第57話

(その57)



 窓から見える月の輪郭が少しだけぼやけて見える。月の輪郭がぼやければ明日の朝は、雨が降る。そんなことはこの山岳に住むものは誰でも知ってる。

 ローはふと友人のトネリの事を思った。あの夜の一別以来、互いに会うことが無かった。

 その思う気持ちのまま、視線を目の前で眠る赤子に向ける。赤子は小さな網籠の中で眠りについている。

(もし…、あの子があのまま大きくなっているとすれば、この子と二つ違いだろうか。いずれ大人になれば、互いに顔を合わすこともあるだろうし、もしかすれば結ばれることもこともなる…)

 そこまで思うと口元に微笑を浮かべた。

(しかし、それは未だ時期早々というものだ)

 再び、月を見た。

 月の輪郭に被る様に雲の端が見えた。雲の端は月の光を受け、誰かの思いに被さる様に静かに音も無く流れて行った。

 静かな音の世界に何事もないまま時が過ぎようとしている。

 しかし異変が起きた。

 小さく何かが倒れる音だった。

 ローはその音を聞いて腰掛けていた椅子から立ち上がると、音が聞こえる方を向いた。それは奥から聞こえた。

(リーズ…!!)

 ローは走り出す。装具の足が床を激しく鳴らす。駆け出した先に倒れている娘を見つけた。うずくまるその姿が闇に交じっている。小さな燭台が床に倒れていた。

「リーズ!!」

 ローは駆け寄ると娘を腕に抱いた。抱いて再び声をかける。

「…リーズ!!…」

 その声に薄く娘が瞼を開けた。開けるとその瞼の睫毛に光るものが見えた。

「しっかりしろ!!」

 声を張り出して、部屋へと連れてゆく。部屋の明かりに中に娘の相貌が見える。しかし、その相貌に生気は無かった。それはまさに自分が良く知る者の死に行く貌だった。


 ――リゼィ!!


 ローは大きく声無き怒りを張り上げた。

 娘を抱く腕に力が籠る。何かを連れ戻そうとする必死の力。

(この娘には、あの『呪詛』の力は及ばぬと思っていた…、しかし!!)

 焦燥ともいえる表情をしているローの頬に冷たい指が触れた。

「…父さん」

 冷たい指先に僅かに温もりが宿る。

「…時が、私にも来たみたいね…」

 その言葉を聞いてローは愕然とした。その言葉の意味は既に娘は自分に起きるべき異変を既に知っていたということだろう。

「お前…、知っていたのか?」

 父親の言葉に力なく頷く。それを見てローの瞼から自然と涙が頬を伝い落ちて来る。

「何ということだ…」

「父さん…」

 頬を撫でる娘の指がその涙を撫でる。

「悲しまないで…、私はベルドルンとの旅で…『呪詛』の存在を知ったの。でもね…彼は知らないことなのよ…」

 悲し気に微笑をする。

「だからもし彼が花になった私を探しに来たら…教えてあげて…」

 それから眼差しを横に眠る赤子に向ける。

「この子…シリィにも私の事を時々は話をしてあげてね…、この子に母が居たことを教えてほしいの…、だって…孤児だったなんて思ったら、きっと寂しくおもうじゃない…」

「リーズ…!!」

 涙を混じらせながら娘の細い指を強く握りしめる。その指先に残る温かさが急速に失われつつあるのが分かる。

「死ぬな!!死んでは駄目だ!!生きるのだ!!この子の為にも、いや、お前が愛するあの若者の為にも!!」

 リーズが光を失いつつある瞳を向けた。

「…ありがとう、父さん。私は沢山謝らないことがあるのに…父さんに甘えてばかりだった…」

 握りしめる指がゆっくりと掌の中で落ち始めた。そう、握る手の中で次第にそれが形を変え始めたのだった。

 震える唇から言葉漏れた。

「…さようなら…、私の希望…」

 赤子に向けた眼差しの瞼が閉じられて、やがて、一筋の涙が落ちた。

 ローは消えゆこうとする娘の身体を激しく抱きしめた。声もなく、唯涙を流す。それ以外に死に行こうとする娘の魂を安らげる方法が分からなかった。

「いつか…互いに分かったものを…一つにする時が来る…」

 抱きしめる腕の中で言葉が空に消えてゆく。

「好きよ、父さん。ベルドルン…あなたも愛してる…」

 腕の中で何かが滑り落ちた。

 やがて、それがその場に広がると大きな水溜りができ、小さな白い花が咲いた。

 その花は静かに物言わず、唯、花弁を垂れている。

 まるで全ての悲しみを背負って尚、明日を咲かせる希望の様に。

 ――枯れぬ花オーフェリア

 しかし、

 今は未だその花弁に希望は見えなかった。


 うな垂れるローにも、

 そこで眠る赤子にも。

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