第59話

(その59)




「ダン隊長!!」

 砦のひと際高くなったところから外を眺めていた髭面に風が当たって弾けた。

 ここ数日、暴れ竜ベルドルンは姿を見せていない。砦の切っ先のような場所に架けられた梯子を若い兵士が兜を揺らして登って来る。

 それを一瞥すると、再び外に広がる山野を見た。遠くに見える山並みに雲一つも見えない。

 もし、自分が兵務についていなければ、今日はどれほど穏やかで土地を耕すには絶好の日だったろうかと思った。

「隊長」

 息を切らせて若い兵士が手を掛けて身を乗り出す。

「何か見えますか?」

 それに首を横に振った。

「兵舎に居るお城のお偉いさん達は神経が磨り減りそうに頭を抱えていらっしゃって、こちらもそれを見れば随分気が揉みます」

 それには頬を緩め、声無く微笑する。

「まぁ仕方あるまい。明日はシルファへの荷駄が出る日だろう。暴れ竜が姿をこちらに見せない以上、ルーン渓谷の方にも気を注がなきゃなるまい」

 ダンが髭を太い指で撫でる。

「それに時期が悪い、若い連中はシルファへの荷駄隊に含めなきゃならず、おかげであちらの砦には送るべき兵士は少ないだろうからな」

「全くです…」

 そこで若い兵士が言い淀む様にして、ダンの方を向く。その表情が何かを言いたげな風だった。それを感じたのかダンが声をかけた。

「どうした?」

 若い兵士が頭を掻く。

「…いえね。隊長、実は自分もその荷駄隊へ召集されたんです。だから今日、この持ち場を急ぎ離れなきゃならないです」

 ダンは別段何事も無いように若者の肩を叩く。

「…そうか、お前もそんな歳か」

 ダンが若い兵士を見る。兜を被るその下の表情はまだ少年のような面影を残していたが、それでも今この兵役についてから顔に厳しさが刻まれたように見える。勿論、命のやり取りをすれば、それはおのずと眉間に頬に刻まれる。歳を取ればいつかは自分の様に髭を生やすこともあるかもしれない。

 少年はそうやって成長して、武人になるだろう。

 それが厳しい山岳王国で生きる全ての者に刻まれてゆく悲しみでもあるし、生きて来た証でもあるのだ。

 その若者たちの人生の期待と希望は、シルファの荷駄隊と共に繁栄する海上王国シルファをつかの間の夏の輝きの中で見ることだ。山岳の厳しい冬のような人生でしか生きられぬ若者が隣国の繁栄するその姿を束の間の人生に夏に見る為の荷駄隊が、明日王都からルーン峡谷へと向かう。

 この若者はその荷駄隊に交じるのだ。

「では、もうここを行かねば明日の出発する荷駄隊がいる王都には戻れぬな」

 兵士が答える。

「すいません、隊長」

 答える若い兵士を首を横に振り、その心の内をダンは思った。

 自分に声をかけた若い兵士の胸に去来する思い。そんな若者の持つシルファの繁栄に対する憧憬と興奮はどれほどのものであろうか。

 ダンはそれを感じないではいられない。自分にも勿論、それはあったのだ。

(繁栄と言うのは…、その意味全てを知って初めて分かることなのだ)

 ダンは足元の小石を蹴った。それが音を立てて砦の壁を転がるように落ちて行った。

(繁栄は一方で深刻な影を落とす。繁栄と言うのは光と影の織り成す煌びやかな楼上のひと時の幻想にすぎぬことを知るだろう…、いや知らねばならぬのだ)

 ダンは瞼を閉じて往時を思い出した。自分も荷駄を押して、シルファの海上に浮かぶ城門を潜ったのだ。

 その中で見た往時の情景が浮かぶ。それは昼と夜で全く様相を違えた。昼の世界は法と高潔な道徳、人々の信仰心で満ち溢れている多様な文化を有する素晴らしい国家を見せる。

 しかし夜はどうか。

 路上でその日を生きるために物乞いをするもの、怪しげな薬草の幻覚酒に潰れて叫びのたうち回るもの、金銭の中に人生を捨て身包みが剥がれるものが夜の闇に徘徊する。

(知らねばならぬ。それが自分達の生きる世界であると言う事実を)

 それらすべてを含めて繁栄と言うものが楼上のものであることを理解するだろう。

 そしてシルファの自分達に対する憐れみとも蔑みともいえる眼差し。豊かな強者と貧しい弱者とはどのようなものなのか。それらを全て学ぶために若者はひと時の夏の眩しさに包まれてあのルーン峡谷の森の中、重い荷駄を引いて行かなくてはならない。

「隊長」

 ダンが振り返る。

「それじゃ。行きます」

 おう、と小さく声を出して顎を引く。若い兵士が梯子を下りてゆく。その降りてゆく兵士にダンが声をかけた。

「俺の馬を使え、それならお前の足より速く着くだろう」

 その声に兜を上げて、若者が声を上げる。その声が何と言ったかダンには聞こえない。若者は勢いよく走り出して去ってゆく。それを砦の上からダンは黙って見ている。

 しかし、再び外の世界を見渡す。そこには青い空の下で広がる緑の世界が広がっていた。

 どこにも空飛ぶ影は見えない。

 しかし、それがどこか不気味に感じないではいられなかった。

 暴れ竜はどこに去ったのか。

 それともこれはつかの間の平穏なのだろうか?

 ダンは顎髭を撫でて、槍を手にしながら地面に腰を下ろした。

 

 暴れ竜よ、こちらに来い。

 若者の旅を邪魔するな。


 そんな思いを頬に当たる風に乗せて奴に伝えたいとダンは思った。

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