第56話
(その56)
静かな朝を迎えた。
とはいえ、いつもとは違う。ローの耳に僅かにだが小さな音が聞こえた。窓から差し込む朝陽が眩しい。しかしその眩しさにいつもと違う僅かな安らぎを感じるのはなぜだろう。
ローは起き上がると鼻を鳴らす。鼻腔に僅かな匂いがする。
(リーズ…か)
足早にローは香りを追って歩く。その香りを追うと、娘がいる。側には幼き赤子が居た。
「父さん」
振り返り、父親を見る。
「少し、アルゴル山羊の乾燥乳を頂いたわ。この子に飲ませるために」
小さな匙で口に運ばれていく乳を、赤子は何も言わず口に含む。飲み込む様に動く喉下で小さな細い『翼竜笛(バーンリュート)』が揺れた。どうやらそれを昨夜からこの子は離さなかったらしいと思われた。
「リーズ、それは構わないさ。それよりも俺にも茶を入れてくれないか」
リーズは小さく頷くと奥へ行き、それから湯気を立てた茶を運んできた。それをローは手に取ると一口飲み、椅子に腰掛けた。リーズも同じように茶を口に運ぶと静かに腰を掛けた。
朝の言葉もない時間が窓から差し込む陽光に照らしだされている。何も言わぬこの時の中に、人々はこれから始まる一日の幸福を願うのかもしれない。
ふと、リーズが言った。
「私が出て行った間、別に何も変わることは無いとは思っていたけど、それは違ったみたいね」
ん?という表情を父親がする。それから娘に問いかけた。
「それは何だ?リーズ、変わったとこと言うのは?」
苦笑ともとれる表情をして、娘が笑う。
「父さんに芸術趣味ができたなんてね」
「芸術だと?」
父親が困惑する表情をするのが可笑しいのか、娘が口に手を当てて大きく笑う。
「おいおい、一体何のことだか」
「これよ、父さん。この絵」
娘が暖炉の上を指差す。
(ああ…これか)
娘が言ったことにやっと気づいた。娘が指差す先に亡くなった妻の肖像画があった。その肖像画を見つめる娘の眼差しは、そこに描かれている妻リゼィと瓜二つ、似ていた。
(これほど親子というのは似ている、者なのだろうか…しかし内面の性格はどうも違うようだが…)
最後の方でどこか自嘲するような気持ちを抑えるように微笑する自分を可笑しく思いながらも、瓜二つの相貌を見た。
「似てるのかしら、私と母さん…私は良く知らないから…」
肖像画を見上げるリーズが呟く。
「こいつは具師のトネリからミレイが描いた母さんの肖像画をこの俺の心の慰めにと頂いたものだ」
娘は何も言わず見つめている。
「お前は母さんと似ている。いや瓜二つとも言っていい」
「そうなの?」
娘が問う。
「そうさ」
「じゃぁこの子も私に似るかな。そうなると祖母、母、孫と似ていることになるわね」 言うや弾けるように笑う。
「かもしれん」
言うや父親も笑う。 後は互いに声を上げて笑った。
それから娘が立ち上がる。
「新しいお茶を入れるわ」
言って父親の容器を手に取ると、それを床に落とした。木の容器が床にあたる高い音が響く。
「大丈夫か?」
娘が手を不思議そうに見つめていたが、しゃがみ込むと床に転がる容器を手に取った。
「どうも昨晩から手が震えて調子悪いのよね」
「調子が悪いだと?」
怪訝そうに娘を見る。
「まぁ…恐らく
「空を駆った…?」
「そうよ」
娘が転がった容器を手に取り、奥へ入ろうとすると振り返った。
「父さん。私ね、空を飛べるのよ。
娘の突然の言葉にローは思わず何かを言いそうになったが、それを娘が押さえるように言った。
「大丈夫よ、父さん。そんな無茶苦茶なことはしないわ。それよりももうすぐ夏至ね。シルファへの荷駄が旅立日も近い」
リーズは寝入ろうとする赤子を優しく見つめた。
「私はね。この子、シリィにもいつか見て欲しいと思うの。隷属して生きると言う辛さや悲しさを。そしたらどうして母さんが父さんの所を旅立っていったかいつか分かると思うから」
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