」


 恭太は雪原に足を突っ込み突っ込み、サックサックと音を立てながら仲間たちの元へと戻る。


「なに話してたんすか、キョンさん」


 ある程度近付いたところで、大道大道が尋ねた。


「試合やらないかって聞かれた」

「あの子らと? と、おっさんと?」

「うん」

「たまにはそういうのも、面白いんじゃないの?」


 と、権三。

 こいつらが乗り気なら仕方ないか。と、恭太は、子供たち、と、おっさんを手招きで呼んだ。


「やってもいいってさ。でもさあ、人数似たようなもんだし、メンバーごっちゃにした方がよくない?」

「いえ、あなたたちバーサスわたしたち子供軍団で」


 あんたは子供じゃないだろ。心で突っ込みを入れる恭太。


「本気? それ」


 まあ、いいのか。どうせ遊びなんだし。気心知れた者同士でパスしたほうが楽しいか。勝ち負けなんか関係ないし。って、こっちが勝つけどね。

 人数の関係で、五対五でやることになった。子供たちの中にGK経験者がいないということでGKは置かず。ゴールネット代わりに引いたラインの、サイドネットにあたる横内側からボールを通せばゴールというルールだ。

 みんなで軽く雪を踏み固める。そうしないと、足を踏み出すたびに埋まってしまってとても走れないからだ。

 本当は、翌日に凍って滑らないように、スコップでしっかり雪を掻ければいいのだが、そんなことしている時間がない。もうすぐ日が暮れてしまい、ささやかなライトがあるとはいえ、子供たちが遊ぶには危険な時間帯になってしまうから。

 即席の、小さな小さなコートに、出場メンバーが散らばった。

 こちらの人数が余るため、恭太とGKの木場芳樹が外れた。

 出るのは、とうごんぞう、大道大道、長岡巧、宇野井聡太、小笠原慎二の五人だ。

 作戦は特にない。

 ポジションも、特に決めていない。

 必要ないからだ。

 相手を考えれば、そう思うのも当然だろう。

 四人の子供と、テレビゲームマニアと思われる外国人の中年が一人とあっては。

 子供が中学生というのならまだしも、小学校高学年のようであるし。


「じゃ、試合開始~」


 恭太は片手を上げ、のんびり口調ながら大きな声を出した。

 イクシオンAC選抜チームのボールで、キックオフだ。

 長岡巧は後ろにボールを戻した。

 それを受ける小笠原慎二。

 その間に、前へと上がる大道大道。

 小笠原慎二は、大道へとパスを出した。

 しかし、それは繋がらなかった。

 走り込んできた外国人の男が、雪を上手に利用してスライディングしながらカットしたのだ。

 器用に、滑りながら立ち上がっていた。

 大道大道がボールを奪おうと足を出すが、しかしそれは、空気をつついただけだった。

 ボールは、いつの間にか外国人の背後にあった。素早く、足で裏に回したのだ。


「ちょっとはやんじゃん」


 大道は、ニッと歯を剥き出して好戦的な笑みを浮かべた。


「どうも」


 外国人は飄々とした風に軽く会釈、と突然、大道に背を向け、味方つまり子供へとパスを出した。


「こっちへ!」


 走りながら、少し前方を指差した。ちょっとだけイントネーションがおかしいが、咄嗟に出る言葉まで綺麗な日本語だ。

 その指した場所へ、子供からのリターンが来た。

 受ける。

 長岡巧と宇野井聡太が素早く二人で挟み込んだが、外国人は隙間からするするっと簡単に抜け出した。足には、文字通りにボールが吸い付いている。

 外国人の男はまるでお風呂で鼻歌でも歌っているかのように、実に楽しげな表情を浮かべながらドリブルで前進して行く。

 ゴールへ独走状態だ。

 いや、駆け戻った権三が、男にスライディングをしかけていた。

 足の間から、見事ボールを奪い取った。

 そう思ったのは、権三の脳内だけのことであったか……

 外国人の男は、跳躍していた。直前にちょんと蹴って浮かせていたボールと共に。

 空中で、ボールを蹴った。横へ。サイドネットの内側に当てるイメージで。

 ボールはライン上を見事通過した。

 しかし、


「ああ、今のはゴールじゃないね」


 セルフジャッジ。確かに、ボールを浮かせ過ぎていた。ここに本物のゴールがあったならば、クロスバーの上を飛び越えていたことだろう。


「でも、身体があたたまってきましたよ」


 にんまりとした笑みを浮かべる外国人の男。ここにいる誰よりも年長なのであろうが、しかしここにいる誰よりも子供のような、実に無邪気な笑顔であった。

 後藤権三のゴールキックでリスタート。

 小笠原慎二がボールを受ける。

 そこを狙って、子供の一人がプレスをかける。

 慎二は、ちょんと横に蹴って軽くかわす。次の瞬間、はっとした表情をうかべた。さもあろう、自分の足元あったはずのボールがないのだから。

 外国人の男が、慎二の動作を読んで、死角からちょんと足を伸ばして楽々と奪ったのだ。

 あたたまってきた。そう外国人の男はいっていたが、確かに、明らかに開始直後とは動きが違っていた。

 まず、特筆すべきはキープ力。抜群だ。一人では、とても奪えない。

 そして神出鬼没。何故ここにいるのか、というところに顔を出す。

 フィジカルも屈強。権三たちが激しくぶつかっても、いとも簡単に弾き飛ばされてしまう。

 子供への指示が素早くかつ的確。

 権三たちとしてはこの外国人に対してどうしても二人掛かりにならざるを得ないものだから、一人余ることになる子が、男の指示の下うまく立ち回って、とにかくパスが繋がる。

 権三、大道、巧、聡太、慎二、みんな息があがってきていた。相手にボールを回され、足場の最悪な中を走らされているためだ。

 だがしかし……

 外国人の男のほうが、先にペースダウンした。

 見るからに運動量が落ちてきていた。

 腰も痛そうで、プレーの切れ間ごと、両手を当てて押さえている。


「まだまだデース」


 ぜいはあ息を切らせながら、自分を鼓舞している。ちょっと、外国人ぽいイントネーションが出た。

 子供軍団プラスワンは、この外国人が動けなくなったことにより、完全たる劣勢になった。

 そしてついに、大道大道がゴールを決めた。

 一分後、小笠原慎二が続いた。

 巧、大道、大道、権三、大道、慎二、大道、巧、聡太、ゴールラッシュだ。


「はい、終了!」


 腕時計を見ていた芹沢恭太が顔を上げ叫んだ。

 終わってみれば、大人チームの圧勝であった。

 圧勝ではあったが、みんなへたばっていた。

 十人の、大人、子供、外国人、敵と味方が息も絶え絶えといった様子で座り込んだ。

 ゲームには大勝したというのに、大道や権三たちの表情に明るさは微塵も感じられなかった。

 不満、悔しさ、苛立ち、そんな感情しか読み取れないような表情であった。

 実際、彼らは敗北感に全身を包まれているのだろう。GKのため参加せず外から見ていた木場芳樹すらも同様の感情を抱いたか、なんとも複雑な表情を浮かべている。

 恭太から見てみんな悔しそうに見えるというだけだが、おそらく間違いのないところであろう。

 当然だ。だって相手は四十歳を越えていると思われる中年と、小学生の子供たちなのだから。

 そして自分たちは、まがりなりとはいえJリーグ入りを目指しているクラブに所属するサッカー選手なのだから。


「あなた、もしかしてコージじゃないか?」


 木場芳樹が外国人の男に対して発した質問に、恭太は驚いた。恭太だけではない。権三も、聡太も、みな少なからず驚いているようであった。

 この顔、そしてサッカーの上手さ、確かに、そうなのかも知れない。

 まさかこんな性格だとは知らなかったが。

 コージとは、世界的な知名度を誇る、元サッカー選手だ。

 ブラジル代表に召集されたこともある。

 不運も重なって試合に出場したことはないが。

 木場にコージではないかと問われたその外国人の男は、目尻に沢山のシワを溜めてニコニコと笑っているばかりであった。


     3

 家庭料理と酒の店ぷうりん。

 とうごんぞうの経営している店である。

 路地裏の一角にあるのだが、集客力に関しては表通りの店とさして変わりない。一昔前と違って観光客が激減しており、表通りにしても人通りは少なく、この近辺の店は常連客によって支えられているからである。

 つまり、どれだけ悪い噂の立つことなく長くやってきた古い店であるか、集客はそこに大きく左右されるというわけだ。新しい店が開きづらく、それが市の発展を阻害するという面もあるが、それはまた別の問題で市が考えるべきものだろう。

 権三の曾祖父が戦後に創業した店なのだが、このような店名になった由来は権三も詳しくは知らない。

 曾祖父の幼少期のあだ名がプーリンであったとか、娘がプリン好きであったとか、不倫がどうとか。現在となってはもう永久に分からないだろう。分かっているのは、店名からヒントを得て権三の妻がメニューに加えた手作りプリンが、なかなか好評ということだけである。

 現在、夜である。

 店内は、仕事を終えた中年男性で賑わっている。もちろん女性や若い男性もいるが、空間のほとんどを占拠しているのがいわゆるオヤジと呼ばれる生物たちである。

 そのカテゴライズに加えていいものかはともかくとして、芹沢恭太たちイクシオンACの選手たちがど真ん中にある大テーブルに座っている。

 テーブルについているのは、練習帰りのせりざわきよう、大道大道、小笠原慎二、木場芳樹、長岡巧、今日は仕事で都合がつかず練習には参加出来なかったがこういちおさむ

 練習に来ていた宇野井聡太は、仕事の都合で先に帰った。

 サッカーの仲間でいえば後藤権三もこの店内にいるが、嫁にびしばしと働かされていて、この輪に加わるどころではないようだ。彼が店の主人であることを考えると、当然といえば当然であるが。

 さて、このテーブルには、もう一人、いる。

 頭髪のちょっと寂しい、外国人の男である。

 彼は先ほど雪原で木場芳樹に、コージではないかと問われた。

 しばらく微笑んでいるだけだった彼は、やがて、自分がコージであると認めた。

 まとこうへいと、彼の率いるチームのために来たのだ、と。

 雪原は寒いし、もう暗くなるし、暖かくて落ち着いて話せる場所を考えたが思いあたるところがなく、うるさいことを承知でこの店へと訪れて大テーブルを囲んでいるというわけである。

 宇野井聡太はコージと飲めないことを残念がっていたが、仕事なので仕方がないというものだ。

 前述した通り、コージは世界的に有名なブラジル人サッカー選手である。本名はとても長いのだが、登録名であるコージがあまりにも有名過ぎて、誰もうろ覚え程度にも覚えていない。ケイゼンジェウランドコインブラなんとかボニールなんとかかんとかジュゲムジュゲム。

 代表に召集されたことが何度かあるが、その都度、合宿などで怪我をしてしまい、代表戦に出場したことが一度もないという不運の選手である。ただ、ブラジル国内のリーグでその実力は折り紙つきであった。

 ドリブルやシュートといった個人技もさることながら、特に戦術眼に優れていた。

 戦術理解度の非常に高い選手であった。

 若い頃は所属チームでも、監督から相当に鬱陶しがられていたらしい。練習中でも試合中でも、戦術について口出しをするからだ。

 と、そんな元選手の外国人と恭太たちは向き合っていた。


「で、的場さんとは、どんな関係だったんだ?」


 恭太は尋ねた。そこが一番大切なところである。

 宿屋で初めて会った時には敬語を使ってしまった恭太であるが、お客さんではないことが分かったので、すっかりぞんざいな口調だ。有名選手であろうと関係ない。

 コージは薄く笑うと、問いかけに答えた。

 的場耕平とは、もう三十年近くも昔、お互いに貧しかった頃からの知り合いだ。

 働いていた農園の、隣の農園の持ち主が的場であったのだ。

 知り合って間もなく意気投合し、暇さえあればサッカーの話ばかりしていた。


「知り合いがいるから、とクラブを紹介してくれたのがマトバさんです。また、そこまでの旅費などの費用を出してくれたのもマトバさんです。おかげでわたしは、プロとしてのキャリアをスタートさせることが出来たのです」


 それは、間違いなく的場さんだな。恭太は思った。

 祖父の持つ農園を手伝いにブラジルに渡った的場耕平であるが、数年と経たないうちに祖父が死去してしまった。すぐに農園を売り飛ばしてしまうことも出来たのだろうが、このままでは引き継いだ者が、そこで働く者が大変である、と、必死の努力で素晴らしい農園を作り上げて、そこで初めて地元の人間に譲り渡して、日本へと帰国したらしい。

 的場自身が誇らしげに語ったわけではないが、聞いた話を総合すると、そういうことのようだ。


「マトバさんは、地元北海道でサッカークラブの監督をやっていたといってました。おじいちゃんの農園のためにわたしたちの国に来ることになったものの、帰国したらまたそのクラブに戻る予定だと、いってたのです。日本では、プロサッカーリーグを作ろうという動きがあり、自分のクラブを将来は加盟させたい。それが自分の夢である。そんなことをいっていました」


 そう。恭太が入った頃にはもう道東ブロックリーグに落ちていたが、以前はJFLの一歩手前である北海道リーグに所属して、しかもJ準加盟の承認を受けているチームだったのだ。

 その後、チームは降格し、また、お金もなく、色々な設備を次々と手放すことになり、準加盟の資格は失われてしまったのだが。


「お世話になった人の夢、いつか協力しよう。わたしは思っていました。彼のことを、恩人のことを、片時だって忘れたことはなかった。日本語が喋れた方が、お手伝いだってはかどります。だから現役の頃からわたし、毎日コツコツと日本語の勉強をしていました。キン肉マンのビデオを、ポルトガル語字幕の出るところを紙で隠して何回も何回も見ました。それと科学忍者隊ガッチャマンと、特撮ドラマの人造人間キカイダー。キカイダーはかなり面白い。あの時代にあれだけのこと考えられるの、凄いです。傑作です。漫画版も持っています。ダブルオーを破壊するところは衝撃でした。衝撃といえばデビルマンの……」

「それで日本にやってきたってわけだな」


 話が凄まじく脱線しかけていたので、恭太はそれとなく戻してやった。

 コージは我に返ったか、こほんと咳ばらいし、続けた。


「わたしは現役引退した後、コーチ、そして監督のライセンスを取得し、日本語をさらにさらに韻を踏めるくらいにまで勉強して、日本という国そのもののことも勉強して、そして、この国へとやって来たのです」

「監督になるために来た、ってこと?」


 食器を抱えて歩きながら、後藤権三が尋ねた。せっせと働きながらも、ちょこちょこと聞き耳を立てているのだ。


「そうです」


 元ブラジル代表は、穏やかな笑みを浮かべながら小さく頷いた。

 なお現在の監督はこういちであり、選手と兼任で務めている。


「おれ反対」


 和歌収が頬杖ついたまま、面倒くさそうに右手を上げた。


「あなたは今日練習に来ていない。発言する資格はない」


 コージは立ち上がった。文句があるなら辞めろ、といわんばかりの表情で。


「おいおい、おれたち誰一人としてプロじゃないんだ。みんな他に仕事を持っていて、どうしても離れられなかったりもする。合間をぬって、なんとか集まって練習しているんだから」


 恭太はなだめた。


「それは分かりますが」


 コージは座り直した。

 もともと、特に興奮しているわけでもなかったようだが。

 基本的に飄々としており、なにを考えているのか掴みどころのない外国人である。サッカーへの情熱だけは本物で、だからこそ代表にまでなれたのであろうが。

 なだめることにはなったものの、コージの主張は恭太にも理解出来ないものではない。実際、たまに同じような気持ちになることもある。

 自分だって、たまに旅館の仕事で練習に来ないことがあるくせに。

 雪の降る日などに、たまたま仕事が忙しくて行かれないと、ちょっとほっとしたりしているくせに。


     4

「いい湯でした」


 コージは浴衣姿にタライを抱え、頭にはたたんだ手ぬぐいを載せている。

 いい湯などと、よくそんないい回しを知っているな、と芹沢恭太は思ったが口には出さなかった。また延々と、キン肉マンやガッチャマンの魅力を語られても困るからだ。

 ここは宿屋せりざわ。恭太の経営している旅館である。

 コージは今朝の飛行機で来日したばかりで、宿も決めていないとのことで、とりあえずの場としてここを提供することにしたのだ。

 不本意ではあるが、宿代は受け取っている。無料でいいというのに、頑として聞かないのだから是非もない。


「ああ、ああ、それ見てた見てた。小学低学年の頃に。懐かしいなあ」


 従業員の石館こづえが、コージと楽しそうに話をしている。


「おお、そうですか。わたしは特にバッファローマンが好きでしてねえ。ヒールな、ミート君の身体を一瞬でバラバラにしちゃった頃の」


 結局、ここでも出るのか、その話……

 げんなりする恭太であった。

 石館さんとの話を切り上げたコージは、次いで厨房へ遊びに行った。

 厨房から聞こえてくる声からして、料理人のかたいしとおるが後片付けをしているのを、強引に手伝わせて貰っているようである。

 日本のこと、北海道のことをしきりに尋ねている。年配の日本人ということで、色々な知識が得られると思ってのことだろう。

 片石も、相手は宿泊客だからということ関係なく気さくに応じているようだ。

 しばらくすると、コージはふらり厨房から出て来た。


「ではみなさん、お休みなさい」


 笑顔で会釈をすると、自分の部屋へと戻って行った。


「なんか、変わった人だねえ」


 芹沢愛子が、旦那をちらり見ながら呟いた。


「そうだな」

「日本語を喋る外国人ってさあ、それだけでなんか面白い感じに思えるけど、きっと彼は日本語じゃなくたって面白いんだろうねえ」

「そうだな」


 おんなじ返事をする恭太。別に返事が面倒だったわけではない。変わっているのは事実であり、独創性のある言葉をいうのが苦手な恭太としては、こうとしか返しようがないのた。


「さて、と」


 恭太は玄関の方へ向かった。

 フロントに設置してある受話器を取ると、電話をかけた。

 もう夜の十時半。

 でも、多分まだいるだろう。仕事の虫だからな。

 呼び出し音が五回ほど鳴り、そして彼が出たことを認識すると、恭太は口を開いた。


「ああ、シマさん? 遅くまでお疲れ様。あのさあ……いやいや、まあ、そうなんだけど。ちょっと違う用でさあ。ノッコ、日野からさ、なんか連絡来てない? え、来てないの? そっか。まあ聞いてよ」


 電話の相手は、しまゆうという名前の、スポーツクラブイクシオンの社員だ。早い話が、芹沢恭太の所属するサッカークラブであるイクシオンACの、人事や庶務などを担当している人物である。

 イクシオンACがJリーグ準加盟だった頃は、スポーツクラブを母体とする地域密着のチームを作ろうということで、積極的に投資し、積極的に運営に関わっていた会社である。

 だが、長引く不況により実質的に運営撤退。

 さらに、チームが降格したことで、現在では単なる胸マークのメインスポンサー程度の存在になっている。チームの存続を考えれば、それでも充分に有難いのだが。

 運営から撤退といっても、色々と名前は残されており、また、スタッフもそこの社員ばかりなのである。

 つまり、チーム作りには全く参加してこないくせに、なにかをするには彼らの許可が必要なのである。

 恭太が電話をかけた理由というのは、コージのことだ。

 選手兼任監督のこういちは、試合人事以外の全てを面倒臭がって、おそらく連絡していないだろうと思ったからだが案の定。

 自分が連絡する義理でもないかな、とも思ったが、現在なんだか自分が一番コージと深い仲になっているのではないかと思い、親切心から連絡してみたというわけだ。

 話した内容としては、たいしたことはない。

 監督希望者が現れた。という、その事実を報告しただけである。

 また、チームに反対論者もいるということを。


     5

 H市営臨海陸上競技場。

 市内の海沿いに建てられた、大きなスタジアムだ。

 収容人数22000人。芝生席などはなく、全て、座席である。

 周辺地域の住民数やスポーツ人口などを考えると、無駄に大きい規模といえる。

 イベントの内容などによりごくごく稀に座席が埋まることもなくはないが、ほとんどの場合においてガラガラだ。

 今日も果たして通常通り。もうすぐ試合が始まるというのに、百人も観客がいない。

 陸上トラックに囲まれた、芝のフィールド。その中には、これから試合を行う選手たちの姿がある。

 片や、色のついたユニフォームで、

 片や、上下とも白だ。

 みな、サッカーボールを蹴っている。

 そう、これからここで行なわれるのはサッカーの試合なのである。

 現在、試合開始前のウォーミングアップを行なっている最中だ。


「次!」


 そうの合図に、せりざわきようはボールにゆっくり駆け寄り、蹴った。

 ボールはGKよしの手をすり抜けるように、ゴールネットに突き刺さった。


「次!」

「うおりゃあ!」


 おおみちだいどうがボールを蹴るが、気合い空回りで打ち上げてしまい、クロスバーの上を越えていった。

 恭太たちの着ているのは、ワインレッドのシャツにダークブルーのパンツ。

 イクシオンACのファーストユニフォームだ。

 今日は、道東ブロックリーグの開幕戦。イクシオンACが、ホームでしんぎんを迎えるのである。

 なおイクシオンACのホームゲーム開催時に使われる競技場は、二つある。

 一つはこの、H市営臨海陸上競技場。

 それともう一つが、波瀬ケ丘ひのぼり陸上競技場。

 選手たちにとっては、どちらもホームという実感はさほどない。

 どちらであっても、応援団の人数はホームもアウェーも同じようなものであるし、同じスタジアムを相手がホームとして使うこともよくあるためだ。

 せいぜい相手がセカンドユニフォームを着ているのを目にすることで、他人事程度に実感が湧くくらいのものだ。

 フィールドと客席とをぐるりと隔てている壁には、選手を鼓舞するための様々な横断幕が張られている。


  閃光のゴールゲッター DAIDO!

  粘れ! ゴン


 等など。

 女性マネージャのやけあずさが、両腕にたくさんのボトルを抱えて歩いている。タッチライン外側に、一本づつボトルを置いていく。

 場内スピーカーより、男性の声が聞こえてきた。ガリガリとノイズの混じる酷い音質で、出場選手の紹介が始まった。

 まずはアウェー、八蘇地信銀から。

 次々と選手名が読み上げられていく。その都度、太鼓の音に合わせてゴール裏のサポーターたちが「オイ!」と絶叫する。

 これがアウェーの洗礼ということなのか、アナウンスのテンションが異様に低い。ぼそりぼそり無感情に読み上げているだけだ。

 続いてホーム、イクシオンACの選手紹介だ。

 結局、こちらもまったく同様に、テンションが低かった。


「選手の方は、練習時間終了です。引き上げてください」


 ぼそぼそ声のアナウンスに従って、両チームの選手たちはそれぞれの控え室へと戻っていった。




 ここはイクシオンACの控え室。

 がさわらしんがドアを開けると、すでに男が一人。椅子に腰をかけている。

 外国人。

 年齢は四十台半ばであろう。目じりに皺は多いが、褐色の肌はまだ若い。座っているが、ぱっと見に大柄であることが分かる。すらり痩せているように見えるが、灰色のスーツの中には筋肉がぎっしりと詰まっているのが一目で分かる。

 もうお分かりであろうが、コージである。世界的に有名な、元サッカー選手だ。

 選手兼任監督であるこういちが、コージの横に立った。坊主頭で体型はゴリラのようで結構怖い。選手たちは、もうすっかり慣れっこであったが。


「みんなに、話したいことがある」


 口を開き、外見通りのドスのきいた声を発した瞬間であった。

 またドアが開いて控え室に、おかっぱ頭の痩せぎすな男が入ってきた。

 黒いスーツを着ている。年齢、四十少し前といったところだろうか。

 イクシオンスポーツクラブの社員であるしまゆうだ。


「わたしから話すよ」


 そういうと、田島雄二は話し始めた。


「もう顔見知りになっている者もいるようだけどね。彼はチーム設立の功労者である故人的場さんの知り合いらしい。名前はコージ。本人から聞いたところでは、ブラジルでサッカー選手をやっていたということだ」

「おい、シマさんひょっとして、コージのこと知らねえのかよ」


 とうごんぞうは小声で呟いた。

 しんとした部屋、誰にも聞こえているが、田島雄二はまったく気にした風もない。自分がサッカーを知っている必要性はないということだろうか。

 世界的な知名度を誇るコージであるが、彼自信もまったく気にした様子もなく、椅子に座ったままにやにやと楽しげな笑みを浮かべている。

 田島雄二は続ける。


「なんでもここの監督になりたいとのことだ。わたしとしては、特に異論はない。いまでも素人が監督なのだし」


 日野浩一の顔をちらりと見る。


「資格はちゃんと持ってんだよ」


 日野は面白くなさそうに、自らの坊主頭を叩いた。もう片方の手でコージを指さして、


「あんたさあ、選手としては超一流だったって知ってるけど、監督経験ないんだろ。それに、ブラジルと日本は違うぞ。しかもこっちはアマチュアのリーグだ。上の方の世界の理論なんか、これっぽっちも通じねえんだよ」


 ぎろり睨み付けるような視線を向ける日野。それを受けても、コージはまるで動じることなく、変わらず笑みを浮かべ続けている。


「とまあこんな風に、満場一致で新監督を、ってわけにはいかないと思うので、そこで提案なんだが、今日の試合の采配で様子を見ることにしよう。もちろん、まだ彼はチームに登録されていないから、記録上は日野君が監督だけど。日野君、文句ないか? 採点基準は、難しくは考えず、去年までのゲーム内容の記憶と比較して、より良いと感じるかどうか」


 田島雄二はあくまで事務的に、淡々とした口調でいった。


「バカ野郎。文句っつーか、監督って普段の練習からチーム作ってくものなんだぞ。おれ、仕事が忙しくて来られないことも多かったけど、でも、こんないまいきなり来たような奴が、いきなり納得いく結果なんか出せるはずないだろ。そんな甘い世界じゃあねえんだよ」


 日野は怒鳴った。


「おれ、賛成っす」


 おおみちだいどうが、頬杖ついたまま、もう片方の手を上げた。


「そうそう。もしかしたら劇的に良くなる、という可能性がなくはない。それが果たして何パーセントなのかは分からないけど」


 ながおかたくみが続いた。


「去年は、惨憺たる成績だったからねえ。かろうじて残留だったし」


 小笠原慎二はホテルの料理人が本職であるが、タコよろしく日野を真っ赤に茹で上げてしまった。


「ぶっ殺すぞお前ら! ふざけたことばかりいいやがって。分かったよ。お前、やってみろよ、監督をよ。どんくれえ出来るのか、おれ様が見てやるよ」


 サッカー界の端くれに身を置きながら、世界的超一流選手に対する尊敬もへったくれもない日野であった。まあ、端くれだからこそともいえるのだろうか。


「はい、分かりました」


 日野の言葉を受け、コージはすっと立ち上がった。


「監督代行をさせてもらうことになったコージです。よろしくお願いします。さきほどまでのウォーミングアップで、あなたたちの適正を見させてもらいました。もう申請してしまったからスタメンは変えられないけど、ちょっとポジションいじらせてもらいますね」


 コージは流麗な日本語でそういうと、ホワイトボードに磁石を並べ、メモを見ながら名前を書いていく。

 選手たちが驚いたのは、あまりに綺麗な漢字だったということよりも、もっと別のところにあるようであった。


「ええ、おれがFWやるの?」


 ドレッドヘアだが気の弱そうな(実際に弱い)おおしろまさる。入団して四年、去年までずっと、左SBをやっていた選手である。


「にゃんだとお! おれ、ボランチかよ!」


 頭頂からピーッと湯気を噴き上げたのは、日野浩一である。彼はもともと右SHの選手だ。監督兼任であったので、勝手にそこを適正と思い込んでやり続けていただけのようだが。


「おいおい、今日の相手は去年のリーグ戦で一位んとこだぞ。なんにも知らないようだから教えてやるけどよ、参入戦では退場などで運悪く負けてまだブロックにいるけど、JFL目指してる強豪だぞ。ポジションには適正以外にも慣れってもんもあるんだし、とにかくいじりゃいいってもんじゃないだろが。テレビゲームじゃあねえんだよ。これじゃ勝てっこねえよ。あーあ、試合数の少ないリーグだから一試合の重みがでけえっつーのに、さっそく負け決定かよ」


 日野はお手上げの仕草。それでもやりきれないようで、だんと床を踏みつけた。

 ここまでいわれても、コージの表情にまるで変化はない。

 口元にはずっと、おだやかな笑みが浮かんでいる。

 小皺に埋もれた小さい目は、なんだか無邪気な少年のように輝いている。


「では、わたし話していいですか? 戦術は、とりあえず細かいこといいません。基本に忠実にやって下さい。GKは油断しない。ポジショニングに注意。大きい声でコーチング。DFはしっかり守る。SBは機を見てのオーバーラップ。ボランチは攻守のバランスしっかり取って。日野君の方がちょっとだけ守備的になった方がいいかな。FWを含む前目のポジションは、どんどん攻める。それと、戦術以上になによりも基本に忠実にして欲しいのは、楽しくやりましょう、ということ。今の段階でわたしから話すことは、それだけです」


 コージは締めくくった。

 選手たちそれぞれの脳裏には、様々な思いが飛来しているようであった。

 単純にいって、期待と不安、そして興味。

 日野浩一のように、怒りの表情しか伺えないような者もいるが。

 試合開始、十分前。

 選手たちは、控え室を出た。

 対戦相手である八蘇地信銀の選手たちの姿が見えた。同じように控え室を出たところに、出くわしたのだ。

 これから、ピッチへの入場である。

 両チームの選手たちは肩を並べ、二列になった。

 後藤権三は、隣の選手を横目でちらりと見た。八蘇地信銀のFW、もりしんだ。


「この野郎……去年こいつにつっかけられて、おれ、足を捻挫したんだよな。審判の野郎見てねえから、そのまま持ち込まれてゴール決められちまうし。今回はぜってえぶっ潰すかんな。おれはもとからCBだから、コージの奇天烈采配にも混乱はねえし」


 ぶつぶつ呟いている。

 おいおい、聞こえるよ。と、後ろに立つ恭太はげんなり顔だ。


「ぶっ潰す!」


 ついには野太いガラガラ声で絶叫してしまう。

 周囲の選手たちはびっくりし、たじろいだ。


「うるさいよ、ゴン」


 チームの中で、芹沢恭太ただ一人だけが冷静であった。この試合どうこうではなく、子供の頃からなにかに動ずるということが基本的に皆無なのだ。


「それでは両チーム、選手の入場です」


 場内に、バリバリと割れた質の悪い音声が響いた。

 まったく抑揚がない喋り方。DJというより、本当に単なる場内アナウンスだ。いや、それ以下かも知れない。


「まあ、やるだけやろうぜ。もしもノッコの心配通り今日のせいで出だしから絶不調になろうとも、最悪、入れ替え戦に勝ちゃいいんだから。そうすりゃ残留だ」


 と、恭太がのんびりした口調でいう。


「不吉なこというなよ、キョンさん! つうかおれそこまでのこといってねえだろ! もし入れ替え戦なんかすることになったら、みんなでキョンさんのおんぼろ旅館押しかけて屋根に乗って重みでぶっ潰すぞ。つうか、そんなことにはならねえんだよ。今日の結果はどうなるか分かんねえけど、次からまたおれが監督に戻るんだから」


 ピーピーピーピー頭頂から湯気を噴き上げ続ける日野浩一。


「分かった分かった」


 恭太は苦笑しながらなだめた。

 すぐムキになって。ゴリラみたいな顔してるくせにガキなんだからな、ノッコは。

 さて、入場である。

 両チームは、歩き始めた。

 薄暗い通路を抜けると、晴れ渡る青い空。

 恭太は空を見上げ、そして視線をすっと落とした。

 両ゴール裏に陣取ったサポーターの声援を受け、彼らはピッチへと足を踏み入れていく。

 さっきまでここでウォーミングアップをしていたというのに、こうして改めてユニフォームを着て、ピッチへと入ると気が引き締まる。例え応援してくれる人が数十人しかいなかろうと。

 一人、また一人とピッチへ入っていく。



 FW

 おおみちだいどう

 おおしろまさる


 MF

 あきぬましげおみ

 ながおかたくみ

 こういち

 せりざわきよう


 DF

 がさわらしん

 たきもとたかし

 とうごんぞう

 はしもとひで


 GK

 よし



 これが、イクシオンACのスターティングメンバーである。このポジション表記は届けた登録上のものではなく、先ほどコージが決めたものだ。

 なお、リザーブメンバーは



  FW もとい

  MF おさむ

  DF むらやまばんそう

  GK よしけん



 この五人だ。

 両チームとも、選手たちがピッチ上に散らばった。

 サポーターの声援。太鼓の音が寒空を震わせる。

 選手たちはあらためて集まると、肩を組み合い、円陣を作った。


「慣れないポジションだろうと新米監督だろうと、試合が始まりゃあ関係ねえ。死ぬ気でいくぞ。勝つぞ!」


 日野浩一は間近に揃ったみんなの顔をぐるり見回し、吼えた。


「おう!」


 北の大地、広がる青い空の下、夢を追う選手たちの大声が響いた。


     6

 芹沢恭太はドリブルでライン際を駆け上がる。

 ゴール前へと大道大道が走っていくのが、視界に入った。

 恭太は、相手DFをフェイントでかわした。

 ここで、アーリークロスだ。

 しかし、せっかく自由な状態で蹴ったというのに、慣れておらず焦りが出てしまったか、目茶苦茶な方向へボールを飛ばしてしまった。アーリーどころか少しも角度を変えることが出来ず、真っ直ぐゴールラインへと蹴り出してしまったのだ。


「キョンさん! ドンマイドンマイ!」


 大道が、機関車しゅぽしゅぽのような意味不明で大袈裟なゼスチャー、馬鹿でかい声を張り上げて恭太を励ました。

 励まされたところで、もともと気落ちなんかしていない。クロスを上げることなんか、そもそも慣れていないからだ。

 ラインを割ったことで、八蘇地信銀のGK、たなゆうのゴールキックだ。

 助走を付け、蹴った。

 ハーフラインを越え、一気にイクシオンACの最終ラインにまで飛んだ。

 競り合う後藤権三と、八蘇地信銀のFWもりしん

 権三の方が十センチ近く背が高い。

 良い位置を占めたのは森真吾であったが、権三は身長差を生かして、軽く跳躍すると頭で跳ね返した。

 去年は、このFWに怪我させられるわ、審判がラフプレーを見逃したおかげで失点してしまうわ、散々な目にあった権三であるが、現在のところミスすることなく冷静に、しっかりと守ることが出来ている。

 こぼれたボールを、ボランチの日野浩一が拾った。

 詰め寄られる前に、長岡へとパスだ。

 日野であるが、彼はいま、なんと表現していいのか分からない微妙な表情になっていた。

 なんとも、くすぐったいような。

 彼が一番目立つというだけで、仲間たちも同様のようだ。

 長岡は、相手MFのまつやすろうをかわすとクロスを上げた。

 いや、松木のかろうじて伸ばした足に邪魔されて、ボールを空高く打ち上げてしまった。

 ボランチの秋沼重臣と、八蘇地信銀のしばじゆんいちろうが、落下地点目指して走る。

 秋沼が一歩早かった。

 前線へと、ダイレクトに大きく蹴った。

 ボールの落下地点へと、雄叫びを張り上げながら大道大道が走る。

 相手DFのまさると、競争になった。

 大道大道が先に追いつきそうだ。

 八蘇信銀GKの棚田裕也が飛び出してきた。そして、身体を横に倒してシュートコースをブロックしながら、大道へと滑った。

 だが大道は、シュートを打たなかった。背後からの足音に反応し、ボールを真横へと転がしていたのである。

 走りこんできていたのは、おおしろまさるであった。

 右足を振りぬいた瞬間、大城のトレードマークであるドレッドヘアが、ぶわっと持ち上がった。

 結果は宇宙開発。まるでラグビーのゴールキックのような急角度で、クロスバーの遥か上空を飛んでゴール裏の座席へと飛び込んだ。


「ああもう、決めろよお、マサ! ……でもまあ、走り込んでくるタイミング、すげーよかった。ひょっとして向いてんじゃん? そのポジション」


 大道の口調は荒っぽく、文句をいっているのか褒めているのか分からない。

 まあ、褒めているのだろう。

 後方から、いまのシュートに到るまでの一連の流れを見ていた日野浩一は、ピッチの中央で身体を震わせていた。

 そして、日野は一人呟いていた。震える声で。


「先ほどから感じていた、むず痒いものの正体、なんか、分かってきたぜ。……これが、監督の力量ってやつなのか」


 彼は、ベンチで腕を組んで座っているコージに視線を向けると、また口を開いた。


「ポジションいじっただけだよな、あいつ。でも……パス、回せてる。ボール、奪えてる。決定機、作れてる。去年、ボロボロにされた強豪相手にだぜ。向こうさん、選手ほとんど去年のままだぞ。オフに、うちらの個人技がそれほど上がったってのか? そんなはずないだろ。仕事をいいわけに、みんなだらだらやってたんだから。じゃあ、やっぱり……。この感覚、おれだけじゃないよな。そう思ってるの、おれだけじゃないよな。だってほら、みんなの顔。手ごたえ掴みかけていることに、驚いている。もっと試したいと思っている。そんな顔、してやがる。どいつもこいつも。少なくとも、負けるかも知れないなんて、これっぽっちも思っていない顔だ。……ったく、誰だよ、こんなんじゃちぐはぐになってボロ負けするなんていってた奴はよお」


 目を細め、微妙に潤ませながら、野太い笑みを浮かべていた。

 ぎゅっと、拳を握った。


「やっぞごおらああ!」


 まるで熊のような、雄叫びを上げた。


「これでもサッカーは小学生の頃から二十年以上やってんだ。ボランチなんてやったことないから知りませーんなんて、ガキみたいなこといってる暇はねえんだよ、この野郎!」

「誰に叫んでんだよ、バカ」


 芹沢恭太が、すっかりハイテンションになっている日野に冷静な突っ込みを入れた。実は恭太自身も、日野同様かなりハイになっているのだが、もともと感情が表に出ないタイプなのである。まあ表に出たとしても、日野浩一と比べれば誰でも相対的に落ち着いて見えてしまうであろうが。


「自分にだよ」


 ギラギラした目で日野はくるり恭太へと振り向いた。

 二人は顔を見合わせると、どちらからともなくニッと笑みを浮かべた。

 さて、八蘇地信銀、棚田裕也のゴールキックである。

 風に乗って、遠くまで飛んだ。

 イクシオンACのCBであるはしもとひでは、迫ってくる相手FWにちらりと視線をやると、落ち着いてヘディングで日野浩一へと繋いだ。

 日野がさらに頭で、恭太へと繋げる。

 恭太は足で丁寧に受けるが、そこへ八蘇地信銀の松木安二郎がプレスをかける。

 恭太は、抜く素振りを見せつつ、ボールを横に転がした。

 駆け上がってきていた右SBのがさわらしんが拾い、速度を落とさずドリブルに入った。DFが味方を追い抜いてチャンスを演出する、いわゆるオーバーラップだ。

 左サイドのFWやMFが上がっているのを確認すると、小笠原はゴールライン遠目からアーリークロスを上げた。

 だが精度が足りず、相手ボランチに拾われてしまった。

 イクシオンACの選手は、かなり人数を割いて攻め上がっていた。

 となれば、ボールを奪った八蘇地信銀としては取るべき手段は一つ。

 カウンターだ。

 ほとんどの選手が一斉に、さながら津波のような勢いで駆け上がっていく。

 イクシオンACで残っているのは、GK以外はCBの後藤権三と橋本英樹の二人だけだ。

 津波に飲み込まれそうになる焦りからか、権三に致命的なミスが出てしまった。2バックの相方である橋本英樹が掛け声とともにさっとラインを上げたのに気付かず、一人残ってしまったのだ。

 八蘇地信銀、小柴潤一郎から前線へのグラウンダーのパス。それを予期して前へ上がった橋本だというのに、結局、ボールはオフサイドぎりぎりのタイミングで飛び出した森真吾へと渡ってしまった。本来なら、ぎりぎりもなにも余裕でオフサイドトラップの網にかけることが出来ていたはずなのに。

 権三たちは慌てて戻るが、しかし相手FW森真吾はすでに遠く。芝の海を独走している。

 権三だけの問題でなく、チームとして、迎えた好機に前がかりになり過ぎていたのだ。

 GK木場芳樹と一対一になった森真吾は、勢いを抑えて丁寧にコースを狙ったシュートを放った。

 完全に枠を捉えている。

 誰もが失点を覚悟したかもしれない。しかし、木場は軽く腰を落とした瞬間に横っ飛び、かろうじて手の先に当てて弾いた。

 ボールはゴールラインを割り、八蘇地信銀にCKが与えられた。


「ナイスキーパー、ファング。助かった」


 橋本英樹が手を叩いた。

 ファングというのは木場芳樹のニックネームである。木場 → 牙 → ファング、ということらしい。

 イクシオンACのゴール前に、両チームの選手たちが集まり、ひしめき合う。

 キッカーは、八蘇信銀MFの松木安二郎だ。

 審判の笛が鳴った。

 短く助走し、蹴った。CKのボールは大きな山を描いて、ファーへと飛んだ。

 八蘇地信銀のDF茂木勝が、後藤権三と空中戦を競り合い、競り勝ち、ボールを折り返した。

 木場がさっと手を伸ばすが、指先をすり抜けるようにボールが通り越していく。

 ゴール前中央で、マークをかわしてするりと抜け出した森真吾が、頭を上手く合わせた。

 木場はゴールネットが揺れるのを、黙って見ていることしか出来なかった。

 森真吾のゴールが決まり、八蘇地信銀が先制した瞬間であった。

 イクシオンAC、第一節にして今季初失点だ。


 ドンドンドンドンドン。


 太鼓の音、そして観客席からは人数少なくまばらではあるが熱い拍手が起きた。

 地面を踏みつけ、悔しがる権三。

 セットプレー時のマークは担当ではないとはいえ、森真吾に決められたことが腹立たしいのであろう。しかもCKを与えてしまったのは、自分のミスからなのだから。

 悔しそうな権三の顔であるが、しかし先制されたことへの焦りはあまり感じてはいないように見える。

 そうはそうかも知れない。

 イクシオンACは、去年かろうじて残留したチームであり、失点などは悪友のようなものなのだ。

 それと、ここまでどんどん攻めてハイテンションであった影響もあるのだろう。

 イクシオンACのキックオフで試合が再開されたが、そのテンションは変わらず維持された。

 権三だけではない。チームの誰もが、まるで気落ちすることなく、動きの質の落ちることもなく、攻め続け、そして、守り続けたのである。

 長い笛が鳴った。

 前半戦終了。

 ハーフタイムだ。




 引き上げてくる選手たちを、コージが出迎えた。

 口元には、笑みが浮かんでいる。


「楽しそうだな」


 日野浩一は、あえてぶっきらぼうな表情を浮かべているようだった。


「はい。これまでどうだったのか、それは知りませんが、あなたたちが楽しそうにプレーしているのを見て、ワクワクした気持ちでボールを蹴っているのを見て、わたしもとっても楽しいのです」


 邪気のない、実に清々しい顔であった。

 確かに、いままでにないワクワク感があったよなあ。と、芹沢恭太は思った。

 おそらく恭太だけではないだろう。きっとみんな自分のように、前半戦の内容や、自分達のプレーを回想して不思議な気分になっているのだろう。

 昇格候補筆頭である八蘇地信銀相手に最小点差である一点ビハインドでの折り返し、それは去年にだってあった(後半に大量失点して、結局ボコボコにされてしまったが)。しかし現在、その時に感じたものとは比較にならないくらいに、選手たちの気分は高揚しているようであった。


「頼む! どうすれば、おれたちは勝てる? 具体的な戦術の指示を聞かせてくれ! お願いだ」


 日野浩一が怒ったような顔で、怒っているような大声で、深く頭を下げた。


「では、話しましょう。みんなで、勝利を掴みましょう。ジークジオン」


 最後の一言は意味不明であるが、とにかくコージはより楽しそうな優しい笑みを浮かべると、踵をかえし、ゆっくりと控え室の方へと歩き出した。みんなもぞろぞろと付いていく。


「お疲れ様」


 控え室には女子マネージャの三宅梓がいて、選手たちにタオルを渡していった。

 コージは選手たちの見つめる中、ホワイトボードに向い、マーカーを手に取った。

 ホワイトボードには、選手を示すのに使う赤い磁石と青い磁石が沢山張り付いている。コージは磁石を動かしてはマーカーで矢印を書き、戦術について丁寧に説明をしていった。

 特別に奇抜なことは、コージの口から一言も発せられることはなかった。

 選手たちはみな、小学生くらいからずっとサッカーをやってきているが、そうした中でいくらでも聞いたことがある一般的な戦術論ばかりであった。

 ポジションを変えただけで起こった前半戦の魔術、この事実がなければ聞く耳を持たない者もいたかも知れない。

 だがいま、ここにいる選手たちの表情はみな、真剣であった。

 強くなりたい。

 負けたくない。

 勝ちたい。

 大物を食いたい。

 英雄になりたい。

 誰もが当然に思う欲求。

 だが、かなえるには才能が必要だし、欲求に見合う努力も必要だ。他にかける時間を、ほとんど投げ出さなくてはならない。

 これまで、それをやってきたといえるであろうか。

 否である。

 努力して、全てを投げ出すことで、要求がかなう保障がないからだ。

 ここにいるみな、サッカーが三度の飯より大好きで、中学、高校、大学と、若い頃はとにかくガムシャラに頑張ってきた者ばかりだ。

 だからこそ、こうしたJリーグを目指すチームから声がかかり、入ることが出来たのだろうし。

 だが現在は、学生時代とは違い自分で働いて金を稼がなければ生きていけない。

 家族のいる者も多い。

 すべてを投げ出すなどという、バクチが出来ない。

 サッカーが好きなのは間違いのない事実だが、人生のすべてを投げ打ってのめり込むわけにいかないジレンマ。

 そう。けっしてサッカーが嫌いなわけではない。

 大好きだ。

 だから、勝ちたい。

 いつだって、どことだって、勝ちたいに決まっている。

 しかし勝てない。

 だから、勝ちに飢えている。

 そして、いまここに、勝つチャンスがある。

 勝つチャンスが……


「以上です」


 コージは、マーカーを置いた。

 もうすぐ、ハーフタイム終了だ。


「ぜってえに勝つぞお!」


 日野浩一は叫ぴ、控え室の出口の壁を、通り様に思い切り叩いて、外へ出た。


「うっしゃ!」


 続く後藤権三も、同様にばんと壁を叩いた。


「点取るぜ!」


 今度は大道大道が。

 やんないといかんのかなこれ、と芹沢恭太も叩いて、控え室を出た。

 恭太の背後ではさらに、バン、バン、と続いていく。

 外へ出ると、すでに八蘇地信銀の選手たちは円陣を組んでいるところだった。

 遅れて、イクシオンACの選手たちも円陣を組み、顔を寄せ合った。

 みんな、なんだか自信に満ちた表情。

 ぎゅっと、みなの肩に力が込もっていた。


「逆転するぞおお!」

「おう!」


 日野浩一の叫びに、みなが応えた。




 イクシオンACの選手たちは、ピッチ上に散らばった。

 なお、前半戦とは二人の選手が入れ替わっている。


  OUT たきもとたかし、秋沼重臣

  IN むらやまばん、和歌収


 それぞれ同じポジションでの交替、和歌収はドイスボランチの左、村山伴は左SBに入った。

 左が二人だが、前半にそれほどそこが破られていたわけではない。

 これが、コージの考えたベストメンバーというだけのことだ。スターティングメンバーは、既に日野浩一選手兼任監督が決めて提出してしまっていたため、変更出来なかったからだ。

 両チームエンドを変えて、後半戦開始の笛が鳴った。

 八蘇地信銀ボールでキックオフだ。FWの森真吾は、踏み付けていたボールを後ろへと蹴った。

 そこへ、大道大道が雄叫びをあげて全速力で突っ込んで行く。

 この勢いに驚いたのか、相手MFである小柴潤一郎はパスをミスしてタッチラインを割った。

 イクシオンACのスローインだ。投げるのは、SBの小笠原だ。

 芹沢恭太がすっと、前に出ながら受ける。背後に八蘇地信銀の松木安二郎が張り付いたが、恭太はターンしつつ、軽いフェイントで上手くかわし、そのままライン際を駆け上がる。

 スピードに乗ったドリブル、恭太の一番の武器だ。もう三十歳であるが、中学生の頃は陸上部とかけもちしたほどの俊足とスタミナ、まだいささかも衰えてはいない。

 八蘇地信銀のDF茂木勝とマッチアップした恭太は、サイド側を抜く振りをして、かわし、内側へと切り込んでいく。

 前線へと、グラウンダーのパスを送った。

 ボールはすっと地を疾り、相手のDFとDFとの間を上手くすり抜けた。

 オフサイドかどうかぎりぎりのタイミングで、大道大道が飛び出し、ボールを受けた。

 副審の旗は上がっていない。

 そのまま全力疾走で、ゴールへと向かう。俊足というほど速くはないが、とにかくなりふり構わずガムシャラに走るのが大道の特徴だ。勢いがあるものだから、実際以上に速く感じられることもあり、相手DFから嫌がられることも多い。快速というより怪足だな、と仲間からいわれたことがあるが、本人は全く意味は理解していない。

 その怪足ぶりを発揮して爆走する大道の前には、ゴールがあるのみ。GKの棚田裕也がいるのみだ。

 PA内に侵入した瞬間、棚田裕也が飛び出してきた。シュートを全身でブロックしようと、身体を横に倒す。

 大道はテクニシャンではないが、なんとかそれをかわすと、なにやら言葉にならない大声をあげながら、ボールを蹴り込んだ。

 ずばっ、とゴールネットに突き刺さった。


「うっしゃああああああ!」


 同点弾を決めた大道は、振り返りざま右手を高く突き上げた。

 どんどんどんどん、とサポーターの叩く激しい太鼓の音が響いた。

 こうして後半開始早々に追いついたイクシオンACであるが、それは、決して偶然ではなかった。

 その後も、主導権を握り続けたのである。

 とにかくボールが回る。

 味方を、ボールを、結果を信じて、走る。

 攻める。

 取られても、すぐに奪い返す。

 八蘇地信銀は、いつしかすっかり防戦一方になっていた。


「去年と変わってねえってのに」


 八蘇地信銀のDF茂木勝が、CKで上がる際、日野浩一とすれ違う際につい発した言葉である。

 去年のリーグ戦では、八蘇地信銀が圧倒的大差で二戦二勝。お互いに選手がほとんど変わっていないというのに、圧倒出来ないどころかここまで押されるその不思議さ理不尽さ。


「ノッてっからに決まってんだろ」


 日野浩一が野太い笑みを浮かべた。

 八蘇地信銀のCKは、山なりでファーへ。長身DFの茂木勝が決めてやろうと飛び出すが、GK木場がなんとか手に当てて弾いた。

 そのこぼれを八蘇地信銀の松木安二郎に打ち込まれたが、バチンと凄まじい音をたてて権三が必死の顔面ブロック、ゴールは割らせない。

 権三から気合の入ったボールを受けた日野浩一は、吼え、駆け上がる。カウンターだ。

 だが相手は守備にも人数を割いており、速攻を巧みに遅らせる。

 ならば普通に攻めりゃあいいんだ、どっちにしろ押しているのはこっちなんだ。と、日野からボールを受けた芹沢恭太は、小柴潤一郎と勝負する素振りをみせつつ、セオリー通りに駆け上がってきたSB小笠原へとヒールで転がした。

 小笠原はそのままオーバーラップ。恭太も全力で、中央へ、ゴール前へと走っていく。

 コーナー付近まで駆け上がった小笠原は、奪おうと飛び込む松田俊介をかわすと、クロスを上げた。

 FWの大城と、相手の茂木勝が激しく競り合った。

 茂木の方が長身であるが、大城は巧みに身体を入れて、ボール落下地点を背中で死守。

 と、身体を反転させ、トレードマークのドレッドヘアを揺らしながら飛んできたボールに合わせて右足一閃ボレーシュート。

 強烈かつしっかり枠を捉えていたが、GKの棚田裕也が横っ飛びしながら右手一本で弾く。

 飛び込んできた芹沢恭太が、落ちてくるボール目掛けてダイビングヘッド。

 GKは倒れており、決定的なシーンであったが、結果としては虚しくバーを直撃しただけであった。

 こぼれたボールは、相手DFが大きくクリア。

 だがまだイクシオンACの攻撃は終わらない。ボールを拾った和歌収は、前線に残る大道大道へと大きなパスを送った。

 胸トラップしたところ、八蘇地信銀の茂木勝と松田俊介の二人に囲まれ、奪われそうになるが、「ダイドー!」とフォローに入った大城政にボールを預けてワンツー突破に成功。

 おおみちだいどうおおしろまさる、今日が初めてと思えない息の合ったツートップで、ぐいぐいと八蘇地信銀の陣地を突き進んでいく。

 ボランチのスライディングを足に受け、大道は転ばされ、ボールを奪われてしまった。悪質なファールに対し、笛すら鳴らなかったことに彼は激怒するが、諦めてすぐにプレーに戻った。

 そうしている間にも、時間が経過していく。

 もうそろそろ、後半ロスタイムだ。

 芹沢恭太の足は、いつ攣ってもおかしくないほど疲労していた。単純に走り過ぎたのだ。

 近くにいる日野浩一も、慣れないボランチで守備に走らされたり気分イケイケ無駄走りで攻め上がったりで、やはり足が攣りかけているようだ。

 勝ち慣れていないのだから、仕方がない。現在同点であり、別に勝っているわけでもないが、この押している状況にイクシオンACの選手たちは、目前にぶら下がっている勝利という果実をあとはただ掴み取るだけだ、と、そういう気持ちでいるのはおそらく間違いのないところであろうから。

 冷静な恭太ですら、そうした気持ちのあることを否定出来ないくらいなのだから。

 恭太は、振り返った。そして心の中で舌を打つ。DFの後藤権三が、遠目からでも分かるほどにぜいぜいと肩を大きく上下させているのだ。

 ったく、あのバカは、タバコなんか吸っているからだよ。

 疲労しているのは権三だけではなく、そのため明らかにパスがかみ合わなくなってきていた。受け手が、走っているつもりでも走れていないのだ。

 徐々に出し手としてもそこを考慮したものになっていきはしたものの、走力の衰えたことからくる現状をどうすることも出来なかった。

 しかし気持ちは、誰一人として切れてはいないようであった。

 そんな、表情だ。

 勝てる。

 そう信じて、走り続けている。

 きっと相手だって、辛いのだ。

 だから実際、今の今まで押し込んでいたじゃないか。

 強豪相手に勝ち点1を取れればいい?

 いや、必ず勝ち点3を取る。

 取れる。

 今日は勝てる。

 おれたちは、やれる。

 一点取ればいい。

 それだけで、勝てるのだ。

 ただ、それだけで。


「まだ走れっぞ、おれは! うっらああ!」


 ボランチの日野浩一が、獣のような雄叫びをあげた。

 その叫びが終わるか終わらないかのうちであった。

 八蘇地信銀のカウンターが発動。そして、FW森真吾の放ったシュートがGK木場の手を弾いてゴールネットを揺らした。

 サポーターの歓声、拍手、太鼓の音。

 主審が、長い笛を鳴らした。


 試合終了。


 イクシオンACは、あとほんの少しというところで、勝ち点1も3も失った。

 芹沢恭太は、ふらふらと何歩か進むと、地面に腰を下ろし、そして仰向けに寝転がった。

 大の字になった。

 晴れた青空を、そして白い雲を、見上げた。

 上空では激しい風が吹いているようで、雲がどんどん形を変え、流れていく。

 熱い息を吐き、乾いた空気を吸いながら、すぐ頭上のようでいて遥か遥か遠くにあるものを、見上げ、見つめている。

 すべてが、あの雲のように流れてしまった。

 でも……

 勝てそうな、試合だった。

 勝てた試合だった。

 きっと、勝てた。

 でも、負けた。

 だけどあまり、いや全然、悔しくない。

 奇妙な充足感、とでもいうのだろうか。そうしたもので、心も身体も一杯だ。

 少しだけ呼吸の苦しさがやわらぐと、ゆっくりと上体を起こした。

 鏡がないので自分の表情など分からないが、もし想像通りなら、日野や、大道らと、同じような顔をしているのだろう。自分は。

 ゆっくりと立ち上がった。

 選手全員、中央に集まると、列を作ってお互いに相手チームと握手をかわした。

 八蘇地信銀の選手たちが引き上げた後も、恭太らはまだピッチの上にいた。

 この芝の感触をもう少し味わっていたい。

 ただ、それだけであった。

 みんなで、同じ絵を描くことが出来た、芝という、このキャンバスの上で。

 どれくらい経ったであろうか。

 日野浩一が、口を開いた。


「お前らのさ、ツートップ、結構しっくりきてたじゃねえか」


 熊のような太い腕を伸ばし、大道大道と大城政の、裾を掴んでぐいと引き寄せ、二人の背中を思い切り叩いた。日野は睨んでいるような目つきであるが、その口元にはかすかどころでない笑みが浮かんでいる。

 やはり、悔しいような悔しくないようなといった面持ちであった大道は、掴まれ叩かれ呻き声を立てたかと思うと、次第にその顔ににまにまとした笑みを浮かべていく。


「そうすか? まあ、そうなんでしょうねえ。んじゃさ、大道と大城、だいだいってことで、オレンジツートップって呼んでいいっすよ」


 すっかり得意になっている大道。なんどもチャンスを作ったあの気持ちよさが、同点ゴールを決めた時のあの気持ちよさが、まだ抜けていない、自信たっぷりな精神状態なのであろう。


「センスねえよ、なにがダイダイだよバカ」


 日野は大道をヘッドロックで押さえつけたまま、頭にグリグリとげんこを押し付けた。


「いててて! 禿げる! 禿げる!」


 もがき逃れようとする大道。


「みんな、お疲れさまあ」


 男ばかりの汗臭い雰囲気に似合わぬ甲高い声が響いた。

 マネージャの三宅梓が、タオルを抱えて近づいてくる。コージ監督代行と、イクシオン社員の田島雄二も一緒だ。


「それで、どうでしたか? わたしにサッカーはよく分かりません。みなさんで決めてください」


 田島雄二の粘液質な声。

 チーム母体の社員とは思えない台詞てあるが、選手たちはみな理解している。彼は彼なりにこのチームや選手たちに愛着を持ってることを。つまりこの台詞は、けっして投げやりな言葉などではなく、むしろその裏返しということなのであろう。


「シマさん。おれ、いいと思う」


 日野浩一は大道へのヘッドロックを解除すると、コージへと歩み寄り、両手を取りぎゅっと握った。


「つうか、もうこの人しか考えらんねえ。おれなんかクソだクソ。根性だったら誰にも負けねえけど、頭悪いからよ、だから、おれなんかに監督兼任させてたのが、そもそもおかしな話だったっつーんだよ。ったくよお」

「お前がシマさんに、監督やらせてくれって、がんとして譲らなかったんだろうがよ」


 後藤権三は、呆れ顔で日野のほっぺたを突付いた。


「えー、コウちゃん覚えてなーい」


 日野浩一は、ゴリラのような顔を不気味に歪め、女子高生のような口調で身をくねらせた。

 権三の溜め息。

 田島雄二は、コージの前に立った。


「じゃあ、そういうことで決まりですかね。後で、必要書類をお渡ししますから。あ、あと大事なこと伝えてませんでした。うちは完全アマチュア。いまのとこね。だから、例え監督にであってもお給料は一切払えませんから。職の斡旋くらいならしますけど。うちのスポーツクラブでもいいし」


 田島雄二は、さらさらと事務的にいってのけた。聞くものが聞けば震え上がりそうな、世界のコージに対し実に恐れ多い態度であった。いくらサッカー自体にはさして興味がないとはいえ。


「お気遣いありがとうございます。お金はいりません。貯金は充分過ぎるくらいにありますから。お給料のかわりに、わたしはこの日本で、このチームで、勝手に色々なものを貰っていきますからお構いなく。……お給料以上のものを持っていくつもりですが、文句はいわないでくださいね」


 そういうと、コージは柔らかく目を細めた。


「遮断機や信号の部品持ってったりすんなよ。逮捕されっぞ」


 後藤権三が腕を組みながら、ぼそりと呟いた。


「わたし心のこといってます! 日本人、言葉の裏を読める文化じゃないんですか! 貯金は充分にあるっていってるじゃないですか!」


 なにをいわれても温厚な態度を崩すことのなかったコージが、なにが引っかかったのかいきなり顔を真っ赤にして怒鳴り出した。

 おそらくは、必死に日本語の勉強をしたというのに、これは決まったという台詞をまるで理解されなかったことが悔しいのだろう。

 すぐ我に返り、誤魔化すように咳払いをした。

 もう、いつもの笑みが戻っていた。


「ではあらためまして。このチームの監督をやることになったコージです。練習、とても厳しいですよ。普段の仕事で練習に来られないのはしかたないですが、その時は自宅で出来るメニューをやって貰いますし、帰宅が深夜だろうと走りこみはやって貰います。みんなで、強くなりましょう」


 選手たちの返事。

 コージはしめたつもりであったのかも知れないが、全員、返事の声もタイミングもばらばらであった。

 ぴしっとするのが苦手な連中ばかりなのだ。


「ちゃんとしろよ、おめーら!」


 日野浩一が怒鳴った。


「お前だろ、なにがウオオオイだよ。気だるい返事しやがって。このゴリラ坊主」


 がさわらが、日野の脇腹を人差し指で思い切り突付いた。

 コージは微笑み続けている。

 満足げな表情で。

 すでに夕刻。

 バックスタンドの向こうには、大きな太陽が沈みかけている。

 芝生の上には、選手たちの影がどこまでも伸びていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る