第39話
(その39)
「どう?少しは良くなって?」
月明かりに照らし出された影が人の姿になって、若者へ声をかけると側に屈んだ。自分の身体へ伸びて来る影がやがて月明かりに照らされて白い手になると傷付いた太腿に触れる。
「血は止まったみたいね」
傷口を見つめる横顔に後ろで束ねた髪の毛が一つ落ちて触れる。
それはまるで先程まで見ていた森を吹く風が、音もなくこの女の側を吹き抜けたのではないかと若者は思った。
女、いや…
確か父親である男は、娘の名を言った。
――リーズ…と、
若者はその名を呼ぼうと喉を動かそうとした。
「まだ、動かないで」
鋭く女の声が響く。
まるで自分から名を聞かれたないのか、それは再び沈黙を若者の喉深く押し込んだ。
「まだよ…、申し訳ないけど、私の鏃には毒があってね。あんたの国じゃ知らないけど、この辺りはこんな鏃じゃ倒れない動物もいるのよ。大イノシシや熊、それだけじゃない、狼や…そう、時にはコカトリスみたい疫な鳥もね」
若者は押し黙る様に女の言葉を聞いている。
女の手は手早く、若者の太腿に巻かれた布を取ると新しい布に取り換えた。
取り換えると最後はきつく互いの布の端を合わせて結ぶ。そこで僅かに若者の顔に力が入る。
「きついかしら?」
若者は首を横に振る。
「大丈夫だ」
「なら良いわ」
言うと女は腰から小さな包みを出す。それを若者の前に差し出す。
「小麦を引いて薄く延ばし、鳥の腿肉を挟んだ焼いたものよ。ナブーってここら辺ではいうの。まぁあなたの口に合うかどうかは分からないけど」
若者は差し出されたものと女の表情を交互に見比べた。
「無理にとは言わないけど、失った血を補充しないとね。倒れるわよ」
女が微笑する。
若者は自然と頷くとそれを受け取り、ちぎって口に一口含んだ。顎を動かして歯で噛み砕く。
小麦の感触の後に肉から香りが漂う。
スパイスだと思うが、自分の国にはない香りだった。肉汁が口に中に広がると、それを喉奥に沈黙と共に飲み込んだ。飲み込むと腹の中で身体が熱くなる。血が巡り出すだけでなく、それによって身体が熱くなる。体の節々に力が蘇るようだった。
「いや…、全然不味くはない。むしろ疲れた体には…これは効く。持ち運びもよければ戦場ではこうしたものは武人には好まれるはずだ」
顔を上げて若者は女を見る。
女が満足そうに頷くと、小さな水筒を出した。
「さぁこいつも一緒に。これは薬湯、その傷口に塗ったサイヤの実を煎じたものよ。傷ついた身体や疲れた身体によく効くから」
それを受け取ると若者は一気に喉に流し込む。僅かな苦みを喉に残して、それも身体の中に消えて行った。
息を吐く。
ずいぶんだが身体が楽になったようだ。力も籠る。指を広げたり伸ばしたりして、それを星にかざす。指の隙間から星が見えた。星は無数に輝いている。
「武人って言ったわね」
女の声が指から見える星の輝きの隙間から聞こえた。指の隙間を女に向ける。
「まぁ、あの剣を見れば山暮らしの私にも分かる。でもシルファの武人とはまた違う。勿論私達ともね。刀の鞘細工を見ればわかるけど、あれはアルゲナイト、ここらへんだけじゃなく、隣国シルファでもあんなに手に入らない。どうもあんたはどこか違う文明圏の人間みたいね」
それから笑った。
「いや違うわね。あんたは人間じゃない。そうなんせ空を飛んでいたんだから」
言うや若者の顔を見た。
栗色の瞳は今その色を失い、星の輝きを含んでいる。
その星の輝きが自分を見ている。透きこまれそうで、何処か突き放されるような、しかし自分自身はその輝きで身体に火花が散るのが分かる。
「いったい何者なの?」
女の問いに若者は喉を動かした。
「…リーズ、と言ったね」
女の顔が上がる。
「私はベルドルン。国の名は言えぬ」
「分かってる。言えぬことを同じように聞くほど私は馬鹿じゃない。私が聞きたいのはあんたが何者かってこと」
ベルドルンは押し黙る。
「黙る?そうね、そうかもしれない。余所者に素性何ていえないわね。でも聞くわ、あんたが何者のどこ国武人かもしれないけど、命を救われた人に対して礼儀を失するということは武人の名誉として如何なものなの?」
言うやリーズはじっと若者を見つめる。
ベルドルンはその言葉に反応した。
急所である。
沈黙が星空の下に訪れた。
しかしながら、それは瞬時だった。若者は自ら沈黙を破った。
「いや、すまない」
首を横に振る。
「言えばあなたが驚くだろうと思ったからだ。私は確かに君たち純粋な人間とは違う。そう、混血なのだ」
リーズが顔を上げて振り返る。
「混血?」
「そうだ。私は人間と竜の混血…」
そこまで言うとさっとリーズが立ちあがった。
そこでベルドルンを振り返る。
「…まさか」
信じられないという顔をしている。
しかし、
「そうね…、そう…あんたは北から現れた。その姿は空飛ぶ化け物だった。だって…、あんたは竜の翼を持っていたのだから…」
驚きを懸命に押さえているが、それは幾分か冷静だった。
「具師のトネリさんが言ってた。北には古代竜王の治めていた伝説の国がある、と。それは私達の遥か昔、北の辺境を旅した預言者イシュトが記したヨコブ記に書かれているとね…そう、国の名は『ドラコニア』、そしてそこには人間と竜の混血、『
夜風が吹き始めた。
リーズはゆっくりと風に流れそうになる髪を手で押さえる。
「…そう、あんたはベルドルンと言って伝説の国『ドラコニア』の護衛なんだ」
ベルドルンの頬を風に吹かれて飛んできたリーズの言葉が撫でて行く。
「そんな伝説上のお伽噺の国の人が何をしにこちらにやって来たの?」
風にリーズの声が流れる。ベルドルンはやや身体を起こすと、息を吸ってリーズを見た。
「我が国の伝説にある古代竜王ルキフェルがこの世界に初めて降り立ったと言われている山がある。それは岸壁に覆われた空まで伸びた山で《並び立つもの無き頂》と言われている。私はそれを一度でもいいから見たいと願っていたのだ。それで今日その願いを叶えようとして、こちらへとやって来た」
「並び立つもの無き頂?」
ベルドルンが頷く。
「…ここより南に…急峻な山々が連なる連峰があると聞いている…。その中でもひときわ遥か天に向かって伸びている…岸壁に覆われた山だそうだ…」
若者は言葉を吐き出していく。
誠実に嘘偽りなく。
話しながら何故かとベルドルンは自分に問いかけた。
何故、自分はこの女に、これほど素直に隠すことなく話せるのだろう。
いや、
話そうとするのか。
まるで母親に話す様に、
違う…母親に甘える為に話す子供ではない。
『あなたに
理解してほしい、
分かってほしい、
自分を
忘れないでほしい』
そんな素直な思いが心を駆け巡るのだ。
「正直ね…あんた、いや…ベルドルン」
リーズの唇から言葉が漏れた。
「でもね。私は別にあなたの事についてはそれ程驚かないわ。何故なら私達親子にとっても竜人族は近い存在なのよ」
ベルドルンは静かに聞いている。
「まぁ本当に存在しているかは眉唾だったし…亡くなった祖母が父の事をそのように揶揄していたのだから、ただ何となくと思っていただけなんだけど、しかし今それは現実として存在していたってことになって、私達親子のまぎれもない事実になった」
「…では、君の父上と言うのは…」
「そうね…、『
ベルドルンは頷く。リーズは顎を引いた。何かを確信したような眼差しを向ける
「…トネリさんの言う通りみたいね。竜人族に生まれた男子で不具を有する児は『
ベルドルンは答えない。
しかし答えないことこそ、それは正しいことなのだとリーズは感じた。
「わかったわ。やはり父は『
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