第58話
(その58)
――何が見える?
ミライは誰かが囁くその声に振り返った。
煌めく眼差しの奥に木漏れ日が降り注ぐ森と美しい小川。
その小川の側に咲く草花、その中に小さく可憐にも健気に咲き誇る白い花が見えた。その花に指が伸びる。音もなく花弁に触れた指、朝露が音もなく小川に落ちた。
しかしその花弁は小川に落ちたのではない。この場にいる全ての人々の心に落ちた。落ちた波紋はまるで心に広がり、やがて誰かの心の空を晴らしてゆくかもしれないが、しかしシリィとその場に薄く揺らめく陽炎の如く佇む若者の心をいつ晴らすのか、その時は未だ見えない。
ミライは心の中に揺れ動く目を上げる。見上げれば森の上を風が靡き、指を絡めてゆく長い栗色の髪を揺れるのが見えた。
――君も同じ情景を見たか?
感慨深い重たさが声の端に乗っている。
(その声の主を自分は知っている)
ミライは瞼を閉じた。
(この声は…)
思いを遮る様に指が白い花の一片の花弁をそっと取り出した。その指先に触れる栗色の髪先が風に吹かれている。
「降り注ぐ陽に照らし出された美しき君よ」
はっきりとした声がミライの鼓膜に響く。
――この世界の輝きすべて封じ込めたその美しい姿を生涯私は忘れない。
「ミライ」
老人の問いかけに、顔を上げた。
顔を上げる自分をシリィも若者も見つめている。
「何を考えている?」
微笑を含むその表情に、ミライは老人の心の奥底に潜む悲しみの詩を聞いた気がした。誰よりも愛するものを欲して、得られなかった悲しみの詩。その心の深淵に刻まれた言葉を書き留めることができる吟遊詩人が居れば、一辺境に生きた老人の事を永劫に肉体が滅んだ後も生き続けさえることができるかもしれない。
ミライは見つめる老人の微笑に首を横に振った。
「ロー…、あんたのことは今まで知らなかったこととはいえ、こうした秘密があったとは」
「儂だけじゃない。それはここにいる全ての人全員にな」
若者の被る帽子の鷹の羽が震える。それだけではない、シリィの伏せた瞼も僅かに濡れて震えていた。
「大体の事は話し終えたが…」
老人は何事か思って、ふと思案してそれから破顔するように笑い出した。その突然の変化にその場にいる誰もが顔を見合わせた。老人の笑い声が終わると、その意味を推し量りかねた誰かかが問いたださねばならないと感じた。
――誰が、問いかけようか。
そうした意識の糸がその場に居合わせる三人の心に音を立てて張りつめた瞬間、老人がその意図を鋭い剃刀の様に言葉で切り裂いた。
「ベルドル殿」
若者が僅かに顎を揺らす。
「
ベルドルが視線を僅かに動かし、老人を見つめる。老人の次の言葉を視線で追う。
「貴殿の父ベルドルンでも一人では流石にあいつは倒せない。だから儂はあの時、貴殿の父に手を貸した。あれは娘…、いや貴殿とシリィの母親が残した…全く忌まわしき遺産であった」
そこで小さく笑う。しかし、次に笑いを止め、強い口調になった。
「ならば連れ戻されよ。必ず今宵、貴国にあの二匹の翼竜(ワイバーン)を」
その言葉で若者ははっとした表情をした。
「…大方今の言葉で儂が語らぬことの意味を推し量っていただけたかな?」
若者は立ち上がると、鷲の白い羽飾りのある黒い鍔帽子を目深く被り、紺色の端に金糸で刺繍されたマントを揺らした。
「戻られるか?」
無言で頷くと腰に吊り下げた長剣と短刀を整え、老人に頭を下げた。
「うむ…。ではベルドルン殿。貴殿の父ベルドルンへの言伝。頼みますぞ」
正式な使者としての礼儀を兼ね備えた若者は、顔を上げると薄く閉じた瞼の下で初めて感情を込めた声を発した。
「争わねばならぬことですか?」
若者の言葉に老人もミライもシリィも誰もが若者の心の内に潜む情熱の熱風に触れた気がした。
それは、穏やかで何事も見通し、しかしながら一抹の悲しみを兼ね備えた過ぎゆく時を懐かしむような、そんな風だった。
――何故、我らは争うのか?
誰かが囁いた。
それは
お前もそう思うだろう。
老兵よ、
老人は若者の姿を眩しそうに穏やかに見つめた。シリィもその若者の姿を見ている。
竜人族という伝説の中に生きる人がいる。また人間という定めに生きる人々がいる。それらが交わろうとする時、何故争いを引き起こすのか。
眩しい若者を愛おしく見つめると老人は言った。
「これからを生きる若者達に我らの生きた歴史を…そして未来に対してどのように生きるべきか問いかけるのだ」
老人の言葉に三人が顔を向ける。
「儂らは遺恨と言うものを通り越して、互いにぶつかり合う。武人とは戦場でしか本当の心を開けぬ、そんな誇りある場があることは武人として光栄でこの上ない喜びだ。それが我ら…」
老人がその先の言葉を言い淀む。
眉間に皺をよせ、淀んだ言葉を湧き上がる感情と共に拳で握り閉めた。
――ベルドルン。
今こそ・・
今こそ互いに分かち合った物を一つに帰そうじゃないか!!
突如、シリィが声を張り出した。
「いつか…互いに分かったものを…一つにする時が来る…」
その言葉にミライが、若者が振り返る。老人も顔を上げる。
「母様…」
シリィが肖像画を仰ぎ見る。
「争いもまた…、分かち合ったものを一つに帰す…ことだというのですか?」
シリィの見あげる視線の先に誰かが囁く言葉の音律がミライの心の中に響く。
――風だ。
風が吹いている。
私の耳を。
幾年月も過ぎた私の耳の奥を。
今もあの時のあの美しさを撫でた風の温かさを感じる。
風が、
風が吹いているのだ。
そう、鳴り響く弓矢の戦場於いても尚、君の撫でたあの森の優しき風の音が私の心の中に聞こえるのだ!!
「過去よ、儂と
老人が若者を見上げる。その眼差しの奥に誰も老人の意思を変えられない鉄の礫のような意思が潜んでいることを感じた。若者は何も言わず、無言で頷いた。
それからゆっくりミライとシリィの方を向き直ると帽子の鍔を握った。
別れの合図だった。
「…すまぬな」
老人が呻くように呟く。
若者はその声に背を向けると、数歩歩き出した。
しかし、その歩みが不意に止まった。
「最後に伺いたいことがあります」
老人が顔を上げた。
「母を許していただけますか?」
ミライは感情の熱を帯びて湿るようなその言葉に若者の本当の感情を見た気がした。若者はこのことが聞きたくて本当はここに訪れたのではなかったのか。
老人は少しの間を置いて、僅かに首を縦に振った。
「許すとか許さないとかは論外だ。儂は…、いや、私は…今も娘を愛している。愛しているものを全て許せない父がいようか?違うかね。私達は家族なのだよ」
若者は向けていた背を僅かに揺らした。それから息を吐き出す様に肩を揺らすと、歩き出そうとした。
その背に、老人が言葉を投げた。
「勿論、ベルドル。私は…君も愛しているよ」
一瞬、その老人の言葉に若者は動きが止まったが、やがて静かに部屋の外の世界の暗闇に消えて行った。
それは答えを聞いた夜の闇がその悲しみを押し消すような静かな消え方だった。
若者は去った。
静かな夜の帳の中を音も無く。
窓の外には夏至を迎えてひときわ大きく輝く月の輪郭が見えた。しかしその輝く月の輪郭を横切る大きな翼の群れを、その夜見た者は誰もいなかった。
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