第11話
(その11)
母屋を出て、月夜の輝く庭を歩く。見上げる月の輪郭がぼやけて朧に見える。
青白い輝きが自分の心の情熱の熱を優しく撫でるだけならいいが、残される人の心に降り注ぎ霜のように凍らせないことを願いたい。
ミライは不意にそんなことを思った。
それから杖を突きながら月夜の庭を歩き出す。
後ろで扉の閉まる音が聞こえた気がした。
その音に振り返ることなく、ミライは一歩一歩歩みを進める。
月夜の影を優しく踏むその人の足音。不安と幸福が混じる優しき足音に振り返ることのない自分の背はどう見えるだろうか?
――祖父もそうだったのだろうか?
ミライは祖父の面影を思い出した。祖父は仕事で遠く山野の村に行くときは夜に旅立った。
ある時、ミライは旅立つ準備をしている祖父に聞いた。
何故、夜に出るのかと?
祖父は見つめる幼子の眼差しに答えた。
――夜、ふと出ていく。それがいい。
いつもでも陽の光の下で輝く愛する人達の私を送り出す美しい眼差しに耐えられないのだよ。
ミライ、私は照れ屋なのだ。
もしその眼差しを見ていたら私はいつまでも旅立てないだろう。
だから、夜、ふと出ていく。それがいいのだ。
もう一度言う。
ミライ、私は照れ屋なのだ。
だが・・、ミライ、お前は私とは違う。
だから、お前はお前らしい旅立ち方をすればいいのだ。
そう、お前の愛する人と別れ方をいつか私の眼に見せてほしい。
この祖父が生きている間にな。
祖父はそう言って、皺だらけの顔に満面の微笑を浮かべるとミライを力強く抱きしめた。
その後は静かに立ち上がり扉を閉めた。幼いときに聞いたその言葉と扉を閉めた音は今もミライの耳に響いて、心に残ってる。
それが月夜の庭で揺れている。ミライは納戸の扉を開いて自分を追ってきた影に振り返る。シリィの美しい栗色の髪が月夜に揺れている。
「行くの?ミライ・・」
頷いて、シリィを納戸に招く。影がミライを追って入っていく。
ミライは杖を壁に立てかけると、道具類が入った麻袋の方に手を遣り、そこから小さな袋を取り出した。
それを手に取りシリィに渡した。
「これは・・・?」
シリィが袋を掌の上でそれを月明かりに照らす。
「サイヤの実さ、そいつを君がいない間に石臼で粉にしておいた。後は水をつけて痛めた膝に塗れば・・痛みが引くだろうから」
言ってからミライがシリィの白い手に優しく自分の掌を重ねた。
月明かりに重なり合う若い二人の手。
不安と幸福が去来して、どこへ向かうのかも分からない船出に旅立とうとするのを、どうしていいのか分からない、そんな未来を掴めそうで掴めないもどかしさを月明かりが照らし出している。
そんな時は男より女の方が強いのは世の常ではないだろうか?
そう誰かがこの若者たちに囁いたのかもしれない。
シリィが呟いた。それは僅かに熱を含みながら息を吐かれてミライの耳に届く。
「じゃぁ・・いま・・ここで私の膝に塗ってくれる?ミライ」
思わぬ言葉にミライは驚いた。その心の動揺で彼の重ねる掌が熱くなる。
女は自分の言葉で普段は分からぬ男の愛情を探すことができる生き物なのかもしれない。熱を帯びたその指先を優しくなぞるように離すとそっと広い胸に手を押し当てて小さく呟いた。
「・・冗談。冗談よ・・」
胸に押し当てられてつぶれて消えそうな言葉にミライは心を締め付けられそうになった。
――祖父の言ったことが良く分かる。
ミライは「行かねば」とだけ言った。胸の中で小さく温かさが動いた。
うんとも駄目だとも言わぬ。
――自分も祖父と同じかもしれん。
静かに踏まれて触れ動く草花の音。
ミライは月夜の庭に響く小さな足音に向かって頷いた。草花を踏む音が止まった。
別れを惜しむ二人を邪魔せぬように。
別れがすぐそこまで来ていた。
「シリィ、迎えが来たようだ」
その言葉に彼女がはっとして顔を上げる。
「時が来た。僕は行かなければならない」
自分を覗き込む若い男の眼差しに、彼女は何も言わず離れた。
ただ一言だけ残して。
「私は待っている。あなたの帰りを」
二人の間を月夜の照らし出された沈黙が流れてゆく。
沈黙が壁の手に伸びて杖を取ると、それもやがて消えて行き、二人の間には何事もない時間だけが現実として浮かび上がる。
扉の向こうに立つ影にミライは言った。
「ベルドル殿」
その声の返事の代わりに扉が音もなく開く。
その場所に昨晩の若者が立っていた。若者は月明かりを背景に黒地の金刺繍の施された服、それと頭に美しい鷲の白い羽をつけた鍔広帽子を被っていた。
礼装ともいえる服で自分を迎えに来ているのだとミライは思った。
「ミライ殿の御準備ができ次第行きます。それまでここでお待ちします」
「いや、もう準備は出来ています。行きましょう」
言って立ちあがるミライへ、シリィはかける言葉の間を失い、その眼差しが助けを求めるように自然と若者へ投げかけられた。
若者は薄く閉じた眼差しのまま帽子の鍔に手を掛けた。
「ミライ殿、ご婦人の準備がまだのようです。私は外でお待ちしますので、どうぞご十分に」
言うや、背をミライ達へ向けて静かに月明かりの外へと歩き出した。
シリィには見えた。帽子の鍔に手を掛けて背を向けるその一瞬、若者は彼女に対して口元に小さな優しい微笑を浮かべたのを。
その微笑を見て、シリィは思った。
ーー(必ずミライは帰って来る、私の元へ)と。
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